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こんばんは!本日も昨日ほどではありませんが、温かい1日でした。外を歩いていると薄手の長袖で十分なくらいで下。連休中はあちこちを散策しており、現時点で自宅から北はいつも通勤時に歩いていたので、金曜日は南(詳しくはコチラ)、土曜日は東(詳しくはコチラ)へ行き、本日は西の方へ向かってみました。(単純思考ですw)西には京阪交野線が走っており、自宅から30分ほど歩くと郡津駅に到着しました。丁度、13000系が入線してきたので、パチリw郡津駅の近くに交野交流会館があり、さらに近くには小規
城を観る[YouTube]今回は...(撮影2024/02/09)【城を観る+】《私部城(交野城)》2024〜河内の武士!安見氏の居城!私部城跡を観る〜【城を観る+】《私部城(交野城)》2024〜河内の武士!安見氏の居城!私部城跡を観る〜《私部城(交野城)》[読み方]きさべじょう(かたのじょう)[撮影地]大阪府交野市[撮影日]2024/02/09[撮影者]バイソン[BGM]Dreamland(writtenbyshimtone)[YouTube]城を観るhttps://yout
京阪交野市駅KATANOSHI🔴総合版(💯点満点)2025年3月現在①交通利便性4点②治安10点交番⭕️③買い物環境4点④飲食店5点⑤子育て環境8点⑥公共施設8点⑦観光スポット5点⑧家賃価格など8点⑨商店街・SC5点⑩防災8点消防署❌合計65点🔴一人暮らし男性版合計57点※一人暮らし男性版は交通利便性と飲食店重視🔴一人暮らし女性版合計62点※一人暮らし女性版は交通利便性
9月も暑いですねー💦昨日は、ミニ農園を見て、昼から城めぐり。と言っても、大阪城とか高知城のような大きな立派な城でなくて,えっ、こんなところにっていうお城です。行ってきたのは、北河内交野(かたの)にある私部(きさべ)城畑の中にドンって現れた感じの室町から戦国時代の平城です。いま、田んぼになっているところは、かつては堀だったんでしょうね。いやはやみごとな城でした。さて今日は、朝イチで、ミニ農園に朝から暑いわ😵今日の作業は地味ですが、ピーマンと伏見甘長の剪定最近、再
今日は休みになったので交野市~巨椋池周辺を散策して来ました。転職バージョン2から1ヶ月が過ぎて、体が疲れてたのか昨日は12時間も寝てました。w(途中で何回か起きましたけど。)のんびりお昼前から出発してまずは交野市へここは交野市私部(きさいちべ)に在る方の代官所跡へ個人の邸宅なので中には入れません。中にはお白州なんかもあるそうですよ。個人宅なのでさらっと撮影して私部城跡へなんとなく堀がのこってるぐらいです。次はブロ友さんが紹介していた機物(はたもの)
【11月17日(日)】別名「私部(きさべ)城」河内の豪族・安見氏の居城で、室町時代に築城されたと言われています。本郭、2郭、3郭の主郭部と、周りの副郭からなり、郭、土塁、堀切等の遺構を見ることができます。本郭は柵がしてあり入ることができないようでした。2郭は広場になっており、北端に城の説明板が設置されています。本郭と2郭の間の堀切は畑となっており、おぱちゃんが農作業をされていました^_^;3郭は宅地化されていました。主郭部の南西側にある交野郵便局付近に土塁が一部残されていましたが
続いては、無量光寺へ。こちらはもともとは天台宗だったが、室町時代に跡継ぎが当時盛んだった浄土真宗の教えを受け、浄土真宗本願寺派に改宗したそう。山門本堂大棟獅子口この辺り(私部=きさべ)は、瓦の産地だったようで、250年以上屋根を護ってきていたもの。本堂中は全く見えなかった。ご本尊は阿弥陀如来。親鸞聖人像鐘楼境内に大きな木があった。こちらも本堂の梁が象のようになっていた。浄土宗や浄土真宗系のお寺って梁が像になってる
