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信長と秀吉。二人が見据(みす)えていたのは、〝今〟ではなく、その先の展開であった。信長は家臣一同を、清洲(きよす)城に集めた。「我々には問題が山積している。まずは何から始めるがよい?」信長の問いかけに、即座に答えたのが、重臣の林通勝であった。「恐れながらお館様。まずは内政が肝要かと存じまする。」~続く~
天下友達の源頼朝坐像この優しそうな殿方です・・・・昨日に続いて頼朝です。『鎌倉浄妙寺③足利直義のお墓(やぐら)と肖像画』⇧左側・足利直義のお墓(やぐら)⇧途中の竹林足利直義のお墓(やぐら)と肖像画浄妙寺の山奥のやぐらに足利直義のお墓が有りました。室町幕府・初代将…ameblo.jp最近に行ったトーハクにあった鎌倉時代に造られた源頼朝像です。元々は、鎌倉の鶴岡八幡宮にあった物だそうです。【伝源頼朝坐像(鎌倉時代・13〜14
<LEESang-GuenMusicFestival2011>の訪問地、普州(チンジュ)についての紀行文シリーズの再録です。文禄・慶長の役(1592年~1598年)に、秀吉主導の遠征軍と、明と李氏朝鮮の軍との戦いがありました。戦いの舞台は朝鮮半島でしたが、その中の三大激戦地の一つ言われる場所が、私が先日に訪ねた普州(チンジュ)市内に位置する、「普州城/チンジュソン」ということでした。秀吉の朝鮮出兵は、晩年の秀吉の狂気の沙汰であったのか・・・既にスペインがフィリピンを植民
ROKUKYOTO滞在の続きです。前回のブログでROKUKYOTOのチェックインと部屋の様子をアップしました。『今年もROKUKYOTOに泊まりました』先週末にROKUKYOTOに泊まりました。アメックスの無料宿泊特典を1週間ほど前に申し込み予約しました。いつものように車で逢坂峠越えで出かけました。紅葉シ…ameblo.jp夕方までに時間があるので、夕食はルームサービスとすることにし、大型モニターから予約しました。まだ暗くなる前に時間があったのでしょう
桶狭間の大勝利から、2、3週間がたった。織田家中では、ここにいたっても戦勝気分が抜けきらず、今も勝利の余韻にひたっていた。だが、当の信長は、まったく浮かれていなかった。そしてそれはもう一人。そう、秀吉である。~続く~
いつも、ご覧いただきありがとうございます。ご縁があって兵庫県の有間神社に参拝してきました。ここも秀吉のゆかりの地とされています。創建1300年、歴史の深さを感じます。主祭神大己貴大神少彦名大神天御中大神事代主大神四柱ですお参りをしていると、森の方から小鳥の楽しそうな、綺麗な声が聞こえてき
「おい家康殿、この茶碗、高けぇんだぞ!」天下統一を果たした豊臣秀吉が、徳川家康に高価な茶碗を見せながらそう叫ぶ。「殿下、それは利休が選んだものでございます。わたくしは、気に入って使っているまで…」家康は冷静に弁解するが、秀吉は聞く耳を持たない。「気に入ってると?気に入ってたら、もっと大事にしろよ!こんなとこに置くな!」秀吉が指差したのは、床に置かれた茶碗だった。「それは、わたくしが日々、天下のことを案じている証左でございます。天下泰平を願い、この茶碗にも想いを込めて…」
こんにちは。お母さんです。体重測定はよくしますが、ウエスト?を測ることはあまりなかったなと。ずっしりもっちりの豆大福のウエストが何センチなのか、お母さんたちもずっと気にはなってたんですが、測る機会がなくて、、、いや、ないことなかったはずなんですが、なんでか測らなくて・・・一番気になるのは当然豆大福のウエスト。ウエスト?ウエストってなに??って感じなんですけど、たっぷたぷのお腹周りを測ってみました正直もっとされるがままな感じ
かなり以前ですが、NHK-Eテレの番組「知恵泉」で徳川家康公の家臣、石川数正のことをやっていました。感想の続きを書きます。数正は「徳川家が生き残っていくためには秀吉に臣従するしかない。」と進言する。家康公は「皆の意見を聞こう。」と浜松城で会議を開く。天正13年10月28日。(大河ドラマ「どうする家康」の中でも、描かれましたね。)浜松城に重臣が集まり、先の戦い(小牧・長久手の戦い)で「我らが勝っておった」と主張し、秀吉への臣
多気山不動尊を参拝後、鐘楼堂前から下っていくと、分かれ道になっていた。右は多気城跡、左は駐車場に至る道だ。多気城跡までは0.6㎞とあるが、見上げると延々と続く上りだ。126段の石段を登って来たばかりなので、気乗りしない。迷ったのだが、せっかく来たのだから、という思いに押されて右に行く。コンクリートの棒で土留めした階段を登って行く。曲がりくねりながら同じような道が長々と続く。あとどれぐらいなのか表示は全くない。やっと開かれた空間が見えてきた頃には、太ももはパンパンになっていた。運動
