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先月末陣触れが発せられた合戦イベント「長篠の戦い」について、両軍の部隊長の着陣が完了しましたので、本日はその発表などをさせてもらいます!さっそく見てみましょう!!以上のようなラインナップとなっております!織田・徳川軍についに三英傑が一堂に会しました!と書こうと思ったら、もう既に姉川の戦いでそれは実現してました。今回の合戦でも歴戦の面々が勢揃いしています。徳川勢としては、家康の他にその嫡子・松平信康が初登場しました。武田軍は、勝頼が初の総大将となり、穴山信君・武田信豊の
※医王寺山武田勝頼本陣跡案内板100名城NO.46長篠城に行きました!パート3️⃣長篠城址周辺遺構医王寺山武田勝頼本陣跡続きです長篠城趾保存記念館の方からサイクリング用史跡案内マップをもらって周辺の史跡見学に行きました🚲※医王寺山境内図案内板※医王寺山頂に第一次勝頼本陣跡があり、物見櫓が再現されています②医王寺山武田勝頼本陣跡大通寺から北へ向かうと、武田勝頼本陣跡の医王寺山があります。
とある人のお城好きになったきっかけ。少年期、自宅で自分の臍の緒が入った箱を見つけ、そこに清水市二の丸町という住所が書かれてあった。二の丸というのはお城用語で、自分が生まれた場所に江尻城というお城があったことを知って興味を持つようになりました。現日本落語協会会長春風亭昇太師匠のお話です。そんな江尻城の御城印が出ましたので、さっそく入手してきました。江尻城は1570年駿河に侵攻した武田信玄によって築かれ、当初は山県昌景、長篠の戦い後は穴山信君(梅雪)が城主を務めました。
■名門武田氏の外交と調略の名手穴山信君は、武田氏きっての外交官として、今川氏をはじめ、徳川氏・朝倉氏・浅井氏・六角氏・蒲生氏・本願寺・三好氏、そして足利将軍家などとの外交交渉を担当しました。また今川氏真と断交後は、今川家臣団への調略を担当し、人質を預かるなど諜報面でも活躍。さらに、長篠の戦いで山県昌景が討ち死にした後は、駿河国の代官として江尻城に拠り、徳川家康や北条氏康・氏政らとの国境を守るなど武田氏の重責を担った武将です。江戸時代に流行った「武田二十四将」という武田の名将番付にも必ず名を
おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。前回放送の「どうする家康」では徳川家康公の伊賀越えの様子が描かれました。この伊賀越えの途中で、武田一族でもあった穴山信君公が命を落としました。伊賀越えのルート、また穴山信君公の死についてはいくつかの説が存在するようですが、今回のドラマの中では家康公の影武者のようにして最期を迎えた様子が描かれていました。伊賀越えの放送のタイミングで田辺誠一さんの穴山公への愛を
1582(天正10)年、準備万端の織田・徳川軍による甲州征伐を『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。一気に崩壊した武田家(NHK大河ドラマ『どうする家康』の武田勝頼の首と対面する家康(C)NHK)1581(天正9)年、高天神城を取り返し、遠江をほぼ手中にした家康、信長は甲州征伐を決め、その準備は家康にも進めさせていきます。そしてその甲州征伐の年の1582(天正10)年を迎えます。1582(天正10)年の甲州征伐正月、家忠は牧之原
大河『どうする家康』で、築山殿の壮大な夢に乗り、甲州征伐で徳川に下る穴山梅雪(信君)について『にっぽん!歴史鑑定』での感想です。梅雪の裏切りが徳川家康の天下を生んだ!?(『にっぽん!歴史鑑定』(C)BS-TBS)穴山家・穴山信君(梅雪)について(『にっぽん!歴史鑑定』(C)BS-TBS)この有名な「武田二十四将図」で武田信玄と同じく最上段で信玄の横にいるのが穴山信君(梅雪)です。その位置には当然意味があります。(『にっぽん!歴史鑑定』(C)BS-TBS)穴山信君(梅雪
日本国が、ひとつの慈愛の国となるのです築山殿の、壮大なはかりごとはうまく運ぶかにみえましたが交渉ごとは、やはり意思決定者と膝を突き合わせて直接話し合うのが、鉄則でしょうか席の実現自体難しいけど二番手が伝令役では、どうしても内容が弱いというか武田勝頼に、再考の余地を与えてしまう結果に最後の数分は、三者とも迫真で見入ってしまった(o_o)しかし、見栄やプライド、強情、、など男って、つくづく。。。笑