昨日の続きです。今回は二郭北端部から私部街道です。下図①辺りから撮影した、二郭の北側です。下図⑩から撮影したところです。縄張図です。⑩から二郭の上に上がったところです。⑪の所です。先に進むと二郭北端のこの辺りには塀があり。火縄銃を撃てる構造だと考えられます。二郭北端にある百々川です。1961年の私部城跡の古写真です。1576年の岩清水文書には、石清水八幡宮の領地である星田の年貢が、安見新七郎から納められないと、信長に訴えたとあり
昨日の続きです。今回は小字に天守という地名が残る二郭の辺りの紹介です。1578年に織田信長が堺から京都への帰り道で、安見新七郎所で休憩すると、信長公記にあるので、私部辺りが京都と堺を結ぶ交通の要衝であった可能性があります。その場合私部が中間あたりです。河内は信長により、1575年に平定されています。平定後に信長は廃城令を出しますが、堀を埋めて天守を壊し、廃城にしたことにして、館として使っていたと考えられます。信長は長尾街道と東高野街道で堺と京都を往復した可
今日は奈良の若草山の山焼きを見たので、午後9時40分頃に帰宅しています。なので、更新が遅れました。すいません昨日の続きです。今回は本郭から南側堀跡を歩きます。下図⑨の所です。⑨から⑭方向の写真です。⑭の所です。中央辺りに私部城の石碑が見えます。細道に入り本郭へ行きます。⑮の所です。さらに進むと⑯の所です。高くなった所が本郭です。上ると⑰の所です。主郭中心部で⑱の所です。この辺りに安見右近の屋敷があったのでしょう。右近が信長から寝
昨日の続きです。下図⑦辺りに花が咲いていたので撮影しました。⑦の空き地で咲いていた万両の実です。グーグルより引用した私部城の写真です。私部城の縄張図です。⑦の所です。堀があったようですが、埋め立てられありません。スイセンの花が咲いていました。スイセンの花が咲いていました。スイセンの花が咲いていました。下図⑩の所です。ここは本郭と三郭の間にあった堀跡です。埋め立てられていました。ここが三郭です。前方の三郭北側に歩きました。
昨日の続きです。今回は私部城が出来る前からあった光通寺の紹介です。当山は寺伝によると南北朝時代、後村上天皇の勅願により、播磨の守護大名赤松円心が支援して、臨済宗の別峰大殊が開山したといい、当山では別峰宛の後村上天皇宸翰消息を伝ています。ただ、『交野市史』には、赤松円心、別峰、後村上天皇の3人の年齢差(円心と別峰は42歳差、円心と後村上天皇は50歳差)から、後村上天皇が即位された時期、赤松円心は北朝の足利尊氏から守護職を与えられており、南朝の天皇のために寺院建立の資金
今回から大阪府交野(かたの)市にある私部城(きさべじょう)の紹介です。交野城ともいわれます。2019年1月7日に交野代官所を見てから行きました。私部城址にある石碑です。築城した城主の安見(やすみ)氏は室町時代に畠山氏の家臣だったようです。1565年に、安見右近は畠山氏の配下として、大和で合戦に参加したと、多聞院日記にあります。この頃、畠山重臣の遊佐信教から三好家臣の松永久秀に右近が預けられます。1568年に久秀配下として、安見右近が北河内の交通要衝であるここに私部
一泊二日で城を訪ねました。かつての遠征で行き先候補にしたのですが、スケジュールに納まらず断念した城3つ。三星城、矢筈城、八木城。ウィキで「山中鹿介」を読んでいて、行きたくなった城3つ。尼子再興運動の中で鹿介が活躍した合戦の跡、私部城、甑山城、籾井城。6城には人は1人もいませんでした。猪、鶯ほか野鳥、熊蜂、とかげは見かました。矢筈城と八木城はかなりよかたったです。私のベストテンに入れようか思案中です。三星城主郭から⇓矢筈城主郭にて⇓同西郭群⇓同遠景(中央やや左の
