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※2025年10月19日訪問※府内城西丸(西之丸)跡の南西部では現在、【土塀災害復旧工事】が行われており、工事の進捗状況をパネルなどの展示で確認することが出来ます✨令和5年6月の豪雨などにより、土塀の一部が崩れ、現在は修復のための工事が行われています修復の為の解体工事の中で、府内城の土塀が、《土塊を積み重ねる》という珍しい方法で築かれていたことが判明こちらは府内城西丸(西之丸)の土塀の構造を分かりやすく視覚化した土塀のサンプルです一般的な土塀は、木や竹を格子状に組み土壁を作っていくので
※2025年10月19日訪問※松栄神社に手を合わせ、水堀沿いに歩いて【西丸(西之丸)】まで戻って来ました🚶西丸(西之丸)の西側部分には公園に入る為の橋が架けられ、現在駐車場として利用されている城跡中心部への車両の侵入口として利用されているようです🚙ただ、この西丸(西乃丸)西側のこの通路は江戸時代の絵図には無く、近代の公園整備の際に、石垣を取り崩し、橋を架けて道を通したものと思われます◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)西丸西側土塀修復工事現場/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※西丸(西之丸)から廊下橋を渡って【北丸(北之丸・山里丸)】跡にやって来ました現在、北丸(北之丸・山里丸)には【松栄神社】が鎮座されています✨境内に【松栄神社沿革】と書かれた案内板が建てられていますので、確認して行きましょう✨当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家(徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名高く国民の信仰顕著なりしため、享保十四年(1729年)豊後府内藩主直参の宮として城内山里
※2025年10月19日訪問※こちらは北丸(北之丸)側から見た廊下橋です北丸(北之丸)側から見ると、橋が水堀に架かっている様子が解りやすいですね✨北丸(北之丸)側には【廊下橋】の案内板が設置されているので確認しておきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼山里丸(北丸・北之丸)と西丸(西之丸)を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の
※2025年10月19日訪問※西丸(西之丸)と北丸(北之丸)を結ぶ【廊下橋】です西丸(西之丸)側の入口はクランクになっており、北丸(北之丸)から侵入した敵を足止めする為の仕掛けですね✨廊下橋の内部へと進みます🚶木造で復元されており、風情を感じますね廊下橋内の格子窓からかは水堀越しに敵兵を迎撃出来るようになっていますね✨廊下橋内部から東側を臨むと、現存の人質櫓を見ることが出来ました✨この廊下橋ですが、利用時間は『午前8:00~午後6:00』上記の時間帯以外は扉が閉められていて渡れな
※2025年10月19日訪問※続いては西丸(西之丸)と北丸(北之丸)を結ぶ【廊下橋】を見て行きます西丸(西之丸)から廊下橋へと向かう途中には【冠木門】が建てられていたそうです✨【廊下橋前の冠木門】と書かれた案内板が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼かつて茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた北之丸(山里丸)と、西ノ丸は廊下橋によって結ばれていました。現在の廊下橋は1996年(平成8年)に復元されたものです。廊下橋を渡り、西ノ丸に入ると通路は右に折れ眼前に冠木門(
※2025年10月19日訪問※本丸北側に建てられていた【本丸北二階櫓】の櫓台石垣です天守台の石垣と同様に自然石を積み上げた野面積という積み方の石垣で、隅角部が直方体の石の長辺と短辺を交互に積む算木積の手法を見る事が出来ます✨各地の城郭で野面積みの石垣を見る度に、「整形されてない自然石を、よくこれだけの高さに積む事が出来るな」と毎度感心させられます✨早速、本丸北二階櫓跡に登ってみましょう✨櫓跡にはベンチも設置されていて、水堀越しに臨む人質櫓や廊下橋の風景を堪能させて頂きました📷️◆
※2025年10月19日訪問※本丸の天守台から西側に続いていた【本丸北渡櫓跡】を歩いて行きます🚶こちらは天守台から見た本丸北渡櫓跡📷️この辺りの石垣は崩れていて歩きにくい部分も有りますが、意図的に壊されたのか、自然に崩落したのかは不明本丸北渡櫓の西側には【本丸北二階櫓】が建てられており、この本丸北二階櫓と天守を繋ぐ役割を果たしていたのが、本丸北渡櫓でした◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)本丸北二階櫓跡/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※府内城の【天守台】まで登って来ました現在は城跡の周囲に高層の建物が建てられていますが、当時はこの天守台自体がかなりの高さを誇っており、更にこの天守台の上に4階建ての天守がそびえていたことを考えると、府内の城下町や大分湾を航行する船からも天守を臨む事が出来たのかもしれませんね✨天守台から見た廊下橋周辺📷️天守台から見た帯曲輪周辺📷️天守台から見た人質櫓周辺📷️天守台から見た本丸跡📷️◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)本丸北渡櫓跡/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※府内城の本丸北側に築かれた【天守台】を見て行きましょう✨かなり大きな天守台ですね✨天守台の平面は8間×7間で、この天守台の上に、4階建ての層塔型天守がそびえていたとの事天守台の石垣は、自然石を積み上げた野面積で、隅角部が直方体の石の長辺と短辺を交互に積む算木積を見る事が出来ます石材の積み方が野面積みであり、算木積みの角部分もそこまでしっかりと整備されていないことを考えると、福原直高築城当時のかなり古い石垣ではないかと推測されます✨天守台に登る石段ですが、
