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秋田県を襲った大雨から早くも半月が経とうとしています。徐々に日常を取り戻しつつあるとはいえ、被害の爪痕は大きく、被災されたすべての人が元の生活を取り戻すにはまだまだ時間がかかりそうです。私の家の前を流れる「旭川」という川も、氾濫すれすれのところまで水位が上がり、あれ以上の雨が降っていれば私も被災者となるところでした。この川の近くで34年暮らしてきましたので、今回の雨に耐えてくれたことに何か感慨深いものを覚えます。その旭川ですが、これは佐竹氏の秋田入部の折、久保田城築城に伴
本当は意図的に出没する予定になかったけど、福祉エリア→大湯の道の駅→発荷峠と走らせてるうちに十和田湖へ行くかとなって急遽十和田湖へ🚗久々にこっち来たなぁ^_^無人島🏝️ここは御前ヶ浜🌊「おまえがはま」って読むのかと思ったが、正しくは「ごぜんがはま」美味そぉな魚発見🐟そしてこれにおわすは畏れ多くも・・・えっ・・・と・・・乙女の像なるぞ!そしてここにも龍のゲロが🤮浜から山へ入ると、ほどなくして十和田神社⛩️潮騒ではないけれど、遊覧船が桟橋へ到着するとこんな感じで波が押し寄せてきます🌊
※2022年10月23日訪問※久保田城の西側には出丸のような【西の丸(兵具蔵)】が置かれていました現在では学校や住宅地に変貌しており、遺構は確認出来ず帰り道は、西の丸跡から南に歩いて、城跡南西部の【穴門跡南側の水堀】を見ながら秋田駅へ堀端には【旧古川堀端町】の標柱が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼上級家臣の屋敷町で、町名は仁別川の古川を利用した穴門の堀に沿うことに由来する。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲という事で、今回の久保田城跡散策はここまでとな
※2022年10月23日訪問※久保田城の北側の防衛を担っていたのが【北の丸跡】です現在ではすっかりと住宅地に変貌しており、地名にその名を残すのみですが、周囲の地形と比べると明らかに高台になっている事がわかります✨北の丸跡では、南北に真っ直ぐ伸びる土塁のような物を確認出来ましたが、かつての北の丸の遺構なのかはわかりませんでした北の丸跡から西側に下り、久保田城の西側の外堀とも言える【旭川】から、千秋公園を振り返ります小高い山の中に復原された【御隅櫓】を臨む事が出来ますね✨◆出羽国・久保田
※2022年10月23日訪問※二の丸と北の丸の間には非常に深い【堀切】を見る事が出来ます現在堀底には道路が走っていますが、かなりの深さです二の丸と北の丸を結ぶ【長橋】の部分には土塁のような高まりが見られました✨《石垣を築く技術が無かった》と言われる佐竹氏ですが、土橋付近から見た二の丸側の切岸は、まさに『土の壁』で、佐竹氏の土木工事の技術の高さが伝わって来ます左手側の高台が【北の丸】になりますので、そちらに向かいます✨◆出羽国・久保田城(窪田城)北の丸跡◆に続く
※2022年10月23日訪問※久保田城二の丸の北側の入口である【土門跡】です【土門跡】の標柱が建てられていますね✨クランク状に折れ曲がっている事が、はっきりとわかります門跡の両脇には石垣を確認する事も出来ました✨◆出羽国・久保田城(窪田城)長橋跡・堀切跡◆に続く
※2022年10月23日訪問※秋田県秋田市に有る【久保田城】を訪れました2019年6月4日以来、約3年振り2度目の久保田城訪問です前回久保田城跡を訪問した際、思っていたよりもあまりにも広大だった城跡を周りきれず、見逃してしまった遺構が多く有りました『いつか、また久保田城跡に行きたいな~』と思っていたのですが、今回、サッカー観戦の為秋田に遠征する事になり、試合開始の時間まで佐竹氏の霊屋がある天徳寺さんと久保田城跡を散策する事にしました天徳寺さんにお参りした後、久保田城跡へ今回の久保田城
