ブログ記事275件
こんばんは京都のkojiroです今日は2024年4月14日日曜日今朝の京都市内の最低気温11.0℃、日中の最高気温は26.6℃まで上がりました。京都市内は今日も朝から青空が広がり桜を撮影するには絶好の一日でした…小次郎は昨日に引き続き京散歩(カメラを持った京の街歩き)に出かけ散り始めた京の桜を撮ってきました(笑)。さて、今回の「kojiroの京散歩」は3月の京都散歩画像から京都市右京区太秦蜂岡町にある「広隆寺」(こうりゅうじ)をご覧いただこうと思います。
信貴山朝護孫子寺②の続きです1人で行くならば、寄ろう。3人で行く予定の信貴山だったのに何故かそう思ったそう思ったら、次々みんなキャンセルになり1人のお参りになった。初めて行く場所、ちょっと、心細く抵抗のあったお参りにこれは行くべきなんだと、腹を決めた。教興寺を知ったのは30年ほど前。なのに、初めてのお参り。信貴山口駅で降りて教興寺を目指す。右左、いや東西南北よくわからない。携帯の地図を頼りに歩いた。いわれるがままに歩いた。携帯の地図だけが
おはようございます^^本日は近況報告と言えばよいのか…新しい活動についてお知らせします新しいと言っても新しくないかもですが(笑)数日前にFacebookではひと言メッセージでお知らせしましたけどね秦の郷復活準備中!ですね播州赤穂駅前に「秦の郷」と書いた大きな看板が有ったことは地元の方なら誰でも知っていた通りです数年前に閉鎖したのですが…新たに「秦の郷」を復活させようと思っています以前のHPをただ今更新中です日本人のふるさと|秦の郷日本の伝統文化や
【秦河勝が成敗したカルト宗教による事件】〜聖徳太子のプレーンの活躍〜日本書紀の記事によると、皇極天皇の時代に、不尽川(富士川)のほとりに住む大生部多(おおうべのおお)が、虫を祀ることを人に勧めて、「これは常世(とこよ)の神だ。この神を祭れば、富と長寿をもたらす」と言った。巫覡(ふげき)たちは「常世の神を祭れば、貧しい人は富、老いた人は若返る」と言い、財産を路傍に捨てさせた。田舎の人も都の人も、虫を捕って神聖な座に祭ったが、損害や出費ばかりが出て被害が甚大だったので、秦河勝(はたのかわかつ)が
秦氏一族の統率者を葬ったとされるのは、何古墳と呼ばれるか?右京・太秦の「蛇塚」古墳は、全長75mの前方後円墳で、主体部は全長18mの巨大な横穴式石室である。6世紀末から7世紀初頭が築造時期とされ、この古墳の被葬者は、聖徳太子の政権に重要な役割を果たした「秦河勝」が有力視されている。
【第Ⅰ講】今後の展望「忠臣蔵の行方」わたしの連続講座は昨年から始まりました真実の忠臣蔵は「日本の誇り」であることを解説するための講座です各回の講座は…第1講(前半)と第Ⅱ講(後半)があります昨年の連続講座の第1回目を動画で公開致しましたが少し解説をしておきたいと思います第1講(前半)、第Ⅱ講(後半)共にわたしの持ち時間は、75分間有りますから公開の動画(講座)は、それなりに編集しています各講座の重要な箇所のみです今回、公開した動画は第
猿楽(申楽)を初めて上演した祖として記されているのは誰か?世界的にも著名な世阿弥の能楽書『風姿花伝』の序に「近来、万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇(ギョウ)(=聖徳太子)、秦河勝に迎せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽(ショニンケラク)のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せし・・・」と記され、そして、この様に由緒ある芸能なのだから、能の演者は決して伝統的な遺風を邪道に陥れてはならないと説いている。河勝は山城秦氏の一族で、推古天皇の時から大化頃
蚕ノ社さんから歩いて10分。広隆寺に到着ちなみに嵐山電車で行くと、太秦広隆寺駅そば。太秦交差点には、右京消防署がひかえている。本堂(太子堂)御本尊は、聖徳太子由緒広隆寺のHPがないので、京都市の観光オフィシャルサイトより引用いたします。〜〜〜603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。10月の‘牛祭’は京都三大奇祭
聖徳太子から仏像を与えられ、広隆寺(右京・太秦)を建立したと伝えられるのは「秦河勝」である。秦河勝は山背国葛野(カドノ)郡を本拠とした渡来系集団・秦氏の首長で、生没年は不明だが6世紀末~7世紀前半頃の人物である。『日本書紀』によると、推古天皇11年に聖徳太子から仏像を賜り、自らの本拠・蜂岡寺(葛野秦寺)を創建したと云う。蜂岡寺は現在の北野白梅町付近に存在した「北野廃寺」とする説が有力で、平安期に太秦の地に移転して現在の広隆寺となった。
