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抑々信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。如何に信仰上もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味において神様というものは、理屈に合えば何程でもご守護があるが、理屈に合わなければ如何に拝むとてもご守護はないのである。この点が最も肝心であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。さんざん医療を始めあらゆる療法を受けても治らない病人などが、浄霊によって忽ち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起こる人がよく
奇跡とは、一言にして言えば有り得べからぎる事実がある場合をいうのであるが、実は有り得べからざるところに有るという事は、本当はないのである。だから有ると思うのは、それは誤解以外の何ものでもない。というと何だかややこしい話だが、その理由を左に書いてみよう。右は有り得べからぎる音と、決めてしまっているその既成観念が既に錯覚なのである。何となれば、その観念こそは表面に現われた、即ち現象そのものだけを見て決めてしまうからである。勿論、現在までのものの考え方は、唯物的社会通念を通して見るのであるから
私は先に治病力としての神秘光線に就て説明したが、茲に今一層詳説してみよう。人間の霊体は肉体と同様の形態を有しているが、但だ異る所は霊体には霊衣なるものがある。洋語ではアウルという。それは霊体から不断に一種の光波を放射している。恰かも霊体の衣ともいうべきもので其名がある。色は大体白色で、人により稍々黄色又は紫色を帯びたものもある。そうして厚薄の差別甚だしく、普通は一寸位の厚さであるが、病人は薄く、重症となるに従い漸次薄くなり、死の直前には全然なくなるのである。世間よく影が薄いなどというのは
霊界なるものは、実に霊妙不思議な存在であって、現世人の常識判断ではとうてい理解し難いものがある。それについて人間の想念が霊界に如何に反映するかを書いてみよう。霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり、変移極まりないものである。その例としてここに絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。ところがその作者の人格にようて憑り給う神霊仏霊に自ら高下を生ずる。即ち作者の人格が然らしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。故に形は同一であっても、作者の人格
霊界は、天国、八衢、地獄の三段階になっている事は既説の通りであるが、これが人間の運命と密接な関係をもっている事を説いてみよう。そうして右の三段階を細別すれば一段は六十になり、合計百人十段階の層になっている。私はこれを名付けて霊層界という。人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。この事を真に把握せぎる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に終
罪穢と病気の関係については、宗教方面において多く唱えられてきた。これは事実であるが、私は霊的医術の見地から説くつもりである。前項に述べた如く、人は悪を思い悪の行為を重ねるに従って漸次曇りが増量する。然るに曇りの濃度がある程度に達する時、それを解消すべき自然浄化作用が起こる。勿論霊界における鉄則であるから、如何なる人と雖も免れ得ない。そうして右の浄化は多くの場合病気となって現われるが、時としては他の形即ち種々の災害等による事もある。勿論右の曇りと雖も、体的には毒血、膿の溜積である。しかしなが
これから運命について書いてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。しかしこれは全然違うのでそれを書いてみるが、宿命とは生まれながらに決まったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、なかなか思うようにゆかないのが、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論できないようになっている。従って人間は自分の