※2022年10月23日訪問※本堂の西側、墓地部分を進んで行くと見えて来るのが国の重要文化財にも指定されている【佐竹家霊屋】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼秋田藩主佐竹氏歴代の墓所で、菩提寺天徳寺の本堂の西側にある。入母屋造、妻入で、正面に唐破風造の向拝をつけ、その前に唐破風造の前殿を設けている。内外とも要所を彫刻で飾り、漆や極彩色を施している。この建物は、近世霊廟建築として豪華な造りになり、天徳寺伽藍の諸建物と一体となって大名菩提所の姿をよく留めていて貴重である。▲
※2022年10月23日訪問※巨大な山門を抜けると目の前には【本堂】が見えて来ます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築。内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁がある。建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属する。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲現在、本堂は長期の改装工事中で、令和6年の完成を目指しています工事の進捗状況についてのパネル展示が山門内部に掲載されていましたので、
※2022年10月23日訪問※総門から本堂に向かって真っ直ぐ進むと見えて来るのが巨大な【山門】ですこちらも国の重要文化財に指定されています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1709年(宝永6年)の建立。三間一戸、瓦葺きの楼門。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲佐竹氏の墓所として、とても巨大で立派な山門です山門の内部には一対の仁王像が安置されていて、こちらは秋田市指定文化財に指定されています✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼仁王像(一対)は桂材の寄木造りで、高さは
※2022年10月23日訪問※では早速天徳寺さんへと向かいますJR奥羽本線の泉外旭川駅で下車し、徒歩で10分程で天徳寺さんへ到着です天徳寺さんを訪れてまず目に飛び込んで来るのが【総門】ですこちらの総門は国の重要文化財に指定されているんですね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼境内入口に建つ。切妻造瓦葺きの四脚門。本堂等から離れて建つため1676年(延宝4年)の火災をまぬがれたものと思われ、寺が常陸から秋田へ移転した慶長年間(17世紀初頭)の建立と推定される。▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2022年10月23日訪問※秋田県秋田市の【萬固山天徳寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1462年(寛正3年)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1590年(天正18年)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。1602年(慶長7年)、佐竹家の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村の楢山(現在の金照寺山)に移る。1624年(寛永元年)12月27日、火災により総門を残して全
1泊2日オロロンライン・オホーツクライン一人旅初日石狩市の白銀の滝からお隣の増毛町へ向かいました。増毛町に入ってまず立ち寄ったのが秋田藩元陣屋第二台場跡です。青い空、青い日本海そして水平線と並行して横たわる黒い大砲安政4年(1857年)秋田藩は幕府より北方警備を命じられました。北方警備の任にあった秋田藩が陣屋を構え、二か所に台場を設け異国船の警戒にあたった場所です。こうやって異国船をやっつけたのかな?ではなく、異国船
