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関ヶ原宿を東からきた道は関ヶ原西町の交差点までいきました。ここは国道365号線との交差点になり、現在の北国街道追分になります。道はここから西進むと左手に大神宮常夜燈があります。このあたりが関ヶ原宿の京(口)になり、さらに少しいくと西首塚があります。ここは関ケ原合戦で戦死した兵士等を東西の二ケ所に埋葬された塚です。この西塚を後にして関ヶ原宿を東に進み途中で、北国街道追分から関ケ原合戦の東首塚にいきました。いずれも徳川家康の命令で当時の領主竹中重門が造った埋葬地になります。西塚に比べると塚入
名称:竹中氏陣屋別名:岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋城郭:陣屋遺構:現存櫓門築城年:1588年築城主:竹中重門主要城主:竹中氏所在地:不破郡垂井町岩手619-2指定文化財:県指定史跡水堀現存櫓門(県指定文化財)竹中半兵衛重治公銅像
竹中氏陣屋跡から、北に約400mほどいくと左側の山裾に禅憧寺はあります。ここは竹中家の菩提寺になり、竹中重元を始めとする竹中一族の墓があります。この内竹中重元の摘男になる竹中半兵衛重治は、多くの逸話が残り同時代の黒田官兵衛(如水)を並びに称される名軍師であった。この黒田官兵衛とは深い繋がりがあって三木城攻略中に、織田信長に捕らえられ人質であった適男松寿丸が、殺されそうになったのでこの地にかくまった。後に疑いが晴れ無事にこの地を去った。その後関ケ原合戦の時、黒田長政(松寿丸)と竹中半兵衛の適男
興奮冷めやらぬ、姫路城日帰りレポートの番外編です。この前、関ヶ原古戦場について書きましたが、今回新たな発見がありましたのでご報告いたします。私は、新幹線から、関ヶ原古戦場の陣地とかはほぼ見えない、と書きましたが、嘘でした。見えました。一瞬ですが、多分、見えました。まず、古戦場関ヶ原の看板が見えます。その直後!はい、ここです!!山の麓に、白っぽい幟旗が見えますでしょうか。おそらくここは、黒田、竹中の陣跡ですっ!烽火場でもあり、高く挙げてある幟旗に岡山烽火場と書いてあるはずです!
関ヶ原古戦場岡山狼煙場石碑関ヶ原古戦場に行きました!パート7️⃣岡山狼煙場、黒田長政、竹中重門陣地跡関ヶ原古戦場サイクリング⑦岡山狼煙場、黒田長政、竹中重門陣地跡続きです岡山狼煙場細川陣地跡から山の方へ行ったら、大きな池がありました。池の道を右に曲がったら山に登る道があり、登り切ると平坦地があって、そこが岡山狼煙場、黒田、竹中陣跡です。岡山狼煙場は、石碑が立っています。
城を観る今回は...(撮影2021/04/12)菩提山城(岩手山城)〜大手道入口〜ここからッ行けるのかッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2021/04/12)岩手城(竹中氏陣屋)〜堀と石垣〜こりゃッいいねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2021/04/12)岩手城(竹中氏陣屋)〜解説板TakenakaJinya〜英語のッ解説板ッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
先週のことになりますが、土曜日は休日出勤をしていました。どうしても細菌検査は、こういうことがあります。他の部署とは違って、その日の内には結果は出ません。細菌検査は「生き物」を取り扱っているからです。金曜日に仕掛けた「薬剤感受性試験」重症患者の方でしたので、早めに報告すべき事案だったので、休日出勤したわけですわ…。休日ということもあり、いつもよりも遅めに出勤。AM10:00過ぎには、無事報告完了。時間があったので、久しぶりに「不破の
