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徳島城はとても珍しい城といえますそれは明治維新で廃城になる1869年まで城主が蜂須賀家の居城であり続けた事です蜂須賀正勝(小六)は羽柴秀吉時代から秀吉を支え続けた忠臣でした😃四国平定後に小六は阿波国を与えられますが秀吉の側で仕えたいと言う理由や老齢だからと阿波国入りを拒否して代わりに嫡男の家政が入国する事になりました家政は当時29歳。直ぐに渭山(いのやま)城を造り直します😊城が完成すると「好きなだけ踊れ」と城下町に御触れを出し、これが「阿波踊り」の原型になったと言われ
ミシェル・リシャール・ド・ラランド1657-1726「テ・デウムほかグラン・モテ」初めて聴いて、うわ豪華だなとの印象。寿司や鰻なら松竹梅の松の特上、とにかく一番高いのくれ、って感じ。それもそのはず、ルイ14世の時代、ヴェルサイユで演奏されたフランスバロックの典礼音楽(グラン・モテ、大モテット)。テ・デウムはフランス王室の祝祭の音楽だが、ミゼレレという悲しみの音楽もあるようだ。小編成のプティ・モテ(小モテット)に編曲され、サン・シールなどの私邸などでも演奏された。秀吉の聚楽第が思い浮かん
徳島城の標高は61mしかない城山に築かれた山城と山を囲む平城からなる連郭式平山城です😃室町時代の1385年に細川頼之が現在の城山に城を築きました中国の渭水に助任川が似ていたのかどうか分かりませんが、この地を渭水と呼び山を渭山(いのやま)と名付けていますただ「猪山」と呼んでいた山に「渭山」の字を当てたと言う説もあります😅その後、長宗我部元親が家臣を入城させましたが豊臣秀吉の四国征伐で落城します😭1585年の四国攻めでは蜂須賀正勝・家政親子は阿波木津城」一宮城を8昼夜に渡る
織田信長の4男秀勝と5男信房は順番が逆と言われています。ちなみに、秀勝は子供のいなかった秀吉の養子にします。長浜城を任せます。秀吉は本能寺の変で、亡くなった信長の棺桶を守る親族の一人に秀勝を抜擢しました。実は次男信雄と3男信孝も同じ年に生まれ、信孝のほうが先にうまれてがた、次男信雄は正妻(実は違う)の信忠と同じ母でしたので、次男と3男を入れ替えたようです。正妻の実家の権勢にもより、よくあった事例です。現実に、信長も父の3男でしたが嫡男で後継者として指名されます。骨肉の争いをしたのは同
信長入社一年目。今使っている車は父、家康が乗っていた車。走行距離がすごいので、今年の初夏にある車検のあたりで新しい車を買いたいらしい。「車、何にしよっかなー」この半年ずっとこのつぶやき。兄、秀吉も車は好き。よく信長、家康と3人で車の話に花を咲かせている。ただし秀吉は初心者ドライバーレベル。信長と同じ日に免許はとったが、毎日乗りまくってる信長と違って、秀吉は自ら運転しようとしなかった。車でどこか出かけるにしてもドライバーは家康か信長で、秀吉は後ろの座席に乗り込む。そんな秀吉は1人乗
~アロマセラピーと風水を融合させた世界初の開運メソッド「アロマ風水」~人気ブログランキングへブログランキングに参加しています。みなさまの応援が毎日の更新の励みになります^アロマ風水®創始者及び、運命学神道研究家の横井靖弘です。神社の神さまを味方につける方法とは…?それは、他の参拝者たちを味方につけることです。それは生きて居る参拝者は勿論のこと、今は亡き過去の参拝者たちも含めてです。なぜなら、故人の祈りのエネルギ一も
かっこいいと思う苗字は?①トラウデン(直美)②夜明(日出夫)タクシードライバーの推理日誌③花咲(舞が黙ってない)④源(義経)⑤豊臣(秀吉)▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
【数量限定】\2箱購入で送料無料!/みかん訳あり2.5kg2箱5kg中生晩生有田みかん蜜柑ミカンフルーツ果物伊藤農園和歌山手詰め傷あり楽天市場以前、小田原城へは行ったことがあるので、今回は「一夜城」へ行ってみます。前方の木が邪魔していますが、小田原城はしっかり見えます。秀吉が見た頃はこの木は低く、しっかりと街を一望出来たことでしょう。例のお決まりの「俺の城だー」と心で叫びながら、秀吉目線で眺めます。徳川家康は大体あの辺にいて…などと老眼を一
「負けると思えば負け、勝つと思えば勝つものなり」豊臣秀吉は、戦国の世を駆け上がり、天下統一を成し遂げた武将である。農民の身分から身を起こし、織田信長の家臣として頭角を現し、やがて天下人となった。その波乱に満ちた生涯は、知略と行動力、そして強い信念に支えられていた。秀吉の言葉に「負けると思えば負け、勝つと思えば勝つものなり」というものがある。これは単なる精神論ではない。戦国時代において、戦の勝敗は武力の差だけで決まるものではなく、指導者の覚悟や軍勢の士気が大きく影響した
