ブログ記事88件
ここ最近はと言えば、ほぼコース漬けの毎日でした。たまにふと、よくもまぁこんなコースまみれな日々を送っているな〜と思うのですが、これは、多分私が望んでいることなのです。(比べるものでもないのですが)もちろん、まだまだ先輩兄弟の皆さまには及ばないものの、我ながら、(今のところ続いている笑)この意欲(情熱)はどこから来るのだろう?とたまに思うのですが、ただ、目の前に引かれたレールに乗っかっていることだけは確かな気がします。それには、たとえまだ自我の欲望がたくさん絡まってい
JACIMのビデオV#1「二つの声の聞き分け方」を学びました。そのビデオの中の質問で、「聖霊の声を聞くとありますが、聖霊の声を聞き分けるにはどうしたら良いでしょう?」とあります。ここでワプニック博士がおっしゃっているのは、問うべき焦点はそうではなくて、「なぜ私は聖霊の言う通りにしないのか?そうすれば、聖霊の声をよりよく聞けるのに。」というところです。と。なぜ私は今も常に騒がしい自我の声を聞き続けているのだろうか?なぜそれをやめたいと思わないのか?「私たちの機能
イエスは本気で言っている。「イエスは本気でこの世界は幻想だと言っているのです。」(FACIMV#26「幻想を直視しない限り真理に到達できない」より)あるとき、この言葉に"ハッ"としました。「イエスは本気でそう言っているんだ。」本気なんだ。。。」と。それまでは、まだ漠然とこの世界は夢なんだ幻想なんだ実在していないんだと認識はしてはいましたが、頭の理解のレベルまでだったのかもしれません。もちろん、
ワプニック博士もおっしゃっている、動揺したら、レッスン5。「私は自分で考えているような理由で、動揺しているわけではない。」(Wp1.l.5)ここが、分離の道と奇跡の道への分かれ道。ここで、私が被害者となり続けるのか、心にもどって原因から選び直すのかが別れるポイントとなる。被害者のままの、卑小な存在のままでは、選び直す力を取り戻すことはない。「自我は常に先に語る。」(T.6.Ⅳ.1.1)聖霊は答えを持
投影が知覚を作り出す。神を攻撃して、拒絶し、その"罪、恐れ、罪悪感"から、投影して"世界"を作っておいて、その"世界"の実在性の証として知覚に証拠を探させにいく。証拠とは?この世界が、肉体が、実在しているという証拠。景色、言葉、痛み、喜び、計画……見て、聞いて、感じて、考えて、この世界は実在している!この身体が私だ!と実感させる証拠を集めてきて、それにより、世界は"ある"と思わせて、分離の実在性を維持している。
牢獄の中で、独房を花で飾って、たまに嬉しいことがあれば幸せだと思う。いや、そうではなくても、牢獄の中でパンとスープさえ与えられればそれで幸せだと思う。ただ、生きていられさえすれば=自我が存続さえできればそれでいいんだ。"それが本当に幸せなのだろうか?"そんな疑問すらもわかない私たち。そんな牢獄の中で、聖霊に差し出された"奇跡講座"という脱出の鍵を、(スピリチュアル本として、神話として)楽しみなが
動揺したとき、私たちは、常に被害者の側に立って世界を見ています。それは、相手から"攻撃された!"と思って、動揺しているからです。しかし、その元をたどれば、そもそも"分離がありえると信じた"というところが原因なのですが、、、これは、自らが、はじめに、対象(神)を攻撃をして拒絶しておきながら知らん顔をして、当然のように被害者の側に立っているという図式です。そして、他者(=神)を悪者に仕立て上げ、攻撃して、怒り狂い、嘆き悲しみ、悲
外側から動揺を知覚せずとも心が自分だと意識しているとだんだんと、常にある心のモヤモヤからも赦しの実践ができるようになってきます。分離がありえたと信じたことにより湧き上がる罪、恐れ、罪悪感とは、心のどこかに常にある雲のようなどんよりと重いモヤっとした不快感となって感じられます。なにかを知覚して、動揺するような出来事が起こらなくても間違った心を選択している限り=世界を知覚している限り(=いつも)常にあるモヤモ