私のかいた文字を粗末にすると必ずお気付けがあるから、注意して貰いたい。これは“おひかり”に限らず、すべての文字がそうである。何となれば一字々々に神霊が宿られているからである。そのくらいの偉力がなければ、万人を救うことができるはずはないからで、つまり私の文字は生きているので、そのつもりで扱うべきである。
今まで、本数の宣伝方法としては、浄霊と刊行物の二つによって行なわれてきたことは知る通りであるが、これからは今一つ座談会、講演会等を各地に開いて宣伝するのである。これは勿論耳からの宣伝で、今までの病気治しと日の宣伝の外に、今度から耳の宣伝が加わるわけだ。このように三位一体的方法によれば、大いに効果のあがる事は期待し得るであろう。勿論、耳の宣伝とは言葉によって本数に関する一切を知らせ、如何に本教が勝れた宗教であるかを伝えるのである。そうして相手に対し分らせるためには、こちらも信仰的知識が豊富
世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行き詰りという言葉を発するが、これはものの真相を弁えないからで、何事も行き詰りがあるから発展するので、つまり行き詰りじゃないわけで、ちょうど駈け出しすぎては息が続かないから一休みするのと同じわけで、いわば節である。これは竹を見ても分る通り、伸びては節ができ、伸びては節ができるから丈夫に育つので、伸びるばかりで節がなければ、あの強靭な竹とはならないのである。従って節の少ない竹ほど弱く、節の多いほど強いのはそういうわけである。このようにすべては自然が
昔名刀をつくるには火で焼を入れ、鎚で叩いては水に突っ込み、これを繰り返す。所謂鍛えるのである。この理は人生にも当てはまるが、実に面白いと思うのである。本教が開教後日を経るに従って、毀誉褒貶、叩かれたり煮え湯を浴びせられたり、ひやっというような冷水に突っ込まれたりする事がたびたびある。これは何故かと人から聞かれる。私は右に対し名刀の例えを言うので、相手はよく了解するのである。この事は昔から人並外れたような仕事をする者は、例外なく名刀的苦難を嘗めるものである。これを宗教上からいうと、神
今ここに書く、ヨクない人間というのは、善くない人間の事ではない。欲ない人間の事である。というと、ちょっと変に思うであろうが、以下の説明によって誰しもなるほどと思うであろう。つくづく今日の社会をみると、欲張りの人間は山ほどあるが、実をいうとそれらは悉く欲のない人間ばかりである。欲張りでヨクのない人間とは変だが、実は一時的に儲けようとするだけで、その先は損をする事に気が付かないのである。というのは最初嘘で固めたうまい事を言うが、嘘は必ずばれるから、そこで信用は零となる。但し嘘も巧妙につくほど
抑々宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者はまことに寥々たるものである。然らば私は真の信仰者とは如何なるものであるかを書いてみよう。如何ほど立派な信仰者のつもりで自分は思っていても、主観だけではなんらの意味もない。どうしても客観的にみてのそれでなくては本物ではないのである。そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事をまず第一に知らねばならない。そうなるには理屈は簡単である。それは人から信用される事である。例えばあの人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してな
先に「私のみた私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心理を書いてみようと思うのである。現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝でいっぱいだ。これは何に原因するのであろうか。なるほど私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによって如何に多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸子の誰もが知るところであろう。ところが私のような特殊人でないところの普通人であっても容易に行なわれる幸福の秘訣があるから
信仰の妙諦を一口に言えば「神様から愛される」事である。「神様のお気に入られる」事である。然らば神様はどういう人を愛されるかという事であるが、それは後にして、その前にまず知っておかなければならない事がある。それは本教の使命である。この使命たるやキリストの言った世の終り、または最後の審判、釈迦の言われた仏滅の世という時節がいよいよ迫り来たった事である。これに対し神様や仏様は大慈悲心を発露させ給い、この世の大峠を一人でも多く無事に乗り越させようとなさる事で、その方法として神様はどういう方法をお採り
