ブログ記事362件
これからの人間は世界人にならなければ駄目だ。これについて面白い話がある。終戦直後ある軍人上がりの人が私の所へ来て、憤懣に堪えない面持で「今度の降伏はどう考えても分からない。実に怪しからん」と言って、憤慨しながら話しかけるのだが、私の方はさっぱり気が乗らないので、彼は呆れたらしく曰く「先生は日本人ですか」と聞くから、即座に私は「日本人じゃない」と答えると、彼はぎょっとして、震えながら「では何処の国の人間ですか」と聞き返すので、私は言ってやった。「つまり世界人なんですよ」-その言葉に、彼はぽかんと
この表題と説くに当たっては、まず最初①の意味から書いてみるが、見らるる通り①とは、○の真中にヽがついている。ただこれだけなら別に大した意味はないが、実はこの①の形ほど神秘偉大な意味はないのである。それは何かというと、この○はこういう意味である。つまり、森羅万象一切の形は○である。第一地球も太陽も月もそうであり、人間も霊になると他へ移動する場合、○の形になっていく。これは人魂がよく現わしているし、神様でも移動なさる場合やはり○になられるが、同じ○でも神様の方は光の玉となる。だが人間の方は光がなく
よく安心立命という言葉があるが、これは精神的の面に限るように世人は思っているようだが、この考え方は大きな間違いであって、真の安心立命とは物質も伴わなくてはならないのは勿論である。考えてもみるがいい、病気、貧乏、争いの三つの災厄のうちの、例え一つでもあるとしたら、何処に安心があるであろうかという事である。俺は一生涯病気の心配はない、貧乏になりっこはない、争いを起こすような事もないという自信がもててこそ、真の安心立命は得らるるのである。ところがそのような三拍子揃うなど、今の世の中ではとうてい夢でし
現代人は如何なる問題と難も、科学によって解決せられざるものはないように言い、科学は万能薬のように思われているに対し私は質問したいのである。それは道徳は、芸術は、恋愛は、科学によって解決できるだろうかという事である。今仮に科学によって道徳上の問題が解決でき得るとすれば、最も科学教育を受けたところの最高学府を出た人士は、道徳的に優れていなければならないに拘らず、漬職、破廉恥等の犯罪者も少なくない事実を見れば、科学は道徳的には微力である事を物語っている。次に芸術であるが、これはまた意外である。科
普通無神論を書く場合、宗教的に論理を進めてゆくのが当たり前のようになっているが、私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に置き、書いてみようと思うのである。それはまず人間オギャーと生まれるや、早速育つに必要な乳という結構な液体が、然も産んだ親の身体から滾滾と湧き出てくる。それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃になると噛んで食う食物も親は運んでくれる。というようにしてだんだん育って、遂に一人前の人間となるのはいまさら言うまでもないが、中でも最も肝心な食物についていえば、食物には
私がこの偉大なる浄霊法を発見し得たという事は、霊の実在を知り得た事がその動機である。即ち霊を浄める事によって体の病気が治るという原理であるが、これは将来の文化に対する一大示唆とみねばなるまい。実に科学の一大革命である。何となれば病気治療以外のあらゆる部面に対してもこの原理を応用する時、人類福祉の増進は測り知れないものがあろう。それのみではない。この原理の研究を推し進めてゆく時、宗教の実体にまで及ぶであろう事も予想し得らるるのである。神は有るか無いかという事の論争も、数千年前から今日に及んで
この世の中において人間が最も厭うのは悲劇であろう。悲劇を全然無くする事は不可能であるが、ある程度軽減する事は敢えて難事ではない。それについてはまず悲劇なるものの正体を検討してみよう。事実、悲劇なるもののその原因の殆どが病患からである事は厳然たる事実である。なるほど病気以外、恋愛問題、物質欲等から生まれる不正行為等もあるが、これらもよく検討する時、精神的病患からである事を知るのである。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言われているが、全く真理である。私が長年の研究の成果からみれば、邪恋も
昔から宗教と名の付くものは、例外なく戒律が主となっており、それをお説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が神慈秀明会に至っては、お説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、また未信者から聞かれた場合その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言うまでもなく宗教の目的は、改過遷善にあるのだから、それには魂の曇りをとる必要がある。魂さえ清くなれば、悪い事はできなくなり、世のため人のために善を行なう立派な人間になるから
宗教と奇跡は切っても切れない関係にある事は、昔から幾多の文献によっても明らかである。もし奇跡のない宗教でありとすれば、それはもはや宗教とは言われない。何となれば奇跡は神が作るのであって、人間の力では一個の奇跡も作られ得ないからである。故に奇跡のない宗教は宗教としての存在価値はないわけである。ただ形式だけが如何に宗教的であっても、それは宗教的価値を喪失していると言ってもいい。以上の意味において、偉大なる宗教ほど奇跡が多く顕われる事は当然である。奇跡とは換言すれば予期もしなかった利益が現われる
本教の信者は必ず大黒様をまつるが、観音様とどういう関係があるかと聞かれるが、これはもっともな話で、今日までそういうやり方は世間になかったからである。私が大黒様をまつり始めたのはこういうわけがあった。確か昭和八年だと思う。数ヵ月赤字が続いた事があったので、些か心細かったころ、時々私の所へ来るある銀行員が古い大黒様を持っているが、さし上げたいと言うから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置したところ、その月から赤字がなくなって、だんだん金がはいるようになった。そこで私もなるほど大黒様は確かに福
