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この標題の如き言葉は大分前から聞ぐのであるが、この言葉を深く考える時、甚だ面白くない響きを社会人心に与えやしないかと思う。しかし事実その通りであるなら致し方ないとしても、私の経験上、この言葉のような事実は絶対にない事を保証する。これに開し、以下論じてみよう。世の中をつくづくみる時、人事百般にわたって、二種類の見方がある。耶ち、一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。ところが一般人は、一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。例えば、一時的うまく人をだましたり、ものを誤魔化したりする不
誠のあるなしを最も簡単に知る方法を書いてみよう。誠のある人は何よりも約束を重んじよく守る事である。単に約束を守る守らないだけでは世人は大した事とは思わないが、実を言うとなかなかそうではない。即ち約束を守らないという事は、人を偽った事になるから一種の罪悪を犯した事になる。約束の中でも一番軽視しがちなのは時間である。時間の約束をしておきながら守らない事をよく考えてみるがいい。即ち先方は当てにして待っているので、その退屈や焦心はなかなか苦痛である。諺に言う「待たるる身になるとも待つ身になるな」という
人間は、処世上とかく主観に捉われがちで、特に女性に多いのは事実である。この主観に捉わるる事は、最も危険である。というのは自己の抱いている考え方が本当と思って自説を固執すると共にその尺度で他人を計ろうとする。それがため物事がスムーズにいかない。人を苦しめるばかりでなく自分も苦しむ。右の理によって、人間は絶えず自分から離れて自分をみる。即ち、第二の自分を作って、第一の自分を常に批判する。そうすればまずまず間違いは起こらないのである。これについて面白い話がある。それは、昔万朝報という新聞の社長で
感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ。何となれば感謝の心は神に通じ、不平の心は悪魔に通ずるからだ。この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり、常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ。大本教のお筆先に曰く、「喜べば喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。
私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説のうち、最も心を引かれたのはかの有名なアメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。まず日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェームズによれば、ただ哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。よろしく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的でアメリカの哲学者らしいところが面白いと思う。私はこれに共鳴して、その当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織り込むべく努めたものであ
今日、本教によって行なわれている浄霊法はとかく世間から誤解され易い憾みがあるから、ここにその点を詳説してみよう。本教浄霊法が治病効果の素晴しい事は近来だいぶん世間に知れわたってきたが、まだ大部分の人特に専門家の一群には相当誤解があるように聞いているから、その蒙を啓くべく、この文を書くのである。今日まで非難する者の言を聞くと、医療よりも効果が少ないという点は一つもない。然らば非難の点はどこかというと、方法が間違っているというのである、その方法が間違っているという事は、非科学的迷信的である
よく隣まで焼けてきた火事が、ご浄霊をするや忽ち風向きが変わけ助かった、というおかげ話はよくあるが、これはどういうわけかというと、こうである。即ち火事というものは火の浄化作用であって、物質に穢れが溜っているとその霊も曇っているから、これに火が移り易くなる。そこで浄霊をするとその曇りが消えるから、焼くべき材料が無くなり、火は方向転換するので全く自然である。従って火災を無くすには、何よりも物質の霊を曇らせないようにする事で、これより外に根本的に火事を無くす法はないのである。としたらまずご神体を奉斎し