私は夢についてよく人から聞かれるので、ここに語ってみよう。およそ人間と生まれて夢を見ない人はあるまい。しかし単に夢といっても種々ある。ざっと種類を並べてみれば、神夢、霊夢、雑夢、正夢、逆夢等であって、神夢とは神のお告げであり、霊夢とは守護神の警告であり、雑夢とは他愛もない何人も常に見る夢である。正夢とは読んで字の如く、夢の通りが事実に表われ、逆夢とはその反対である。元来夢というのは幽冥という言葉を詰めたもので、その人の霊が睡眠と共に離脱し、幽冥界に往くのである。そうしてその場合潜在意識や常に
人間生活の中で、この恋愛くらい厄介な解決困難の問題はあるまい。一言にして言えば恋愛は人生の花であると共にまた茨でもある。恋愛に対し至上主義という者もあるが、不道徳の原因ともされている。しかしながら我らからいえば至上主義でもあり、また不道徳の場合もあるというのが本当であろう。今恋愛について我らの見解を述べてみよう。抑々恋愛なるものは、神が人間に与えた最大なる恩恵でもあり、実に耽美しても耽美し尽くせない魅惑的のものでもある。そうして恋愛が高潮の結果、生命を放棄する事さえ何とも思わなくなるほど
近来、子供の不良化が社会問題として取り上げられているが、これに対し適切な回答は与えられていないようである。今日見らるる種々の不良化防止論は甚だ末梢的で、一つも問題の核心に触れていないのは遺憾である。これについて、我らが信ずる絶対的防止法を書いてみよう。何よりもまず、その根本が何処にありやをはっきりさせる事で、それには子供と親の関係を考えるべきで、これを最も分り易く言えば、親が木の幹であるとすれば子はその枝である。故に幹の方を閑却しておいて、枝が腐朽するのを止めようと骨を折るのだから、ナン
近来、見合結婚が良いか恋愛結婚が良いかは、相当喧しく論じられている。しかしながらこれを霊的に解釈をする時は、どういうわけになるかを説いてみよう。我が国は、都会はもとより如何なる山間僻地と雖も、必ず鎮守様即ち産土の神様が鎮まりいます産土神社または氏神様がある。これはちょうど現界における区役所のようなもので、人間社会における冠婚葬祭はもとより、出産等に至るまで産土の神様が担任されておらるるのである。昔から、子が生まれるや必ずお宮参りに行く習慣があるが、これは子供を授けて下さった神様にお礼参り
私は、つくづく世の中を見ると、多くの人間の楽しみとしているところのものは、善か悪かに分けてみると、情ない哉、どうも悪の楽しみの方がずっと多いようである。否楽しみは悪でなくてはならないように思っている人も少なくないらしい。まず一家の主人公であるが、生活に余裕ができると花柳の巷へ行きたがり、二号などを囲いたがる。然もそれがための金銭は正当でない手段によって得る方が多いようであるが、勿論それは悪に属する行為である。それがため危い橋を渡り、国家社会に損失を与えたり、自分自身としても家庭の円満を欠
およそ現代の人間をみる時、最も欠除しているものは、優しさと奥床しさであろう。まずここでは本教を主として書いてみるが、例えば自分の信仰がどれほど進み、身魂がどのくらい磨けたかを知るには一つの標準があって、これはさほど難しい事ではない。何よりも人と争う事を好まなくなり、優しさが湧き、奥床しさが現われる。こういう心と態度になるこそ磨けたとみてよく、この点最も信仰の価値を見出すのである。そのようになった人にして一般から好愛され、尊敬され、無言の宣伝となるのである。ところが、今日の世の中を見ると
およそ人間生活上、我ほど恐ろしいものはあるまい。霊界の修業は我をとる事が第一義とされているにみても知らるるのである。私は以前大本教信者の時、お筆先の中にこういう一節があった。「神でさえ我でしくじりたのであるから、我ほど怖いものはないぞよ」とあり、また「我がなくてはならず、我があってはならず、我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とあり、この意味たるや実に簡単にして我の実体を道破しているには感銘に堪えなかったのである。それによって私も大いに反省した事は勿論である。またお筆先に、人間は
およそ世の中の人をみる時、誰しも持っている性格に我と執着心があるが、これは兄弟のようなものである。あらゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、この我と執着に因らぬものは殆どない事を発見する。例えば政治家が地位に執着するため、最も良い時期に桂冠すべきところを、時を過ごして野垂死をするような事があるが、これも我と執着のためである。また実業家等が金銭に執着し利益に執着するため、却って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益のようでも長い間には不利益となる事が往々ある。また男女関
