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こんにちは。お母さんです。まぁ人それぞれ、猫それぞれ、好きなものが違っていいんですけど。秀吉は、わりとゲテモノ好きなのかもしれません秀吉の好きなもの。ネズミ、お父さん、お母さん、娘、息子、、、お母さんの寝室?(笑)まぁ普通に、色々あると思うんですが、食の好みは、ちょっと変わってるなぁと時々思います。おやつは普通に、なんでも好きみたいです。ちゅーるはもちろん、カリカリも、にゃんぼーも、ひのきの誕生日に久しぶりに買ってき
ワークマン作業用ズボン干してて、母親ダウンも❗秀吉時代からの豪農家金持ち宇治市不動産屋でしょうが❗日曜日街の民が、うるさい思わない年中雑草草刈りです❗この土地不動産会社スーパー誘致街のためしてくれたら助かるのに❗竹やぶ意味を?あるのか?午後もよろしくお願いいたします❗
直伝の古文書とは大きく乖離すでに広瀬兵庫助史料と異なる部分について長浜城歴史博物館へは、その全てをご連絡いたしましたが、同館の展示解説とHP解説には事績の根幹に誤りがあります。「広瀬兵庫助」史料について(ご報告)2015年11月の長浜城歴史博物館における広瀬兵庫助に関する展示につきまして、ご報告申し上げます。広瀬兵庫助末裔の一人として、また他に追随する方もなく、広瀬兵庫助とその一族に関する諸史料を私の手元に集約することができ、約40年間にわたる調査研究分析の成果が2011年6月に
井原忠政著「小田原仁義」読了しました。安定の面白さです以前小田原城に行ったときにも城内に説明がありましたが、秀吉による小田原攻め、御城から眺めた海が水軍の船でびっしり埋まっていて、凄かったみたいですね秀吉の権力の強さが伺えます。北条氏がなんだか哀れでしたさらに、梶よう子著「いろあわせ」も読了しました。シリーズ一作目を最後に読みましたが、楽しめました次巻を早く読みたいですが、なかなか出ないみたいですね(4年おき)次は、北斎まんだらを読みます。楽しみです
源有治は保元・平治・治承の乱に出陣40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。1.広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。2.
4月2日(火)京都東山訪問記、3件目は圓徳院えんとくいん。北政所ねね(1549~1624)様終焉の地です。門前の案内板に次のような説明がありました。『慶長10年(1605)、北政所ねねが亡き秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだのが圓徳院の始まり。ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で過ごしました。』『そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房です。寛永9年(1633)利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として
名城100選シリーズです。令和5年11月、毎年恒例となる友人たちとのグルメ旅行で、今年は佐賀県を訪問しました。唐津城を見学した後、今回のメイングルメの一つでもある「呼子のイカ」を堪能し、呼子のお隣、車で5分ほどの場所にある、こちらのお城を訪問しました。日本100名城87番『名護屋城』名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵時に拠点にした前線基地とのことです。秀吉の没後、廃城となったとのことで、その廃材の多くが唐津城の建築に使われたとか。国道沿いに整備された広めの駐車場があり、車を停めて
長浜駅にやって参りました!しっかりお仕事したら…せっかく長浜に来ましたので…秀吉の作った町を少しだけ散策ぅ~😃🎶やっぱり長浜城っすね❗️桜が満開で桜吹雪がめちゃくちゃ綺麗🌸🌸🌸琵琶湖!最高の天気☀️癒されますぅ~🙆桜と新緑と青空が最高ずっと居たい❗️けど…急いで帰ってお仕事のまとめをしないと…😅伊吹山も美しい🎵名古屋へ戻りますぅ~🚄💨
「本能寺の変」直後の活躍40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。1.広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。2.広瀬兵庫助
白羽の矢が立てられなければ40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。「本能寺の変」直後の状況「本能寺の変」直後の状況については、史実に基づき東浅井郡志(発行:滋賀県東浅井郡教育会)などの書物や浄休寺寺誌など広瀬家の古文書に詳細に書かれています。その後の調査を含め、これらを総合的にまとめた内容は、次のとおり