続きです。ここから私部城の主要部へ参ります。の前に、もう一度手書き縄張り図を貼りますね。-手書き縄張り図-前編でも申し上げましたが、本郭は三郭の西隣です。本郭の西隣に二郭(字天守)があります。-本郭--二郭-この本郭・二郭南辺縁を西に進むと、最初の西端の郭に帰ってきます。今度は、北上して城の北側を貫く大きいバス通りに移動。すると、二郭に登る階段がありました。-二郭内部--看板-さあ、ここからです。皆様に見て頂きたいのはここからです。私が「他人
皆さんこんばんは。私生活多忙の為、今回も過去の城巡りの加筆修正で失礼致します。十月いっぱいは新規は厳しいかも知れませんね。出来る限り隙を見て何処かへ行きたいのですが……。今回ご紹介するのは私部(きさべ)城、別名・交野(かたの)城です。北河内を中心に活躍した安見氏の拠点で、摂河泉(摂津・河内・和泉の三国、今の大阪府と兵庫県南東部)に残る平城の中では群を抜くともと言われています。戦国時代には津田城へ続く山根街道や私部街道、京と河内国の中心部とを結ぶ東高野街道や北河内と奈良盆地とを結
岐阜市三大古城のひとつ黒野城&富有柿ざんまい!長良川おんぱく長良川の支流に囲まれた黒野(長良川鵜飼発祥の地・昔は鵜飼郷)には、.岐阜城・加納城に次ぐ四万石の黒野城が400年前にありました。ここには江戸時代...第258回:交野城(市街地に良く残る中世城郭遺構)こにるのお城訪問記-FC2私部(きさべ)集落にあることから,私部城(きさべじょう)と呼ぶことも多いのですが,この呼び方は江戸時代以降に定着したようです。1570年に城主であった安見...家康の家臣の屋敷跡
昨日の続きです。今日は津堂城山古墳を利用した小山城の紹介です。小山城址とは(大阪府全志より)小山城址は東方にあり、大字小山との境に近し。高さ六丈・周圍五町にして蓮池之を繞れり、盖し濠池ならん。安見氏の系譜によれば、寛正三年逝きし安見備中守清時は、畠山義就に属して小山城に居り、其の子兵部助清重、孫掃部助清範を經て太郎左衛門尉友重に至り、永禄九年十一月二十三日三好山城守入道笑岩康長に襲はれ、友重防ぎ戰ひしも終に支ふる能はず、開城して交野城に移れりと記せり。今に三好氏の城址なり
二月の利神城調査報告会において「利神城は、姫路城の支城時代は『利神城』ではなく『平福城』と呼ばれた可能性がある」ということを聞いた。また、平城として住宅地に良好な遺構をとどめる河内私部城は歴史的呼称としては『交野城』が正しいと、交野市の担当の方はおっしゃられた。同じような話を、ゆえあって近頃再読している『佐柿国吉城ブックレット』に書いてあった。若狭国美浜町佐柿にある国吉城は、若狭武田氏が越前朝倉氏に備えるため重臣・粟屋氏に守らせた城で、永禄元亀にかけて十年にわたって朝
先週から見てきた交野城を考えるうえで非常に重要な、安見氏。しかし安見氏に関しては情報が錯綜・・・というかほとんどでたらめである。先週の某お城会例会のときは城の遺構に関することでいっぱいいっぱいであったため、そこまで頭が回らなかった。先日疑問点をここにも書いたが、失礼かと思いつつも交野市の担当の方に質問をさせていただいた。あまりに明快で、疑問が氷解したため許可を得てここに転記させていただく。以下、その回答である。安見氏についてはかなり情報が錯綜しております。その大きな原因となっているの
昨日訪れた河内国交野郡交野(かたの)城昨日もここで『私部城』と書きましたが、交野市が私部にあるからそう呼んでいて、歴史上は『交野城』が呼称であるらしいので、ここでは『交野』城で統一して行きたいと思います。『某お城会』のメンバーと交野市駅で待ち合わせ、総勢五人で出発。10分足らずで郵便局へ。ここに土塁が残っているということだったのですが、あれ?なんか低い。一番下画像のものと同じものを持って歩いたのですが、図があちこちで変である。この土塁の東に図示されている土塁も現実に