※2025年10月19日訪問※府内城の中枢であった【本丸跡】です見渡す限りの広大な広場になっていますかつては【本丸】【東丸(東之丸)】【西丸(西之丸)】に区切られていました✨現在では大分城址公園として整備され、主に駐車場として利用されているようですね🅿️🚗こちらは天守台の北側の土塀現存する人質櫓と連結している土塀ではありますが、現存の物か再建の物かはわかりませんでした◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)天守台/大分県指定史跡◆①に続く
※2025年10月19日訪問※多聞櫓門を潜り抜け、城跡の東側に歩いた先が【東丸(東之丸)跡】です多聞櫓門(大手門)の先は《大分城址公園》になっていますが、かつては【本丸】【東丸(東之丸)】【西丸(西之丸)】に区切られていましたが、現在は堀は埋められて、広大な一面の広場になっています✨◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)本丸跡/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※府内城の正面玄関である【多聞櫓門(大手門)】を見て行きましょう門の手前には【府内城跡】の案内板が設置されており、府内城の歴史や城跡の地図なども掲載されているので、散策の際の参考にさせて頂きました✨では、早速多聞櫓門(大手門)を見て行きます非常に立派な櫓門ですね✨《日本100名城》のスタンプはこちらに設置されていますね府内城の玄関口であるため大手門と呼ばれていますが、正確には「多聞櫓門」の名称が正しいそうです✨昭和20年(1945)の空襲により焼失し、現
府内城(別称:荷揚城・大分城)大分市荷揚町創設年代・・・・慶長四年(1599)創設者・・・・・福原直高形態・・・・・・平城遺構・・・・・・郭跡・櫓・天守台・水堀・石垣・櫓台・復元廊下橋ポイント城は大分川と住吉川に挟まれ、北は海に、東は大分川河口に面し海城。縄張りは大きく三つの郭と三重の堀からなり、四重の天守が聳え、23の櫓と5つの門、3か所の廊下橋が築かれていた。竹中重利の築城時には、加藤清正に依頼して石垣を築く人員を派遣してもらい、天守など主要
※2025年10月19日訪問※府内城の正面玄関である大手口までやって来ました現在、城外と城内は【土橋】によって繋がれていますが、かつてはこの場所に水堀に掛かる【廊下橋】が設置されていました✨土橋の下に見られる石積も後生の改変という事ですね土橋を渡った先には【大手門の廊下橋とかがみ石】と書かれた案内板が設置されていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手門と三ノ丸との間にある内堀には、廊下橋が有りました。廊下橋は、城にかかる橋の中でも、橋に屋根を付け両側を壁で覆っているものを
※2025年10月19日訪問※続いては、府内城に残された貴重な現存櫓の一つである【宗門櫓】を見て行きましょう✨堀の外側から見ると、土塀と連結した単層櫓に見えますねしかし、裏側に回って見ると…実は二層の櫓であることがわかります✨櫓の側に【宗門櫓】の案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼江戸時代から現存する櫓で、「宗門帳(江戸時代の戸籍簿)」を保管していたため、宗門櫓と呼ばれるようになりました。1854年(安政元年)に発生した安政の大地震
※2025年10月19日訪問※続いては西丸の西南に建てられていた【二階櫓】を見て行きましょう✨昭和20年(1945)の戦災によって焼失してしまいましたが、昭和41年(1966)に復元されています✨府内城の二層櫓は、大まかな形状が似ているのが特徴ですね✨石垣の上に建つ櫓と土塀、そして水堀という構図はお城ファンにとってはたまらない光景ですよね◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)宗門櫓/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※現存の人質櫓を堪能し、松栄神社の前を通り、廊下橋を通り過ぎて城の西側の西丸跡へ🚶西丸の北西角にも【二階櫓】が建てられていたようです✨ちょうど土塀が切れている部分に二階櫓が建てられていたんですね✨二階櫓跡両脇の土塀が現存の物なのか再建された物なのか、特に説明板などは設置されていませんでした◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)西丸西南二階櫓/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※府内城跡に残る貴重な現存櫓の一つ、【人質櫓】を見て行きましょう【人質櫓】と書かれた案内板が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北側に位置する二階櫓で1854年(安政元年)の大地震により破損しましたが、1861年(文久元年)に再建されました。建物は1階が三間×三間(約6.9m×約6.9m)、二階が二間×二間(約4.9m×約4.9m)で、外壁は半間ごとに柱が配置されています。外観は、東西に棟が延びる入母屋造りの構造で、軒先に見られる出
※2025年10月19日訪問※菱櫓の更に北側には【扇櫓】と呼ばれる櫓が建てられていました✨【扇櫓】の案内板が建てられているので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北東角には、平面が扇形の平櫓が建てられていました。この場所は、府内城の鬼門(北東の方角)にあたるため、隅に角をつけない扇形にした鬼門除けの手法が取られています。さらに櫓には邪気が入り込まないように窓もありませんでした。この櫓は1770年(明和7年)の絵図には、一度破損した様子が描かれています。現在
