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今年の9月頃、九州北部に「江戸期九州北部知のネットワーク」調査に行く予定そこで下調べをしいていて、なんとも面白いことを発見それは「養生訓」「和俗童子訓:など沢山の著作がある福岡藩士で漢学者の貝原「益軒」は、以前は「損軒」だったというのだ。初めて知った驚くべき事実福岡史伝-福岡の歴史をかんたん解説-福岡
播磨御着城址(兵庫県姫路市御着)には、孝高祖父・黒田重隆と父職隆室明石氏女の墓塔が建つ。寛政五年1793、現在の兵庫県姫路市御着の御着小寺後裔という、天川久兵衛屋敷内からふたりの墓誌が発見された。かつての黒田主君小寺の居城の近く「筑前様御部屋跡」といわれていた場所。福岡藩は山口武乕を派遣し整備した。武乕は、その際の報告「播磨古事」を著す十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。周辺は玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を
福岡市城南区別府の界隈で落椿を見つけた!三つの落椿のうち、一つは壊れて、花びらが散ったのだと思う。これは、疑いもなく椿である。「乙丑の獄てふ最期落椿」ハイジャン男乙丑の獄(いっちゅうのごく)とは、幕末に福岡藩で起きた政争による疑獄事件である。乙丑の獄-Wikipediaja.m.wikipedia.org興味ある方はぜひご覧下さい。
一昨日のこと、西公園の光雲神社を参拝した後、ハイジャン男は、西公園の頂を目指した。西公園のことは、荒津山と云っていた。高さ48mである。ここより、少し下った所に大きな記念碑が立っている。加藤司書公銅像とある銅像が消してある。実は、加藤司書公の銅像は第二次世界大戦以前はあったのだが、その金属は接収されたと聞いたことがある。そして、それに代わる加藤司書の記念碑が出来た。加藤司書作の七五調の今様歌が彫られている。「皇御國(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべき、只身に
はなたれ小僧だったが、学業成績は一番「明石元二郎①日露戦争を勝利に導いた男」「明石元二郎②黒田藩明石家の系図」の続きです。陸軍大将・明石元二郎(あかしもとじろう)は、幕末の元治元年(1864年)8月1日、福岡藩の天神で父・明石貞儀(ただのり)と母・秀子の次男として生まれた。三つ年上の長男・直がいた。時は幕末の激動の中だった。明石元二郎(あかしもとじろう)福岡藩の家臣は、家老・中老・大組(おおぐみ)・馬廻組・無足組・城代組・足軽の順に分けられていて、「明石
明石家は藤原家の末裔で、黒田家と姻戚関係「明石元二郎①日露戦争を勝利に導いた福岡の男」の続きです。明石元二郎(あかしもとじろう)は、幕末の元治元年(1864年)8月1日、福岡の天神で生まれ、陸軍士官学校・陸軍大学を優秀な成績で卒業し、日露戦争時は欧州内でスパイとして活躍し、往年は陸軍大将、そして台湾総督まで上り詰めた。明石元二郎(あかしもとじろう)元二郎が生まれた福岡黒田藩の明石家とはどんな家柄なのか?上級藩士が住む天神~赤坂(大名)地区に「明石三家」があった。
