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今思えば、多分、私は今年の夏頃までは、死にたくて、奇跡講座を学んでいたように思える。少なくとも、当初は死んで楽になりたくて、奇跡講座を学んでいたのではないだろうか。それが解放への道だと履き違えていた。これは多分、幻想の世界の中でずっとずっと繰り返してきたことだ。それは、完全なる神の否定。死は存在すると見ている。永遠は無く、神の平安などなく、神に創造されたままの私ではなく、想念はその源を離れて分離できたと宣言していること。死にゆく夢の中で、私を消してしまいたいと思
自分ではもうなにも選ぶことはできない。なにも選択することはできないんだ。これまでの自分の人生は自分で選んでいると思ってきた。これからの自分のことは自分で決めていけると思ってきた。何一つ、選んではいなかった。なにも選ぶことはできない。というか、なにも選ぶものはない。そして、こっちを選んだから、結果、幸せでそっちを選んだから、結果、不幸だなんてこともないんだ。そんなことは、起きてすらいないし、たとえその選択をしたつもりでいても、その選択が私に影響を与えることもない。
「私は今日、キリストの心眼で見ることを練習します。」朝から、お世話になっているお宅に、泥棒が入ったと連絡があった。少なからず、同様する。今日の奇跡講座ワークブックのレッスン158「今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。」をyoutubeで聞きながら瞑想していると、久々のサスペンス劇場的ストーリーに恐れが湧いてくる。この世界では、まったくの価値もないものなのに、大切なものを奪い、奪われ、傷つき、傷つけられるものだという信念。これはどういうことでしょう
よし。もうあきらめた。なんとかするのをあきらめた。どうこうするのもあきらめた。あとは、なるようになる。いや、もはやなるようにしかならない。よし!もうあきらめよう。無駄な抵抗なんて、するだけ無駄さ。戦いは終わった。戦いなどなかった。戦う相手すらいなかった。あきらめは解放。あきらめは手放し。あきらめは浄化。あきらめはスタート。あきらめは自由。私は一歩退いて、神に導いてもらう。(奇跡講座W-p1.155)私は未来を神の手にゆだねる。(奇跡講座W-p1.194)今
奇跡講座ワークブックレッスン153「防衛しないことの中に、私の安全がある。」奇跡講座を学んでいると、テキストやワークブックの中にあ〜その通りだ。本当にそうだった。そんなことがあったよ。そういうことだったんだ。と、多くの共感する部分や、疑問の答えをもらったり、過去の経験からの答えが書いてあったりして、納得する部分がよくある。奇跡講座は、思考の矯正や概念の書き換えだけでなく、そのようにして、イエスや聖霊が優しく神との関係性の仲立ちとして、私たちに、真理への道をわ
奇跡講座のいうところの「赦し」に関しての話のデカさというか、言っている内容の規模の大きさ(規模という表現が正しいかはわからないがあくまで自我目線からの解釈である。)やっと少し腑に落ちてきた。このコースの教えている「赦し」というのは、たただ単に、「自分にひどいことをした人のことを水に流して、その人と和解する」といったことをはるかに超える次元にあるプロセスです。そもそも人間と人間の間のことではありません。そこからはじまるように見えますけれども、それをはるかに超えたところ
心が平安でないとき私は本当に自我を選択しているんだな〜ということが以前よりもまたさらに腑に落ちてくるようになってきた。それは、瞑想をしてみると特に感じる。瞑想を試みても、心は迷走を続けていて、なかなか平安を得られないからだ。そして、その焦りや葛藤を感じてみると、聖霊を選択することに対しての強い抵抗を感じる。そんなときは、だいたい、世界の中に、その時に必要な情報や選択肢を探して、並べて、そこに差異を見て、選んだり、計画を立てたり、なんとかしようとしている。いかに
赦しとは、世界を丸ごと赦すこと。世界を丸ごと、ひとまとめにして、自我の視点から切り離し、聖霊の視点に切り替えて見ること。世界を丸ごと、聖霊とともに見ること。☆あれは赦して、これは赦さないとか、これは聖霊と見れるけど、ここはまだ自我と見ていたいとか。自我を握りしめたままで、聖霊をコントロールするような、分割された中で差異を見て、それをまだ信じているような視点からでは、結果としての、真の赦しの心地よさというか、平安は感じられないだろう。そしてそれは、反対に、さらな
おいてかないで。心の奥からそんな声がする。誰かにおいていかれると思っている。兄弟や、Jや聖霊に見捨てられると思っているのか?そんなことはありえない。自分(自我)は自分においていかれると思っているんだ。ひとりにしないで。一緒に連れてって。一緒にいるのを拒んでいるのは自分だよ。いつも一緒なのに君が見ていないだけだよ。兄弟に信をおく。聖霊に、Jに信をおく。それは、自らの愛の力に信をおくこと。それは、悪い夢を見ているだけだ。形はないよ。姿はないよ。未来もないよ
認識。今まで、私はこの世界のありとあらゆるものを使って自分をごまかしていたんだということを認める。本当に見なくてはいけないものから目をそらしていたんだということを認める。負けを認めることは本当に辛いことなんだと認める。そこだけは絶対に受け入れたくないのだと認める。強い怒りが湧いてくる。被害者でいたい欲求が湧いてくる。今まで、自分の心を見ることからごまかすために夢中になったり、一生懸命に取り組んだり、熱狂してきた物や状況や関係性が、どんどん剥がされてくると
強い信念。それは、妥協を許さない。妥協することが、幸せや優しさだとまだ信じている私たちにとって、それは、強固で愛がないようにも感じる。しかし、真の愛に妥協はない。真理には一点の曇りもない。なぜなら、実在するものには、曖昧なものは何一つなく単純にはっきりと、永遠に不変であることが示されているからだ。迷いのないものは、明瞭で明確で強い。それは、もうそうでないものは寄せ付けない。というか、そうでないものは消え去る以外にない。☆でも、それってかなりハードコ
奇跡講座ワークブックレッスン133「私は無価値なものに価値を置かない。」☆その日、私は叔母の終活に立ち会った。骨董品の売買だ。叔母が、お宝だと言い張る品々を引き取ってもらうという。骨董品屋さんが、次々に品々を鑑定していく。叔母がお宝だと言い張る品々は、骨董品屋によれば、骨董と言えるような品物ではなく、単なる贈答品だとして、右から左へと移動するうちに、ことごとく価値のないものとして地に落ちていく。価値のない品々。この世界では、価値がある、ないはその人の価値観次
私が私を愛する以外、誰が私を愛するだろう。私が頑張ってきたことは私が知っていればいい。どれだけ頑張ったか、どれほど苦しかったか、ほかの誰かにわかってもらわなくても、私自身が認めてあげればいい。あの人に認めてもらいたい。私は頑張っているのだから、もっと優しくしてほしい。そうやって、外に求めてきたけどその人は変わらない。それは私が認めればいい。私が私の話を聞いてあげて、その私が一番求めることを今、してあげればいい。私が私に優しくすればいい。私が私を愛してあげ
私に、平安を選べる選択の力を取り戻させてください。恐れではなく。自我ではなく。私に、愛を選ぶ選択の力を取り戻させてください。魔術に頼ることなく。私の持つ選択の力で、聖霊を選べますように。自らの意志で神の意志を選べますように。私は今日、悲しみを選びません。私は今日苦しみを望みません。どうか思いとどまらせてください。私の持つ選択の力で、平安を選べますように。☆最近、私なりにですが、この祈りの言葉がとても役に立っています。心に雲がかかりそうな時。誰かに
