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弥生時代の岡山県では、竪穴住居の床を穿った穴に灰などを詰めて囲炉裏〈いろり〉に使ったと考えられています。しかし、ここに土器を据えて煮炊きを行っていた証拠は今のところ見つかっていません。このため、住居とは別に炊事専用の施設が設けられていたとする説や、住居周辺の野外で煮炊きを行っていたという考えも出されていますが、いずれも確かめられてはいません。住居での煮炊きが確認できるのは、古墳時代の中頃(5世紀)にカマドが登場して以後のことなのです。このように煮炊きのあとが見つからないのは、使われた道具が
今から1世紀近く昔の大正15年(1926年)に東京帝大などが発掘調査し、竪穴住居跡から極めて異様な人骨群5個体が発見され、その性格をめぐり今も謎の尽きない市川市の姥山貝塚(写真:縄文中期~後期:約5000年~3000年前)の人骨について、通説と異なり、フグ中毒死した家族ではないことが、明らかになった。同じ竪穴住居の同一床面から5人の骨2020年から4年をかけて人骨の古代DNAや同位体分析などを行っていた新潟医療福祉大などのグループの調査で分かった。その概要が3月10日、市川
福島県ネタが続いたのでちょっと休憩して別の話題でも先日、地元の枚方市で行われてた文化財防火デーのイベント!旧田中家鋳物資料館の主屋に放水するという消防訓練でした消防訓練の様子『旧田中家鋳物民俗資料館で文化財防火デー見学!』1月末の地元、大阪に戻っていたときのこと、1/27に文化財防火デーのイベントがあったので見学に行ってきました。文化財防火デーとは文化財防火デー|文化庁1…ameblo.jpこの旧田中家鋳物資料館は江戸時代の鋳物工場を移築した資料館なのですが竪穴住居も
東北地方の古代城柵を眺めているといつも思うことですが、何しろとにかく広いのです。広い敷地の真ん中あたりに規則正しく配置された政庁の一角がある他は、ただただだだっ広い空間が広がるばかり。これを軍事的に考えると、政庁部分と外郭部分との距離が広ければ広いだけ、政庁への攻撃までに要する時間がかかる(馬はともかく、何しろ近代にいたるまで圧倒的多数の軍勢は「徒歩」なわけですから)という理屈は成り立つよな、と漠然と考えていたのですが、東北の古代城柵の広さはそうした軍事上の目的だけではなく、「万を超え
TokyoMetropolitanArchaeologicalResearchCenter横文字だともう何だか私にはわからない駅は現在位置から小田急多摩センター駅300m京王多摩センター駅300m多摩モノレール多摩センター駅450mこの日も暑かった見えてきあれは縄文の村東京に縄文の村この時は正直期待していませんでした左を見ると縄文の村展示ホール入場無料と大きな文字が見えますどっちらからにしようかな縄文の村にきました『復原住居A棟のはなし』復
「北の大地が育んだ古代-オホーツク文化と擦文文化-」展の続きです。『「北の大地が育んだ古代-オホーツク文化と擦文文化-」展』先日、国立歴史民俗博物館の「オホーツク文化とは何か-東京大学文学部と北海文化研究-」講演会に行ってきました。講師は、東京大学の熊木先生。第一…ameblo.jp擦文文化は7世紀後半、続縄文文化が東北地方北部の文化の影響のもと、石狩低地帯を中心に成立擦文土器左:甕(栄
先日、国立歴史民俗博物館の「オホーツク文化とは何か-東京大学文学部と北海文化研究-」講演会に行ってきました。講師は、東京大学の熊木先生。第一展示室の一角では、「北の大地が育んだ古代-オホーツク文化と擦文文化-」が展示されていました。日本史で古代(飛鳥・奈良・平安時代)と呼ばれた時代、北海道ではオホーツク文化と擦文文化が展開していました。オホーツク文化は、5世紀から9世紀頃にサハリン南部から北海道の東北部、千島列島にかけて広がっ