よく私が聞かれる事に、「大先生は、観音信仰がよほど熱烈であられたと想像される」と言うのは、殆ど紋切型といってもいい。この想像は信者としても大部分はそうであろう。況んや第三者においておやである。ところが驚く勿れ、私は観音信仰は全然なかったのである。ただ観音様は如何にも眉目秀麗、円満なるご容姿と、何宗でもまつられてあるその固着や、偏頗のない点に好感を持っていたまでである。ところが前項の初めに書いた如く、私の傍に観音様の霊が終始付いておられる事を知って驚くと共に、この時を契機として観音様に関しての奇
よく昔から神人合一という言葉があるが、実際からいってそういう人は、今までに一人もなかったと私は思っている。なるほど釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者にしても、神人合一の如くみゆるが、実は神意の伝達者であって、分り易く言えば神の取次者であったのである。というわけで世人は神人合一と、神の取次者との区別を知らなかったのである。即ち神の取次者は神憑りや、神の命によって行動するのであるから、常に神や仏陀を祈り、その守護を仰ぐ事にしているのである。ところが私はそういう事は全然やらない。信者も知る如
抑々、救世主とは何か。いうまでもなく、文字通り世を救うべき大使命を負って生まれたる大聖者であって、事実は歴史有って以来未だ顕現したる事のないのは勿論である。これについて私自身の偽らざる告白を赤裸々に露呈し、現在私が行ないつつある聖業について書いてみようと思うのである。私というものが今行ないつつある救世的活動は、人類全体からみれば何万分の一の小範囲かも知れない。しかしながら日に月に救われる人が増えつつある現状からみて、将来は如何に大規模に救われるであろうかも想像され得るのである。私は見え
今から約二千年前ぐらいと思うが、ヨーロッパの一隅から「東方の光」という言葉が生まれ、だんだん拡がって今日は世界中知らぬ者はないほどであるが、今日までこの言葉の意味が本当に分らなかったため、今なお謎のままになっているのであろが、私はこれについて真の意味を知らせようと思うのである。では「東方の光」とは何かと言うと、結論からいえば実は私に対する予言であったのである。これを知ったなら驚かぬ者はないであろうし、第三者としては直ぐに信ずる事はできまいから、ここに確実な例証を挙げて説き明かしてみるのであ
本教は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある。かの釈尊が唱えた「五六七の世」も、キリストの予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた「義農の世」も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も我らの言う「地上天国」と同様の意味である。ただ異なるところは「時」の問題であるが、右の諸宗祖は「時」を知らせなかった。然るにその時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。時が
世界も、国家も、個人も、あらゆる問題を解決する鍵は「誠」の一字である。政治の貧困は誠が貧困だからである。物資の不足は誠が不足しているからである。道義の頽廃も誠のないためである。秩序の紊乱も、誠のないところに発生する。あらゆる忌わしき問題は誠の不足が原因である。宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかない。嗚呼、誠なるかな、誠なる哉。人類よ、問題解決の鍵は、ただ誠あるのみである。
🇷🇴創価学会はフランス政府からカルト認定されています!🇷🇴フランスの反セクト法でカルトとして認定されている日本の宗教団体は、幸福の科学、神慈秀明会、霊友会、崇教真光、創価学会、統一教会となりますhttps://t.co/DpDoIczkrjpic.twitter.com/xwo8kprPub—ダメ。ガッカイ。(@Dame_Gakai_666)November5,2023創価学会はフランス政府からカルト認定されています!フランスの反セクト法でカルトとして
私は十数年以前から、自然栽培法といって金肥人肥を用いず、自然のみの肥料を使って農作物の収穫を得る事を発見し提唱してきたのであるが、その当時農民に向かって如何に説得し信じさせようとしても、なかなか耳をかす者がなく随分努力をしたが思うようにはゆかなかった。しかし最初からの私の信念は、これこそ絶対の真理である以上、いつかは必ず分る時が来るに違いないと共に、これによらなければ、農民はいつになっても救われないばかりか、国家の運命にも至大なる関係がある事を考え、撓まず屈せず今日に至ったのである。ところが
今の世の中で、人々は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困等々を言うが、これについて私は、その原因が精神病と密接な関連のある事で、今それを書いてみよう。まず精神病なるものの真因は何であるかというと、これがまた破天荒ともいうべき何人も夢想だもしない事である。勿論真理そのものであるから、真の精神病者でない限り何人も納得のゆくはずである。そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである、というと唯物主義教育を受けてきた現代人にはちょっと分り難いかも知れない。何しろ目に見えざるものは信ずべから
栄養の喜劇とは、随分変な題と思うであろう。私もこんな言葉を用いたくはないが、外に適当な言葉を見出せないから読者は諒とされたいのである。抑々今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何ものでもない。この誤れる栄養学が有害無益の存在であるに拘らず、最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行なわれているのであるから、それに要する労力や費用の尨大なる事は、実に惜しみても余りあると言うべきである。私がこのような大胆不敵にして狂人とも見られそうな理論を発表するとい