自身のブログ内検索を、念の為にしてみますと、同じく『だんぱー』は体験していました。もう2年ほども前のことで、すっかり忘れていました。何か意味があるはずなので再び読み直してみますと驚いたことに、虚舟(うつろぶね)のことに導かれていて、このUFOのような絵は、秦野河勝と関係していたのです。虚舟-Wikipedia「空穂舟(うつぼぶね)」「うつぼ舟」とも呼ばれる。『風姿花伝』によれば、官人としての活動を終えた秦河勝は難波からうつぼ舟に乗り込み坂越に至ったとい
私の両親は父方は福井県、母方は船場商人の出である。母方の祖母は播州赤穂の塩田農家の出であった。何やら富豪と貧民の両方を経験した波乱万丈の人であったらしい。その播州赤穂の塩田農家の娘が堺の刃物職人の息子と出会い恋に落ち、結ばれたらしい。時代にそぐわないラブストーリーだったという。ところで、赤穂という地には秦河勝のお墓があるという。島になっていて一般の出入りを禁止されている。この人物は聖徳太子の側近であったが入鹿に追われて赤穂まで逃げてきたという。私は昔から
素戔嗚神社勿論、ご祭神は…、素戔嗚(スサノオ)この神社は…珍しくと云うのか地元の方も知らない何を知らないのかと言えば…素戔嗚神社であることを知らないこれほど明確に…、ハッキリ素戔嗚神社と鳥居に記載されているのに地元の方は…この神社のことを荒神社と誰もが言う*荒神社であることは事実だが…この鳥居から素戔嗚神社までの参道沿いに長年住む知人に…「素戔嗚神社ですよね」と聞けば…「知らない」と答
歴史は古く、聖徳太子が秦河勝に寺を送った。名前を法貴寺と言う。室町時代には、長谷川平蔵の祖先がいた。長谷川党の存在が知られている。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/BRB2GnqLIMs法貴寺のだんじり歴史の街にだんじり(山車)あった。昔の繁栄ぶりを証明している。だんじり(山車)が練り動く。池神社にだんじりは、宮入を行う。五台のだんじりが雄姿を見せる。宮入する雄姿だ。境内に集結しただんじりだ。日本晴れに映えるだんじりだ。だんじり
久しぶりに個人のYouTubeに写真集をUPしました^^『令和5年大避神社の船渡御祭写真集』☆神が宿る写真集_「生嶋の神」~大避神社の瀬戸内三大船祭り~(大避神社ご祭神:秦河勝)挿入曲:神々の宿る場所作曲:Amacha最近は神代の時代に拘ってますしね
『毛抜』の予習をしていて、気になるのがこのお方です。小野家の家老、秦民部(はたのみんぶ)。…秦氏(はたし)?聖徳太子の側近のひとりが秦河勝(はたのかわかつ)で、秦氏ですが、民部は、はたして、同じ秦氏なのでしょうか。(注:シャレではありません)なお、能楽を大成した世阿弥も秦河勝を祖と自称しています。秦河勝は、六十六番の芸能を作り、寿福を祈願したといいます。これが猿楽(能楽)の元になったとか。一度に六十六番をすべて舞うのは長いので、その中から三番を選んだのが、「式三番」、つまり、「
最近は、神代の歴史について調べることが多いですね^^神代の歴史の件で気になることもあったので昨日は、赤穂市坂越の大避神社の船渡御祭に行ってました^^今週は若干忙しくなりそうで…調べものをする時間が少ないかもですねあっ、そうそう…下記の画像の柄は何か分かる方いますか?上記の画像は、大避神社の神輿飾りの一部分です上記の画像は、以下の画像と何か関係あると思いますか?誰かご意見等有ればコメントくださいね
昨日…、市内のルーテル教会で大避神社に関する講演があるらしくどの様な話なのか聞きに行ってました会場が教会なので…聖書学者の久保有政先生系のお話しだろうと予想はしてましたがまっ、基本は、予想通りでしたね^^ご講演の後に…講師の方からお声がかかりどうやら、わたしの顔を知っていたらしくと言うか、話しているとわたしの活動を結構知ってましたねお住まいは、加西市だそうで…小野市エクラで開催中の連続講座の関係で知っていたのかなとか勝手に思って
秋ですね^^皆さんの地域でもお祭りが開催されることでしょう運動会等も有りますしね大変、忙しい時期だと思いますが大避神社の船渡御祭(ご祭神:秦河勝)大避神社の船渡御祭明後日開催です^^大阪の天神祭り、広島の厳島神社に並んで…瀬戸内三大船祭りと言わているそうです本殿で祭事がアリ、その後、神輿を船で生嶋に渡し…夕方に神輿を本殿へ戻します船渡時のセレモニーと言うのか何というのか、最も盛り上がりますね特に生島から神輿が戻ってくる時
