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『愛国百人一首』の選定された45首目は北畠親房です。『神皇正統記』を書いた方です。(著者所持の『愛国百人一首』の北畠親房の絵札)鶏の音になほぞおどろく仕ふとて心のたゆむひまはなけれどこの歌は、正平年間(1346~1370)の間に詠まれた歌です。歌の意(こころ)天皇にお仕えして、心のすきも油断もないと思っていたのに、ウトウトと眠ったようで、夜明けを知らせ鶏の鳴
今日は、近所の伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)におまいりしました。お日様が眩しかったです。↑神社に貼ってある言葉、「すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本(もと)となる」北畠親房『神皇正統記』よりは、どういう意味なんかな?って思っていたら、おまいりにいらしてた殿方が教えてくださいました。心にゆるすとは、油断をするということやそうです。少しのことでも、油断をすると大きな過ちのもととなる、と、言う意味だそうです。この言葉には続きがあり、「周易(しゅうい)に霜を履(ふ
日頃の情報収集ツールは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1293年(正応6年)1月29日、北畠親房が生まれる→北畠親房は、後醍醐天皇に認められて大納言になった貴族です。後醍醐天皇が正統な天皇であることを示す歴史書『神皇正統記』を書き残しました•••••cut•••••
古事記p.77曰、「麗しき美人曰、「大山津見神女、名は、神阿多津比賣、亦名は、木花佐久夜毘賣と謂ふ」-注曰、薩摩阿多(鹿児島県日置郡)-a氏曰、「イクメ〔垂仁〕大王の母は阿多津姫である」すると、古事記は、<みまき>姫とするpre-textes(諸家の持たる帝王日継)と<阿多津姫>とするpre-textes(諸家の持たる帝王日継)の混同か??古事記曰(p.111)、「亦、大毘古命女、御眞津比賣を娶して、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知命(漢風諡號:垂仁天皇)」-a氏曰、
さて、今日も「三種の神器」観の展開と深化の理解についての続き。いつものように『神社のいろは要語集祭祀編』から引用させていただきますが、そのままだと、一般的に知られていないであろう古い時代の人物や書物の名や形が想像できない祭具の名が出て来たり、言い回しが「~故なり」「~べし」など古いので、その点、分かりやすく簡潔に書いていくのに腐心しているところです。三種の神器の理解については、世の発展と共に掘り下げられていきました。『旧事本紀玄義』では『旧事本紀玄義』で慈遍は、神璽は百王
『霊山神社北畠家親子の祭神陸奥国府の地』広瀬川の支流不忘橋を渡ると霊山神社霊山神社-Wikipediaja.m.wikipedia.org🍁北畠親房鎌倉…ameblo.jp昨年、30数年ぶりにお隣、福島県伊達市霊山に行ってきましたが初めて行った時は梅雨の頃で、福島県相馬市から霊山を見ながら宮城県丸森町に抜けて車を走らせていましたもちろん、当時は神仏さま、寺社にも興味はまるでなくただ、墨絵のように浮かぶ霊山の稜線を眺めてい
北畠親房『神皇正統記』「神国」論のキーワードは「天照大神」|ゴー宣ネット道場www.gosen-dojo.com戦乱が続いた南北朝時代の人物で、南朝方の重臣であり、中世における「神国」思想の大成者とされる、北畠親房。その代表的な著書が『神皇正統記』だ。同書の冒頭が「大日本は神国なり」で始まることは有名だろう。では、日本は何故、「神国」なのか。それは「天祖(=国常立尊〔くにのとこたちのみこと〕)はじめて基(もとい)をひらき、日神(=天照大神)ながく統を伝へ給(たま)ふ」、そのこと