福岡出身の欧州スパイ工作員黒田藩は幕末の悲劇「乙丑の変(いっちゅうのへん)」で、多くの有能な藩士を失った。しかしながら、彼らの一つ下の世代からは明治に活躍する人材が育っていた。頭山満、団琢磨、金子堅太郎、明石元二郎、栗野慎一郎・・・、彼らは間違いなく日本の歴史に名を残している。以前、頭山満のブログをシリーズで投稿していた時に思ったのだが・・・福岡に住む私達は福岡出身の彼らのことをもう少し関心を持って、多く語らい、そして讃えてもいいのではないか?今回の主役・明石元二郎も、そうだと思う
先ほど記事にした「ブラタモリ北九州市2回目(その2)」官営製鉄所を八幡に誘致してきた人物の一人安川敬一郎のことを調べてみた。詳しくは、次のWikipediaを参照して欲しい。安川敬一郎-Wikipediaja.m.wikipedia.org安川敬一郎が現在の安川電機の礎を作った人だとは直ぐに分かったが、筑前藩(福岡藩)の出身だとは知らなかった。安川敬一郎(やすかわけいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日)-昭和9年(1934年)11月30日[1])は日本の武
【問題】【日本城郭検定1級】福岡藩と佐賀藩で交互に警備を行い、文化5年(1808)フェートン号事件で舞台の一つとなった台場はどれか。【選択肢】品川台場由良台場神崎台場門司台場【正解】神崎台場【解説】長崎湾沿岸部に設置された。
今日は、黒田官兵衛の父・職隆公の御命日でした。職隆公は、地元の人たちからは「筑前さん」と呼ばれて、今も親しまれています。10時からの墓前祭にお参りに行きました。筑前さん参道午前10時より黒田職隆公の墓前祭が執り行われました。心光寺のご住職の読経に始まり、黒田武士顕彰会、妻鹿文化財顕彰保存会、一般の方々が順次お焼香しました。職隆公の廟所は、天明3年(1783)に心光寺の住職が妻鹿村(現姫路市飾磨区妻鹿)にて職隆公の墓
空弁としてたまに購入するやまやの明太子のお弁当、福岡藩粋の膳、新幹線でも頂きました。東京駅から新幹線に乗るときは、大丸や付近のお店でできるだけ美味しそうなお弁当を購入したいといつも思っているのですが、この日は時間がなくて、新幹線のホームに直行。新幹線の改札入ったところのお弁当やさんでこちらのお弁当発見。新幹線の改札入ってまで美味しいお弁当が購入できるとは嬉しい限りです。コンパクトに好きなものが詰まっており、満足。さすが、やまや、なお弁当です。ご馳走様で
志士とは灯りのない道を、照らして行く者だ――。明治13年、福岡藩出身の役人・月形潔は、北海道に監獄を造るため横浜を出港した。新政府の本流となることができなかった福岡藩出身者には、苛酷な仕事ばかりが与えられていた。自身の処遇に思い悩む潔の頭に浮かぶのは、志士として刑死した従兄弟・月形洗蔵の姿だった。国家の礎を築いた2人の侍は、どのように運命と闘ったのか。新時代の幕開けを描く、雄渾なる歴史長編。(以上は角川文庫、裏表紙より引用)[月の章]福岡藩の尊王攘夷派月形洗蔵。薩長同盟に動く筑前福
筑前橋は土佐堀川に架かる橋で、北区中之島三丁目と西区土佐堀一丁目を結んでいます。現在の橋は1932年に架けられ、長さは69メートル、幅は14.6メートルあります。南詰には三菱重工のビルが立ってます。金鳥(大日本除虫菊株式会社)の本社ビルもすぐそばです。北詰には博物館と美術館が集まっていますね。▲大阪市立博物館▲国立国際美術館(施設は地下にあります!)▲大阪中之島美術館(22年2月2日にオープンしました)この橋の親柱には右横書きの橋名板が設置されています。白地に黒文字