昔から言われている風水火の大三災、飢病戦の小三災とは如何なるものであるか、これについてその根本義を書いてみよう。風水の原因は天地間の浄化作用であって、何故浄化作用が発生するかというと、霊界における曇り即ち目に見えざる汚濁が堆積するのである。それを風力によって吹き払い、雨水によって洗浄される。それがための暴風雨である。然らば右の如き曇りとは如何なるもので如何にして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである。即ち想念の悪に属するものとして、不平、憎み、呪い、嫉み、個人的怒
本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事を書いてみるが、一言にして言えば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのはいまさら言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。従って貧乏も争いも浄化の現われで、私の言う病貧争悉くがそれである。ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで、従
私は浄霊の方法として現在行なっている方法は、光の文字を大書した紙片を与えるのである。それを“おひかり”として懐へ入れる事によって効果を発揮する。それは光の文字の墨色から強力なる光波が放射し、信者の身体から腕を通して掌から放射される。この放射力は数尺乃至数間くらいが最も適当としている。そうしてこの光の文字から光波が放射されるという事はいったい如何なわけかというと私の身体から霊線を通じ個々の光の文字へ一瞬にして伝達するのである。ちょうど放送の無線電波とよく似ている。私の霊体から、霊線を通じて光波が
私は仏教について、今まで何人も説かなかった色々の事を書いて来たが、勿論これは神示によって知り得たものばかりで、読む人は驚異の眼をみはるであろう。とすれば、何故神は今日までそれを明らかにせられなかったかというと、全く時節のためである。時節とは、先に述べた如く夜昼の転換という一大エポックであって、つまり今まで長い間続いてきた夜の世界、即ち暗黒無明の世界が消え、昼の世界即ち赫々たる太陽の光の世界が近づきつつあるのである。しかし闇の夜といっても、月光によってある程度物を見ることができたので、せめてもと
力について世の中の人は深い事を知らないからここに書いてみるが、これを科学的定義でいうならば、目に見える形ある力ほど弱く、見えない力ほど強いという原理である。即ち前者は何馬力とか、何キロとかいうように限度があるが、後者に至っては無限である。つまり人間の想念と同じで、目には見えないが恐るべき力がある。偉い人の力は一人で世界を動かす事さえできるのは人の知る通りである。右は人間だけについての説明であるが、これを押し拡げたのが神様の力である。これを科学的に説くこともできる。即ち科学で唱える粒子説がそ
今最も世界人類に脅威の的とされているのは何といっても第三次世界戦争であろう事は、いまさら言うまでもない。現に日本は固より、全世界の識者という識者は、それぞれの立場からこれを防止すべく、全知能を絞って筆に口に論議しつつあるのは、人皆知る通りである。ところがどうしたわけか、独り宗教家に至っては、それに対しなんらの発言をする者のないのは、実に心もとない限りである。そこでまず考えてみて貰いたい事は、いったい宗教の目的は何であるかという事である。言うまでもなく、戦争のない平和世界を実現するにあるのは
最後の審判についてこれから書いてみるが、その根本としては言うまでもなく世界的大清算であって、長い間溜まりに溜まったところの罪穢の浄化作用である。従って、余りに汚なくどうにもならないものは地上から永遠に抹殺される外はないから恐ろしいのである。というわけで、将来役立つものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。それは口で言えば甚だ簡単だが、これが人間にとっての脅威は、前古未曽有の大異変であるから、とうてい筆や言葉では表わせないのである。つまり、根本は善と悪との
大聖キリストの言った「世の終り近づけり汝ら悔い改めよ」とまた一面「天国は近づけり汝ら悔い改めよ」とのこの二つの警告は、この意味を本当に説いたものは未だ曽てなかったようである。勿論時期至らなかったためでもあるが、私が常に言うところの今日までは夜の世界であったからで、それが時期いよいよ来たって夜の世界はここに終焉を告げ、昼の世界に転換する事となったという意味とよく合致している事である。即ち「世の終り」とは「夜の終り」であり、天国とは昼の世界を言うのである。即ち今日までの苦悩に満ちた暗黒世界は夜の表