今日の筆文字『常に冥の知見をかへりみ、・・・』2023.02.02『常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし、邪なからことを思給ふべし』北畠親房『神皇正統記』より解説常に神様がお守りくださっていることを意識して、神様の想いを理解し、正直に生きることを志して、邪な心を起こさないように自戒すべきである。氏神さんにお参りしていただいてきました。皆さま読めましたか?そして意味が分かりましたか?親切にふりがなと解説が書いてあったので理解できました。
お一日参りに氏神様へいきお詣りした後おみくじを引きました今月のお言葉です常に冥の知見をかへりみ神の本誓をさとりて正に居せんことを心ざし邪なからんことを思給ふばし北畠親房『神皇正統記』より今月のお言葉は難しいですね『神皇正統記』は南北朝時代、南朝公卿が著した歴史書陶荒田神社の次の行事は3日の節分祭に続く弁天祭今年は5日が日曜日ですすでに餅まきの台も準備されていた餅まきはたいてい4時からお天気はよさそうです
筑波山行く途中に「小田城跡」の看板を発見したので、下山後に寄ってみました。「国の史跡に指定」と書かれていたので、どんな城跡なのかワクワクう~ん、想像していた城跡と違う・・・重機で整えたように、とっても綺麗に整備されていました。発掘調査が行われた後、遺構復元されているようです。1箇所、古そうな地形を発見階段を登ってみました。登って辺りを見渡していると、犬を散歩している男性から話しかけられました。私が登っていた場所のみ、800年前から現
『維新と興亜』第十二号。特集「日本よ国家たれ」ご興味のある方は是非ご購読下さい。047-352-1007、mail@ishintokoua.comまで。小生の「大川周明は不敬なのか」も掲載頂いた。大川氏『日本二千六百年史』における観念右翼(蓑田胸喜氏ら)による論難について、『神皇正統記』を紐解きながら解説した。小生は大川氏は根源的には勤皇主義者であった、と考える。・大川の源頼朝評・大川の北条泰時評・大川の足利尊氏評価・不敬と目された箇所
独ソ戦と現代>80年前の不可侵条約、今の国際政治にも影-BIGLOBEニュースBIGLOBEニュース現在の国際情勢は、独ソ戦前に酷似しているように私には思える。現在のウクライナ危機が、これ以上80年前に近づくようなことのないよう、祈らずにはいられ...「あのお菓子」の名前地域、年代で分けると…|北日本新聞ウェブ[webunウェブン]北日本新聞30代以下の若い世代は「七越焼」が約42%と抜き出ている一方、「ぱんじゅう」は約7%と、全年代の中で最も低くなりました。「ぱんじゅう
言えるで。日本とは、天皇を中心にして国民が皆、一つの家族のように仲良く助け合って暮らす国。私は日頃、産経新聞も含めて「マスゴミ」と揶揄していますが、それでもまだ産経新聞は取っています。媒体(メディア)として、外部の人の記事も載せるからです。今日は皇統の話ですが、産経は唯一の保守っぽい新聞なのでまだマシなのですが、それでも平気でnaniwakawaraban.jpこちらは上記のミラーサイトです。私は日頃、産経新聞も含めて「マスゴミ」と揶揄していますが、それでもまだ産経新聞は取ってい
終戦の詔書の中に『国体ノ精華ヲ発揚シ』というお言葉が入っている。つまり、「国体」というのは戦時中にだけ意味を持つような言葉ではなくて、戦後の平和な社会を築いていこうとする時にあたっても大事な言葉であった。日本の伝統的な政冶思想とはどういうものであったかというと、実は、『国民が幸せになるために』という究極の目的は民主主義と同じなんです。幕末の後期水戸学の代表的人物である藤田東湖が書いた『弘道館記述義』は、日本の国体の特色について明瞭に説いた書の一つですが、その中で東湖は、日本の伝統的
最近、ザ・コインロッカーズに嵌りつつある・・・コメ欄開いてたら某黒飴ンバーから「え、今更?」と水差しされたかも知れんねもう何年も絡みないし、これからも絡む気はないからええけど←3日の城巡りこの日も○ーじさんの車で今回は初めて、ナンカス○ゅんごろうさんも同行し3人で最初に向かったのは茨城県つくば市にある小田城鎌倉期~戦国期まで小田氏の居城南北朝時代には南朝方に属し、北畠親房卿がここに滞在したこともあり・・・かの有名な「神皇正統記」を執筆した場所!高まるぅううううう!!!久々に
