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今日は、空禾さんにヤングリビィングのアロマヒーリングをしてもらいました⭐️その途中…空禾さんが虹〜❣️と叫んだので、思わず私も慌てて写真を撮りました🌈🌈去年の12/20もダブルレインボー🌈🌈同じ日の今日もダブルレインボー🌈🌈今年は叔母の事で頑張った空禾さんと私に、今年も色々と頑張ったね❣️来年も楽しんでと言われているような虹でした🌈🌈#ゴールデンドロップ#アロマヒーリング先週の水曜日、今年から始めたパッチの発明者、創業者が浦安のシェラトンに来ると言うので、オーラも含めて見に行っ
明日24日は、アロマの空禾さんが来店します🌺私もアロマヒーリングを受けます❣️あとお一人様、御予約承ります🌺お問い合わせ・申し込みは、公式LINEから↓↓↓↓↓
私たちは常に、飢えたオオカミのように罪悪を探していることに気づきます。とにかく、他者や世界の中に罪を見たくてしょうがないのです。それはどんな些細なことでも、罪のにおいがするなら、何でもいいし、誰でもいいのです。それがたとえ、かけがえのない愛する人や大切な人であっても、飛びかかって食いものにして処罰したいのです。そして、それこそが、自分に罪があると信じているがゆえに、それに耐えきれずに、外側にその罪を投影して、「分離はあり得るけど自分を罪なき被害者として見たい!」という自我
自我にとっての希望の糸は、今にも切れそうな儚く脆いものです。しかし、聖霊からの救いの糸は神の愛と反映であり、確かなものなので、決して切れることはありません。ただ、私たちは、自我の儚く脆いすぐに切れる糸で、ずっと上っては落ちるゲームをし続けていたいので、聖霊からの救いの糸を見ようとはしません。コースを学んで、救いの糸が目の前にあることはわかっていても、見えないふりをして、自我の儚い絶望の糸で戯れ続けているのです。この愚かさを見て認識したなら、私たちはどうするでしょ
コースを実践していくと、失うという恐れに直面してきます。大切なものを失うと。。。聖霊から見ればそれは解放であり、自由なのに、個人の私は喪失や絶望ととらえてしまいます。幽閉こそが安全で確かなものだと勘違いしているのです。それはいわば、分離を信じて、天国を失った!と信じたあの原初の瞬間の再現を、ただ繰り返しているだけなのですが、その絶望と喪失感を保持し続けたいという願望の結果に過ぎません。しかし、自我は失うぞ。何もなくなるぞ。と誘惑してきます。その声を聞くなら、あっ
こんにちは。ACIMMIRACLES「聖霊の教室」の管理人・KUUKA(空禾)です。個人ブログをamebaowndからこちらに戻しました。今後ともよろしくお願いいたします。ACIMMIRACLES「聖霊の教室」は『奇跡講座』ACourseinMiracles<ア・コース・イン・ミラクルズ>(ACIM・奇跡のコース)のシェア&スタディーグループのサイトです。「聖霊の教室」ACIMMIRACLES『奇跡講座』ア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM/
『ACourseinMiracles(ACIM.奇跡講座.奇跡のコース)』をテーマにカウンセリングセッションを受付けておりますKUUKAが理解している・体験している範囲内とはなりますが、何かしらの気づきがあったり、色々と参考になることがあるのではないでしょうか。また、「コースってどういうものですか?」「実践していくとどうなりますか?」「聖霊ってなんですか?」「奇跡ってどういうことですか?」「コースは非二元の教えなのですか?」「巷のスピリチュアルと
◆空禾KUUKA『ACourseinMiracles』ACIM.奇跡講座.奇跡のコース学習者セラピスト・アロマセラピスト10代の頃から、音楽を通して「真実を知りたい」という思いが、やがて「真理の探究」となっていました。また、10代の頃より、自律神経失調症などに悩まされ、様々な自然療法やスピリチュアルでの解決を探し求めるとともに、心のあり方や内側を見ることなどを探索してきました。2015年末コースと出会い、2017年ごろよりもりGさんのワークショップ