5年前の更新を再UPしました。『彦根城の桜3』昨日の続きです。今回は天秤櫓からです。天秤櫓の門です。この門を抜けると天秤櫓の門をくぐったところです下図にある太鼓丸です。天秤櫓内にあった地図です。天…ameblo.jp前回の続きです。今回は本丸村雲御所瑞龍寺門跡後編です。はじめに開山で豊臣秀吉の姉:ともとは豊臣秀吉と豊臣秀長兄弟の姉です。智子(とも:瑞龍院(1534~1625))が亡くなったのは、92歳の時で、江戸幕府も既に三代将軍徳川家光が在位していた頃です。
こんにちは。お母さんです。食事はゆっくりよく噛んで。猫さんも全くその通りで、全然焦らずゆっくり食べてくれていいんですけども、秀吉が、、、全く焦らせてる訳じゃないんですが、とにかく食べるのが下手で、オマメに取られる確率が高いです。多分、口に入れるのが下手なんでしょうかね?噛み切るのも下手で。で、特訓してみようってことになりました。固形全般なんですけど。なんでこんなに噛み切れないのか、なんでこんな口に入れるまで時間がかかるのか
新型コロナは、一人一人が自らの命を守る行動を1.はっきりしている事は、新型コロナウイルス感染症の長期的な終息の見通し、予測は専門家を含め誰にも不可能なことです。2.そして、専門家は言います。第2波、第3波、第4波、第5波、第6波、第7波、第8波、第9波、第10波・・・とウイルスの型を変えて繰り返して続くと。予防接種のワクチンが開発されても、型の変異が速い影響で2~3年は続くと言う専門家がいます。しかし、誰にも分からない事です。100年前の「スペインかぜ」は3年かかりました。(
こんばんは😊新年度でドタバタHickeyです😅仕事の方がやっと新年度モードに入りました😅💦この時期はドタバタいつもするんです😅💦読者の皆さんは新年度や新生活のスタートどうですか❓🤔季節の変わり目なんで体調崩さないよう気をつけて😊【Hickeyの暦の部屋🇯🇵】今日4月9日から七十二候は二十四節気《清明》の次候【鴻雁北】に入ったよ😁(こうがんきたへかえる)【鴻雁北】というのは飛来する燕と入れ替わるように冬の間を日本で過ごしていた雁(がん)が北国へ去っていく頃‼️そうい
生き残る強い心が運命を変えた40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。その実態は、頭角を表して
4月2日(火)高台寺訪問記の続きです。拝観料を払って境内へ。真っ先に目についたのが色の濃い紅桜。陽光でしょうか?ここは銅閣寺を望めるビュースポット。足元に高台寺垣があり、紅白の椿がぽつぽつと咲いていました。台所坂でも見た藪椿。白椿はどことなく寂しげな感じがします。その隣にコバノミツバツツジ。振り返ると馬酔木あせびが咲いていました。湖月庵は立入禁止。背後に工事中の小方丈が見えます。豪商・灰屋はいや紹益じ
花曇りだったが、満開の桜。平安時代より花の醍醐と言われた桜の名所1598(慶長3)年の春、豊臣秀吉は花見に際して畿内から境内に700本の桜を植え、三宝院の庭園を設計し盛大な宴を開いたことで有名。京都に住んでいてもなかなかこの時期におとずれることができなかったが今年は運よく桜に時期に訪れることができた。桜にはどうしてこんなに人が惹かれるのだろうか。桜をみて少々秀吉気分に浸る。
徳勝寺から長浜駅を越えて…豊国神社へ豊国神社【ほうこくじんじゃ】太閤さんは、天正二年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並みを造りに着手されました。その後、約十年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。この現われが天正十九年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。太閤さんが、慶長三年(1598)八月十八日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社
二度にわたり信長に対抗して戦う40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。広瀬家に代々伝わる「広瀬兵庫助史料」を研究し始めた1975年頃には、兵庫助が長男・太郎に宛てた手紙の真意が全くつかめずにいました。これが、2015年頃には、突然にその真意が理解できました。それは、40年の長年の歳月をかけた調査研究を経てよ
とてもダンディだった初代天皇家の御理髪掛!大場秀吉!1882年に創業した大場の2代目大場秀吉は、髪結床といわれた髪を結い上げる頭から、西洋式のヘアスタイルにするため、当時東洋の社交場と言われた上海に修行に行きヘアカットやシャンプー・シェービングなどを日本に積極的に導入しました。昭和天皇が皇太子時代にイギリスで戴冠式がある時軍艦香取に乗って初めて天皇家の御理髪掛となった