本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と、後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえできれば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特にアメリカは薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。故にもし薬で病気が治るとしたら、病気
よく世の中で、身体をこわすという事をいわれるが、これほど滑稽な話はない。人間の肉体はガラスや瀬戸物のような物質ではない。これは全くその真相を知らないからで、実は病気とは身体をこわすどころか、身体を調えるためのものである。よく下痢をすると、お腹をこわしたからというが、実は健康に有害な毒素が排泄されるので甚だ結構な事である。
よく昔から人は病の器などと言うが、これほど間違った話はない。我らはこれを訂正して人は健康の器なりと言うのである。前項に述べた如く元々人間は健康に造られたものであるからである。ところが実は病なるものは人間に付きもので、どうしても解決できないのが現実で、やむを得ず宿命として諦めてしまったのである。勿論人間一度病に罹るやなかなか簡単には治らない。長くかかったり頻繁に病気に罹ったり人によっては健康時よりも罹病時の方が多い事さえある。それがため病の器としか思えないのでそのような状態が長く続く事によって
抑々、健康を説くに当たって第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然順応であり、自然尊重である事である。それについてまず考うべき事は、造物主即ち神が人間を造られた御目的は何であるかという事である。我らの解釈によれば、それは真善美の完き世界を造る事である。といってもこんな途方もない説は容易に受け入れ難いであろう。勿論、そのような理想世界は何万何十万何百万年かかるかは分らない。としても世界はそれに向かって一歩々々進歩向上しつつある厳然たる過去の事実を見れば否定もでき得ないであろう。そうして神は霊で人間
人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。ところが世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思われたり、旧人扱いされたりする。なるほど在来の宗教信者は、そういう傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない。まず何よりも大自然を見るがいい。大自然においては一瞬の休みもなく、新しく新しくと不断の進歩向上を続けている。見よ人間の数は年々増える。地球上の土地も年々開発される。交通機関も、建造物も機械も、一つとして退嬰するも
私は以前、フランスの有名な近代哲学者である、かのアンリ・ベルグソンについて書いた事があるが、今度再び書いてみたい心が起こったので筆をとったのである。というのは、よく私に向かって色々な事を聞いたり、また私の方から話す場合、その意味が簡単に分る人はまことに少ないのであって、事柄としては実に簡単で分りそうなものだが、なかなか分らない。聞く人は相当の教養がありながら頷けないので、私は色々な例を挙げて、くどくどしく並べてやっと分るのである。その都度思い出すのは、ベルグソンの哲学である。何故、簡単な
この「物を識る」という言葉ほど、深遠微妙にして意味深長なものはあるまい。恐らくこの語は世界に誇っていい日本語と言えよう。しかし簡単には分り難い言葉なので、今できるだけ分り易く書いてみよう。物を識っているという言葉の意味を解剖してみると、こういう事になる。それは世の中のあらゆるものを経験し、透徹し、実体を掴み、なんらかの形によって表現するという意味である。例えばある問題に村して、こうすればこうなるという唯一つの急所を発見する事である。それに引き替え大人気ない小児病的議論を振り回したり、軽卒
神様の御目標は、真善美完き理想世界をお造りになるのである事は、本教信者はよく知っているところである。としたら、その反対である悪魔の方の目標は、言わずと知れた偽、悪、醜である。今それを解釈してみるが、偽は勿論文字通りであり、悪も説明の要はないが、ここに言いたいのは醜の一字である。ところが世の中には、往々間違えている事がある。というのは、醜が真善に付随している例で、これを見た人達は、却って讃仰の的とさえする場合が往々ある。これを分り易く言えば、粗衣粗食、茅屋に住み、最低生活をしながら、世のた
私は信仰の味について世人に告げたいのである。天下何ものにも味のないものはない。物質にも、人間にも、生活にも、味のないものは殆どあるまい。人生からこの味を除いたら、文字通り無味乾燥全く生の意欲はなくなるであろう。従って人間が生に対する執着の根本は、味による楽しみのためである――といっても過言ではあるまい。信仰にも味のある信仰と味のない信仰とがあるのは当然である。ところが世の中は不思議なもので、恐怖信仰というのがある。それは神仏を畏怖し、戒律に縛られ、窮屈極まる日を送り、自由などは全くなく、常に
これは以前も書いた事があるが、本来人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。ところが何しろ祖先以来の罪穢があり、また生まれてからも、本当の事を知らないがため毒をやたらに入れるので、それがため却って病気を増す事もあるが、これも止むを得ないのである。しかし神様は、お役に立つ人が病気のため働けないとすれば神様の方では損になるから、速かに治して下さるのは当然で、なんら心配はないのであ