私はいつもお任せせよという事を教えているが、つまり神様にお任せし切って、何事があってもくよくよ心配しない事である。というと実に造作もないわけなくできそうな話だが、どっこいなかなかそうはゆかないものである。私でさえその境地になった時、随分お任せすべく骨を折るが、ともすれば心配という奴、にょきにょき頭をもたげてくる。というようなわけで、然も今日のような悪い世の中では殆ど不可能といってもいいくらいである。しかしながら神様を知っている人は大いに違う。というのはまず心配事があった時、それに早く気が付く以
昔からある有名な格言に「なる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍」と言い、また「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え」という事があるが、全くその通りである。私はよく人にきかれる事がある。「先生が今日あるは如何なる修行をされたのであるか。山へはいって滝を浴びたか断食をされたか、種々の難行苦行をされたのではないか」と。ところが私は「そんな修行はした事がない。私の修行は――借金の苦しみと怒りを我慢する――というこの二つが主なるものであった」と答えるので、聞いた人は唖然とするのである。しか
私は、この前悪に勝つという論文を書いたが、これは悪人に負けてはならないという意味であったが、今度は他人事ではなく、ご自分の肚の中にいる悪に勝たなくてはならないという事を書いてみる。およそ如何なる人間でも、肚の中ではいつも善と悪と闘っている。つまり仏教でいう煩悩を抑えつけようとする戦いである。何しろ人間の欲にはキリがないから、やれ金が欲しい、女が欲しい、勢力を得たい、名誉が欲しい、わがままがしたい、というような悪の奴が始終頭を持ち上げようとするので、其奴を抑えつけようとする。そんな事をしてはいけ
下座の行という言葉は昔からあるが、これは人間処世上、案外重要事である。然も信仰者において殊に然りである。信仰団体などに、教義を宣伝する先生に、どうも下座の行が足りないように見える事がしばしばある。昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔るほど頭を下げる稲穂かな」などという句があるが、何れも下座の行を言うたものである。威張りたがる、偉く見せたがる、物識ぶりたがる、自慢したがるというように、たがる事は却って逆効果をきたすものである。少しばかり人から何とか言われるようになると、ぶりたがるのは人
私は常に、順序を正しくせよと言うが、この順序をたった一字で表わしたのが「主」の字である。今この主の字を解剖してみよう。上中下の横棒三本は天地人、日月地、五六七、神幽現という意味で、それを経の棒が貰き、一番上にヽが乗っている。これが正しい順序で、政治でも経済でも教育、宗教でも一切万事この形でゆかなければうまくゆくはずがないのである。ところが今日まであらゆるものは、たいてい経緯が別々になっていた。その最も大きなものは経の東洋思想と緯の西洋思想とで、それが離れ離れであった。ところがいよいよ時節到
「神は順序なり」という事が昔から言われているが、これは全くそうであると思う。何事においてもそれが滑らかに運ばないという原因は、全く順序が乱れているからで、特に人事においてそうである。中国の諺に「夫婦別あり、長幼序あり」と言うが全く至言である。近来社会全般の順序の乱れは甚しい。また順序と礼儀とは切っても切れない関係にあるもので、この点特に注意すべきと思う。大自然をみても分るように、春夏秋冬も、その日その日の明暗も、草木の生育等一つとして順序に添わぬものはない。梅の花より桜の花の方が先に咲くという
いまさらこんな事を言うのは、余りに当たり前すぎるが、実をいうとこの当たり前が案外閑却されている今日であるから、書かざるを得ないのである。それはまず現在世の中のあらゆる面を観察してみると、誰も彼も正義感などは殆どないと言ってもいいほどで、何事も利害一点張りの考え方である。というわけで偶正義などを口にする者があると、時勢遅れとして相手にされないどころか、寧ろ軽蔑されるくらいである。ではそのようにして物事が思うようにゆくかと言うと、意外にも寧ろ反対であって、失敗や災難の方が多く、それを繰り返している