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おはようございます5月11.12日は新開地音楽祭がありますなんとJ.COMで5時間生中継(第一部兵庫エリア・第二部関西全域)があるそうです!ぜひテレビに写りたかったのですが、この土日は関西にいない予定でしたー!残念すぎるちなみに、数年前に行った新開地音楽祭では、元もんた&ブラザーズのもんたさんのステージを観て凄いなーと思いましたねすごい歌唱力と声量だったな…。2024.4.9(火)アパホテルをチェックアウトし、雨の中近くのバス停へ。写真だと全然わかりません
【8/144日目②】ちょうど一年前くらいに初めて来た秋田城。前回は一人だったし、城跡だけ見て次に行っちゃったんだよね。で、今回はかみさんも一緒だから、少しはゆっくり資料館でも見てみましょうかね。早速のお出迎えは「東日本の古代城柵」。そうそう、前日に気持ち良かった払田柵もあるじゃ~ん。とういか、何か所もあるじゃん。こりゃ~この後がまた楽しみな感じだな。造営年表があったけっど、645年の大化の改新直後から造り始めてるんだね。東北といえば、歴史で習った坂上田
3月13日、秋田市内の湊城を攻略の後は、土崎駅前からバスで秋田城へ1年半ぶりの再訪。バス停を下りた場所から階段を上ります。道路をまたぐ歩道橋の向こうには秋田城跡歴史資料館があるが、1年半前に訪問済みなので今回はパス。秋田城は前身の出羽柵(いではのき)が奈良時代の733年に造られ、その後760年頃に秋田城と呼ばれるようになる。奈良時代~平安時代に宮城県の多賀城と共に東北地方の政治、軍事の拠点だった古代の城。9世紀中ごろまで使われていました。海野近くで港もあり、大陸と交易
秋田のパワースポット護国神社参拝させて頂きました秋田に入った当日の朝引き寄せ子育て協会の認定講師まりさんに教えて頂き実現しましたなんとまりさんとは、共通点がとても多いことがわかり水素おじさんの引き寄せ力のすごさがわかりましたこの奥にキジが居ました英霊の方々に、ご挨拶させて頂きました護国神社を知ったのは、3年ほど前王子にある「世界一予約のとれる理容室チャラオオーナー鈴木まーちゃん」と出会ったからなんですこのまーち
秋田城は大和政権により造られた城柵。709年に蝦夷征討の拠点として設けられた出羽柵(でわのき)からの移転により733年に造られた城柵です。出羽柵から北上しています。724年に多賀城が造られ、東と西からじわじわと蝦夷を追い詰めている感じです。秋田城は対蝦夷の軍事拠点でもありましたが、同時に官衙(かんが)という戸籍の作成・税の徴収・治安の維持・北方との交易・大陸との外交と幅広く行う役所でもありました。蝦夷の支配も仕事のうちなのでのすが、度々蝦夷の反乱が起こっています。それだけ蝦夷に対する朝廷か
名称:秋田城(あきたじょう)別名:出羽柵城郭:古代城柵築城年:733年築城主:律令政権所在地:秋田市大字寺内大畑5指定文化財:国史跡続日本100名城政庁東門外郭東門正殿北東建物建物城内東西大路井戸古代沼
名称:久保田城別名:矢留城、葛根城、秋田城城郭:平山城遺構:御物頭御番所築城年:1604年築城主:佐竹義宣主要城主:佐竹氏所在地:秋田市千秋公園1-39指定文化財:秋田市文化財日本100名城唐金橋松下門二ノ丸長坂門御物頭御番所表門隅櫓埋門帯曲輪門裏門水堀佐竹義尭像絵図
城巡り・・・続日本100名城のお城は大自然満喫noコース・・・が多いです今回訪問したお城秋田城史跡公園としてとても綺麗に整備されていました管理事務所にパンフレットをもらいに寄ったところ🐻出没のためご注意下さいとのこと2023年秋no城巡り熊鈴がかかせません秋田城は奈良時代から平安時代にか