連休3日目は関ケ原史跡巡り!垂井駅から関ケ原方面を見たところ。山にはさまれた狭隘な地、ということがよく分かります。関ケ原駅前の観光案内所で電動アシスト自転車を借りました。こちらをどうぞ~と出されたのは緑色の自転車やったーレンタサイクル、電動アシストと普通のと2種類ありますが関ケ原は起伏が激しいので電動アシスト自転車が絶対オススメです。私は朝一番で行って借りられましたが予約の方も多く私が借りた時点で「電動アシスト残り2台でーす」危なかったーそれで
先日この様なメールが届きました!#################【垂井町01】歴史講演会「垂井と関ヶ原」当選のお知らせ10月9日開催の歴史講演会「垂井と関ヶ原」にお申込みいただきありがとうございました。9月16日に申込を締め切りました結果、ご当選されましたのでお知らせいたします。当日の受付方法などにつきましては、後日、別途メールにてご案内いたします。<イベント概要>垂井町PRアニメ”関ヶ原合戦岐路に立った垂井の武将たち”完成記念歴史講演会「垂井と関ヶ原」日時:令和4
城を観る[YouTube]今回は...(撮影2022/03/25)【城を観る+】《〈関ヶ原合戦〉黒田長政/竹中重門陣地》2022〜関ヶ原の戦い!黒田長政!竹中重門陣地跡を観る〜【城を観る+】《〈関ヶ原合戦〉黒田長政/竹中重門陣地》2022〜関ヶ原の戦い!黒田長政!竹中重門陣地跡を観る〜《〈関ヶ原合戦〉黒田長政/竹中重門陣地》[読み方]〈せきがはらかっせん〉くろだながまさ/たけなかしげかどじんち[撮影地]岐阜県[撮影日]2022/03/25[撮影者]バイソン[BGM]Dreamlan
昔ながらの実戦的な造りが今に伝わる『国宝犬山城(愛知県犬山市)』小さい城だと舐めてかかると、歩幅の大きく傾斜の急な階段にヒザ・腰をやられます😅関節に自信の無い方は、城下町で食べ歩きがおすすめです✨石落としの間不気味な妖気を放つ甲冑国宝指定書城下町は食べる所が多すぎて悩みます✨
関ヶ原駅の北を通る関ヶ原バイパスの山側には、関ヶ原合戦で東軍に参加した黒田長政・竹中重門の陣跡があります。黒田長政安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。筑前國福岡藩初代藩主。永禄11年(1568年)黒田孝高(官兵衛)の嫡男として生まれる。幼名は松寿丸。孝高は、羽柴秀吉に人質として松寿丸を預ける。荒木村重が、織田信長に反旗を翻すと孝高が村重を説得しようと有岡城に行くも拘束される。孝高は一年以上を牢で監禁されたため足が不自由になる。*大河ドラマ軍師官兵衛でも放送されました。織田信
さて。清洲城を後にした私は、岐阜県の関ヶ原へとやって来ました。『駆け引きの先にあるものーその①ー』2021年4月23日(金)私はまた新たな旅路へと出発しました。旅の目的地は本当に単純な理由で決定したのですが、計画してみると結果として前回の旅の後の歴史を追う…ameblo.jp実は前回の記事の始めに書いた『旅の目的地は単純な理由から決定した』という部分について、ここで少しお話しておきます。日本全国各地に足を運んできた私ですが、もちろんまだまだ未踏の地もあり、知りえていない史跡もたくさんあり
岐阜県垂井町を合戦地としてPRするオリジナルアニメ「関ケ原合戦岐路に立った垂井の武将たち」「関ケ原合戦岐路に立った垂井の武将たち」の完成披露イベントが、2月27日に町文化会館で開かれます主人公の武将、竹中重門を演じるのは人気声優の土岐隼一さん。この他に、小野大輔さん、近藤孝行さん、ラッパーのMummy−Dさんが声優として出演されるそうです。エンディングテーマ曲は、垂井町出身の直木賞作家、朝井リョウさんが作詞されましたこのアニメは、東京の大手映像制作会社ポニーキャニ