中国道にほど近い勝央町黒土〈くろつち〉の鍵谷〈かぎたに〉遺跡で、6世紀末につくられた一辺5mほどの四角い竪穴住居が見つかりました。壁際には火を焚いたあとが赤く残っていましたが、その周りには粘土が盛り上がり、カマドが築かれていたものと思われます。朝鮮半島から我が国へカマドが伝わったのは、これより200年ほどさかのぼる古墳時代の中ごろのことです。熱効率にすぐれたこの調理専用の施設は、100年ほどのあいだに各地へと広がりました。しかしカマドには、それまでの囲炉裏〈いろり〉が担っていた、照明や暖房
先日のLIVE切り絵「切ル・観ル」2回公演の1回目をYouTubeにアップしました。今回は特に、お客様の存在なくして作品の完成とパフォーマンスを語ることが出来ないライブでした。動画の中でお見せしたい山場が二つあります。・まず一つ目は「先月から入会した生徒の存在」ーー今回のライブでは、切り絵のかけらを観客の皆さんにプレゼントしました。先月から絵画教室に入会したばかりのKちゃんも応援にかけつけてくれて、もちろん彼女にも「かけら」をプレゼント。人前でうまく話せない彼女、実はぼ
「竪穴建物」という用語をご存じですか?地面を掘り下げて床を作った半地下式の建物で、これまで「竪穴住居」と呼ばれていたものです。住まいのほかにも倉庫や作業場、祭場など様々な用途に使われたことから、機能を特定しないこの用語が提唱されました。平成22年に文化庁が刊行した『発掘調査の手引き』に採用されたこともあって最近ではよく目にするようになりましたが、教科書にも登場する「竪穴住居」に比べるとまだまだ一般に浸透するには至っていません。「竪穴式石槨〈せっかく〉」も、これまでの「竪穴式石室」にかわる
美作岡山道路建設に伴い、8月から11月にかけて勝間田高校の実習農園跡地にある小池谷B〈こいけだにびー〉遺跡の発掘調査を行いました。この遺跡からは、弥生時代中期後半から後期前半(約2100年~1900年前)の竪穴住居や掘立柱建物などが見つかり、当時の集落の様子が明らかになりました。中期後半の集落は丘陵の南側斜面部に営まれており、直径約6mの住居の周囲には作業小屋と思われる小型の住居が3軒見つかっています。後期前半の集落は、直径約8mの住居を取り囲むように倉庫と考えられる掘立柱建物4棟が丘陵頂
古津八幡山遺跡に行ってきました。近所に遺跡があるなんてびっくり。円形古墳と竪穴住居を復元したものがある、広々とした丘でした。平日だったので観光客は誰もおらず、芝刈りの人が2人で作業してました。トンボがものすごかったです。のんびりできました。雁や弥生遺跡の広き丘
戦後間もない昭和26年(1951)、岡山県北東部の奈義〈なぎ〉町久常〈ひさつね〉で果樹園を造成していたところ、地面の黄色い土の中に、クロボクの詰まった大きな窪みが見つかりました。クロボクの中には弥生土器のかけらが混じっていたことから、知らせを受けた倉敷考古館の鎌木義昌〈かまきよしまさ〉さんは早速調査に取り掛かり、中国地方では初めて竪穴住居の発掘に成功しました。これに刺激を受けた岡山大学の近藤義郎〈こんどうよしろう〉さんは、翌年、津山市沼で発掘を行ない、道路の切り通しに姿を現していた焼失住居
最近、夏の暑さをしのぐ工夫として、屋上に芝生を張ったり、窓をつる草で覆うといったアイディアが紹介されていますが、そんな緑に覆われた住まいが2000年前にもあったようです。勝央町黒土〈くろつち〉の丘の上にある小池谷〈こいけだに〉遺跡は弥生時代中期に営まれた集落跡ですが、そこで大きな竪穴住居が焼け落ちた状態で見つかりました。床の上には黒く焼け焦げた丸太が並び、その上に赤く焼けた土の層が広がっています。屋根の骨組みを覆うこの焼け土は、これまでも各地で確認されていましたが、その正体は長い間