今朝は、古事記を読まねばと思いつつ、昔買った神皇正統記について思い出してました。なんか、冒頭…じゃないんだけども、国土の成り立ちについての表現の古事記との違いみたいなのに興味が湧いて、たぶん高校生か、いや大学生の頃か?、古本屋でボロボロの文庫版を買ったのを覚えてます。結局、古びた甘い臭いのする存在感を手に入れて満足してしまい、興味のあった数ページ以降は読んだ記憶はないのだけども、逆に捨てずにまだ実家にあります。夫それ天地あめつち未いまだ分わかれざりし時、混沌こんとんとして、まろがれること鷄
正行が挙兵する三年前の興国五年(1344)、関東(常陸国)の小田城に拠って南朝勢力を拡大する試みに失敗した北畠親房が吉野の南朝に戻ってきました。彼は『神皇正統記』を著わしたことで知られ、折り紙付きの抗戦派でもあります。こうして南朝内の空気が一変します。正行は和平を旨としつつも、挙兵に踏み切らざるをえなくなったのです。正行はまず、正平二年(1347)八月、紀伊国隅田城(橋本市)を攻めました。当時、楠木氏の拠点は河内の東条城(富田林市)にあったとみられ、隅田
【賀名生(あのう)皇居跡/堀家住宅】を出発した我々は………【賀名生の里歴史民族資料館】背後にある小高い丘の上を目指す………いい天気やけど………暑いすでに汗だくになってきたおっ【北畠親房公墳墓0.2K】案内看板も、きちんとあるぞっ【北畠親房】鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。後村上天皇の治世下でも、興国5年/康永3年(1344年)春に吉野行宮に帰還してから、正平9年/文和3年(1354年)に没するま
北畠親房『神皇正統記』を読むシリーズ全14回をアップしました。https://ameblo.jp/silentmajority-urayasu/theme-10112970033.html6年前にインドで悶々としていた時に書いた文章です。いまも悶々としてますが。北畠親房は建武中興を支えた忠臣です。
先哲の氣概に學ぶ~その12~Japanesefeatures!Japanarisefromonlyonedynasty.GrandsonsofHeavenhavebeentakenthrone.Notfoundinothercountriesintheworld.Therefore,Japan;countryofGod神州!今こそ令和維新↓大日本は神の國なり。ŌYamatohaKaminoKuninari.天祖は
どうも。先月の記事の続き、ですね。鎌倉幕府の成立というのは、私的解釈でいくと実際は承久の乱の終結からだと思うんです。河内源氏の鎌倉幕府将軍は、三代・実朝の暗殺によって途絶えます。これにつき、北条義時の黒幕説が根強くあるんですが、当時の実朝と義時は朝廷から将軍継嗣を迎える手はずを整えている点では共通認識を共有していて、実朝を暗殺することで起こるインパクトを義時が歓迎しないと思うんですね。もし、それを押して暗殺するのなら、それに代わる大きな「因子」が無くてはならないので、今後の
明治天皇御製より日本の心を学ぶ~その51~祝皇紀2680年「日本賛歌祖国の命」心ある方々、是非とも御覧ください。宜しくお願いします↓わがくにはWagaKuniha神のすゑなりKaminoSuwyenari神まつるKamimatsuru昔のてぶりMukashinoTeburiわすれなよゆめwasurenayoyume<歌意>わがくには、神の後裔である。神をまつるという古からのならわしを決しておろそかにしてはならない!<E
