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こんにちは、ノリスケです。私はYouTubeで朗読配信をしています。今回は笠信太郎(1900-1967)の随筆、『乳と蜜の流れる地』を朗読しました。今回も朗読は初めての作者です。笠信太郎は朝日新聞の論説主幹を務めた福岡県出身のジャーナリストですが、今回朗読した随筆は、戦後発刊されていた「あまカラ」という食通雑誌に寄せられたものです。食を唆る色彩の日本人と西洋人の違いなどについて述べられたものですが、作者のスイス滞在時の経験が引き合いに出されております。私も、もう彼此四半世紀前になりま
<糸川英夫、笠信太郎、有島武郎>1288「逆転の発想」社会・企業・商品はどう変わる?糸川英夫長編あとがき角川文庫目次アイデア社長の時代は終わった反企業時代の経営戦略人間性とは何か情緒過剰時代の生きがいポストエコノミー社会の経済学八〇年代の新商品開発エネルギー・一九八五年日本を救う五〇〇〇万人の民族大移動これからの日本はどうなるか。企業はどうしたらいいのか。また個人として、どう生きていけばいいのか。混沌とした現代に満ちてい
宏池会の今のさまを池田勇人が見たら、どういう言葉を発するだろうか。沢木耕太郎は『危機の宰相』において「林房雄の『随筆池田勇人』の中に、前尾繁三郎の談話として、(池田についての)二つの印象的な事実が書き留められている」ことに着目した。経済一辺倒であると思われていただけに、池田の知られざる一面であったからだ。一つは日本が米国に負けたら、官吏などやめて地下に潜って抵抗運動をやらなくてならないと、池田と前尾は本気で考えていたというのだ。もう一つは、実際に天皇の「終戦の詔勅」が発せられると、二人
だれかにウインクされたことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう『吸血鬼考(2)』ジョン・L・フリン『シネマティック・ヴァンパイア吸血鬼映画B級大全』(フィルムアート社)という本を読んでいます。トーマス・エジソンが映写機なるものを発明し…ameblo.jp↑に続きましては。システム的に、こうなりますよね。◆愛が止まらない同曲の設定は秋。もしくは冬。しっかしアレだよなあ。日本はもはや亜熱帯。ここ関西は10月だっつーのに真夏並みの暑
紳士のmyPick大正製薬株式会社アルフェビューティコンク株式会社アイムライスフォースオイシックス・ラ・大地株式会社有機野菜・無添加食品の宅配ネットスーパー【らでぃっしゅぼーや】エルビュー株式会社エレクトーレ笠信太郎:1900年:ジャーナリスト、フィクサー自分の考えを英語で口にする習慣を今すぐつけよう!/ハードロックカフェジャパン笠信太郎さん金と價物―マルクス主義貨幣論叢(1932年)Amazon(アマゾン)192,000円隷従へ
筆者は欧州戦時下の邦人の足取りを調べているが、彼らが集った日本食レストランに対しても大きな関心を持っている。ホームページで紹介している「ベルリン日本人会と欧州戦争」(こちら)においても、日本食レストランとりわけ「あけぼの」の名前は何度となく登場している。多くの滞在者、出張者の回想の中に、「あけぼの」訪問についてページが割かれているからである。「あけぼの」について文字の情報はかなり集まったわけだがその写真、メニューなどが見つからないものかと、常々思っていた。そしてついに見つかったのが下の写真
7.ロッテクラマ嬢は実在する!筆者は2003年に「終戦前夜秘話」というのを載せ、この人物は実在しないのではないかと書いた。こちら。ほとんど自分でも忘れていた短編であるが、最近Oさんという女性から「ロッテさんは実在してた方で私がブラジルに滞在している時に大変お世話になった方です。あれから30年の歳月が過ぎた今、、、」と筆者のホームページのアンケートから情報をいただきました。詳しいお話を聞きたいと思ったのですが、彼女の連絡先のメールアドレスが入っておりませんでした。もしここ
<友岡と笠>笠は1943年秋、ドイツの近い将来の崩壊を見越し、スイスに居を移してしまう。友岡はそれで家族に手紙で書き送ったように話せる友人を失ったわけだ。友岡がベルリンに来たのがその年の3月である。それからの短い期間でそんな気の許す友人になれるとは思わないので、この点からも戦前からかなり交友があったと考えるところである。1943年10月11日に笠氏は一端ベルリンに戻り、友岡と一緒に日独伊混合委員の海軍責任者、阿部勝雄中将を訪問する。阿部のその日の日記には「夜、笠信太郎氏と友岡
<リスボン>1941年当時、ドイツと英国は交戦状態で、フランスは実質ドイツに占領されていた。中立国ポルトガルとまだ参戦していないアメリカの間には、ポルトガル船の他、米国船が一週間に一便運行され、クリッパー機(飛行艇)が週二回飛んでいた。首都リスボンは実質最後の北米への脱出口であった。1月10日、その頃のリスボンの様子を、朝日新聞のフランス特派員であった伊藤昇が報告している。(伊藤はおそらくリスボンも兼務)「リスボンの街にはドイツを筆頭に欧州諸国を追われたユダヤ人が流れ込み、その数は5万人に
<序>横浜日独協会理事の磯貝喜兵衛さんと最近知り合いになったが、磯貝さんの奥様眞子(しんこ)さんのお父様、友岡久雄さん(以下敬称略)は戦時中ドイツに駐在していたことを聞いた。そしてわずかに残る当時の写真と、日本に残る家族に書き送った手紙のコピーをいただいた。写真の1枚が下の日本郵船北米航路、浅間丸の一等船客の記念写真であった。航海途上の1941年2月末ないしは3月上旬の撮影である。同じ時期、欧州航路に就航している船では船上デッキでの記念撮影であったが、浅間丸の場合は船内で撮られており、その内
<日本?負けるね!>留学生篠原正瑛は回想する。「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。いずれにして、私自身もふくめて大部分の在留日本人は、心のどこかに不安を残しながらも、ある時期までは枢軸側の勝利を信じていたと思う。」一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