加筆・修正がある事をお許し下さい<(__)>☆2021年8月11日水曜日「鳥栖駅」で中央軒のおうどんと戦前に出来た駅舎を堪能した後は「博多駅」へ今回の旅行のいよいよメインイベントです!!アクセス方法はサイトに書かれている通りに出かけました。博多駅からバスターミ
本日の関東は、台風一過の日本晴れ♪突き抜ける様な晴天に恵まれました。こうなっては...やはり参拝欲がムラムラと湧き上がって来るもの(笑)...。これを予想して、昨夜は早めに床に就いたのでございます...。色々考えて...どうせなら、まだ行った事の無いお寺さんに行こうじゃないか、と...ムック本をサーチしておったらば...(...せや!そう言やぁ〜、牛久大仏って見てへんなあ...。)...と、気付いてしまった次第(笑)。行く事にしました。何せ、茨城県ですからね。行き方が
8月22日(日)は黒田官兵衛の父・職隆公の御命日でした。11時から法要があると聞いていたのでお参りに行きました。道案内の看板が新しくなっていました。北約800メートル進めば黒田官兵衛が羽柴秀吉に自らの居城である姫路城を譲ったあとに移り住んだ城として有名な国府山城(こうやまじょう)跡に行けます。筑前さん参道まちがわずに来れました。筑前さん墓前祭午前11時より妻鹿の黒田職隆公廟所で墓前祭が執り行われました。※黒田職隆公廟所
福岡藩黒田家には代々の家臣も居ましたが、猛将後藤又兵衛は、黒田官兵衛の子長政との折り合いが悪く、大坂の陣の折には大阪城に入城し、真田幸村と共に武将としてはこれ以上ないくらい武名を残して討ち死にしました。また、本日の主役栗山家もまた黒田家股肱の家臣です。栗山善助は黒田官兵衛第一の家臣として最も信頼を置かれる存在であり、黒田家が大きくなってからは家中の序列第一位の家柄となり、子息と合わせて2万石弱という大名並みの石高を持つに至ります。そんな栗山善助
戦国の英雄織田信長は、その圧倒的な個性故か、数多くの人間に裏切られます。妹婿浅井長政に背かれ、信長が欲した茶釜と共に爆死したなどというド派手な俗説が残る松永弾正に背かれ、荒木村重も信長を裏切り、最後は明智光秀の裏切りに遭い、信長の運も尽きます。さて、戦国ファンならお馴染み、ファンで無ければ誰??な「荒木村重」ですが、織田家臣団の出世争いでは、豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家などと並ぶ先頭集団に居た武将です。生まれも育ちも大阪北部という完全なる外様
先日お友達で一緒にこんなイベントもさせて頂いている地元福岡、福岡藩の茶道流派南坊流の茶室「黒門庵」主宰者”はなぴー”さんこと花田宗克先生が稽古着や茶道で使う布コモノのブランドHANA-PIを立ち上げられました。以前から、はなぴーさんや社中の皆さんが使ってたのを知ってたのでなかなかモダンでオシャレね~と想ってたのですが今回、ブランドのお披露目会で色々見せて頂きました♪ポイントは普通に街で着て歩ける!(くらい、オシャレに着こなそうと思えば着こなせる)
「日本さくら名所100選」の選出にも納得!雄大なロケーションが感動をさそう「岡崎の桜まつり」ウォーカープラス伊賀川の桜並木など見どころ多数!今年はライトアップも実施!3月下旬〜4月上旬になると岡崎公園および周辺の乙川と伊賀川、合わせて...江戸蔵の「お宝」公開「多治見西浦記念館」期間限定山岡鉄舟の書など「歴史に触れて」/岐阜毎日新聞記念館は、明治天皇が巡行の際に宿泊した「行在所」を設けた、多治見の豪商・西浦家の栄華を物語る地域の文化遺産の蔵。西浦家と縁のあった幕臣..
