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ひとつ前の当ブログで、『戦争と人間第一部運命の序曲』(1970山本薩夫監督)の中で伊藤孝雄さんが言う印象的なセリフを取り上げました。この映画の伊藤孝雄さんは貧しい労働者で、たった一人の弟・耕平(吉田次昭さん、第二部以降は山本圭さんが演じます)に諭すように言うのですが、彼らを搾取する側の伍代財閥のトップ・伍代由介(滝沢修さん)は、息子の俊介(中村勘九郎さん。第二部以降は北大路欣也さんが演じます)がプロレタリアートの画家(江原真二郎さん)の話をすると「そんな人とは付き合わない方がいいな」と言い
ひとつ前の当ブログで書いたように、流山「おおたかの森ホール」で行われた「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の3日目、8月12日(金)に『戦争と人間』三部作(1970~1973山本薩夫監督)9時間超えの一挙上映に行き、無事に完走しました。僕はこの映画を観るのは3回目(うち、一挙上映で観るのは2度目)ですが、何度観ても、ドラマに引き込まれますし、「戦争」という愚かな所業がどういうカラクリで起こるのかが本当によく分かります。僕が昔から心に残っているセリフがあります。「第一部運命の序曲」
ひとつ前の当ブログで少し触れましたが、流山「おおたかの森ホール」で行われた「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」で『戦争と人間』(1970~1973山本薩夫監督)も上映されました。3日目の8月12日(金)に、3部作を一挙上映したのです。(吉永小百合さんは第二部と第三部に出演)『戦争と人間第一部運命の序曲』(1970山本薩夫監督)が195分、『戦争と人間第二部愛と悲しみの山河』(1971山本薩夫監督)が181分、『戦争と人間第三部完結篇』(1973山本薩夫監督)は187分と
このところの当ブログで、8月10日「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」初日に『あゝ、ひめゆりの塔』(1968舛田利雄監督)の上映後に行われた吉永小百合さんのトークショーについて書いています。「戦後」という言葉を大切のされ、「原爆詩」の朗読などをライフワークにしている吉永さん。どうしてそのような考えを持つに至ったかというと、吉永さんは「私の場合、やっぱり映画に出て、いろんなことを教わった」とトークの終盤でおっしゃっていました。この『あゝ、ひめゆりの塔』の前には、原爆症を扱った悲劇『愛と
8月10日(水)「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の初日、『あゝ、ひめゆりの塔』(1968舛田利雄監督)の上映後に行われた吉永小百合さんのトークショーの話を続けます。『あゝ、ひめゆりの塔』の頃は沖縄はまだ返還前で米軍統治だったので現地ロケはかなわず、伊豆半島で撮影が行われました。ひとつ前の当ブログで触れた、弾着事故があったラストの自決シーンは石廊崎で撮ったそうです。その事故もそうですが、気持ちが入れこんでしまった吉永さんは、その後「沖縄へは観光で行けない」という気持ちだったそうで
ひとつ前の当ブログの続きです。8月10日(水)「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の初日、『あゝ、ひめゆりの塔』(1968舛田利雄)の上映後に吉永小百合さんのトークショーがありました。米軍が上陸してきて、ひめゆり部隊も追いつめられ、「解散」となりますが、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれていたため、渡された手榴弾で自決を余儀なくされます。ラスト、吉永さん演じる和子も断崖の上で友人と抱き合いながら爆死するのですが、このシーンで大変なことがあったといいます。この高い断崖の上で「命
このところの当ブログで、流山「おおたかの森ホール」で開催された「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」のことを書いています。初日の8月10日(水)には、『あゝ、ひめゆりの塔』(1968舛田利雄監督)の上映と主演の吉永小百合さんのトークショーがありました。吉永さんのトークショーとあって会場には満員の観客が集まりました。僕はこの『ああ、ひめゆりの塔』を観るのは3回目。冒頭、ゴーゴー・クラブで踊る1968年当時の若者たちに渡哲也さんが話しかける、意表をつくシーンで始まります。この自由を享受す
このところの当ブログで、8月11日に流山「おおたかの森ホール」で開催された「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の2日目、山本宏さんの「被爆体験」のお話について書きました。山本さんが7歳のときに体験した「その瞬間」や、その後も苦しまれたことなど、貴重なお話でした。ひとつ前の当ブログにも書きましたが、山本宏さんは今までは「原爆」の話題を避けてきていたそうです。8月のこの時期に、原爆をテーマにした番組や「式典」が映ると、テレビを消しておられたといいます。「江戸川区被爆者団体・親江会」で積
8月11日「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の2日目、山本宏さんによる被爆証言「原爆投下と私」の話をさらに続けます。山本さんのお母さんは、原爆が投下されたとき乳飲み子の子ども(宏さんの弟。カープの山本浩二さんの上の兄)を抱えていて、爆風で飛んできたガラスを全身に浴びてしまったそうです。お母さんは10年、20年経っても「痛い!痛い!」と言っていたとのこと。ガラスの小さい破片が体にずっと残っていたのです。宏さんの奥さんも1~2歳のときにやはり家のガラスを体中に刺さり、後になってガラスが体
ひとつ前の当ブログの続きです。8月11日に「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」で広島で被爆した山本宏さんのお話です。山本宏さんは大きな松の木にもたれていたおかげで命をとりとめました。しかし、後頭部と腕にヤケドを負い、後頭部などはボールのように腫れ、腕もやがて膿んできます。薬もないので、小便を塗って応急処置したそうです。そんな山本さんが「見た」光景でいちばん辛かったのは、校庭に2000人もの死体が積み上げられ、焼いていたところだとおっしゃいました。原爆が投下された2日後の8日あたりから
ひとつ前の当ブログで、8月11日に流山の「おおたかの森ホール」で開催された「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」の2日目、『ゴジラ』(1954本多猪四郎監督)の上映と、佐藤利明さんのトークショー「俳優・宝田明を語る」を観た話を書きました。『ゴジラ』の上映は13時からで、その前、11時からは「いま耳を傾け聞いてほしい被爆者からの声」と題したトークショーを聞きました。お話をされたのは、山本宏さん。7歳のときに広島で被爆された方で、「ミスター赤ヘル」として知られるカープの山本浩二さんのお兄さ
ひとつ前の当ブログで書いたように、一昨日の8月11日(木)に「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」で『ゴジラ』(1954本多猪四郎監督)の上映がありました。映写機をホールの客席後方に設置しての上映だったので、カタカタとフィルムが回る音が聞こえてきて、何ともいえない郷愁を感じたのでした。この「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」では、一昨年の2020年「第9回」のときに、8月6日「江東文化ホール」で『ドキュメンタリー沖縄戦知られざる悲しみの記憶』(2020太田隆文監督)が上映され、こ
このところの当ブログで、昭和人間の僕は「映写機のフィルムが回る音」が好きなのだという話を書いています。そんな僕が、久々に「フィルム音」を堪能?した上映がありました。一昨日の8月11日(木)に「第11回戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」で上映された『ゴジラ』(1954本多猪四郎監督)です。この「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」は、毎年8月の「広島」「長崎」の原爆の日のあたりに開催される上映イベントです。2012年に広島出身の当時23歳の女性が個人で企画し始めた「手作りの映画祭」なのです。