キリストの言った最後の審判とは、いつ如何なる形によって現われるものであろうかは、これは、基督者は固より一般人も知らんとするところであろう。いよいよ時期切迫の折柄、その片鱗をここに発表するのである。しかしこれは私個人の見解ではない。全く霊感によるのであるから、一つの参考とし、学説として読まれん事である。いったい最後の審判なるものは、事実あるであろうかをまず決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依しているキリストともいわるる大聖者が、あり得ざ
抑々、万有一切は霊主体従の法則によって働きつつある事はいまさらいうまでもないが、あらゆる物象の動きは、霊界に先に起こり、現界に移写されるとしたら、その場合時間の遅速があるのは勿論で、これはこの事象の大小によるのである。即ち速きは数日、遅きは数年経ってから移写される事もある。しかし、これが昼の世界になるに従って短縮されるので、最近に至ってよほど短縮されたようである。それどころか現在の霊界は、曽てないほどの混乱状態を呈していると共に、変化の激しい事も、よく世の終末を物語っている。邪神の一大活躍
天狗界は、各地の山嶽地帯の霊界にあって、天狗なるものはそれぞれ山の守護としての役を司っている。また名山などで高級な神霊の鎮祭されている所では、その神霊の下にあって山に関する種々の業を司っている。そうして天狗界にも上中下の階級があり、総主宰神は鞍馬山に鎮座まします猿田彦命である。天狗には人天及び鳥天の二種がある。人天とは人間の霊であって、現世における学者、文士、弁護士、教育家、神官、僧侶、昔は武士等で、死後天狗界にはいるのである。また鳥天とは鳥の霊であって、鳥は死後悉く天狗界に入り人天の命に
龍神などというと、現代人は荒唐無稽の説と思い、古代人の幻想による作為的のものとしか思うまいが、実はそうではないので立派に実在しているのである。それについて私の体験から先に書いてみるが、私が宗教や霊の研究にはいった初めの頃である。ある日精神統一をしていると、突然異様の状態となった。それは口を大きく開くと共に、口が耳の辺まで裂けてるような感じがし、眼燗々として前額部の両方に角の隆起せる如く思われ、猛獣の吼えるが如き物凄い唸り声が白然に発するのである。私は驚くと共に、かねて霊の憑依という事を間いてい
この標題を見たら、誰しも首を捻るであろう。何故なれば、悪人でも健康そうに見える者も沢山あるからで、寧ろ悪人の方がそういう人間が多いくらいだ。しかしこれは表面から見るからで、内容即ち霊の方は立派な病人なのである。というのはいつも言う通り、悪人というものは悪霊が憑依して、本守護神を押し込め、正守護神を蹴っ飛ばして、早く言えばその人の霊の大部分を占領してしまい、悪霊自身が主人公になりすまし、勝手気儘に振る舞うからである。その悪霊とは、言うまでもなく狐、狸、龍神、その他の動物霊であるから、その行為
如何なる人間といえども正守護神、または守護霊なるものが霊界に在って付随し、常に守護している事である。そうして人は神の子であり、神の宮であるといわれるが、それは神から受命された即ち神の分霊を有しているからで、これが本守護神であり、後天的に憑依せる動物霊が副守護神であるが、動物霊とは狐、狸、犬、猫、馬、牛、猿、いたち等の獣類もしくは種々の龍神、天狗、あらゆる鳥類等が主なるものである。たいていは一人一種であるが、稀には二、三種以上の事もある。こういう事については現代人はとうてい信じ難く、嘲笑するくら
こういう事もあった。某大学生に霊の話をしたところなかなか信じない。「それなら僕に何が憑依霊があるか調べてくれ」と言うので、早速霊査法に取り掛った。間もなく彼は無我に陥り、若い女らしい態度で喋り出した。その憑依霊というのは、当時浅草公園の銘酒屋の女で時たま遊びに来るこの大学生と恋愛し、生霊となって憑依したものである。霊の要求は、「この人はちっとも来てくれないので、逢いたくて仕方がないから来るように言って欲しい」と言うのである。私も生霊とは言いながら、惚れた男の伝言を頼まれたというわけで、まことに
霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘らず、今もって止めない人があるが、これは断然止めるべきである。それについて何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割までは狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、人を瞞す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何とも思わないどころか、寧ろ面白くて仕様がないのである。というわけで彼らの中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、ご本人も