定説による家康の嫡男・信康と妻の瀬名が穴山信君の遣いと会い、武田とのつながりができる俗にいう「築山殿事件」であり、信長が武田との関りに怒って家康へ処断を命じた、また浜松の家康と岡崎の信康との関係がこじれた故に家康が信康を自害させたなど様々な説がある場面です瀬名と信康を疑う信長、2人を何としても守りたい家康…しかし瀬名は築山に家康の母・於大の方と今川氏真を呼び寄せる。滅敬・千代との会談を続ける瀬名・信康に家康は覚悟を決めたそして五徳が家康のもとへ現れた。信長よりスパイを
京都の宮津城は戦国武将の細川幽斎が築城宮津の「宮」の由来は諸説あり-京都新聞京都新聞京都の宮津城は戦国武将の細川幽斎が築城宮津の「宮」の由来は諸説あり.京都地名研究会地名ものがたり・「城」編.2023年5月7日0:00.甲冑まとい、勇ましい戦国絵巻南相馬でサムライフェス-福島民友福島民友甲冑(かっちゅう)に身を包んだ参加者が模擬合戦を行い、戦国時代を思わせる勇ましい合戦絵巻を繰り広げた。地元の高校生らでつくる実行委員会の主催。潜在能力テスト-東海テレ
2/23。甲府に久々にやって来た。石和温泉とか勝沼の辺りはよく来てたけど、甲府は本当に20年近く来てないかも。元は府中と呼ばれていた甲府。武田信玄の父、信虎が拠点を甲府に移した際に甲斐の国の府中から甲府と名付けたそう。ところで初めて甲府市のカタチを気にしてみたんだけど、こんな細長い市域なの!?ちょっと興味のある方は見てみて欲しい。夕方になってきたので急いで見なくちゃ!16時くらいに駐車場も閉まっちゃう。無料なんだけど札所で押印してもらわないと出れないらしい。これは甲
前回の続きです。今回は最終回で穴山信君屋敷跡の現在です。初回はここから始めたのですが、最終回は穴山信君屋敷跡にある、下図の武田氏館歴史館と料亭古城園跡です。ト付近から武田氏館跡歴史館方向を見るとト付近から見た武田氏館跡歴史館です。ここは信玄時代の穴山信君屋敷跡です。②の穴山伊豆守とある所です。案内図を拡大すると案内板です。入る所が閉まっていたので、外から撮影しました。古城園の方に行きました。案内板です。上図チ付近からリ方向です。
前回の続きです。今回は重臣屋敷跡から大手門跡へです。下図①付近です。この入口は下図のように戦国時代には無く、大正8年に武田神社が創建した時に造られた参道です。古府之図より引用赤い線に沿って歩きました。上が北のグーグル図です。戦国時代の想像図です。館の南側に家臣屋敷や城下町がありました。②のところには穴山氏の屋敷がありました。②付近です。穴山信君の屋敷跡です。建物は信玄ミュージアムです。解説板です。妻が信玄の娘でした。穴山氏は武田家
●山本勘助・穴山梅雪・太源雪斎の家系図②◎武家家伝遠江由比氏。ウィキペディア。その他。〇由比氏(ゆいし)(駿河国由比城主)。(駿河国庵原郡由比郷いはらぐんゆいごう。静岡市清水区由比町。由比川)〇大宅氏(おおやし)。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の屋敷跡。京・小野郷山階村(やまなしむら)、陶原(すえはら)の館。別称、大屋家(おおやけ。公)。公村→大宅村。※大和国大宅郷(おおやごう。奈良市山町)。※木の国・紀氏系大宅氏(大家臣おおやのおみ)が、駿河国へ移住する。※その他、諸
本日は、墓マイラー。。(マニアック度★★★★)↓飯岡墓地_遠景JR東西線・学研都市線に乗り、三山木駅で下車。のどかな北東の方角へ歩いて行く。田んぼの先に見える茂みの中へ入っていく。↓飯岡墓地駅から16分程度だろうか。飯岡墓地という所に行き着いた。たくさんのお墓が。この中から見つけられるだろうか。↓穴山梅雪の墓果たしてそれは、あっさり見つかった。「穴山梅雪の墓」。手前に「穴山梅雪翁墓」と刻まれた石碑が建つ。昭和三年建立の石碑だ。ここへ行った(訪問は2
【代ゼミ×INHOP】世界史・化学で差をつける!代ゼミ人気講師が教える早慶直前対策&お悩み...エキサイト代々木ゼミナール:佐藤幸夫講師(世界史)・亀田和久講師(化学)...世の中を、強く生きた人々に勇気をもらう共感の偉人伝『泣ける日本史』が発売!12.「海の民」の地中海交易と植民市建設【世界史】|-ラブすぽラブすぽ「地中海全域に進出して行く。【出典】『眠れなくなるほど面白い図解世界史』著:鈴木旭日本文芸社刊.執筆者プロフィール昭和22年...