【形は心なり】本田(宗一郎)さんはいつもしつこいくらいに「いいものをつくるにはいいものを見ろ」とおっしゃっていました。ある時、こんな苦い経験をしたことがあるんです。「アコード」の四ドア版をつくっていた時のことでした。僕らのデザインチームは、四ドアを従来の三ドアの延長線上に考えて開発を進めていた。ところが本田さんは「四ドアを買うお客さんの層は三ドアとは全然違うぞ」と言って憚らない。ボディは四角く、鍍金を付け、大きく高そうに見えるようにしろと言われるのです。僕は内心
今朝もしっかり積もってました。でも、陽が差し溶けてきましたただ歩道がアイスバンで歩くのが怖いです固定電話、持ってる?電話機は沢山ありますが固定電話はやめました昔買った権利はどうなった?夕べはとうとう「光る君へ」が終わった道長様はあの最期のシーンの為一日で4キロ痩せたと凄すぎる色んな感想があるようですが私は最後が以外でしたもっと以外だったのは視聴率がワースト2位だと。私は雅の世界を楽しませてもらったけどなちなみに最高視聴率は宮崎あおいさんの「篤姫」面白かった
今年の大河ドラマは殆ど見ませんでした😥最初から興味が無く、来年の大河ドラマも予告を見る限りでは見ない可能性が大です。大河ドラマとは私的には、何回見ても信長、秀吉、家康しか無いのかも知れません😛独眼竜政宗も面白かったですが😅NHKはもう一度昔の大河ドラマを再現した方が視聴率が上がると私は思います。まあ無理でしょうが。
こんにちは✨前回の続きです♡『ツインレイ❇️神との一体化を目指す』はじめましてツインレイ道を歩んでいるアシナです💚自分との向き合いを進め、魂の使命について考えはじめた頃、、、サポート役となるソウルメイトの“ふみちゃん”と出会…ameblo.jp私と一体となる神様は、ツインレイのお相手の魂でもあるのですが、、、伝えられたその名は、なんと!!日本で有名な、歴史上の人物だったんです!!びっくりその方とは、、、なんと、豊臣秀吉さん!私とふみちゃんはキョトン。。。え?!神様…
こんにちは。お母さんです。猫がみんな、猫用おもちゃが好きか?って言われるとそうではないみたいで。同じおもちゃでも興味を持ってくれる子と持ってくれない子がいます。使い方も様々で、素直にメインの部分で遊んでくれる子もいれば、持ち手の棒の方が好きな子もいるのです。どれが好きか、それのどの部分が好きかは、一緒に遊んでその反応を見て、これが好きなんかぁって分かっていくんですけど、秀吉は棒の方が好きなタイプで、その棒で一番好きな遊び方が、ラグの下で棒
「では残るは豊だけですね!そなたは誰か想い女は居らぬのか?」「はい、私はまだやらねばならぬ使命がございまして、ゆっくり腰を落ち着ける暇がございません。」「使命とは?」「はい、孫次郎様からの御下命で、甲賀の里に行って、甲賀の組の立て直しを手助けせねばなりません。」「甲賀の里とは何処じゃ?」「はい、滋賀の甲賀村にございます。」「それは遠いのう!」「そうか、豊、そなたの想い女は甲賀の娘では無いのか?」と義成が思い出して言った。「ハハハ、若殿、ご存知でしたか!実は孫次郎様からそのこ
--------------------------------------------2024年出来る人。自分がそうありたい。2023年12月13日--------------------------------------------できる人は、出来る人が分かるのですね。できる人に褒められたい、今日この頃です。2022年12月13日--------------------------------------------秀吉、出来る人を恐れてもいたのですね。愛蔵
かなり以前ですが、NHK-Eテレの番組「知恵泉」で徳川家康公の家臣、石川数正のことをやっていました。感想の続きを書きます。家康公の右腕として活躍する数正。小牧・長久手の戦いの戦後交渉では。この戦い。そもそも家康公が織田信雄の協力要請に応じ、秀吉と相まみれた戦いである。参戦を呼びかけた信雄が秀吉は圧倒的な軍事力を背景にして、「ワシの家来になれ。」その証に徳川の家老の中から人質を送れ。」と強気の要求を突き付けてくる。2人の間を
さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、『矢数俳諧』と言うモノに出会いました。その資料から、概要は理解出来たのですが・・・さらに、調べて見ました。以下、小学館のデジタル大辞泉に記載されていた内容を転載させて頂きます。尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。俳諧形式のひとつ。一昼夜または1日の間に独吟で句数の多さを競う俳諧興行。京都三十三間堂の通し矢の数を競うのに倣ったもの。初め大句数(おおくかず)と称した。延宝5年(1677年)大坂生玉(い