二部歌と踊りのゴールデンショー座長友也&座長秀吉座長つばさ準之助紅ふたばつばさ天晴続きます
秀吉じゃな!!トランプの懐に入ったねシーサブログリンク応援クリックをお願いいたします。ホーム頁応援クリックをお願いいたします。
二部舞踊ショー座長つばさ準之助つばさ輝紅ちあきつばさ天晴紅好み&座長秀吉お似合い❣嬉しそうに踊るご両人座長紅友也天晴さんの女形、つつましやかで可愛い。意外な成長ぶりに心奪われてしまいました。
来年の話をして、鬼を笑わせましょうか。2025年の大河、「豊臣兄弟!」というタイトルではありますが、今回の主人公は明確に仲野太賀演じる豊臣秀長です。秀吉は「主人公の兄」の位置づけに過ぎませんので、秀長の没後の晩年の秀吉については、描かれないでしょう。大河ドラマは、主人公のビルディンクスロマンです。大河はどうして新年に始まって年末に終わるのか。春夏秋冬の季節感に合わせて主人公が成長して、成熟して、歴史的成果を残し、次代への種を育てて、死んでいく。こうしたフォーマットを守って作られて
NHK-Eテレの番組、知恵泉で、戦国サバイバー、細川幽斎(藤孝)のピンチの切り抜け方の続きです。幽斎は文化の教養は並ぶ者がいないほど。子どもの頃から京で将軍に仕え、文化を身に着けていた。和歌、連歌、茶の湯、はもちろん、囲碁、猿楽、料理にも詳しかったといいます。その存在は朝廷、公家社会にも広く浸透していました。武家社会でも、信長や秀吉からも一目置かれる存在であった。その教養の高さが幽斎自身の命を救ったことすらあった
#べらぼう助さん、松平長七郎、大石内蔵助、西郷隆盛、榎本武揚といった僕の少年時代のヒーローを演じた里見浩太朗と大人になってからのヒーロー平賀源内の共演は面白かった。里見のサムライヒーローから源内のような世に認められず獄死にまで追いつめられる夢を追う自由人へとヒーローの変遷も感じた。今まで僕的に1位の大河だった96年の秀吉の第1話ではラストシーンで秀吉がお市の入浴をのぞき、大胆な描写を入れたのが遊女の裸体が映ったべらぼうの1話と同じだ。さらに2話の桶狭間の戦いの秀吉はべらぼう2話の平賀源内のヒ
9月25日小田原「一夜城跡」しかし何よりもこの城で凄いのはこの景色である。こんなにはっきりとあからさまに小田原を一望出来るところによくも秀吉は城を造ったものである。ここからは小田原城も目の下にはっきり見える。完全に見下しながら、降伏しろと言っている。サスガの北条氏もこれは敵わない。この城は圧倒
NHK-Eテレの番組、知恵泉で、戦国サバイバー、細川幽斎(藤孝)のピンチの切り抜け方の続きです。本能寺の変の後、秀吉配下にはいった細川幽斎。その後も独特の立ち位置で戦国の世を渡っていきます。鹿児島に赴きました。島津家当主島津義久は珍しい客を迎えました。幽斎は義久に「弟、歳久を切腹させなさい。秀吉様は怒っている。このままでは島津家は滅亡することになりますよ。」と告げる。義久は「いや幽斎さん、いきなりそ
さて関東から大阪まで行ってきた。ライブを観に。果たしてDDMはいたのか。DDMとは…先にこちらを読んでね。『西遊記(に至る経緯)』来週火曜に遠方へライブに行くことになった。かなり強硬スケジューリングだけどもうスマホで発券してしまったためチケットがリセール出来ない。行くしかない。去年は色々…ameblo.jp結論から言うと、DDMはいなかった(まあ、そうでしょうね)。今回も3階席で、私の周辺にスタンディング・ピーポーはいなかったのである。おかげでライブに集中する事が出来た。それを思う
千利休の自害は、現在も真相が謎と言われています。最も有名なのは、山門に利休の木像が置かれて、秀吉を踏みつける行為だとして、秀吉の怒りを買ったという説ですね。その関連で、ちょっとだけ面白い話があります。利休の幽霊が秀吉の前に現れたというのです。利休が死んでしばらくたった、ある日のこと。秀吉が数寄屋に入って、火を灯し、いろりに炭を入れようとしたところ、いろりの傍らに、黒い頭巾をかぶった老人が座っていた。老人は利休で、眼をらんらんと輝かせていた。利休がため息をつくと、その度に口から炎が