【問題】天正3年、武田家臣・穴山信君がその城代に任じられたのは、次のうちどの城か?【選択肢】海津城箕輪城江尻城高遠城【正解】江尻城【解説】穴山信君(のぶただ、梅雪)は、もとは甲斐国河内地方を領していたが、天正3年(1575)に山県昌景の後任として、駿河国江尻城の城代に任じられている。
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅、再開です。5か月ぶりですね。前回は武田勝頼が笹子峠で小山田信茂の裏切りに遭い、行く先を天目山に変更せざるをえなかった。ってトコまででしたね。詳しくはこちら。今回は、穴山梅雪の裏切りを紹介します。少し時系列が前後しますが、武田領駿河口の状況です。勝頼の頼みの綱であった穴山梅雪穴山梅雪(信君)は武田信玄の娘を妻としていますので、武田勝頼
#武田24将穴山信君
明日は穴山信君10体.小山田信茂10体、馬場信春12体を作る予定です。
甲斐府中と駿河江尻を結ぶ河内路の宿場、万沢(まんざわ)。武田氏にとって、重要な場所ですね。万沢は甲駿国境の地。武田氏が大きな勢力となっていた時には、穴山武田氏が支配しました。穴山信君重臣の万沢遠江守などは名が知られています。天正10年(1582)3月、武田攻めのため徳川軍は河内路を北上。8日松平家忠らは万沢に入ります。住所:山梨県南巨摩郡南部町写真撮影日:2009年4月1日参考資料など:武田信虎のすべて/編柴辻俊六・武田氏滅亡/平山優など
三方ヶ原古戦場の石碑いよいよ今週金曜日に迫った合戦イベント「三方ヶ原の戦い」。今日が最後の予告になろうかと思います。言い忘れがないよう気を引き締めて参りましょう。まずは、お待たせしました、三方ヶ原の戦いの大手柄武将の発表です(*゚ロ゚)!▼武田軍の大手柄武将武田信豊(たけだのぶとよ)穴山信君(あなやまのぶただ)依田信蕃(よだのぶしげ)岡部正綱(おかべまさつな)天野景貫(あまのかげつら)▼徳川軍の大手柄武将鳥居元忠(とりいもとただ)本
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【問題】春日虎綱(高坂昌信)は主武田勝頼に対し、長篠の戦いで戦線離脱した穴山信君・武田信豊をどう遇するべきと説いたか?【選択肢】貴重な親類衆なので重用すべき領地を召し上げ出家させるべき加増して離反を未然に防ぐべき責任を取らせて切腹させるべき【正解】責任を取らせて切腹させるべき【解説】春日虎綱自身は長篠の戦いに参戦していなかったが、戦後、穴山・信豊の敗走を知って、勝頼に責任を取って切腹させるべきと進言したと言われる。
躑躅ヶ崎館レポ第7弾です。その6はからリンクしています。縄張図古府中図現存物(移築含む)はブルー、再現物(模擬含む)はパープル、跡地(櫓跡など)はグリーンそして見所となる遺構(土塁や曲輪など)はピンクで表記します。----------------------------------------さていよいよ躑躅ヶ崎館レポも最終章です。その初っ端は、皆さんご存知(だと思う)武将の屋敷跡です。四名将の一角である高坂昌信
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『マロの戦国II-今川氏真合戦記-』第6話、ただいま投稿いたしました!マロの七夕(一)風の中の蛍火ぜひご覧ください!http://ncode.syosetu.com/n4346ds/
私は真田家にハマる前は武田ファン(気分は信玄公の家臣ww)でしたので、この本も“信玄公の時代の快進撃を続ける赤備え”のお話だと思って借りてきたのですが……『甲州赤鬼伝』霧島兵庫(学研/2015年9月)でも読んでみたら……飯富虎昌の物語ではなく、山県昌景でもなく、小幡信貞、浅利信種でもなく……では誰が主人公なのかと言えば、山県昌景の息子、山県源四郎昌満の物語でした。勿論武田家の当主は信玄公ではなく、勝頼殿の時代で、長篠設楽ヶ原から武田家滅亡までの……武田ファンには一番辛
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、新府城の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。城名(別名)住所関連する人物新府城(韮崎城)山梨県韮崎市中田町中條武田勝頼、穴山信君、真田昌幸、曽根内匠助(昌世)、浦野孫六郎、原隼人佐(貞胤)、織田信長、徳川家康誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいた