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というわけで、昨日の流れでふと思い出したところで、、以前、フェイスブックかどこかでシェアされたやつ、、地獄の門って、、笑さすがはOSHOらしいですが、時にこれくらい言わないと観念にあまりにもしつこく根付いた習慣的な思考感覚を黙らせられませんよね、、笑ということで、「未来」的思考が即ち、「地獄の門」を開けるというのであれば、、「天国の門」を開けるカギは今ここへのダイレクトな帰依であるということに他なりません、、今ここ以外を切り離し、た
ゴールにたどり着いたときどんな気分でしょうか、、ずっと目標にしていたゴールを達成し、自分の思い描いたような成果を成し遂げることができたときどんな気持ちになるでしょうか、、さて、私たちは実際には、「ゴールに辿り着かずとも」絶えず、本来的に、ずっとその在り様であるというのが、この世界の秘密の一つです、、私たちは、ゴールにたどり着くために悪戦苦闘し、目標達成のためにとあまたの鍛錬、自己実現のために必要な様々な計画を一つ一つクリアしようと躍起になります、、もちろ
休日に夜な夜な、またもやスラムダンクの読み返しに至り、すばらしいシーンをご紹介!海南戦、キャプテンの赤城がケガで離脱、、その後桜木が交代でコートへ、、赤城の教えや思いを胸に、王者海南に堂々と立ち向かう一幕、、桜木はこう言います、、それまでライバルの流川よりも活躍することや、相手チーム県内ナンバーワンプレイヤー牧への対抗心など様々な煩悩が飛び交う中、、ここぞというときに桜木の集中力が発揮されます、、赤城のケガというチー
心が苦しくなるのは、どこかに行こうとするから、、あるいは、どこかへ行かなければならないと強迫的に駆られそのことに気づいていないから、、(無意識=迷妄=無明)一般的な世界では、私たちは執拗に何か優れた自分になること、より確固とした安心や安全を築くためにと、ひたすらにどこかを目指すよう駆り立てられます、、別にこれは自我の自然な防衛性の発露であるわけですから、それはそれで悪いというわけではないのですが、あまりにその傾向にハマってしまうと、無自覚のままに
市内の桜も散り、見ごろは隣町へと移っていきました、、桜の散り際においては、わびしさや趣深さ、様々な味わいを感じられるものですが、、けれども、真実もまた同時に見ていかなければなりません、、花は咲き散る、やがて、新緑や実りをもたらし、それらもまた無常のままにいずれは枯れ落ち、絶え間なく循環する、、生命というのは、とどまることはありません、、これがいわゆる無常の姿であり、真実です、、自我は何かにすがり、どこかにとどまることによって安心や安住を求めようとしま
個人的なことですが、秋口から春先にかけ、、私は温かいお茶を毎食頂いています、、単純にお茶好きなわけですが、、お茶というのは実に興味深いもので、それまで何を食べていようとなかろうと、、ひとたびお茶を一口飲み干せば、たちまち味覚がゼロに戻るから不思議です、、その様子を注意深く観察してみると、味覚がゼロになることに合わせて、私たちの体感、意識も同様にゼロに目覚めます、、即ち、その瞬間、また新しい「今ここへの出会い」を自然と生きられるとも言え
先日、日々の睡眠不足がたたってか、片頭痛に見舞われた折、、ふと、久しぶりに瞑想でもやってみようと思うに至りました、、いつものスタイルで坐りつつ、少しすると、片頭痛のする辺りにあったであろうしこり(収縮)のようなエネルギーが徐々に和らぎ、私の場合は往々にして、いくつもの大きなあくびとなって解放されていきます、、私が瞑想をする際は、ただシンプルに、背筋を伸ばしあぐらでただ坐るというもの、、脳天から紐でつるされているような形で脱力しつつ、鼻呼吸のみを