NHK-Eテレの番組、知恵泉で、戦国サバイバー、細川幽斎(藤孝)のピンチの切り抜け方の続きです。天正10年6月、本能寺の変で信長が討たれる。幽斎の選択は出家することでした。実は幽斎、光秀への返事を引き延ばしながら、懸命に情報収集していた。本能寺の変から4日から5日後には、羽柴秀吉が、猛スピードで向かっていることを把握していた。でも、だからと言って秀吉軍に加わるわけではなく、同じように使者を送って出家する旨を伝えたようで
所在地〒612-8112京都府京都市伏見区向島本丸町特徴秀吉が伏見城の支城として巨椋池の湖畔に築いた水城。感想池は埋め立てられ、現在は市街地や公園になっている。
こんにちは。お母さんです。今更、透明ボウルがブームになってる我が家です。数年前に購入し、その時はあんまりハマらなかったんですけどね〜。久しぶりに出してきたら、連日こぞって入ってます。で、そんなにハマったんならと、小っちゃい方も出してみました。わらわら集まる秀吉たち。狙い通り。ブーム来てますから(笑)秀吉を筆頭に、入ろうとします。おかげで今回、秀吉はバランス感覚が優れてるってことが、改めて分かりました!大きかろうが小さかろう
x.comx.com出雲系の秀吉や信長が正当に評価されないのは弥生系の大和朝廷が今だに君臨してるから。秀吉の朝鮮出兵が何を目的にしていたのか。最近はやっと、出雲の封印が破られ始めているので、表に出てきましたが今もなお、秀吉とち狂った説が幅を利かせています。信長もキチガイ扱いです。最近読者になってくださった皆様は知らないでしょうがこのblogは、実は出雲称賛出雲復活促進の、blogです。
こんにちは。お母さんです。お父さんの体調は、未だ完全に回復せずで、しんどくなったらベッドで休むお父さんです。しんどいんやったら、一人でそっと、静かに寝ればいいのに、、、って思うんですけど・・・。どうしても癒しを連れて行くお父さん。その結果、あんま寝てられへんってことになってるようです(笑)なんで?って、、、こうなるからです秀吉が豆にマウティングを取り、豆が「メェ〜〜」と助けを求める。この声で、お父さんはすぐ起こされます。普
秀吉が総力を結集した「小田原・北条氏攻め」で北条氏が滅び、秀吉は家康を関八州へ移転させます。その後の東海道筋(旧家康領)には、駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、吉田に池田輝政、岡崎に田中吉政と、ずらりと豊臣系大名を赴任させました。移転を拒絶した織田信雄を改易し、清洲には福島正則を入城させています。神君への信奉にも近い、徳川色一色の岡崎城へ入った田中吉政は、10年の歳月を掛けて、岡崎城下町の防衛力強化に尽力しました。まず城下町を堀と土塁で「総曲輪」とし、主要街道の東海道を
わび茶、草庵の茶の完成者でもある千利休は天下人ですね。豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもったけれど、秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は彼に突如切腹を命じられたという諸説です。下の画像画像を拡大してみてください。ほんと良くできてます。驚き‼️
JR水道橋駅西口から徒歩2分、水道橋西通りから路地を30m入ったところにあります。80円焼鳥とバカ盛りシリーズで早い・安い・旨いを追求した業態OCグループの店舗です。店内は広いのですが、客席数が多くために、移動に少し気を遣います。客先はテーブル席とカウンター席の両方が有ります。宴会コースは数種類があり、名物のバカ盛りメニューの食べ放題が付いたメニューもあります。2時間飲み放題付唐揚げ食べ放題コース¥3,300(2025.1.29)月~木曜日限定で飲み放題の時間を延長できるク
(そうそうたるいならぶめいしょうふゆのぼひ)黄梅院小早川隆景寄進の庫裡永禄5年(1562年)織田信長が、父織田信秀の追善供養の為に創建しました。秀吉は、黄梅院のある大徳寺で信長の葬儀を行いましたが、黄梅院とは別に、広大な敷地に総見院を建立し、信長の塔所とします。織田木瓜紋織田信秀は、尾張の守護大名、斯波氏の
豊臣政権は、なぜ、秀吉が死んだ途端に瓦解したのか。それは、秀吉一人のカリスマ性に頼った政権だったからです。豊臣は、秀吉という超優秀なドライバーのためにチューンされた高性能マシンだった。秀吉が死んだあと、別のドライバーには扱えず、クラッシュしてしまったのは必然なんです。家康は、それを良く見ていました。自分がこれから作る政権は、操縦席に誰が座っていても、自動運転で、そこそこのスピードで、事故も故障も起こさず走るものでなければならない。だから、自分の後を嗣ぐ将軍は、余計なことは何もし