勝央町の小池谷〈こいけだに〉遺跡で一軒の竪穴住居が見つかりました。径8mと大型で、炭化材や焼土に覆われていることから焼失住居と思われます。この住居の屋根材を明らかにするために、焼土の下のプラントオパール(イネ科植物の細胞化石)を調べました。すると、カヤ(ススキ)ではなく、イネの葉・茎(ワラ)のプラントオパールが大量に見つかったのです。ここから700m北へ離れた美作市鍛冶屋峪〈かじやざこ〉遺跡の竪穴住居でも、やはり同様の結果が得られました。いずれも山林として利用されてきた小高い丘の上に位置してい
水子貝塚武蔵野台地の新河岸川沿いの縁に位置する縄文前期(約5500~6000年前)の遺跡大規模な環状の貝塚と集落跡が再現された歴史公園になっています。園内には地表に白い陶片を用いて貝塚の規模や分布がわかるように表示されており、中央に大きな芝生広場を設け、5棟の竪穴建物が復元されている。一部は内部が公開されており、そこに縄文人の生活の様子が展示されている。今日からしばらくの間、2022年6月に行った埼玉の遺跡巡り
青い空をバックに、福地遺跡公園。福市考古資料館の続きです。『米子市福市考古資料館』福市考古資料館福市遺跡・青木遺跡ほか、市内各所の遺跡から発掘された遺物を展示しています。あー!、”顔はめ”がある私は”顔はめ”フェチです(笑)…ameblo.jp福地遺跡弥生後期から古墳中期を中心とする集落遺跡・複合遺跡遺構は、住居跡152・土坑墓28・古墳6・横穴14・合計217遺物は、土師器・須恵器・弥生土器の壺・甕・こしき・器台・
こんにちはさっきまで雨が降ってましたが、今は止んだみぬ☆地方☁☔やっと金曜日ーヽ(=´▽`=)ノ✨と、言っても今週は3日しか出勤してませんけどねそれでは続きでーす↓↓☆.。.:*・°☆.。.:*☆.。.:*・°☆.。.:*竪穴住居ヽ(^。^)ノ♪「茅野市尖石縄文考古館」の建物を出ると、左手に与助尾根遺跡の案内があるのでそちらに向かいます途中までは舗装されてるので比較的歩きやすいかと。(ノロ張ってて一瞬滑りましたが笑)竪穴住居を自由に見学出来ます集落跡の復元のよ
八雲立つ風土記の丘松江市南郊の大庭地区・竹矢地区一帯は、島根県を代表する文化財(史跡や社寺等)が集中しており、古代出雲の中心地です。島根県はこの文化財の宝庫といえる東西5㎞、南北4㎞の範囲を「八雲立つ風土記の丘」と称し、点在する史跡群をフィールド・ミュージアムとして総合的に保存・活用しています。風土記の丘地内は、島根県最大の山代二子塚古墳(前方後方墳)をはじめとする主要な古墳が分布し、奈良時代には出雲国庁・出雲国分寺などが設置されており、政治・経済・文化の中心地と言えます。さらには
北大植物園に入った。ハルニレ(エルム)などの高い樹木が茂り、周りの高層建築から隔離された別世界の趣だ(写真)。1株ずつなので、花は満開でもちょっと冴えない灌木園僕は、入口で渡された案内チラシを見て、まっすぐ花の見頃という灌木園に向かった。途中で、池とも川ともつかない水を湛えた所を渡った。ただ、期待に反して、見栄えはしない。1株ずつ植えられているので、花が満開でも、灌木だから冴えないのだ(写真=上はハコネウツギ、下はホザキナナカマド)。ちょっとガッカリして、僕
福岡県春日市岡本にある須玖岡本遺跡に行ってきましたサイクリングと呼べる距離でないので後回しにしてた場所です周囲は奴国の丘歴史公園になり整備されてます遺跡を保護する建物が2基見えます住宅街の中にあり公園は静かひとつめに入ります当時のまま保存しているのは良いですねこの遺跡は弥生時代だそうです甕棺墓(かめかんぼ)亡くなった人の手足を折り曲げて焼いた甕(かめ)に埋葬しているそうですこれは、外にある竪穴住居跡のレプリカ
昨日の記事の戸切地陣屋跡を10:00に出発したバスは次の目的地の函館市にある大船遺跡へと向かったその途中の車窓から駒ヶ岳が見えた手前は大沼湖そしてバスは11:10に大船遺跡の駐車場に着いたここも「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産に登録されている竪穴住居の説明骨組みが再現されているが竪穴は2mほども掘り下げられているこれは茅葺きで再現ここは男性の遺跡ガイドがついていて住居内をいぶすために火をつけていると言っていたここが重なり合ってい