死にも種々あるが、脳溢血や卒中、心臓麻痺、変死等のため、突如として霊界人となる場合があるが、何も知らない世人は病気の苦痛を知らないから寧ろ幸せであるなどと言うが、これらは非常な誤りで実はこの上ない不幸である。それは死の覚悟がないため霊界に往っても自分は死んだとは思わず相変わらず生きていると思っている。然るに自分の肉体がないので遮二無二肉体を求める。その場合自己に繋がっている霊線を辿るのである。霊線は死後と雖も血族の繋がりがあるから、霊はそれと伝わり人間に憑依しようとするが、憑依せんとする場合衰
抑々人の死するや、仏教においては四十九日、神道においては五十日祭をもって一時打ち切りにするが、それはその日を限りとして霊界へ復帰するのである。それまで霊は仏教にては白木の位牌、神道にては麻で造った人形の形をした神籬というものに憑依しているのである。ここで注意すべきは、死者に対し悲しみの余りなかなか忘れ得ないのが一般の人情であるが、これは考えものである。何故なればよく言う「往く所へ往けない」とか、「浮かばれない」とかいうのは、遺族の執念が死霊に対し引き止めるからである。故にまず百カ日ぐらい過ぎた
人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。故に死及び死後について幻想的でない実証的の解説を得たならば、これほどの喜びはないであろう。私はこの問題に対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、遍く世人に知らせ、蒙を啓きたく思うのである。もっとも死後の問題に対しては欧米においても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等の如きは、名著もあり、斯界の権威でもある。日本においても故浅野和三郎氏の如きは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私も些か関係があっ
前項に述べた如く霊界は天国、八衢、地獄の九段階になっており、その段階の差別は何によるかというと光と熱である。即ち最上段階は光と熱が最も強く、最低段階の地獄は、暗黒と無熱の世界であり、八衢はその中間で現界に相当する。現界においても幸福者と不幸者があるのは、天国と地獄に相応するのである。最高天国即ち第一天国においては光と熱が強烈で、そこに住する天人は殆ど裸体同様である。仏像にある如来や菩薩が半裸体であるにみて想像し得らるるであろう。第二天国、第三天国と降るに従って、漸次光と熱が薄れるが、仮に地獄の
昔から幽霊の有る無しについては、諸説粉々として今もって決定しないが、私は有りと断定する。何となれば実際有るからである。有るものを無いをは何人と雖も言えないであろう。かの釈尊の説いた地獄、極楽説も、ダンテの神曲における天国、地獄、煉獄も決して荒唐無稽な仮説ではない事を私は信ずるのである。そうして霊界とは如何なる所であるか、これを一言にして言えば、意志想念の世界である。それは肉体なる物的障碍がないから素晴しい自由がある。霊の意志によって如何なる所へでも飛行機よりも早く行ける。かの神道において、招霊
霊線という言葉は今日まであまり使われないようである。というのは霊線というものの重要性を未だ知らなかったためで、空気より希薄な目に見えざるものであったからである。ところが人事百般、この霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである。故に人間はこの霊線の意義を知らなくてはならないのである。抑々霊線なるものの説明に当たって、前もって断っておきたい事は、これは科学であり、宗教であり、将来の学問でもある。相対性原理も、宇宙線も、
大自然、即ち我々が呼吸し棲息しているところのこの世界の構成について、私の研究によれば、まず大別して三つの元素、即ち先に述べた如き火水土である。そうして現在科学及び人間の五感によって知り得たものとしては電磁気、空気、物質、元素等である。然るに私が言わんとするところは、科学的にも五感によっても未だ知り得ざるところの気体即ち霊気である。しかしながら、霊または霊気という文字は今までとても相当使用されてきたが、その多くは宗教または心霊科学の面に限られていた。それがために霊という言葉はともすれば迷信視せら