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無事、4曹教を修了して部隊のある岡山に帰りました。考えれば昭和63年という年はあの瀬戸大橋が開通した年だったんですね。1月に松山に向かった時は宇高連絡船(JR)で行きました。4曹教帰りは3月25日なんで同じく宇高連絡船。そう、瀬戸大橋が開通したのは4月から。最後に乗る連絡船の中で讃岐うどんを食べたんだろうと思います。(行きは食べたのは覚えているんですが・・・)岡山、三軒屋駐屯地に帰り隊長に72期2次前期修了の申告し全てが終わりました。その日の終礼で僕
30キロ行進が終わり最後は総合訓練だけです。新隊員と違い分隊長等も自分達でやります。指揮能力もみられます。各人がしっかり任務を遂行して無事訓練終了♪遂に全課程修了で卒業です♪後は修了式です。ありがたいことに僕は7キロ走3位、体力優秀賞を取ったので式内で表彰される事になったのでその練習をしましたね。残念ながら団長賞、教育隊長賞、中隊長賞等は取れませんでしたが賞状2枚、メダル1枚は自分の実力で取ったものなので誇りに思ってました(笑)。残念ながら7キロ走3位の
いつの間にか誕生日が祝日になりました。国民が祝ってくれる(笑)。同じ生年月日が一緒なのは元中日の山本昌がいます。自衛隊を定年になってもう3年です。早い・・・自衛隊は誕生日が退職の日になります。今の仕事は警備業なんですが1日がとても早く感じます。毎日家に帰れるしね。クリック👇
体力優秀賞の受賞要件を満たした僕ですが約90名いるうち何人が要件を満たしたのかと思ってましたが何とたったの3人でした。僕を含めた3人以外は3要件揃ってなかったという事です。かなり狭き門に入ったんだなと思いました。表彰は金銀銅の3人だけなのでメダル確定です。3人のうち、僕を入れた2人は同じ2区隊だったんで面目躍如です♪あとは何色になるかですが3人で話した時に僕は7キロ走以外2人にタイム、点数が負けている事が分かりましたので2位か3位だなと思ってました。いつ
次は最後の関門、7キロ走です。服装は戦闘服ではなく普通の体育服装です。靴は体力検定で使った信頼しているアシックスの確かターサーという銘柄だったと思います。コースは松山駐屯地横にある小野演習場内を確か3周するコースでした。演習場だけに山あり谷ありのコースで要はクロスカントリーでしたね。障害走と違い3個区隊約90人が一斉スタートです。僕は中段からスタートしぶつからないようにゆっくり走りました。1周目が終わり僕はまだ中段、体力はまだまだ充分に残っています。そろそ
障害走なんですがこれはフル装備、鉄帽からはじまり銃、銃剣、サスペンダーなどを装着した状態で各種障害を走り抜けタイムを競う競技です。超提(超壁)、超壕、低鉄条網、綱の昇降、タイヤくぐり、雲梯、一本綱登り、一本橋、最後は手りゅう弾投擲で終わったんじゃないかな?何か抜けてるような気がするんですがまあ、いいか(笑)。合格タイムは6分30秒以内か7分以内だったと思いますがうろ覚えです。体力優秀賞を取るためのタイムは確か5分20秒以内だったと思います。実は僕は体力検定
学科試験も終わりいよいよ教育も佳境に入ってきました。関門の一つである体力検定、障害走、7キロ走がはじまりました。おさらいですが体力優秀賞は3項目全て基準以内に入っていないといけない狭き門です。まずは体力検定。前にも書きましたが100M走、50M土嚢運搬、懸垂、ソフトボール投げ、走り幅跳び、1500M走があります。結果からいうと100Mが12秒0、50M土嚢運搬が9秒5、懸垂が19回、ソフトボール投げは60M、走り幅跳びは5M26CM、1500M走は4
実弾潜入訓練と同じくして地図の見方という訓練をやりました。5万分の一の地図を見てあれは何処?これは何処?というふうに確認し、実際に写景図を書いてお互いに見せ合い合ってるかどうかを確認します。その時の写真がコレ👇1番右側が僕👆この訓練時、雪が降ってました。日本原演習場は岡山県と鳥取県の境にあるそれは寒い寒い演習場です。演習場には廠舎(しょうしゃ)という宿泊用の建物がありますがそれは長方形の建物の真ん中が通路になっていて左右に分かれて寝るというシ
僕が自衛隊に入隊した地、岡山県日本原駐屯地そばにある日本原演習場。中四国地方で1番大きい演習場。ここには潜入射場訓練場という場所があり陸曹候補生はここで実弾が飛び交う下をくぐる訓練を受けます。2月初旬に行きました。実弾の下といってもかなり上を飛んでいるので当たる事はありません。当たったら事故ですからね(笑)。やる事は普段の戦闘訓練。その上を実弾が飛んでいてより実戦を感じてもらうというのが主旨だった気がします。小銃ではなく機関銃を撃ったんじゃあないかな?撃っ