昨日からパパと5泊6日で秋田・青森・函館・八戸・盛岡を巡るお城旅🏯へ7、8月は暑いのでお休みだったから久しぶりの城旅羽田空港からANAで秋田空港へ朝食に購入パパはお稲荷さん&太巻き、私はヨシカミ・ロースカツサンド秋田空港到着後レンタカーで出発久保田城🏯佐竹義堯公像こちらは天守ではなく櫓に展望室を加えて再建したとの事ですババヘラアイスかわいいサッパリしてて美味しかったです秋田城🏯復元ですがこの時代に水洗トイレがあったみたいです🚽なまはげ脇本城🏯下の駐車場に車停めたら、
オジヰ散歩帰郷ヘ2日目は🏨で朝食を食べ市役所ヘ親父の住民票を頂きに親父様の隠し財産が見つかり通帳の名義変更を隠し財産はなんと💴💴ではなくです暗証番号もわからず名義変更を行わないと解約出来ずそして銀行ヘ戸籍謄本もナゴヤ丿オジヰさんの印鑑証明も必要なのだが………今回は無理ですねなんせ名古屋と秋田あとは郵送で🆗との事本日の用事はとりあえず後は、夕方お墓改修工事打ち合わせなので、オジヰ散歩GOここへ秋田港(通称:土崎港)ポートタワー・セリオン全高1
1泊2日って、忙しいし☝️本当は、延泊したかったけど忙しくて、調べる時間がなくて…おとなしく1泊2日で帰るしかないのさ。しかし、帰りに姉が☜歴史好き私も歴史好きで秋田城でも見て行くかなぁって言ったら、じゃー新幹線遅いやつに変更して一緒に行くって言うもんだから💡2人で炎天下に千秋公園へ寄りました!ちょうど着いたら…秋田犬が見れる企画中でした。暑さのため、バテバテの秋田犬🐕広い公園でした。蓮の花が見頃でした⤴️空がとても綺麗でした⤴️
▲▼続日本100名城秋田城政庁東門秋田県秋田市大字寺内秋田城の創建は733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼりその後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられています▲▼復元模型秋田城では奈良時代に水洗トイレを使っていたんですよ▲秋田市立秋田城跡歷史資料館秋田県秋田市寺内焼山9-6大人210円続日本100名城スタンプはこの資料館と秋田護国神社側の管理棟にあります▲展示室▲秋田城復元ジオラマ▲兵士の装備▲秋
5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目の3城目(通算4城目)は、続日本100名城に指定されている「秋田城(あきたき)」(秋田県秋田市)に向かいました。「脇本城」からの移動時間は約40分で駐車場に到着しました。「秋田城」は、江戸時代に秋田を統治した「佐竹家」の居城の「久保田城」とは全く別物です。「秋田城」の歴史と城主についてお話をしておきますと、飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけて律令制度下において北の「蝦夷」と呼ばれた人々に対する備え
【9/174日目⑥】ってことで、秋田城にやってきた。100名城かと思ったら、続100名城だったんだね。100名城は秋田駅近くにある久保田城でした。秋田城というから、割と最近のお城かと思いきや…なんと、奈良時代から平安時代にかけての時期にあったそうな。その頃から秋田城と呼ばれてたみたいだから、「秋田」という地名はずいぶんと昔からあったんだね。東京なんて、明治からだから、そう考えるとスゴイな。他にもそんな県名はあるんだろうか?そんな昔からの城だからか、こう
戦国の城ではなく、古代出羽北部の行政の中心であった古代城柵の一つとして知られます西暦733年出羽柵(いではのき)を庄内地方から秋田村高清水に遷置したと続日本紀に記されているのが史料上初めての登場です大和朝廷が蝦夷支配の拠点としたとも考えられます。いきなり庄内から秋田への遷置にはおそらく渤海との交易が理由であろうㇳ考えられており全国でも例を見ない建物と水洗施設が整備されたトイレが発見されているところに交易の歴史を伺い知ることができるとのことですブラタモリでもガッツリ紹介されて