幕末の出羽国秋田藩主佐竹侯にある大名のお姫様が輿入した。供廻りの徒士や侍女は輿入なので美男美女ばかり。姫様はさぞ美女だろうと思いきや、額に皺が寄り、若いのに年寄に見えたと。まさに人三化七。九日目で離縁したという。見合いの時、姫様本人ではなく、侍女が替玉として見合いをしていたと。
所在地北海道増毛郡増毛町永寿町4(総合交流促進施設)特徴幕末に蝦夷地警備を命じられた秋田藩の元陣屋で、宗谷など3か所の出張陣屋を管理した。遺構は残っていないが、跡地に建つ陣屋風の建物には増毛町の歴史資料が展示されている。感想展示内容はかなり充実している。
所在地北海道増毛郡増毛町弁天町特徴蝦夷地警備の任を受け増毛に元陣屋を置いた秋田藩の砲台場。高台に説明板があるだけで遺構は残っていない。感想現在は海からもかなり離れている。
所在地北海道増毛郡増毛町別苅特徴蝦夷地警備の任を受け増毛に元陣屋を置いた秋田藩が築いた砲台場。遺構は残らないが、日本海を望む高台に大砲のレプリカが置かれている。感想眺望は良好。
皆様、ご機嫌YOです!今回の話しは前回の続きとなりますので、もし前回の記事をご覧になっていないは先にこちらをご覧になってください。さて、奥州での戊辰戦争において秋田藩や三春藩などの裏切り者が多く出た事は前の記事にも書きました。しかも、それは列藩同盟の敗北が秒読みとなった段階においてです。その際、自分は元々尊皇の立場であり帝に弓など引きたくなかったんですぅ~、などと言い訳する見苦しい藩もありましたが、ならば始めから列藩同盟に入らず西軍に付けばよい。連中がどう言い訳しようが、その奥底には
皆様、こんにちは。さて、戊辰戦争において奥羽列藩同盟は不義の西軍と戦った訳ですが、悲しい事に列藩の仲にも我が身可愛さに同胞を裏切り西軍に尻尾を振った裏切者がいました。比較的大きな藩では久保田藩(秋田藩)、新発田藩、弘前藩などで他にいくつかの小藩が西軍に寝返っています。戦後、これらの連中は家名を守らなくてはいけないんだ、うちは元々から尊皇だったんだとか言い訳しています。前者は百歩譲ってまだわからんでもないですが、後者については「じゃあ端から西軍についてけばいいだろうが」と思います。連中の
御座石神社(ござのいしじんじゃ)☆☆☆☆御祭神事代主神綿津見神龍子姫神鎮座地秋田県仙北市西木町桧木内字相内潟1秋田県仙北市にある田沢湖は日本一深い湖であり、その透明度の高さでもよく知られています。その田沢湖の北側湖畔に「御座石神社」があります。御座石神社という社名は、慶安三年(1650)に秋田藩主佐竹義隆公が田沢湖を遊覧した際、腰をかけて休んだことに由来します。朱塗りの鳥居のそばには、一本の木から七種類の木が生えた「七種木」や「雨乞石」、辰子が飲んで龍となった「潟頭
<7月19日>秋田スリバチ学会主催の街歩きイベント、「初心に還って久保田城を改めて上り下りしてみよう!」の終点は「大手門跡」でした。江戸時代の実際の大手門はもう少しずれていたそうで、「だいたいこのあたり」というのも初めて知りました。終点の「大手門跡ポケットパーク」からはお濠一杯に茂った蓮が見渡せます。最後に主催者から挨拶と御礼があって「解散」。スタート時点では予想外の50名ほどいたはずですが、「途中離脱自由」ということもあって、最後まで残ったのは20名余りでした。
<7月19日>秋田スリバチ学会主催の久保田藩(秋田藩)城跡周辺の街歩き。外町の通町橋のたもとから、再び内町に入り、解体中の和洋高校前を通って行くルートは通称「佐竹小路」。個性的なお店がいくつか並んでいます。「すみれファーム」はお洒落な産直といったところ。敷地の角に石の標柱のようなものがありました。「一本居」に見えますが真ん中の文字が不明です。「サム工房」は彫金のようなお店でしょうか。「佐竹小路」を抜けると、案内人は明徳図書館の敷地、しかも裏手へズンズン入って行きま