戦闘訓練ですがまあ、こんな感じでやってますね。野外訓練とは文字通り、外で行う訓練で代表的なのは戦闘訓練ですね。斥候やら戦闘訓練やら偽装をしてドウラン塗ってね(笑)。手前が僕です。無反動砲、カールグスタフ持って走る!!小銃より重い!休憩中(笑)。右側が僕です。左から2番目が僕です。夜間訓練中ですね。夜間訓練をすると銃手入れ、武器格納も遅い時間になり風呂や就寝も遅くなります。厳しい訓練ながらも楽しくやってました。
当時の写真が出て来ましたので載せておきます。写真を撮っているので画像は悪いです。これから記事内容に沿って載せていきます。入隊時の集合写真👆海上自衛隊第一術科学校(江田島)研修👆松山ダービー(1500M走)👆
1週間に1度平日に隊内クラブで呑んでも良い日がありました。記憶間違いでなければ火曜日だったと思います。時間は決められてましたが息抜きの場が用意されてたのは良かったですね。ただ、僕は呑めない人なんで自分から行く事はありませんでした。誘われたら行くスタンスです。それでも無理して呑んでました。そしてこの隊内クラブは注文票に書いてある品物を個数を記入して名前を書いて厨房に出すシステムで書いた名前と金額が1番多い人間にクラブから石鎚賞という記念品がもらえるというのが
4曹教・松山駐屯地での3ヶ月の間、外出は土曜の半日と日曜の1日です。前記事にも書いた土曜の松山ダービー後の半日はすぐに時間が経ってしまいます。外出先は松山市内がほとんどで駐屯地近くの伊予電、牛渕団地前駅から松山市駅で降り大街道や銀天街といったアーケード街を中心に遊んでました。遊ぶといってもひとそれぞれでパチンコに行ったり飲みに行ったりで楽しんでたと思います。僕はというとあまり覚えていないんですね~。5人くらいですき焼き屋で食べて呑んでないのに計3万円と言わ
正直、自衛隊生活35年のうち、一番身体を使ったのはこの4曹教の3ヶ月でした。教育隊でも体育訓練はありますがかなりハードです。駆け足は当然、坂道ダッシュや体力検定の種目等もガンガンやりました。しかし僕もこの時期が人生で一番身体が充実してたんですね。23歳になる年だったんで。どんなキツい練成をしようと全然苦にならなかったんです。毎週土曜日は松山ダービーと呼ばれる1500Mの記録会がありました。それが終わってから外出(現在は完全週休二日制)ができたんですがこれは
4曹教にはキャッチフレーズというものがありました。それがLOOKMEFOLLOWMEです。意味は俺を見よ、俺に続け。まさに陸曹としての自覚を促している言葉だと思います。今も使ってると思います。訓練も一隊員ではなく分隊の指揮官としての教育がメインでしたね。そして訓練をするには計画を立てなければいけません。それを書面にしたのがLP(レッスンプラン)で何をするにもLPを作り、各小隊長等に合議(あいぎ)をもらい最終的には部隊の長の承認を得て初
昭和63年1月初旬(はっきり覚えていませんが年末年始休暇後すぐ)に愛媛県松山市にある第4陸曹教育隊、通称4曹教に入隊しました。岡山県の宇野からJRフェリーで高松へ行き、そこから予讃線で松山に行きました。ちなみにこの年の4月に瀬戸大橋が開通します。松山は雨でした・・・・。早速気分が滅入りましたね。入隊手続きをして営内に入るとそこには履修前教育で一緒だった同期がいたので少しは気が楽になりましたね。営内班の人数は一部屋12人だったでしょうか。年齢は違いますがこれ
陸曹候補生とは違うんですが1任期(2年)満了すると退職金がもらえます。もちろん、退職しなくてももらえるものです。この時は現ナマでもらいました。この当時は40万円。そのまま定期に入れたかなぁ・・・利率が今では考えられない8%!毎月貰っている給与も6万円は定期に入れてたかな~。おかげで貯まるのが定期の上限である300万も割と早かったと思います。こういう時は自衛隊って良いなぁ~って思ったもんです(笑)。次回はいよいよ第4陸曹教育隊編になります。
第4陸曹教育隊(松山駐屯地)に教育入隊の日は何と翌年の1月の年末年始休暇が終わった1月初旬。かなり間が空く事になりました。まあ、仕方なし。因みに同期であるT田は10月から入隊に決定。これは2人一緒に行くと部隊の編成に支障があるためだと聞きましたがホントかな?って思いましたね。陸士が2人いなくても部隊は回ると思うんですがね。入隊時期は違うものの、期は同じ72期。T田は1次、僕は2次教育隊という事になります。教育隊に入隊する間にも身体は鍛えなければいけません。暴飲
職種訓練の履修前後期は同じく第317施設中隊が担当しました。助教もほぼ同じ。しかし前期のような理不尽な命令も指導も一切なし。かなりフレンドリーになっていて少々不気味ではありました(笑)。専門職種である施設の復習のようなものでした。期間も2週間くらいしかなかったのかな?こうして問題なく履修前は終わったので三軒屋駐屯地に帰隊しました。教育期間が8月の盆休みに被っていて教育中という事もあり休みは4日しかありませんでした。それが当時は嫌だったかなぁ・・・。そして第