「奇跡に難しさの序列はない。」「あなたと私は同じ」というところからの赦しをしていくと、聖霊の視点というものがわかりやすくなってきます。真の愛など、自我の思考体系では、全くわかりえないし、分離した世界においては、神の愛の反映とは、ただ「赦し」でしかなく、幻想を幻想だとはっきりと見切る視点が聖霊の視点なのであって、この世界の中で愛や幸せを感じるために導かれるようなのものではないということがはっきりとわかってきます。☆そんな「聖霊の視点」についての限定公開の動画。
ずっと、"心が私である"というところを意識していくと、この世界の出来事はまったく意味のないものに見えてきて、「問題はどれも同じじゃん!」と見えてきます。それが、「すべてのものを同じと見る」聖霊の思考体系であり、奇跡の第一原理「奇跡に難しさの序列はない」ということの実践となってきます。そうすると、「原因はひとつで、その解決方法はひとつじゃん!」となってくるので、それが赦しであり、聖霊の思考体系であると言えます。☆"もりGさんのACIMTALK"「赦しの
久しぶりのブログ記事になります。皆さまお元気でしたか?ここ最近は「あなたと私は同じ」という聖霊の視点から相手や世界を見て赦しをするということにフォーカスしてきました。「あなたと私は違う」と今見ていたならそれはもうすでに私は自我である"間違った心を選んでいる"ということになるのでそこから赦しを行なっていくという赦しです。この赦しは、(もしかしたらちょっと違うかもしれませんが)もりGさんも最近おっしゃっているもので、先日、このことについてZOOWでミーティングをしま
中庸はない。極端さのから恐れがわく。自我か聖霊か。自我の目的か、聖霊の目的か。世界か実相世界か。二元か一元か。幻想か真理か。どちらかしかない。ふたつにひとつ。そりゃ、偏ってるか。ふたつあるように見えるのは、分離が起こったと信じているから。神の子だということを忘れているから。心眼で見るということに抵抗があるから。それらを思い出せばはなからどちらかひとつしかない。実在するもの。それはどっちか?真理に決まっている。自我の視点から見れば、真っ向、対極のポジションだ
本日20時〜「ACIMウェブ勉強会」第1回目です。お申込み済みの方はこちらもご覧ください。☆奇跡講座を学べば学ぶほど、(とは言ってもまだ3年ちょっとですが)天国にかえるなんて正直、無理でしょ!と思う。少しわかった!と思っても、すぐ、まったくわかってないじゃん!と、ガッツリ平手打ちを食らう感じ。やっと少し進んだと思ったら、向かい風に吹き戻されてまた振り出しだ。聖霊さん!これは本当に、夢じゃないと無理でしょ。これが夢であってもらわないと神のもとで目覚めるなんて
自我は自我のままで変わらないので、自我をどうこうしようとするのではなく、自我を"無"としてみていくこと。分離の想念を信じて、それを深刻に受け止め、誤った心を選んだことにより知覚する(感じる)、恐れ、罪、罪悪感を、赦しによって愛、平安、喜びに変えていこうとするのではなく(結果としては変わるけど)それを夢として看過できる視点それを無として見ていける視点から世界を眺められるようにする。赦しは、決断の主体に戻って、私は肉体だ!私は空禾だ!という信念から、私は神の子だ!と
実は、この夢の中では、特別な関係性も、攻撃も、防衛も、やってもいいんだよ。恐れや罪悪感を持っていてもいいんだよ。そこから逃れなくてもいいんだよ。ていうか、逃れることなどできないんだよ。逃れられないことにより、それは赦しのきっかけとなる。持つことの方が宝なんだ。ある意味なんでもありの世界。というか、そんな世界。クソまみれで、ゴミだらけのここは地獄の1丁目なんだ。実は、リラックスした友達とは夜になるとそんな話で盛り上がるゲスい私だ。夢の中で何があっても、夢の中の私
すべては決断の主体の中で起こっていて決断の主体の中でこの世界の夢を見ている。それは、ノンデュアリティーやスピリチュアルでいうところの"観察者"の視点ともちょっと違うようだ。見るものと見られるものの主体と客体はなく、ひとつだ。いわゆる"観察者"の視点のほとんどは、多分まだ、世界を実在させているところから見ているからではないだろうか。決断の主体は聖霊のアイデンティティーであり、"戦場を超えたところに居る"というイエスの視点であり、世界を夢だと見切れるところだ。イエスは本