57thEmperor"Yōzei"第57代陽成天皇祝皇紀2680年「日本賛歌祖国の命」心ある方々、是非とも御覧ください。宜しくお願いします↓Name:Yōzei陽成天皇PersonalName:Sadaakira貞明Father:Emperor"Seiwa"清和天皇Mother:FujiwaranoTakaiko藤原高子Spouse:PrincessKanshiPrincessYasukoPrincessAnekoMausol
お正月で、編集者さんたちが休みの間に、資料整理をやらねばと思っていたら、忘れていた資料も出てきたりで、ほぼ10年分の書類を捨てたり保存箱に分けたりと・・・猛烈な勢いでやりました。飽きてきたら、インタヴューの文字起こしを1時間やったりと気分転換も。すると、近々の講演会3回分に必要な資料が1つずつ出てきました。天の配剤と思う。それぞれ、番号を振ってエクセルの表に記録し、保存場所に置き直しました。その一方で30リットルのごみ袋10袋分を捨てる。書籍を置くスペースが少し増えて本当にほっとしま
◯論述式前編論述題A・・並[次の史料は鎌倉時代の戦乱についての論評である。この戦乱を筆者はどのように評価しているか。史料中の「法皇」,「後室」,「上」を具体的にあげ、そのように評価する根拠にもふれながら、80字以内で説明せよ。]史料:【王者ノ軍ト云ハ、トガアルヲ討ジテ、キズナキヲバホ
【Q15178】現在の茨城県つくば市にあった小田城で執筆され、城跡に「起稿之地」の石碑が建てられている、神代から後村上天皇までの皇位継承の歴史を述べ南朝の正統性を主張した、南北朝時代の公卿・北畠親房の著書は何?【神皇正統記(じんのうしょうとうき)】【Q15179】政府が2030年頃の実現を目指し公募で選定した複数の自治体で実証を開始する予定となっている、人工知能(AI)やビッグデータを活用し、車の自動走行など最先端技術を集約した未来都市をつくる構想を何という?【スーパーシティ構想】【Q1
品川区で発生したエリート女性の姉妹皆殺し事件!そのあまりに切ない境遇とは?【背筋も凍る!女の...エキサイトニュース皇紀2600(紀元2600)年祝典が行われ国民が湧いた1940(昭和15)年。東京都品川区のとある長屋で、女性が何者かに胸を刺され殺される事件が発生した。今も遠い「昭和のアイドル」47NEWS時間(とき)の花束』という題名のキルト作品集が大ヒットしている。7月下旬に発売され、発行部数は20万部を突破。収録作品を集め、今月初めに東京・池袋で開...蜩(ヒグラシ
『神皇正統記』は成立後間もなくから諸所で書写され、皇統の歴史の標準的な叙述として広く人々に読まれている。『神皇正統記」において親房は、「正統」の皇位がいかにして伝えられてきたか、伝えられるべきかを説く。皇位は父子相承を正理とするが、実際には傍系他流からの継承例が少なくない。正統の経路は、その系統に属する代々の天皇がそれぞれに徳を顕し皇位を子孫に伝えたことをもって発現する。ひとつの系統に後継者が絶え、正統の流れが閉塞すると、別系から立った新天皇に正統を供給する新しい経路が遡及的に辿
「明治にゃんこ」に投票!みんなの回答を見るキャンペーン詳細平成二十八年八月八日、天皇陛下(今の上皇陛下)は、国民に対して譲位の御意思を表明された。その御意思に沿って同三十一年四月三十日の御譲位と翌五月一日の皇太子徳仁親王(今上陛下)の践祚がなされ、そして本年十一月十四日と十五日の大嘗祭によって、今上陛下は天照大御神と一体となられる。即ち、現人神(あらひとがみ)になられる。この大嘗祭が歴代天皇の御代に一回行われてきたということは、天皇家の祖である天照大御
五月一日から新しい御代が始まり、世間では、我が皇室の歴史と伝統に基づく皇位の継承は終了したかのごとく思われているが、未だ、我が国の最も深遠で神秘につつまれた最重要の儀式がある。それは、新帝が天照大神と一体になられる大嘗祭である。大嘗祭は、十一月十四日と十五日の二日間行われる。この二日間、新帝は、お一人で、新たに建てられた悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)に籠もられる。そして、「同床共殿」、即ち天照大神と食事と寝床を共にされる。天皇は自ら天照大神の御膳を作ら