最近になって、私はコースを学び、目覚めたいと(解脱)望みながらも、「悟り」を目指していたのだなーと気付きました。悟りというのは、この世界にいながら、悟った状態で幸せにいるという状態かと思います。「この世界は本当に実在していないのだと知りたい。」という、ここまでだったのだと思います。ということは、やはり、どこまで行ってもこの世界にありながら、幸せであればいいと思っている自分に気づきました。本当に帰る気などないまま学んでいるから、実践できていないのだと。
ACIMウェブセミナーで2+2=5というテーマを学んで、「2+2=5(聖霊の一元的思考)でみたくない!」と言う恐れがわいてきました。同じじゃ嫌!勝者と敗者がいて欲しい。私は今自我と同一化しているのだから、心に戻れるわけがないとか。。。そういう時、赦しを実践しても、階梯の途中で妥協してしまい、赦したいとは望めず、ずっと恐れの中にいることになります。それは、赦しをしているつもりでいて、選びなおさずに、分離を実在させることになります。私はただ、葛藤し、恐れ続けたいのです
先日開催された、ACIMウェブセミナー”2+2=5”~二元的思考から一元的思考へを学んで、いろいろと気づきや学びが深まっています。しかし、やはり、2+2=5など受け入れたくないという強い抵抗が出できたり、強く深い信念に気づいたりしますが、これも、学んだ分だけ深まっていっているんだなーと思います。そんなな中で、ちょっと軽い感じですが、少し思ったことを。。。コースの教えている赦しとは、本当に誰も傷つけないんだなーと思います。心から見るなら、他者はいないし、す
「魔術を使いながら学んでいく」という、自我にとっては優しさに感じるこの言葉は、この世界の中で、この私が魔術(形態レベルでの行動)によって一時的に満たされたり、楽になることなのかと思っていました。しかし、心に戻って色々と見てみると、実は、この世界への「投影」自体が魔術なのだな〜と思いました。レッスン5を使って、奇跡の方向を向いて心に戻っても、そもそも、その心は、「赦したくない」と決めている強い向かい風(罪、罪悪感、恐れなどの抵抗)が吹いているのですから、その心に戻っていく
生きるか死ぬか。勝つか負けるか。「どちらか一方」自我の思考(2+2=4)の土台となる「どちらか一方」(=二つに一つ)という想念。それは、「あなたと私は違う」=「神と神の子は違う」という分離の想念が実在のものとなり、「私が神だ」と証明できればいい。そんな二元性の思考の世界。2+2=4それは常に攻撃と死に怯え戦い続ける心となり、その投影が戦場のようなこの世界。これが自分で望んだ結果の世界。これによって分離が保たれ、脆弱で脅かされる真の自己(神の子)"じゃない
この世界や個人の肉体である私の、苦痛や恐れや弱さや、世界の惨状の全てを、「(心の)自分が願望した結果だった」と認めたなら、私たちは確実に絶望するでしょう。つまり、この世界の中の個人の私には、なんの解決方法も、解決手段も、選択肢も希望も残されていないということがわかってしまうからです。しかし、それこそが、真の自己である「決断の主体」を思い出し、聖霊を招き入れ、間違った選択を選び直すチャンスとなるのですが、自我と同一化した私たちは、それを真底恐れています。それこそが、
コースの学びの道の先には、この世界の喜びや幸せや幸福感とは比べ物にもならないくらいの「もっといいもの」があるのだということ。"源からは一度も離れたことはない"それを思い出すための手段が「赦し」だということ。そのようにみていくことは、通常の私たちの概念や思考体系では、なかなか難しいものです。しかし、奇跡講座を学んでいくと、日常の中での、大きなことから小さなことまでの動揺を、少しずつ赦しの実践として活かしていくことができるようになり、それを地道に続けていくことにより、