おはようございます☀️今日も良い天気に恵まれました😊お世話なったアキタパークホテルさん!3日目最初に訪れた場所は、太平山三吉神社へ⛩️朝早く訪れたのでまだ準備中でしたが、ご丁寧に御朱印を頂けました、すみません😓めちゃくちゃでかい剣🗡️太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社。神社本庁の別表神社。すぐ近くある、日本100名城の久保田城へ🏯かなり広い城内。迫力ある本丸の正門、1ノ門✨第12代秋田藩主佐竹義堯銅像。今の秋田を築いた最後の藩主😌久保田
ついに秋田県の小野小町伝承に突入します。山形県の伝承からは、小野小町の内容的に小野良実の娘で四代目の氏野の足跡であろうことが分かりました。そして小野良実の足跡として山形県の南から入り、徐々に北に拠点を移していった様子がありありと残されています。なので、小野良実が何処まで進撃していたかで、小野小町の動きも知れるのですが、まずは松峰山伝寿院の伝承から分かる事に、「松峰山伝寿院に小野良実の子良房が勅使としてやってきた」とあります。松峰山伝寿院は秋田県でも東北に位置するお寺なので、その
大井川鉄道復活目指しSLのボイラー切り離して修理工場へ|NHK静岡県のニュースNHKニュース【NHK】半世紀近く動かなくなっていたSL=蒸気機関車の「復活運転」を目指している静岡県の大井川鉄道で、16日、機関車の「心臓部」に当たるボイラーが…大英博物館、古代彫刻返還で協議ギリシャと早期合意も|河北新報オンライン河北新報エルギン・マーブルズはアテネのパルテノン神殿を飾っていた紀元前5世紀の大理石彫刻群。英国の外交官エルギン卿が19世紀に持ち帰り、英政府に...音楽と
秋田県人の中にはJCウイルス(ヒトポリオーマウイルス2)のEUタイプという白人特有のウイルスを保有している人が1、2割ほどいるらしい。このことをもって大昔秋田県に白人が渡来したとする説を唱える方がいるようだ。また古代において中国東北部から朝鮮半島北部、ロシア沿岸地方にかけて存在した渤海(ぼっかい)国との交流があり、渤海国が契丹(きったん)という遊牧民族に攻められて滅亡すると約2000人の渤海国難民(北方系モンゴロイド)が秋田に亡命したといわれている。そして古代から平安時代まで存在した秋田城
10月27日、秋田城を訪問。秋田駅の北西5kmほどの、海に近い場所にあります。城址の石碑は城のメイン部分から少し離れており、バス通りを北に170m進んだ右側です。まずは歴史資料館で予習するのが良いでしょう。歴史資料館続日本100名城スタンプもここに。(有料エリア内)秋田城のジオラマ現在ではこれの上半分、塀に囲まれたあたりと、右の池の周囲が残っています。古代の城は、石垣や土塁、堀ではなく、柵や塀で囲まれていました。東北地方に見られる「〇〇柵」というのも城の一種
Tetsu龍でございます。脇本から、秋田市内に戻ります。さて、今回秋田に来ることが決まった時、真っ先に思い浮かんだのが秋田城(出羽柵)です。大和王権による蝦夷討伐の最前線、最北端の柵跡と云われています。日本の古代史を調べていくと、縄文時代は圧倒的に東日本の人口が多く、西日本にはまだそんなに人が居ませんでした。それが飛鳥時代になると、大和王権が北に勢力を伸ばしていきます。それが、柵あるいは城柵と呼ばれるものでどっちかつうと政庁施設としての色合いが濃く、お城と云えばお城か
Tetsu龍でございます。寒くなる、寒くなると言われてるのに、一向に寒くならない今年の冬です。さて、今年多分……最後の遠征が終了しました。掠めたことはあったけど、実際に行くのは初めて。秋田県でございます。取りあえず初見と云うことで、興味のあるところを回ってみました。ぼちぼち、レポ上げていきます。