奇跡講座のワークブックの日々のレッスンで、レッスン100に近づく頃になると毎時1時間ごとの5分間を、神のために、神を思い出すために差し出すというレッスンがある。毎時間の1時間のうちの5分間を今日の概念を繰り返したり、神や聖霊と向き合い、祈る時間を持つということだ。これをしているとレッスンの内容以外にも見えてくるものがある。5分間のレッスンを終えると、次のコールまではあと55分。1時間とは以外に短いものだ。あっという間にまたアラーム
最近のワークブックのレッスンにあった。レッスン93の中の概念。光と喜びと平安が私の中に宿っている。私の無罪性は神により保証されている。私に罪のないことは神によって保証されている。という。この日、私はなんどもなんども救われた。本当になんどもなんども。「私の無罪性は神により保証されている。」とつぶやくたびに罪の意識は取り消され、救われたという思いに包まれた。ワークブックのレッスンがあることが、とてもありがたいと思った1日だった。☆ふとした瞬間に湧き上がるモヤモヤは
強さとは確信。「神あり」Godis…という確信。愛であり光であり智識であり永遠であり今ここであり確実なもの。実在するもの。実在するものは脅かされない。Nothingrealcanbethreatened.(奇跡講座テキスト教義より)それであれば、ブレない迷わない依存しないとらわれない執着しない失わない…弱さが消える。実在しないものは存在しない。Nothingunrealexists.ここに神の平安がある。Hereinlies
昨日のレッスン奇跡講座ワークブックレッスン91より奇跡は光の中で見える。奇跡には必ず心眼が伴うと覚えておくことが重要である。これがあなたが学んでいる新しい思考体系と、それが生み出す知覚における中心概念である。奇跡そのものは常にそこにある。あなたが光の中にいれば、あなたに奇跡がみえるが、闇の中にいるなら、奇跡は見えない。あなたの信仰心は闇に向けられている。どうすればそれを光に向けることができるだろうか。あなたにはそれはできない。しかし、あなたがひとりでそれを行う
「このゴミが!」と人から言われるとムカっとくる。多分みんなそうだろう。もちろん、怒る。そして、なんて酷いことを言うヤツだ。私がゴミ?はっ?ど〜言うことよ!と溢れ出す不満。しばらくして落ち着いてくると、私が自分のことを「ゴミのような無価値な人間だ」と思っているということの現れなのかしら?とかと、分析をしだす。しかし、攻撃を受けたように感じてしまったということは、その前に、必ず私が何かをしたはずだ。そして、その前に、無意識に必ず私が攻撃(防御、恐れ)している
心の内側の奥深く、どこかにずっと隠されているような、静かに激しく燃えるような愛。それは、きっと、外側の誰かや何かに向けられた愛だと思っていた。静かに、でも、強く激しく求めるような愛。それは、父を求める愛。あなたを求める愛。友を求める愛。奇跡を求める愛。でも、そのすべては、神(源・平安・真我、光…)を求める声だった。これらのすべてが世界の偶像を超えた神につながる愛だった。愛から遠くかけ離れたところで、見る目を失ってしまった私たちには、片っ端から手探りで失
昨日のウェブシェア会へのご参加ありがとうございました。とても深い気づきのあるシェア会となりました。シェア会のシェアはまだ後日に。今日は、奇跡講座のテキストの中から愛の美しい一節を。☆愛を引き寄せる愛の魅力。愛は愛に引き寄せられる。愛を引き寄せる愛の魅力は抗しがたいものであり続ける。なぜなら、愛の機能は、あらゆるものをそれ自身とひとつに結びつけ、自らの全一性を延長させることによってすべてのものをひとつにつなぎとめておくことだからである。父の愛ゆえに、あなたは決
生命のある限り喜びに生きよう。生命のある限り笑っていよう。生命のある限り愛を分かち合おう。生命のある限り光を広げよう。生命のある限り聖霊とあろう。生命のある限り奇跡を見よう。生命のある限り時間は続く。生命のある限りあなたを愛そう。生命とは限りある肉体のものではなく永遠の真理なのだとしっかりと置き換えられるまで、ともに幸せな夢を見よう。この身体を聖霊が優しく横たえるそのときまで。今日も幸せな1日を〜〜♪Haveahappyday!
自我が暴れて苦しいとき、私たちは、自我を否定して、抑え込もうとしているようです。自我を静めるには、まずは、自我を認めてあげることです。自我のわがままや寂しさに寄り添うこと。そのままでいいいんだよ。それでいいんだよ。と。裁くと暴れだします。否定すると攻撃してきます。そう。まるで子供のようなんです。だったら、まずは抱きしめてみよう。☆そして、私たちが決断の主体で自我を選択したときの、自らが持つ「選択の力」を尊重すること。その力がないと、私たちはどうも、自ら
真実の愛なんておっきすぎてわからないよ。目の前のことや、起きていることとはまったく違いすぎて気がつくわけがないじゃないか。憎まれ役のあの人や悪役のこの人、私に攻撃してくる人や惨めな気持ちにさせる人が神と同じ愛を持って、私のためにその役割を果たしているだけだなんて思えるわけがないじゃないか。でももし、それに気づけたなら。確かに、確実にこの世界は変わるんだろう?それが、愛のヴィジョンとしてみれたなら感謝しかわかないんだろう?それは、自分ではわかりっこない。だから、聖
般若心経の一節。「心無罣礙」しんむけいげ罣礙(けいげ)とはこだわりのこと。心に引っかかること。心無罣礙とは心のこだわりがなくなること。心のこだわりとはなにかに執着すること。執着があるならそれは満たされない心を生み満たされない心は苦しみや苦悩となる。心にこだわりがなくなれば苦しみはなくなる。解放された自由な心となる。癒されるということは心の引っ掛かりがなく
先日、「神の使者」のゲイリーレナードさんと、シンディー夫妻のワークショップに行ってきました。クロニック・スチューデンツさんFBより「神の使者」とは、ある日突然ゲイリーさんの前にアセンデットマスターであるアーテンとパーサが現れ奇跡のコースについてのイエスの教えの真実をゲイリーにわかりやすく説いていく内容となっています。その、アーテンとパーサとは過去生では、イエスの弟子である聖トマスと聖タダイと言われています。そして、ゲイリーとシンディーの次の生(来世)では。。。
「私は神と聖霊の声のみに耳を傾ける」それ以外の声には耳をかさない。。。するとやがて思考は止まりマインドは消えさる。静かなる今が訪れる。マインドのおしゃべり。。。それはまるで先生がやって来る前の騒がしい教室のようだ。生徒の数だけ、それぞれがそれぞれに好き勝手なことを大声でしゃべっている。しかも、それには全く意味はない。しかし、いざ、教師が教壇に立つと教室は静まり先生の声に耳を傾けるだろう。(学級崩壊でない限りは...)神や聖霊や天使やガイドがあなたの前に降り立
昨夜の中秋の名月は見られましたか?私は雲に出たり入ったりする月をなんとか見てとれました。中秋の名月って、十五夜というのでてっきり満月かと思いきや旧暦8月15日の夜の月ということで、月齢15の夜ではなく、満月は明日になります。明日は午前4時5分に魚座の満月です。魚座は、奉仕や癒しの星座でもあり、感情やイメージの星座でもあります。さらに、明日は癒しとヒーリングの星キロンとも重なり、さらに半影月食。感情解放やトラウマの癒しに良さそうですね。。。癒しへのキーワードは、水
UnconditionalLove.....世界は無条件の愛で溢れている。〜〜♡〜〜♪〜〜♡〜〜♪〜〜太陽はあなたを照らし風はあなたを導く水はあなたを潤し大地はあなたを育むあなたが落ち込んだ時には花になり病気の時には薬になろう。喜びのときには甘く芳醇な果実となり悲しみの日には暖かい灯りになろう。汚れたその手は洗い清め辛い時はあなたを守る盾になろう。コロコロと鳴るハートの鈴がさびないようにキラキラと輝くその笑顔が曇らないように下を向いたら石ころになろう。上
金沢のお友達、空禾さんが大変容祭りをしています。ピン❣️と来たらチェッ〜クଘ(◍ö◍)ଓ*+º♥(๑•.•๑)♥º+*