築城を急ぐ日本軍に明、朝鮮軍が完成間近の蔚山倭城を慶長2年12月22日、56,900人の兵士で襲撃したのでした。攻城戦が開始されたという情報を得た加藤清正は西生浦から即座に軍船で蔚山に帰還して、城内に入った。日本軍の10,000人の籠城兵士の堅い護りに明朝鮮軍は大きな損害を受けて、明朝鮮軍の野望は頓挫した。しかし、この時はまだ蔚山倭城は未完成で食糧の準備も出来ていないままで籠城戦となり、日本軍は苦境に陥いった。開戦から10日後、Ⅰ月3日、毛利秀元等が率いる援軍13,000人の兵士が到着し
先日の夕飯・・・カレーだったのですが、先日頂いた釜あげ桜えびがまだ残っていたのでそれが無性に食したくてで・・・釜あげ桜えび丼とカレーはルーのみを!わさび醤油に道の駅で手に入れたスタミナにんにく醤油漬を一かけらのせて・・・釜あげ桜えび、やっぱめちゃめちゃ旨い!カミさんの作って下さったカレーもたっぷりと・・・旨い!(⌒ー⌒;)・・・と、その次の日の夕飯がこちら・・・その日はあの簡単冷凍餃子の日でしたが、わたしのみ白いご飯が切れてしまってたため、この日に
⚫️豊臣秀吉の復顔像です。
こんにちは。お母さんです。毎朝、子供たちが学校に行ったらルンバをONします。それまでホカぺでぬくぬくと、時にヘソ天でくつろいでるオマメたちなんですが、ルンバが作動し出すと、しゃーないな、、、とばかりに移動し始めます。とは言っても、そんなすぐにではなく、その日によりますが、自分のところに来るまでは、ダラダラと居座るのが基本です(笑)テント大好きなひのきなんかは、テントに入ってたら無事なんちゃうか?って考えたことある気がします。
本能寺の変のあと、明智光秀を討った羽柴秀吉が戦国大名の毛利輝元に刀を贈ったことなどを書いた手紙が新たに見つかりました。東京大学史料編纂所の研究者は、信長亡きあと、秀吉が有力大名とどう関係作りを進めたかがうかがえる貴重な資料だとしています。この手紙は、東京大学史料編纂所の准教授がインターネットオークションで見つけて購入し調査にあたりました。分析の結果、秀吉の直筆とみられる花押などから本能寺の変の3か月後にあたる1582年の9月に、中国地方を治めていた大名の毛利輝元に送った手紙と結論づ
「今川義元、田楽(でんがく)狭間にて休息中!」ニィ。秀吉は笑みを浮かべた。彼は続ける。「ご運が開けましたな!」秀吉が言わんとしていることはわかっている。・・・信長は目を閉じた。。。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」信長は立ち上がり、敦盛(あつもり)の一節を舞うと───ニヤリ!「サル!湯漬けじゃ!」~続く~
秀吉の手紙発見“信長亡きあと大名と関係作りうかがえる資料”https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241210/k10014664211000.html
1997年10月第1刷発行講談社選書メチエ副題:秀吉能楽愛好記何でこの本を読むことになったか、記憶にない。でも、公立図書館の検索で引っかかり、予約した本。12/07に借りだしている。著者の天野文雄先生。1946年生まれ、能楽史研究者。お名前だけは知っていた。もしかしたら、どこかの能会で解説などされていて、「つまらん」等と評していたかも知れない。秀吉が、能楽の凄い愛好者であって、庇護し、その後の江戸時代の式楽化に繋がったことは、雑駁には知っていて、ワタクシの能楽好きも秀吉
「籠城(ろうじょう)といううわさもあるが・・・・・・。お館(やかた)様はいったい何を考えていらっしゃる?」重臣の林通勝は、困惑していた。敵は四万の大軍。どこまで持ちこたえられるか・・・・・・?「お館様!」「おう、サル。いかがした?」しかし信長はわかっていた。それが朗報であることを。秀吉の目の輝き、声の調子で手に取るようにわかる。~続く~
醍醐寺まで行ってきました。トコトコ歩いて家から約40分。外国人がいっぱい。通常より混んでいましたが敷地が広いので良いくらいでした平安時代に建立された塔です。京都府最古の建造物だそうこちらは豊臣秀吉の「三方院庭園」。秀吉は花見の後「醍醐のもみじ狩り」を心待ちにしていたそうですがその年の夏に亡くなったそうです。ふすま絵も見事でした最近描かれたふすま絵もありましたが古い方が好みかな。
11月某日、紅葉シーズンも終盤の週末の京都駅。ひでー混雑。歩いていると外国人の引きずるガラガラ(なんて言う名前だっけ)に足を轢かれました。平日8時台の品川駅ぐらいの混雑です。んで、あんた誰?って分からずに写真を撮り。後で調べてみると豊臣秀吉でした。長浜って書いてあるからわからんかった…秀吉は長浜城にゆかりがあるとのことで。長浜観光協会のキャラみたいですね。で、コメント頂いたので写真追加します。このコスプレがもしかして石田三成?ちなみに女性のようでしたが…