今までの赦しは、なんとかしてこの世界で平安を得るための赦しの実践だったように思います。この恐れと罪悪感をベースにした世界で、絶対的に知覚する苦痛や不快な感覚を、実在のものとして見て、その中で、聖霊と赦しによって平安になろうと、神の愛を感じていようと、望んでいたのだと思います。「神の平安以外に平安はない。」(W-p1.レッスン200)ので、正しい心を選び直したところからの平安でも、実相世界を垣間見たからによる平安でも、赦しの実践をして得られる平安でも、この世界を知覚
先日、打ち合わせのためもりGさんとSkypeで話をしたとき、今回の沖縄では、個人セッションを受ける時間が取れなかったので、急遽個人セッションをしてもらうことにした。それは、立ち会わせていただいた香港さんの個人セッションの中で、私も同時に感じた深い記憶と感情。イエスが迫害され、十字架に磔にされたという遠い遠い過去の記憶の中にある共通意識。本当のことをいうと迫害に合う。真実を言えば殺される。そんな間違った信念だった。その知覚から心の中へと入っていくと幼い頃の体験の記憶
沖縄3日目の夜。深夜部のスワットな兄弟姉妹たちとの高台にあるオシャレで素敵なイタリアンレストランでの楽しいディナーシェア会。美しい景気と、美味しいご飯を食べながら、それぞれが、心の中でずっと握りしめていたものを明らかにして兄弟を信頼して、聖霊を信頼して明け渡していく。そして、ともに祈る。たくさんの話をした。いろんな想いを語り合った。そして、沖縄リトリートで学んだことを確認し合った。その中のひとつ。☆私たちは、無意識に一瞬一瞬、常に自我を選び続けているということ
最近は、忙しさもあってか何が何だか、すべてが一切わからなくなっていた。そういうとき、「何が正しくて、何が間違っているのか」と見ようとしていることに気がつく。そしてそこに、差を見いだして私の正しさを、なんとか自分で判断し、主張しようとしている。もうお手上げだ。。。私が望んでいるのは、正しさではなく、幸せだ。争いを望んでいるのではなく、平安だ。幻想の中に正しさや幸せを見いだそうとするのではなく幻想を超えてすべてを見れる聖霊の導きに従うしかない。聖霊さえ見ていればい
前回のブログで、数件ご感想をいただいた中で、それが、ある方の啓示体験ともちょっと似ているとのことで、啓示体験(一瞥体験)の話となった。私は今まで、本当に愛に満ちた、"すべてが愛である"と確信出来るような素晴らしいワンネス体験や、一瞬、すべてが消えて世界は何もなくただ私だけ、愛だけという体験は実は何度かあるのだが、それがいわゆる啓示体験だとは認識していなかった。啓示体験とは、もっともっとすごいものであり、もっともっと素晴らしいものであって、私なんぞが体験できるも
昨日の奇跡講座・ワークブックレッスン199私は肉体ではない。私は自由である。☆私はぼちぼちなのですが、スピリチュアル・アロマセラピーというものをやっていて、昨日は、今さら仕事初めで、笑BodySessionでした。実は、奇跡講座を学び始めてから、ヒーリング、チャネリング、セラピーなど様々なメニューが、約1年半くらいの間、ほとんどできなくなってしまった。肉体を癒すということに、魔術を使うということに、なにかを変えようとすることに、人を喜ばせようとすることに、自
昨日の夜は、もりGさん、香港さんといっしょ!「ACIM・ウェブシェア会」でした。今回も、15名の皆さまとの、学びと分かち合いの時間となりました。ウェブ上ではありますが、安全に守れた場で、正直に皆さまの疑問や悩みや体験のお話を聞くことは本当に多くの気づきや学びや赦しを、与え受け取ることとなっているように思います。たとえ、自分がわからなくても、いちなる誰かが分かっている。自分が体験していなくてもいちなる誰かが体験している。自分が赦せなくてもいちなる誰かが赦してい