秋田城跡歴史資料館と秋田城との間には、交通量の多い道路が挟まっています。これが結構危なかった上に、道路が切通し状になっているため、資料館と秋田城の行き来は密かな難儀ポイントとなっていましたが、なんと!ここに跨道橋が作られました。道を跨ぐ橋、跨道橋。あ、でもそもそも歩行者しか歩けないから普通に歩道橋と呼べばいいんですかね。いずれにしてもこの橋のおかげでいちいち登り下りすることもなく資料館と秋田城との間を行き来することができるようになりました。秋田城の政庁は道路によって削られた部分もありますがここ
海寄りの方向は見に行った事が無かったので、時間ができた日に初めて西側のこの駐車場へ。今回は史料館だけなので、直接其方に停めても良かったのですが、停めてから気づきました…いつだったか忘れたけどスマホにしてからも1回、護国神社や門の奥には行ってるので今回はこの橋は渡らず。秋田城跡歴史資料館秋田市寺内焼山9-69:00~16:30210円以前は政庁の方にあってコンクリートの小さな資料館でした。こっちに移って広くなって、ついでに有料になりました…団
城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!今回のルート:秋田城跡歴史資料館前(バス停)-政庁-政庁東門-城内東西大路-史跡公園管理棟-外郭東門-古代沼-水洗厠舎-鵜ノ木地区復元建物-空素沼神社-史跡公園連絡橋-秋田城跡歴史資料館今回は秋田城をめぐります。スタートは秋田城跡歴史資料館前バス停です。秋田駅からバスで20分ほどかかります。バス停自体がかつての政庁跡にありますので、下車後すぐ秋田城です。南側の坂を上ると政庁に到着します。建物がいくつか復
秋田と言えば秋田犬!今日のハチ公は優しくお出迎えしてくれました!っしゃあ!秋田犬の里!堪能しまっせぇ!!…滞在10分うせやろ…もっと色んな展示あると思ったのに…全然しょうもないやんけええええ!!待ち時間を返してくれえええええええええええええええええええええ!!…でも首が動くフランケンのオモチャ見られたからいっか!いいよな!ハッハッハッ(聖母の笑み)建物は昔の渋谷駅をモチーフ?ここで近くの映画館御成座の広告絵を観てここだったんかい!と行くことに。カエルな
前回の続きで、今回が最終回です。今回は秋田城跡歴史資料館の展示の一部だけを紹介します。秋田城に行くときはここにも行くといいですよ。秋田城のジオラマです。これは是非見たいものですね。政庁と南北大路を拡大表示したジオラマです。資料館外観と利用時間などです。8世紀の733年に出羽柵、後の秋田城が出来ました。当時の北海道は渡島といっていました。これは入口です。中央の女性がこの資料館の方で解説してもらいました。鵜ノ木地区にあった天平井戸の模型です
前回の続きです。今回は鵜ノ木地区の井戸と建物跡です。下図⑮付近から東門を見た所です。鵜ノ木地区周辺図です。⑯付近から見た⑮の井戸跡です。背景に古代水洗トイレが見えます。⑮にある天平時代の井戸跡です。古代のレンガが井戸底に敷かれていました。井戸の中から天平六年と書かれた木簡が発見されたので、733年頃に出来た井戸と考えられます。下図⑮から⑭方向です。建物の床だけ復元されています。上図⑯の一番大きい建物跡です。ここも床面が復元さ
前回の続きです。今回は古代沼から古代水洗トイレです。下図⑫にある古代沼です。頂いたパンフレットから発掘当時の古代沼です。古代沼解説板です。古代沼から見つかった遺物です。次に下図⑬の所に行くと東大路をしたまで下った所です。⑬に行く途中の道から見た東門と東大路です。ここから⑬方向を見ると復元古代水洗トイレです。水で流れ落ちた先には、沈殿槽がありました。糞尿を水で外の沼に流せる構造です。奈良時代後半の水洗トイレで