1633年黒田騒動ドロドロミミズのような黒田騒動ドロ=16ミミ=33理科の時間です。蛙のセバスチャン、最低先生に解剖されます。「解剖!だって蛙なんだもん」編の始まりです。
『こんな老人まで...。何なんだ...この戦は...。』骸となった小室の身体の傍に立ち、江原と古川は暫し呆然と佇んだ。だが、油断は禁物である。小室が討たれた事を知った配下の従卒は猛り狂って突進して来た。『きっ...きさん、よくも隊長をっ!!』狂った様に剣を振り回し、従卒が躍り掛かる。ダン!刹那銃声が響き渡り、男は頭蓋を吹き飛ばされた。一本松の枝を銃眼代わりに、のっぽが一撃で福岡兵を仕留めた。『のっ...のっぽか...助かった!』周囲は白兵戦の修
『来た。敵ん一軍!宿場から突貫!』壁の如く建ち並ぶ宿場の数カ所から雄叫びを上げながら亀里隊が突撃を開始した。着剣し、凄まじい形相で水田を駆ける。泥を跳ね上げ、大野任平率いる勇敢隊に挑み掛かる。『来よったか、関東んヤクザモンが。こちらも同業や。面白か。極道同士、派手にやったろうやなかか(笑)。』勇敢仁平は剣吊りのベルトを回し、剣を引き抜いた。『喧嘩には喧嘩や!お前ら、絶対に引くんやなかぞ。博多ん男ん意地ば見しぇい。銃隊っ、構えっ!』大野は太刀を肩に担ぎ上げ、前方を
千葉県船橋市海神。何とも奇妙な地名である。どことなくおどろおどろしい響きがある。その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征に赴いた際、この地の沖に光る舟の姿を見た。不思議に思った日本武尊はその舟に近づき、舟に神鏡が懸けられいるのを発見する。神々しく光るその鏡に、偉大なる霊力を感じた彼はそれをこの地に奉納したのだと言う。それが、この地名の由来である。また同時に彼は、海老川に舟を並べて橋を架けた。一説によると、これも船橋の名の由来になっているらしい。何れにせよ、この港
『もっ...燃えちまう...。みんな燃えちまうっ!!』『俺たちの船橋がっ!』『何でだっ!?何でこうなるんだっ!?』船橋宿の北方の丘から、避難していた人々が悲痛な叫び声を上げる。泣き叫ぶ赤子を抱いた若い母親が泣き崩れ、項垂れた商家の若旦那が、泣きながら地面を拳で叩き付ける。『もう...こうなっちゃあ、どうにもならねえよ...。』初老の男がポツリと呟く。『そんな事言ったって...おやっさん...俺たちの...俺たちの街だぞ、船橋はっ!』若衆が火の海を指差
市川宿が濛々たる煙に包まれている。戦争によってもたらされた災害である。紅蓮の炎が渦を巻いて舞い上がり、黒煙は天を覆い太陽の光を遮る。慶応四年閏四月三日、午前十一時の風景である。八幡の戦いに敗れた岡山・津藩連合軍は成田街道を更に西へと逃走。民家と言う民家に放火し、追撃する撒兵隊を振り切ろうとした。焦土戦術である。官軍側の現地軍司令官が大村益次郎であったなら、住民に配慮しこの様な戦術は取らなかっただろうが、そこは両軍共にキャリアが浅い。初心者マークはまだ外れていない。生き延びたい者は
『敵、距離300。有効射程内に入った。』チビの観測に従い、兵士達は街道脇の民家、土手、木陰から接近する佐土原藩の一軍を待ち構えた。後は指揮官の発砲命令を待つのみである。『まだまだ...。まだ撃つな...もっと引きつけろ。』敵も伏撃を警戒してか、民家の密集エリアでは進撃速度を落とす。距離は更に縮まる。『...ってっ!』第二大隊前衛部隊のエンフィールドが一斉に火を噴いた。砲車を後方に、縦陣の状態で街道を走って来た佐土原藩兵の先頭が銃撃に晒される。『当たっ
四月二十八日、官軍の代表者が国府台弘法寺に集った。開戦前の軍議である。津藩、岡山藩、福岡藩、薩摩藩の隊長クラスが集い、地図を広げて作戦を練り上げる。『敵は中山法華経寺に300〜400が詰めちょいもす。こん部隊は第一大隊っち呼ばれ、敵の精鋭部隊にごわす。後詰が第二大隊。第三大隊も居るっち報告もあったが、良う分からん。500〜600が居ると見積っちょいもす。』薩摩の指揮官が指揮杖で地図を突き回しながら全体像を浮かび上がらせる。『こうして見るっち、半包囲で包み込んでいる
慶応四年四月二十六日(1868年5月18日)、この日の下総はどんよりと曇っている。昨日までの晴天が嘘の様に、白濁色の雲が低く立ち込めている。(やはり...雨が近か...。)三木隆助の読みはどうやら当たった様だ。兵士達に雨具を用意させたのは正解であった。『隊長、前線の岡山藩から使者が来んしゃった。急ぎん用だけな。』『ん?おお...そうか。こっちにお連れせんね。』鮮やかな空色のズボンの衣擦れの音を響かせながら、岡山藩の伝令兵が行徳の福岡藩本陣に姿を表した。三木の姿を