■12月19日の産経電子版のスクラップ15日から体調がすぐれず、ブログの更新を怠っておりました。きょうより復活します。20221219【産経抄】66歳、動物行動学者のホンネ.pdfdrive.google.com20221219【朝晴れエッセー】7年目のランドセル.pdfdrive.google.com20221219【歴史の交差点】】銀盤の演技者の真価・山内昌之.pdfdrive.google.com20221219【世界の論点ゼロコロナ「白紙革命」】抗議の価値証明
というわけで、個人の都合とは裏腹に、、こちらは大雪に見舞われております、、どうしたって自我からすれば、積もる量がさほどでもなく、いつも通りの出社時間に日常が始まるという「観念」に執着し、逃れることのできない在り様で起きている、目の前の現実に何とかして抵抗しようと奔走するものですが、、実際のところその抵抗こそが、苦しみの根本にあるのだということに無意識の自我は気づくことはできません、、「苦しみから逃れたい」はずの自我が苦しみを遠ざけようと抵抗するという反射的な無自覚性
「只今」に「ただいま!」するために、、一番手っ取り早い方法は、今まさにしていることを「完全に行う」ということに尽きます、、何をしているにせよ、目の前にあるのは、「只今」である以上、そこへの帰還はその瞬間への、まさに居るその場所、「足元」への完全なる没入というものです、、禅の、「脚下照顧」は個人的にはとても好きな言葉ですが、、ある意味でこれを遺した禅師は、後世の我々が迷妄から目覚め、真実を必ずや生きられるようにと、その入口への道しるべを、その
■11月11日の産経電子版のスクラップ20221111【産経抄】法務大臣なめんなよ.pdfdrive.google.com20221111【朝晴れエッセー】あの日の思い出は.pdfdrive.google.com20221111【阿比留瑠偉の極言御免】安倍元首相の皇位継承論.pdfdrive.google.com20221111【特派員発インドネシア・バンドン】中国受注の高速鉄道迷走続く・森浩.pdfdrive.google.com20221111【緯度経度】プ
全体性から分離していると誤解している自我は、様々な思い違いをするものです、、その一つに、「死」というものがあるという誤解、、があるでしょう、、肉体的、見かけの上での消滅はあると言えば、そう見えなくもありませんが、、肉体の消滅の「後」に起こるのは、意識それ自体が、身体の中に収縮していた一時的な在り様が実はそうではなかったと気が付くだけです、、私たちの本来の姿は、今こうしている間もその意識であって、増えることも減ることもなく、生まれたことも死ぬこともできない、
というわけで、昨日の、「ゴール」ついでに、、さて、年度末の総決算を終え、、やりきった感、出しきった感、燃え尽きた感が濃厚だった昨今、、確かに、自分は成し遂げ、ゴールに辿り着くことができたと安堵と満足の感覚が沸き起こったはずだったが、、時もほどなくして、世の中ではすぐさま新しい年度が始まり、ゴールに辿り着いたのも束の間、またもやスタートを強いられ、気づけば、成し遂げたはずのゴールが蜃気楼のようにどこへともなく消え去り、私たちはまた、「先のゴール」へと焚き付けられてしまい
おはようございます😊禅タロット鑑定士プロ養成講師フラットかこです。本日もご覧いただきましてありがとうございますm(__)m昨夜は、禅タロットセラピストみっちゃんこと岸本美津子さんの【禅タロット⭐️人生構築プログラム】個別レッスンをさせていただきました😊🌈🌈🌈こちらは、達成したい夢や願望を、禅タロットの最高活用法によって実際に実現していくプログラムです✨🌈🌈🌈昨日は、みっちゃんのテーマであった○○のブロックの根源になっていることを禅タロットで、明確にしそれを
以前のブログで「DAISETSU」をテーマにソウタシエ作品を作りたいと書きました。鈴木大拙2018年の冬、初めての金沢ひとり旅←凄まじい雪だったその時行ってみた鈴木大拙館忘れられずに2020年にも行きましたなんせこの鈴木大拙館がカッコよくてカッコよくて大拙が何者かも仏教哲学や禅の思想がなんたるかも分かってませんでしたがわたしの心には深くふかく刻み込まれたのであります。