第4回関ヶ原の領主竹中重門今回は竹中半兵衛の長男竹中重門さんについてです関ヶ原の戦い当時関ヶ原の地は西の方の今須と松尾は三成の領地でしたが残りは全て重門さんの領地でした父親の半兵衛さんが幼き日の黒田長政さんを匿ったりして黒田家との縁はずっと続いていたようででも最初から黒田さんと仲良く重門さんも東軍とはいかなかったようです最初に書いたようにすぐ西に三成さんの領地東側の垂井は重門さんと西軍についた平塚為広の領地そのむこうには西軍が駐留していた大垣城南北は山が迫っ
史跡巡りの記事です。今回は、岐阜県垂井町にある菩提山城です。軍師竹中半兵衛で名高い竹中氏の居城です。かなり深い場所にあり時間がかかる西美濃最大級の山城です。菩提山城(ぼだいさん)城は、岩手氏によって天文13年(1544)には岩手氏の城として築かれたとされています。永禄元年(1558)大御堂城主の竹中重元が岩手氏を攻め滅ぼして居城を移しました。竹中重元の子が竹中半兵衛重治で、羽柴秀吉に仕えて活躍ししました。半兵衛は、播磨国三木城を攻略中に病没します。子重門が家督相続して、関ヶ原の戦いの
板尾創路親友が明かした貧乏芸人時代の“愛食”に「懐かしい。今でも思い出す」スポニチSponichiAnnex芸歴36年のお笑いコンビ「130R」板尾創路(58)が、18日深夜放送のABCテレビ「なるみ・岡村の過ぎるTV」(後11・17)に出演。同期の今田耕司(55)、東野...福井と岐阜「戦国時代」観光ルート形成へ両知事が連携方針(北陸新幹線で行こう!北陸・信越...Yahoo!ニュース戦国時代」を共通コンセプトに、広域観光ルート形成や相互誘客に連携し
第2波がようやく終息の様相を見せ、政府がGoTo~とか言い出した2020年10月。夏はちゃんと大人しく自粛してたし、久々に遠くへ出かけるぜ行き先は、ベタなあの戦場。。ところが・・・この日は何かと失敗つづきの旅、、まさかあんな事になろうとは・・・(鉄腕DASH・ナレーション風)↓関ヶ原駅の看板ぷにゅたはこの日、4つの不幸に見舞われる。まず1つ目は切符の購入に手間取り、目指していた電車を逃してしまったのが、ケチのつけ初め。(近距離では無い乗車券の場合
岐阜県垂井町にある「菁莪記念館(せいが)」は、天保年間に旗本・竹中氏が建てた家臣育成の為の道場です。この地からは多くの偉人を輩出しました。現在は昔の学校の資料や、竹中氏や竹中半兵衛重治公の資料を展示しています。入場料は無料、近くに観光用駐車場もあります。【菁莪記念館】竹中半兵衛の子孫が作った学校をちょっぴり紹介!竹中半兵衛の子孫、13代竹中重明が作った学校「菁莪記念館(菁莪堂)」について、ちょっぴり紹介します。垂井町の竹中半兵衛ゆかりの地巡りの基礎知識①https://youtu.be
久々の連休。天気がいいですね…。こんな日は何処かにフラッと行きたいですね…。一年に一回は京都に足を運んでいましたがこのご時世、行く事を憚られます。最後に上洛したのは一昨年の秋。現在、蔓延防止等重点措置下の岐阜から緊急事態宣言下の京都に行くなんて出来ません。写真は平成26年(2014)に行った嵯峨野の竹林の小径。今はひっそりとしているんだろうな…。県外の観光客も海外からの観光客もいなくて…。そんな京都、観てみたいなぁ…。…という事で…家
2019年5月訪問駐車場到着です。あってる?って思いながら車を進めた記憶があります。ここは竹林みるだけでも価値あり☆彡金刀比羅神社通り道あったから寄っただけです岡山烽火場●岡山烽火場information・国指定史跡・黒田長政information・NHK大河黒田官兵衛をみましょう・竹中重門information当初西軍予定だったが、幼馴染の黒田長政に説得されて東軍へこの辺は竹中領であり、戦況の見える陣地を選んだとみられる。西軍がほぼ到着しており見渡し