昨日の奇跡講座ワークブックのレッスン190。私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。このワークを前に、またひとつ大きな赦しがありました。ここ数年苦しみを感じてきた問題が、明け渡しとともに消え去り、訂正されました。(またそこに戻ることもあるかもしれませんが)自我の視点に、どっぷりと浸かり苦しみの渦の中をどっぷりとさまよっていた私は、聖霊によって救い出されました。なんどもなんどもこっちだよこっちだよと私の肩を叩いて導いてくれていたはずなのに、まったく聞く耳を持ちませんでし
今日は大晦日ですね。今年も一年ありがとうございました。今日のワークブックのレッスン187。私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。IblesstheworldbecauseIblessmyself.ここに、犠牲という想念が苦しみを生むと書かれている。というか、苦しみや損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死は、すべてが犠牲という想念から生じたものであると。与えるということが何を意味するかを理解する者は、犠牲という概念を一笑に付す。苦痛や損
奇跡講座ワークブックレッスン185私は神の平安を望む。IwantthepeaceofGod.(→Jと子羊のレッスン)この前々日からとても寒く、疲れが出たのか、風邪気味で昨日の朝は、久しぶりにレッスンを休んだ。そして、今朝はちょっとダルいけど、またいつもの通りにレッスンをはじめる。私の学びとしてなのですが、よく読んでから、ダイジェストを一旦メモに書いて、兄弟に送ったり、時間のあるときに、"Jと子羊のレッスン"の方にアップする。また、1日のどこかで、香咲弥
本日20時30分〜ウェブシェア会です。もりGさん、香港さんといっしょ!ACIM・TALKING1-2の有名な笑笑「もりGさんの夢のお話」"あらすじ"夢の中で、聖霊(イエス)のような男性が、混沌とした世界から連れ出してくれると言って一緒に行こうと手を差し出してきてくてた。その手を取り、ともに帰ろうとした瞬間、「ちょっと待って!すぐに戻るから!」と言って、一瞬、その手を離してしまった。すると。にもあるように、私たちは、ほんのちょっとした小さな小さな気がかりのカケラひ
昨年のクリスマスの、ワークブックのレッスンは、レッスン303「聖なるキリストが今日私の中に生まれる。」だったようで、私のささやかな意欲を応援するようなクリスマスにぴったりのレッスンでした。今日のレッスンは、レッスン182「私は一瞬の間静まり、家に帰る。」クリスマスとはあまり関係ないように思えますが、神の子イエスが幼子として、幻想にさまよい出ているものたちの心の中に、かすかな神の記憶を思い出し、ともに父の家に帰るために心の中に生まれるとある。どちらにしても今日
沖縄リトリートでは、本当に兄弟とはひとつなんだ。心はひとつなんだ。自我はひとつなんだ。そしてひとつのキリストだったんだ〜〜ということが今までよりもさらに腑に落ちてきた。あなたが癒されれば私が癒される。私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。(奇跡講座W-p1.137より)赦しは、自分ひとりではできない。誰もひとりで天国に入ることはできない。(W-p1.134より)兄弟がいなければ帰れない。正直な兄弟たちとともに過ごすことで、心の扉は正直に開かれていく。す
最近は、赦しの実践により、虚無が、生命の力へと入れ替わっていているように感じる。ずっと虚無を抱えたままで、肉体からの解放をのぞんでいたから、死にゆく夢の中で死へと向かって歩いていたんだ。でも、そういえば、いつから虚無を感じていたんだろう。いつから絶望を感じていたんだろうか。・若い頃の夢の物語の中で、信じていたものが次々と壊れていったとき。・一瞬で、町や人々が波に飲み込まれ、命の儚さと、人間の無力さを見せつけられたとき。・愛する人、どうしても会いたかった人に、もうこ