※2025年10月19日訪問※本丸北東部には【菱櫓】という櫓が建てられていたようです✨残された資料によると平櫓とのことですが、現在は櫓台の石垣のみを見ることが出来ますね✨◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)扇櫓跡/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※北東櫓の北側には、有事の際に避難経路として利用された【水手口】が有りました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼北東櫓の北側には、かつて「水手口」と呼ばれる場所があり、門と内堀に降りる階段がありました。天守や東之丸三階櫓などが焼失した1743年(寛保3年)の大火の際には、御朱印(幕府からの大切な書類)をここから舟で運びだし、一時避難する通路として使われました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲水手口の内側に回ってみました石垣上に短い土塀が建てられていま
※2025年10月19日訪問※こちらは、東丸北東隅に築かれた【二階櫓】です【北東角の二階櫓と水手口】と書かれた案内板が設置されていますので、確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼北東角の二階櫓は、1743年(寛保3年)の大火により焼失しました。現在の櫓は、1966年(昭和41年)に建てられた模擬櫓です。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆豊後国・府内城(大分城・荷揚城)水手口/大分県指定史跡◆に続く
※2025年10月19日訪問※府内城の東側の城域には細長い【帯曲輪】が巡らされていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼桜並木があるこの場所は「帯曲輪」と呼ばれています。「帯曲輪」は江戸時代に大分川の河口につくられた堤防状の土手で、城の中心部を防御するために内堀の東側から北側を囲むように長さ600m以上に渡って築かれました。幕府の命によって府内藩が作成した「豊後府内城之絵図」(1644年/正保元年)には松並木が描かれていることから松が植えられていたことが伺えます。現在、内堀の一部
※2025年10月19日訪問※東丸平櫓を見ながら北側に曲がって少し歩くと【三階櫓跡】の石垣が見えて来ますすぐ近くには【府内城】の案内坂が設置されており、案内坂には江戸時代の絵図や城内の詳細についての紹介文も記されていますので、確認しておきましょう✨そして、【三階櫓の石垣と平櫓】と書かれた案内板も設置されていますので、確認して行きます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼三階櫓は、1599年(慶長4年)に福原直高が建てた3階の高楼で、1743年の(寛保3年)大火で焼失し、現在は石垣のみが残
※2025年10月19日訪問※着到櫓から東へ、水堀・石垣・土塀を堪能しながら歩いて行くと、目の前に現れるのが【東丸平櫓】ですん?平櫓という名前なのに、二層の櫓が建てられていますね✨この平櫓、江戸時代には名前の通り平櫓が建てられていたそうですが1945年(昭和20年)の大分空襲で焼失🔥1965年(昭和40年)に他の数基の櫓とともに再建されましたが、なぜかこの平櫓については平櫓で復元されるのでなく、二重櫓として再建されたそうです✨こちらは城内側から見た平櫓ですが、着到櫓と同様に台座から少
※2025年10月19日訪問※では早速府内城跡を散策して行きましょうまずは、東の丸の南西隅に建てられた【着到櫓】へ🚶▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼東の丸の南西隅に建てられた着到櫓は、大手口に殺到する敵を横から攻撃するための拠点です。1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、1966年(昭和41年)に再建されました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲こちらは城内側から見た着到櫓なのですが、その足元に御注目櫓台から建物がはみ出ているように建てられており、柱で支えられています元
※2025年10月19日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼古代にはやや上流の上野丘陵に豊後国の国衙が置かれていた。鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国・筑後国の守護職・守護大名であった大友氏は、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館を築いて本拠とし、この館を中心に府内と呼ばれる市街が形成された。また、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎
※2025年10月19日訪問※大分県大分市の【府内城(大分城・荷揚城)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高(長堯)が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。なお、府内城は海城でもあるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが
大分攻城最後は大分府内城です。府内城は福原直高により本丸・二の丸・三の丸が造られその後竹中重利により天守と加藤清正の石工を招き石垣の築城をしました福原直高(ながたか)てだれと思て調べたら生まれは播磨、赤松氏の一族言われており正室は石田政継の娘で三成とは親族になります竹中重利はその名の通り半兵衛の妹が正室になるので義弟です大手門から登城鏡石現存する宗門櫓戸籍簿を保管してました。地震跡冠木門跡。その名の通り屋根がない柱に横木を渡した門でした復元された廊下橋。茶・湯・能・月見など