ここ最近のちょうどいい雨のおかげもあり、うちの畑に目をやればそこらじゅうが草ぼーぼー、、と思いきや、季節がら、うちの庭やら畑には、色鮮やかなタチアオイの花が今年も生き生きと咲き誇っています、、私たち、人間(個人)の都合によれば、草が生い茂る様相は好ましくなく、できれば遠ざけておきたい状況であり、一方、心を癒してくれる花については、できるだけ長くそのきれいなままで私たちを楽しませてもらいたいと執着するのが一般的ですが、、そんな草に目をやりつつ、、毎度良い学びを
人生を生きて行く中で、私たちは、大なり小なり、(自我ゆえに)先のことに思いを巡らせるということに駆り立てられます、、自我の本能は自己防衛性、即ち、「恐れ」ですから、これから進むべき「未来」に障害や問題が想定される場合、そのことにフォーカスして、「思考」を使ってそのことを解決しようと目論みます、、もちろん、思考の中でも「意識的なもの」については、実用上そうした思考によって導き出された手法や案が功を奏する場合というのもあることはありますが、、そうではない、堂々巡りを
日々日常を過ごしていると、、思考の想定をまるっきりひっくり返すような出来事が不意に起きたりするものです、、右に投げたボールが、まさか左から飛んでくるような!あるいは、そーーーっと投げたはずのボールが、半沢さんもびっくりの何十倍返しやねん!?ってほどの力で投げ返されてきたり!!さて、こうしたときは思い出しておきたい、白隠禅師の例の逸話、、自身の自我を揺るがしかねない出来事に対して、、白隠禅師は、、ただの一言、「ほう、そうか」と言って、
とある花粉症の子供と話をしつつ思い出したこと、、その子供が言うには、、花粉症の症状が出てからというもの、喉のいがいががとても不快でたまらなく、思わず喉に力を入れその不快さを排除しようと試みたところ、、喉を一層痛めてしまい気が滅入っているということでした、、さて、その話から数日後、、春風吹き荒れる日を過ごした後、、私にも例年通り喉のいがいがが現れれました、、ま、花粉症とは10年来の付き合いですから、、ある程度は覚悟をしているようなものですが、、やはり、普段通り
禅では、ただひたすらに「今」と共に在り続けます、、坐禅、洗面、食事、読経、作務、経行などなど、、今その場で起きていることに我が身のすべてを捧げ、「今ここ」とひとつになるということをひたすらに続けます、、私が禅を初めて教わったとき、、その時の禅師が言ったのは、、「禅は、今ここを外さない」ということでした、、これが真実を生きるということだと、、なぜそもそも、、禅は、これほどまでに、「ただひたすらに今」に在り、「今ここ」を徹底し、「今ここ」に帰依するので
ちょっと前にも似たような記事を書いたように思いますが、、今回はもう少し掘り下げて、、先の地震の後、、その後に降った「雨」について、、ここぞとばかりに、、報道の中で「無情の雨」という文言をちらほら目にしたものです、、さて、「雨」は果たして、、「無情」なのか、はたまた、「恵み」のなのか、、真夏の日照りが何日も続いた後に降る雨は、「恵みの雨」として歓迎される一方、、強い地震の後、望まないタイミングでの雨は「無情の雨」として嫌われ
先の地震にて、家族中があたふたする中、割と冷静に事に対処できたことに後になって、おや?と思う、、ちょうど仕事から帰って手を洗っている最中に地震がやって来て、、瞬間、我が部屋まで駆け上がり、ストーブのスイッチをオフ!母は狼狽し、父は飛び起きたものです、、さて、そんな中、その昔の求道の折、縁あって読んでいた本の中のこんな逸話を思い出したものです、、ある禅のマスターの法話の最中に大きな地震がやって来たとのこと、、その場の皆が、一斉に外へ避難し、その場を