ふとした瞬間、空が綺麗だなぁ〜美しい花だなぁ〜と、深呼吸してリラックスして、つかの間の平安や安らぎや喜びを感じるとき。それは、日常の中のホットした瞬間であり、当たり前のことなのですが、そのとき、私は世界を実在させていて、肉体と同一化していて、私は身体だと信じていて、偽りの安らぎや平安や喜びを感じているのだということに気づいていく必要があります。それは喜びや平安ではなく快楽なのだと。その安らぎは奇跡の結果ではなく魔術なのだと。自我は肉体を攻撃とプライドと快楽のた
私は何も知らない。私は何もわかってはいない。だから、何が良くて、何が正しくて、何が幸せなのかはまったくわからない。なので、私の判断は間違っている。私の想いや考えはすべて間違っている。私の知覚は間違っている。私の解釈は間違っている。自我を教師とした私のすべては間違いだった。そうであれば、この苦しみや葛藤はすべて間違いなのだ。この、恐れや悲しみやはすべて間違いなのだ。この攻撃や快楽はすべて間違いなのだ。それはなんとありがたいとことだろう。それはなんと幸せなこと
分離を信じている限り、必ず咎める。世界は実在すると信じている限り必ず裁く。自我の思考体系を選んでいるとき、私は肉体だと信じている限り、そこに違い(差異)を見るので必ず誰かを咎めることになります。分離を信じている限り、批判、裁き、咎め、攻撃は本当にやめられないのです。そうしておきながら、それを否定したり、マイルドに薄めたり、無垢なる仮面をつけて、被害者のふりをして隠している。そこに自覚はなくても、無意識に必ずやっているのです。私たちは、それ(裁き、批判、咎め、
JACIMさんより、「原因についてのコース」「思考の逆転」に続き新たな小冊子「聖霊のレッスン」が発売されました。私が発売したわけでもないのに、なんだか感無量。笑(勝手にすみません)今年になって、もっと真剣に奇跡講座を学びたい!どうせ学ぶなら、一度は加藤三代子さんから学んでみたい!なんて思っていたらすぐ、登録したばかりのJACIMフォーラム内で加藤さん直々のミニ講義室が開催されると知り嬉しくて嬉しくて、即参加しようと決めたのがまだ寒い2月でした。それから、
分離の目的は、「あなたと私は違う!」とみて、相手を裁くことであり、自我を教師とする間違った心を選んでいる限り、裁きからは逃れられないのだと自覚します。自我にとっての救いは、他人を裁くことにより、「相手に罪がある(あなたが悪い)とすることで自分を無罪(私は悪くない)とする」というやり方です。分離を信じるがゆえの自らの"罪、恐れ、罪悪感"を「これは私のものではない!」と他人になすりつけることが自我にとっての救済であり、無罪宣言となりえるのです。しかし、間違った心
妥協なく見ていくことを心がけていくと、普段は隠されていてあまり表面的には感じられないような様々な障壁や抵抗も明らかにされていきます。よく見ていくとそれは「恐れ」でした。それは、究極的には「死」に対する恐れです。肉体の死に象徴される個としての「私」というアイデンティティーの死。世界の消滅に象徴される自我の死に対する恐れ。それは、ありとあらゆる世界の状況や現象に投影されていることが見えてきます。この身体の反応、この
奇跡講座の妥協のない学びや実践(特にワプニック博士の提唱する奇跡講座)を、厳しいと感じるとき、私はまだ目覚めたくないと思っているのだと自覚します。愛にフォーカスして、愛の優しさや、美しさにうっとりとして癒されている間は、特別な関係性や、幻想の中での幸せを望んでいるのだと自覚します。自我のあらゆる、トリック、抵抗、時間の引き伸ばしなどに対して、とにかく妥協なく見て赦しをしていくこと。そして、私が何もしなければ、ただ愛であり、平安なのだという体験を重ねていくこと。私が
奇跡講座は愛の意味を教えるものではなくすでに"持っている愛"を自覚できなくしている障壁を取り去っていくものだと、テキストの序文にも書いてあります。だから、愛にフォーカスして、愛を感じていくものではなく、世界が実在して、私は肉体であり、私が実在すると信じている限りは、"愛「じゃない方」"(=障壁)(もりGさんがよく言っている)に、フォーカスして、それに気づいて、見て、感じて、明らかにして、聖霊に取り消してもらって、心が癒されていくことを実践していくための学びであ