昨日の記事の弘前公園を10:40に後にしたバスは次の目的地青森市の三内丸山遺跡に11:25に着いたこの時は雨はほとんど上がっていたここではボランティアの遺跡ガイドが付くはずだったのに何かの手違いでガイドがいなかったそれで自分たちで自由に遺跡を見て回ることになったここが三内丸山遺跡結構広い我々はこの大型竪穴建物から見ていくことにした大きい入り口中は広々としているこの建物は長さ約32m幅約9.8mもあって日本最大の物とのこと縄文時代中期後半(今から
練馬区氷川台にある城北中央公園の栗原遺跡に行ってきました。栗原遺跡は、昭和30年に発掘されたもの昭和30年から31年にかけての調査では関東ローム層の中から黒曜石製の石器が出土旧石器時代から人々が住んでいたことがわかった。縄文土器も出土弥生~平安時代の竪穴住居も発見された。石神井川がそばを流れる台地住みやすかったのだろう。復元された竪穴住居は奈良時代のものあおによし奈良の都に比べてなんて粗末な住居だろう。
妻木晩田遺跡は丘陵地帯にある弥生時代の竪穴住居の集落遺跡ですライトアップがされる夜に早めに出かけて行って高台から日本海を撮影しますむきばんだ史跡公園/鳥取県大山町DigitalPhoto2023.03.25新作1
P.32.目の前に小富士と呼ばれている可也山が見えて来た。本当に富士山に良く似た山で、海上からはこの山を目標に舵をとつて進んでくるのが一番分かりやすい進路であつた。可也山を右に見て進むと、その先に立石山と芥屋大門がある巨大な岩山が現れてきた。可也山の裾野、芥屋大門との間に十数軒程の竪穴住居の村が現れ、横の畑には今が盛りとばかりに菜の花が咲き乱れていた。一人の小さな愛らしい女の子が、両手いつぱいに摘んだ菜の花を持って歩いて
P.16.『始め根元様は生宮に魄(※67)という欲心のもとをお与えにならなかつた、ところが、生宮は神々から守られたエデンの園に慣れきつて、何の努力もしなく向上心を無くしてしまつたのです。これではいけないと思われた根元様は、生宮と神とを結んでいた『天の糸』を切断されたのです。そして、魄をお与えになつたのですが、その欲心を曲津神が利用し、強くなりすぎた欲心が弱肉強食優勝劣負(※68)を加速させてしまいました。今は根元様は、ある大
縄文の世界はおもしろい土屋精作著「縄文の世界はおもしろい」(エコハ出版)を一気に読んだ。縄文に疎かった私にとって、実に分かりやすく、最適の入門書であった。縄文一万年の歩み、縄文人の生活、心のありよう、社会の実態、縄文人の出自等々、図や写真をふんだんに織り交ぜながら平易に解説してくれている。そして縄文遺跡群を世界文化遺産に登録したいと熱望しているが、そのためにクリア―しなければならない課題を提言している。一読の価値がある良著であろう。以下は私の読後感想である。縄文末期から弥生時代
15日のほっこりカフェはいつもよりのんびりムード、来てくれた方達とゆっくりとお話しが出来ました。可愛いちびっ子ちゃんにも癒されました。ありがとうございました。久しぶりに会えたほっこり仲間も…嬉しかった〜そして一昨日は相棒の助っ人で、溝の口にある、すくらむマルシェへ…すくらむは、10年位前に連続のアロマ講座をさせてもらった場所です。嬉しい出会いも…そして「ほっこりカフェの仲間達」で参加させてもらっている森展2022@moriten_tamami小田急線読売ランド前駅から
2022年10月10日のコト。サモズ(天君&mocoちゃんと右端僕)のセンターとっとるジャパニーズスピッツの『空花』と広々芝生の丘を弾ける僕ずっとニコニコ堂の原4号?8号?竪穴住居跡4号説明8号説明どっちじゃったかな?天君と僕僕ガウらんかったで。洞の原掘立柱跡の説明埋もれとった。芝生強し!みんなでもっと奥に優雅に歩いとんのに👀僕・・・「人間襲う大型犬」言うて指名手配されるかなあ💦奥に行ったら「海」が見えた。復元住居もあったで。横から中の土