【特別版】出雲族が統治する日本*下部に動画を貼りつけてます^^隠された平和のシステム(基本編)<日本の誇り>~神代の時代は終わらない~全4回シリーズ01_すべての歴史は平和への道02_秦氏と赤穂義士の共通点03_秦河勝・山鹿素行、そして忠臣蔵本日配信(2023/10/02)04_出雲族が統治する日本☆隠された平和システム(基本編)Vol.4_【特別版】出雲族が統治する日本☆隠された平和
…その首長墓と推定される渡来系氏族は何氏か?京都盆地西部の桂川流域に勢力を持っていた氏族は、「秦氏」である。桂川に「葛野大堰(オオイ)」を設置するなど土木技術に長けており、又、養蚕技術にも優れ、絹・綿・糸の生産や機織に従事する多くの部民や秦人を配下に大きな経済力を蓄えた。その首長墓とされる「蛇塚古墳」は、右京・太秦にある全長約75mの前方後円墳で、被葬者は秦河勝が有力視されている。河勝が建立したとされる太秦・広隆寺は飛鳥期の氏寺で
現在、素戔嗚の古墳に関して連載中ですが…今朝は、大避神社紹介動画公開なのでご紹介させて戴きました☆大避神社紹介☆ご祭神は秦河勝<出演>(俳優)徳丸新作・大避神社(禰宜)では…、連載の続きです昨日までの連載は、No.4迄です^^☆No.1_素戔嗚の古墳☆龍の玉を持ち歩く女性との出会い☆No.2_素戔嗚の古墳☆龍神の導きとご縁☆No.3_素戔嗚の古墳☆龍玉の導き☆No.4_素戔嗚の古墳☆低次な目覚め龍の玉を持ち歩いているんです
【日本の誇りシリーズプラスワン】大避神社紹介・ご祭神は秦河勝<出演>(俳優)徳丸新作・大避神社(禰宜)兵庫県赤穂市坂越の大避神社を紹介大避神社のご祭神は「秦河勝」古来より生島を聖域としています「大避神社船渡御祭」瀬戸内海三大船祭りとされています。大避神社(本殿)で祭典が行われ…浜辺までを猿田彦・獅子舞・頭人神輿の行列が練り歩き、生島にあるお旅所まで櫂伝馬2隻を先頭に頭人船・神輿船など10数隻で海渡御が行われます。
本日、無事公開されてますね^^Vol.3_秦河勝・山鹿素行、そして忠臣蔵<日本の誇り>~神代の時代は終わらない~☆全4回のシリーズ01_すべての歴史は平和への道•Vol.1_すべての歴史は平和への道【徳丸新作と山口翔対談】02_秦氏と赤穂義士の共通点03_秦河勝・山鹿素行、そして忠臣蔵04_出雲族が統治する日本☆隠された平和システム(基本編)<隠された日本の歴史>秦河勝から山鹿素行へ受け
明日は、日本の誇りシリーズ【徳丸新作・山口翔対談】第3回配信ですね^^~神代の時代は終わらない~明日のテーマは…秦河勝・山鹿素行…、そして忠臣蔵過去の配信vol.1_すべての歴史は平和への道vol.2_秦氏と赤穂義士の共通点番宣_隠された平和システム
今日は、兵庫県小野市で講座です先月の講座(8月5日)赤穂市坂越の大避神社で開催の講座の補講です…もう、そろそろ出かける時間ですが本日、参加の皆さんに配布する資料2枚あるのですがひとつは次の様な感じです今日のテーマは…隠された歴史ですね陰謀論とかではなくて…神話を紐解いて、平和な日本のシステムをお話ししますわたしは…恐怖や不安を植え付けるような講座はしません(笑)
明日の講座の資料が完成^^前回(8月5日)講座の補講を明日、兵庫県小野市エクラで開催急遽、決まった補講ですが…何とか資料を間に合いましたね全体的には…以上の画像の様なお話しをします
Vol.2_秦氏と赤穂義士の共通点<日本の誇り>~神代の時代は終わらない~☆全4回のシリーズ01_すべての歴史は平和への道•Vol.1_すべての歴史は平和への道【徳丸新作と山口翔対談】02_秦氏と赤穂義士の共通点03_秦河勝・山鹿素行、そして忠臣蔵04_出雲族が統治する日本☆隠された平和システム(基本編)<隠された日本の歴史>秦河勝から山鹿素行へ受け継がれた大和の魂(日本の心)は…日本人の心を反映した出来事と
初めてベネチアを訪れたとき、土産物として売られているカーニバルの”マスク”に、日本の能面を思い起こしました。どこの國でも、自分を隠して他人を演じる、そんな趣味が共通してあるのね~と。(田中英道先生の講義、定慶について)こちらは、お能の散手面(定慶作)。勇壮な武舞に用いられるものだそう。このお顔、日本人らしくないですよね。目も鼻も口も大きく、表情が激しい、そして赤ら顔・・・といえば渡来人=ユダヤ人・・・そもそも能を完成させたとされる世阿弥は、『風姿花伝』のなかで、自分
【番宣】日本の誇り全4回シリーズ紹介【番宣】日本の誇り全4回シリーズ紹介【番宣】日本の誇り全4回シリーズ紹介(俳優)徳丸新作と(作家)山口翔が語る<日本の誇り>~神代の時代は終わらない~☆全4回のシリーズ01_すべての歴史は平和への道02_秦氏と赤穂義士の共通点03_秦河勝・山鹿素行、そして忠臣蔵04_出雲族が統治する日本☆隠された平和システム(基本編)<隠された日本の歴史>...youtu.be(俳優)徳丸新作と(作家)山口翔が語る<日本の誇り>~神代の時代は