というわけで、節分の鬼退治(笑)、、というより、この寒さと大雪故に、、炎の呼吸にあやかりたいと思いつつ、、大ヒットの無限列車編にて、煉獄さんが遺した名言の数々、、中でも個人的に好きなのは、禅の即今目前、今ここへのダイレクトな帰依、没入を思わせるかのようなこの言葉、、おれはおれの責務を全うする!!まさにこれは、自我の「恐れ」や「都合」を完全に燃やし尽くし、、自らを「その場」のみへと捧げた、開かれた気づきの在り
連日連夜の大雪により、仕事はじめはせっせせっせと雪かきに汗を流す今日この頃であります、、さて、ここぞとばかりに、、久々にこんな話を、、「雪」が降ると、歓喜に胸躍る子供らがいる一方、、大人たちに目をやれば、往々にして暗くて浮かない表情だったりします、、子供たちにとっての「雪」は遊びのツールが一つ二つ増えることによる、「喜ばしい」現象である一方、、大人にとっての「雪」は、雪かきに時間と体力がそがれ、あるいは日常の行動が制限されるがための、「好ましくない」現
問題を避け、心配や不安とは無縁でいられたい願うもの、、安全を求め、安心を得、自分をあらゆる脅威から回避しようと画策するもの、、これが私たちの中に内在し、目が覚めているときの日常のそのほとんどをコントロールする「自我」というエネルギーです、、と言ってしまうと、さも、そこに何らかの強固な実体があるように印象付けてしまうため、、一時期私はこれについて、「自我性」という呼び方をしていたものです、、ま、呼び名はどちらでも良いですが、、今言ったように自我は、ある意味で、エ
というわけで、暮れても明けても、今ここ以外にないということは知っていつつも、、世の中は、年の瀬であり、時期、新年の幕開けと相成ります、、悟り系とは言いつつも、、相対的な社会人であることも同時に起きていますので、、笑先ほどまで必要な分の年賀状を全集中で書き上げておったところです、、子供の頃は書道をいそしんでいた手前、、そこそこに字は上手な方ではあるとは言いながら、、やはり、うまく書かねばと欲、あるいは、自我の都合というべき執着が現れるものなら、
瞑想とは目を開けること、瞑想とは見ることだ、、そう語ったOSHOの言葉を思い出しつつ、、無水無月Amazon(アマゾン)2,000〜6,674円最近はあまり瞑想はしなくなりましたが、決して嫌いではないです、、それなりの期間、励んできた時期はありますので、それなりに瞑想については上手な方です、、笑ま、コツは、「何もしない」をするだけ、、ってなところですが、、さて、瞑想について個人的に思う注意点は、、瞑想が自我の逃げ
というわけで、最近、世代の「枠」を超えて、、とある刃ブームに足を踏み入れつつある今日この頃、、ちょびちょびと動画を見つつ、、全集中!!という言葉があることを知り、、思わず、おおお!!と思いました、、まだよくわかりませんが、、何やら、話の中では呼吸法?のような感じですが、、この言葉自体は勝手ながら、、禅的「即今目前」に通じる意識の閃きを呼び覚ます上でとても良いキーになり得るものだ思います、、禅は当然ながら、「今ここ」に何が現れようとも「それ以外」
懐かしのOSHOのある本には、こんな言葉がある、、禅は、けっして何も約束しない。禅はただ、あなたに「今」と「ここ」を与えるさて、禅について、「仏教」という認識は実際のところ誤りです、、大人の事情で?(笑)、いわゆる、仏教の宗派のひとつ、「禅宗」という枠にくくられる側面は実際ありますが、、であるならば、禅の崇拝対象は、「仏」あるいは、「釈迦」、さらには、「釈迦の悟り」である必要があるものですが、、禅はそうしたものを崇拝することはありません、、ちなみ
温かいお茶がおいしくなる季節、、毎度ながら思い出される、禅の逸話、、訪問者に対し、禅師が尋ねる、、「あなたは、以前にここに来たことはありましたかな?」訪問者は言う、、「いいえ、初めてです」禅師はさらにこう言う、、「では、お茶でもどうぞ召し上がれ」また別の日、また一人の訪問者がやってきたとき、禅師は尋ねる、、「あなたは、以前にここに来たことはありましたかな?」訪問者は言う、、「はい、以前にお邪魔したことがありました」