《岩手城(竹中氏陣屋)》[読み方]いわでじょう(たけなかしじんや)[別名称]竹中氏陣屋、竹中陣屋、岩手陣屋[所在地]岐阜県[城分類]陣屋[築城主]竹中重門[築城年]1588年[城を観る](解説板竹中氏陣屋跡及び櫓門)(解説板竹中半兵衛重治)(竹中半兵衛?)(竹中半兵衛重治公之像)(堀)(櫓門)[YouTube](【城を観る+】《岩手城(竹中氏陣屋)》2021〜竹中半兵衛ゆかりの地!岩手城跡を観る〜)[登城日]2021/04/122017/03/03にほ
2019年5月訪問●竹中氏陣屋跡information・竹中半兵衛の子供竹中重門が築いたもの。・もともと堅固な山城が居城だったが、平和になったためこちらに築いた模様。●竹中重門information.秀吉の軍師竹中半兵衛の子供だけに。。。西軍に着いたと思いきや。。。最初西軍でそのあとに東軍だったのね(-ω-;)可もなく不可もなく。。。普通の武将ってイメージです。ボランティアの人だかと少し雑談。大宮NOをみて前住んでいたよ~的なことで少し盛り上がった気が。。半兵衛にな
昨年オープンした岐阜関ケ原古戦場記念館記念館、別館(周辺グルメ)、レンタサイクル、関ケ原歴史民族学習館、駐車場(北・南)で構成されてます床面のグランドビジョンや風や振動が伝わる合戦シアター映像(撮影禁止)が圧巻現在はコロナ対応で予約制です展望台からの眺め合戦時の陣形がよくわかりますここからスタートして各史跡を回るか、各史跡を回った後ここへ来るかはそれぞれの志向で楽しめると思います好きな(興味)武将にスポットを当てて回るのもお薦めですレンタサイクル
岡山烽火場(丸山)黒田長政竹中重門の陣跡御朱印国指定史跡黒田長政と竹中重門の陣跡があるのは小高い丘です。合戦開始の合図を知らせる狼煙(のろし)があがり合戦が開始したそうです⚔駐車場🚗から少し上って行きます。山の中腹にある金刀比羅神社少し登ると見えてきました黒田長政は秀吉の軍師黒田官兵衛の息子大河ドラマ「軍師官兵衛」では黒田官兵衛役は岡田准一君息子の黒田長政役は松坂桃李君でしたね💓武勇や知力に優れた武将で、東軍の切り
金曜日は当直勤務でした。翌日の土曜日は明けなのですが、そのまま買い物をして帰宅しても時間が余っていたので、竹中陣屋の南隣にある「菁莪(せいが)記念館」に行く予定で、病院を後にして垂井町へ向かいました。菁莪記念館は戦国時代より領主として治めていた竹中家(本家)の資料等が展示してある記念館です。ところが、この施設は新型コロナウィルスの影響にて、暫く閉館中のままで、未だにその目途が経っていません。結構垂井町の奥へ入っていくので、車と言えども遠いです
関ヶ原の戦いから420年。あの年と同じ庚子の今年。久しぶりに出陣してました。呟きの方で関ケ原合戦の時系列の呟きをしておりますので良かったら見てみてください。関ケ原の戦いが終わった関ケ原のお話。現在東首塚と西首塚で供養しているが二つの首塚のお話をきちんと書いてみようと思う。戦が起きればその後がある。東首塚、西首塚。関ケ原には二つの塚ある。東西という名前から東首塚が東軍、西首塚が西軍を葬ったと言う人もいるがそうではない。そもそもどっちに所属なんて紋が付いた者しか分からない。
狼煙場の前に瑞竜寺にお邪魔しましたが画像が無い(´;ω;`)開戦の烽火があげられた地国道21号線(関ケ原バイパス)の北側にある小高い山が、岡山(丸山)になります。登頂すると、南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道…といった、合戦時の重要なポイントを一望することができます。豊臣恩顧の武将であった竹中重門は、最初は西軍に属していましたが、岐阜城落城後、黒田長政の勧めにより東軍につきました。合戦時には、長政とともにここへ陣取り、戦機を見て烽火(のろし)を上げました。