歴史学者と歴博館長らの誤認識40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。1.広瀬兵庫助は、1582年6月の「本能寺の変」直後に長浜城から逃避行する秀吉家族の警護と慰労をして、その功が認められて秀吉の家臣になりました。2.その後、約16年間にわたり近江国(滋賀県)新庄城主と美濃国(岐阜県)広瀬城主を兼任で務め、秀
長浜に向かう途中、桜が綺麗だったのでついポチっと。札幌じゃGWが開花なので一足早く🌸以前から北陸本線長浜駅の建物が気になっていた。ググってドライブ。「長浜鉄道スクエア」現存最古の駅舎です。新橋ー横浜に次ぐ歴史。金崎(敦賀)ー長浜展示していたD51の運転室D51は北海道でも活躍していて、中学までは現役で走ってました。4輪で力強い。面白かった。続いて、すぐ近くに長浜城が。サクラが真っ盛りです。羽柴秀吉が築城した城。琵琶湖の眺めはサ
2024年4月5日(金)本作品が著者の第一作目と知って驚愕しました。恐ろしい程の才能です。加賀前田家を創始した前田利家の最側近である村井長頼を主人公とした作品で、幾多の苦難を乗り越えて加賀藩を創始して、守ったという物語です。歴史小説ファンには是非とも一読をお勧めしたい作品でした。2021年5月、講談社文庫。454ページ。作品紹介(講談社のサイトより)前田利家の忠臣・村井長頼が命を懸けて貫いた武士の本分。加賀藩の祖・前田利家が流浪した若きころから大名になった後まで付き従
こんにちは。お母さんです。お花見シーズンです去年はひのきが息子とのデートを楽しんでくれて、本当は今年もって思ってたんですが、色んな諸事情により、今年は秀吉を連れて行くことにしました。そして今年は娘が参加してくれて・・・うん、いい画が撮れました以前、秀吉を連れて桜を見に行ったのは3年前。太閤秀吉のお戻りじゃ!ってことで、ひまわりも一緒に大阪城へ行ったんですが。やっぱり大阪城は桜の名所ってこともあり、なかなか人が多かったので、落ち着
康述の子孫には淡窓・旭荘広瀬兵庫助の先祖は、岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(美濃国広瀬郷)広瀬氏の初代当主・広瀬康述です。兵庫助(命名時は康親で、秀吉の家臣となり広瀬兵庫助を名乗る)は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。広瀬家史料(広瀬兵庫助末裔に伝承の歴史資料の略称)を再確認のところ、初代当主・広瀬康述の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟が先祖を同じくする一族(同族)にあたることが確認されました。この情報は、このたび広瀬兵庫助一族の皆様への重要な情報としてご報告するも
す本丸南西の石垣は約40mも延びて南局(引局)の西側まで続いています高さは8mを越えていて小田原征伐以降佐野房綱が豊臣秀吉に仕えた事から西日本の石垣技術が導入されて築かれたと思われます佐野昌綱の後を継いだ佐野宗綱は常陸国の佐竹氏と同盟を結び北条氏と戦い続けていましたが宗綱が戦死すると1587年に北条氏康の子、氏忠を佐野氏の当主に迎えて北条氏の傘下に入りますこれに反発した昌綱の弟の佐野房綱は出奔して豊臣秀吉に仕え1590年の小田原征伐では佐野房綱は唐沢山城を接収し北条氏
歴史に残る将来を見据えた行動40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。2.広瀬兵庫
地下鉄東西線東山駅から醍醐駅まで移動🚃徒歩10分歩くと、そこには醍醐寺が🌸🌸🌸なんと、満開です🌸🌸🌸1年で1番美しい時期に来れたのではないかと思います素晴らしく大きな枝垂れ桜がそこかしこに咲き乱れ、まさに春爛漫🌸🌸🌸醍醐寺全体が桜色に染まっています🌸🌸🌸醍醐の花見は1000人以上の女性が2回お色直しをしたそうです。(参加者の9割は女性だったそうです。)桜も各地から700本植樹したとか。秀吉が亡くなる前年に催された太閤花見🌸大切な人をたくさん呼んで、最後に最高の時間を過ごした
そうだ京都、行こう。事務局【JR東海公式】秀吉が催した「醍醐の花見」で知られる醍醐寺も、見頃を迎えています。大きなしだれ桜がたくさん植わっており、たくさんの参拝者の方々が花見を楽しんでおられました。明日は雨予報なので散らないか心配ですが、見頃の時期を楽しめる幸せも同時に感じますね。おおきに。局長#そうだ京都行こう
秘蔵の刀と遺書を兼ねた戦記書簡すでに広瀬兵庫助史料と異なる部分について長浜城歴史博物館へは、その全てをご連絡いたしましたが、同館の展示解説とHP解説には事績の根幹に誤りがあります。広瀬兵庫助に関する古文書3点を所蔵するN氏(会社社長=東京在住)から同古文書3点の展示寄託を受けた長浜城歴史博物館は、2015年10月に「広瀬兵庫助に関する秀吉文書の発見」として同館館長のマスコミ発表を行い(広瀬兵庫助の出自についての同館誤発表の経緯は、私のブログで公開しています)、同年11月に同館では3点の内の2