<7月19日>久保田藩(秋田藩)20万石の居城があった千秋公園周辺の街歩き。北の丸から石段を下りて北側の「千秋北の丸」へ廻り、かつてのお濠の跡を辿って東側の「千秋城下町」へ。そこから「スリバチ」の底を歩いて来て石段を上がると、また北の丸へ戻ります。そこから今度は「千秋中島町」側、つまり「西側へ」降りて行きました。後ろを振り向けば、結構な高低差があることが分かります。ここで一旦現在地と、古地図上での位置を確認してから、車一台がようやく通れる小路を抜けて、西へ向かいます。
<7月19日>久保田藩(秋田藩)20万石の居城があった千秋公園周辺の街歩き。何度も来ている公園ですが、こんなにも高低差があり、こんな見どころもあったのか・・・と思わせるルートを通ります。本丸から北の丸へ出て、見下ろした東側はもとお濠の「スリバチ地形」。そこから反対の西側へ向かい、石段を降りて行きます。ここも初めて通るルートでした。石段を下りた先は住宅街です。さらに線路に沿って城跡の周辺を廻って行く形。約50人の大行列がゾロゾロと閑静な住宅地に入って行きます。普
<7月19日>久保田藩(秋田藩)の城跡である千秋公園周辺の街歩きイベント。本丸を縦断して北の丸へ向かう途中で「千秋トンネル」の上に出ます。普段、下のトンネルの道は車で通りますが、上の道に出たのは初めて。江戸時代の古地図と合わせてみると、「御本丸」の北口を出たポイントで矢印の方向、つまり東の方角を見ていたことになります。地図でも分かる通り、その昔は「お濠」だった場所の上。現在道路になっているところは、昔は「お濠」だったことを知りました。今は道路の上、昔はお濠の上を通って
<7月19日>秋田佐竹藩の居城だった「久保田城」めぐり。秋田駅に集合し、受付を済ませ、諸注意を聞いて、いざ街歩きの開始です。約50名の参加者がゾロゾロ歩くので、道行く人が振り向くほどでした。まず最初は、現在は道路ですが、元々は濠だった場所を歩き、かつての石垣の傾斜と、その上にあったお屋敷の説明から。普段は何の気なしに歩いていて気が付かなかったのに、説明を聞いて初めて、この「高低差」の理由が分かりました。小路を抜けて坂道を登り、道路を渡って城跡の公園内へ。かつて「黒門」が
1万8000冊の蔵書を机で、階段で、屋外で読める「こども本の森中之島」安藤忠雄さんの仕掛け毎日新聞西側には東洋陶磁美術館、そしていずれも重要文化財の中央公会堂と中之島図書館が並び、東側にはバラ園が広がる文化エリアに位置する。全壁面が本に覆...地域の古文書を研究大沢邦彦さん(74)今と昔の「庶民」つなぐ/鳥取毎日新聞県指定無形民俗文化財の諏訪神社(智頭町)の「柱祭り」について1782(天明2)年が起源だと言い伝えられていたが、祭りの開催が記された最古の文書は1877(
今年1月の古銭同好会で天保通宝(天保通寶)と地方銭のエラー銭を展示説明してきました。今回は、久保田藩(秋田藩)が、阿仁銅山の山内通用として発行した、秋田波銭で、「秋」の刻印が無いもの2点をUPします。秋田波銭は、江戸末期文久2年から、阿仁銅山の加護山吹分場の銭座で作られたとされている、幕府未認可の銅銭です。
蝦夷地には数々の黄金埋蔵金伝説が残っています。「武田信広の埋蔵金」「開陽丸の幕府埋蔵金」「源義経の埋蔵金」「軍艦吾妻の埋蔵金」「カムイ古潭の埋蔵金」・・中でも気になるのは「魔山雷神丸の埋蔵金」埋蔵額は金銀財宝(百億円以上)埋蔵地は忠類村(現・幕別町)市街地の北部にある丸山で、かつてアイヌの人たちはこの山をチョマナイと呼び、「魔の山」と恐れていました。(広尾郡忠類村魔山)幕末の東北近海で「北海の荒鷲」と恐れられた元南部藩士を頭とする海賊雷神丸。「八幡船のイラスト」武士くずれとアイヌ
ついにキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!能代市民ミュージカルの次の演目が決定!!今度は戊辰戦争能代物語だ!!この話はガチでホントにあった出来事でしてあんまり有名ではないけれど知ってる御仁は結構それなり居る感じかな?詳しい人と話すと話が止まらなくなるかもwwイキテル君はまったく詳しくないですが簡単に言うと新政府軍(倒幕チーム)に味方した秋田県が幕府チームの山形県・岩手県から集中攻撃される凄惨なストーリーで最終最後は勝ったけど(西郷どんが倒してくれた?)被害額>>>>>>