奇跡の原理1「奇跡に難しさの序列はない。」(奇跡講座T-1.1.1)それは、すべてを同じと見ること。(すべての人や出来事をすべて同じとみること。)とも言える。とは言われても、肉体を持ったままで、なかなか相手と私を同じなどと思えるものではない。(そもそも肉体は分離の象徴だから)例えば、スピリチュアル的によくある目の前の人の肉体をすり抜けて、その向こう側に輝く聖なるキリストの光や顔を見る。というふうにイメージして、葛藤のある目の前の人に対して、あなたの肉体を超えた
愛は何もしない。決断の主体で、聖霊とともにあるとき、愛とは本当に"何もしないこと"なのだと気がつく。正しい心に触れたとき、聖霊は何もしない。平安は何もしない。真理は何もしない。"ただあるのみ"ということが体験を伴って理解できてくる。☆先日、「私は愛を知らない。」その言葉に引っかかって、じ〜っと心を見ていった。「私は愛を知っているのだ!」と叫ぶ自我の私がいる。私は人を愛し、家族を愛し、子供を愛してきたのだと。そして、その奥には、自ら望んで、失ったと信じている
奇跡講座の概念は一元論的思考で書かれていると言えます。学んでいくと一元論とは、本当に一切の妥協のない思考なのだとわかってきます。だからこそ一元なのですが、聖霊は、一元的思考なので、ある意味、一切妥協がないとも言えます。自我か聖霊か。葛藤か平安か。天国か地獄か。一方だけが真実であり、一方は実在しない。その妥協のなさこそが真理であり、光であり、神の愛の反映とも言える訳です。しかし、その妥協のなさは、自我にとってはとても恐ろ
私がやっている。そう思ったとき、世界を実在させている。私がやっている。そう思ったとき、私がやったのだから、何かしらの見返り(結果、成果、褒美=世界)があって当たり前だと信じている。それが、混沌とした状況(欠乏)を作り出す。自分のものは自分のもの。他人のものは私のもの。私の罪はあなたのもの。あなたの愛は私のもの。他人が、私が持っていない"いいもの"をもっていたら直ちにそれを奪い取る。これは、私やあなただけではなく自我の法則なのだ。私がやっていた。(=私がやり
(前回のブログより)投影を知覚して、動揺したとき、必ず私が間違っている。そのとき、私は必ず自我を選んでいて、「あなたと私は別々だ」と見ている。つまり分離を信じている状態にある。その分離の証拠として、間違った心が五官や頭脳をつかって集めたデータをもとにそれを信じて(騙されて)動揺したのだ。つまり、動揺したときは、例外なく、必ず私が間違っているのだ。これはとても屈辱的なことなので、決して認めたくはないことなのだけど、確かに、必ず私が間違っている。(前回のブログ記事よ
投影を知覚して、動揺したとき、(=ん?えっ?なんで?という疑問からの怒りや恐れや罪の意識などで感情や思考が揺れ動くとき)(相手が確実に悪いように見えたとしても)必ず私が間違っている。そのとき、私は必ず、自我の思考システムである間違った心を選んでいて、あなたと私は別々だ。と見ている。つまり分離を信じている状態にある。その分離の証拠として、間違った心が、五官や頭脳をフルに使って集めたデータをもとにそれを信じて=騙されて動揺したのだ。(そしてほとんどの場合、自分は被害
"この世界は幻想だ"と言っている教えはたくさんある。何も起こっていない。すべては夢なんだ。すべては想念の現れだ。私はいない。。。奇跡講座のベースとなる基本的概念も同じように、すべては幻想だと言っている。しかし、奇跡講座のユニークなところは、その"幻想"を使って、真の自己である「神のもとへと帰る手段」とすることが出来ることである。すべては幻想なのだけれども、私たちは、今、「これはリアルだ!」と信じ込んでいる。だから、世界や相手を実在させて、自分は世界の被害者と