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あのさぁ今日はパンの記念日なんだって日本で初めてパンのようなものが焼かれた日らしいよ焼いたのは砲術の研究家の江川太郎左衛門さんで伊豆韮山の自宅の庭だったそうだよ1842年4月12日のことだったらしいよ日本のパンって182年も前からあるんだね最初はパンのようなものだったみたいだけどねどうでも良いけれどパンのようなものじゃなくてパンって言い切ってあげれば良いのにねでも何かが違うんだろうねあなたもスタンプをGETしよう
私設博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』は,昨年9月に宮城県丸森町で『日本の火縄銃フォーラムin丸森』を開催した。このフォーラムには,海外の研究者も含め60人以上の方々が参集し予想以上の成功を収めることができた。また日本有数の火縄銃研究家である須川薫雄先生や日本前装銃射撃連盟の元会長の佐藤安弘先生を講師にお迎えして基調講演をしていただけたから,生涯学習の一助にもなっただろう。『日本の火縄銃フォーラムin丸森』基調講演を行う須川薫雄先生(写真左)写真提供若旦那提供(インスタI
復元した津田流砲術の放様一覧。火縄の扱い、思無邪(大熊)、半膝、膝台(二目打)、立放膝台と立放はホーケンライフルで実射訓練も行った。結果は上々。おまけ、のけため(小帰)
江戸時代の侍は,小さいころから厳しく育てられた。関流宗家の嫡男,関軍兵衛昌信は,寛文二年に満15歳で口径5.5cmの抜山銃で距離約2,5キロメートルを,その弟の関内蔵助勝信も15歳で距離約2,4キロメートルを膝射している。関家代々の嫡子は,幼いころから砲術修行に励み,元服の頃には一流の域に達していた。今でいえば,中学三年生か高校一年生のアンチャンが,重さ30キロの大筒に937.5グラムの弾丸を詰め込んで抱え撃ったというわけだから,修業の力とは恐ろしいものである。私が所属
鉄砲伝来は種子島である。「土浦に過ぎたるものが二つあり。刻の太鼓と関の鉄砲。」と唄われた関流炮術は,土浦城櫓門からの時太鼓とともに土浦藩9万5000石の土屋家の自慢だった。関流炮術は,大口径火縄銃による遠距離射撃を得意とする砲術流派である。関流炮術五十匁演武関流宗家の関正信師によれば,関流炮術というのは、通称であり、正式には南蛮流というのが正式な名乗りのようであると寄稿している。これは関之信の師であった丸田九左衛門が、種子島で砲術研究した後に長崎で南蛮人から遠距離射撃
🔗第12弾⑴の記事で湧いた疑問をスタートとして又AIに聞いてみました前記事:第14弾⑷より¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨赤字が自分の質問青字がAIの答え黒字が全部書き起こした後の自分の追記感想です。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨そうしますと薛重亥は陰鉄を壊したくなかったのでしょうから対抗していた、五大世家の誰かが法器や砲術で壊したという可能性が出て来ますでしょうか?それ
米沢藩の霞流の大口径火縄銃は,いくらお金を積んでもそう易々と買えるものではない。数が少ないので市場には出回らない。しかも霞流の大口径火縄銃は,米沢の鉄砲隊や一部の愛好者だけの中で取引され,その中でグルグル回っていて,部外の者へ手放すことはまずない。だから,私のような一般人の元に来ることはまずありえないことと言っていいだろう。霞流20匁筒口径2.4cm,全長94.0cm^平成29年新潟県登録しかし,そういうあり得ないことが起こったりするから,人生は不思議である。しかも,この
す西三河の夏祭り先週から西三河では、夏祭りシーズン突入海上に大玉が炸裂する蒲郡祭りと、東海地区最大規模の花火大会、豊田おいでん祭りが7月30日。そして8月5日の土曜日は、願い事日本一の安城七夕まつりと江戸時代から続く三河花火の継承と支援を目的にした岡崎の花火大会。安城七夕まつりJR安城駅周辺の商店街から発した、安城七夕まつり竹飾りが続く通りの長さが、日本一長いそう。8月第一週の金~日にかけて、行われます。屋台やキッチンカーが多いので、食べ歩
先日完成した2本の木銃をついにアメリカに送ることができた。中々箱の用意がままならず時間を要してしまったが届いた商品に満足いただければ幸いで有る。津田流練習用木銃菊水を施した南蛮筒の木銃。アメリカの乱雑な配送にも耐え得る特性段ボール箱。オクラホマ州への発送は日本円にして11,000円。ケンタッキー州へは約12,000円であった。日本の配送料の安さが恋しくなるこの頃で有る。
先般制作していた木銃のウレタン塗装が乾き硬化したので目当を装着した。目当の位置にバツを置いてその位置を確認。書道で使っている自分の花押を描いてみた。6間の目当の調整も完了して、いよいよ木銃の完成である。正真正銘唯の木で出来た模造銃であるから砲術を志す者以外には全く価値のない棒であるが、これを喜んで使ってくれる米国人が居ると思えば嬉しい限りである。
公式ハッシュタグ令和五年5月5日骨董品ランキング2位火縄銃には火蓋と呼ばれる部品が取り付けられる。火蓋は,点火用の火薬を盛り付ける火皿の蓋をする部品だ。誤って,点火用の火薬に火が点いて暴発してしまうのを防ぐのが火蓋の役割である。今でいう安全装置といえば分かっていただけるだろう。火皿と火蓋火蓋を閉じた状態右下の火蓋の鋲が,パイプ状になっている。この火蓋を留める鋲はパイプ状をしており,このパイプの穴に火縄隠しや「雨覆い」と呼ばれる雨除けの防水ケースを取り付けられる
火縄銃には火蓋と呼ばれる部品が必ず取り付けられる。火蓋は,銃身内の火薬に火を点けるための点火用の火薬を盛り付ける火皿の蓋をする部品だ。誤って,点火用の火薬に火が点いて暴発してしまうのを防ぐのが,火蓋の役割である。今でいう安全装置といえば分かっていただけるだろう。火縄と火蓋右下の火蓋の鋲が,パイプ状になっている。この火蓋を留める鋲にも,工夫が隠されている。火蓋を留める鋲は,パイプ状になっている。火蓋の鋲を外して観察すると,直径2ミリ程度のパイプになっていて,上から下まで一直線
稲富流ころひ膝䑓、「の遣多め」の図火縄銃の復元と共に行なっている津田流砲術の復古研究に新しい発見があった。津田流口訣記では放ち様は十種ほど有るが、全て「大秘にて業口傳」とされているのだが、その中の放ち様の一つで有る「ノケタメ」の概要がつかめてきた以前稲富流秘伝書に津田流の大秘火薬各種が紹介されていた事を発見したが、放ち様にも同名が見られた。それがノケタメで有る。津田流砲術では遠方狙撃が真であり放ち様には曲芸的なものはほぼ無い。全て実践に於ける狙撃がもっともしやすい方法のみが
工具がまだ届かないので銃身を据える部分の仕上げが全くできない状態だが台株の形成ができるので、紀州筒化を行った。私の推定では伊勢守流は津田流の初期の意匠を踏襲していると考えており、下から台株を手のひらに包むように握った。この事から台木下側の角を落とす必要がなく直角の意匠になったのだと考えている。では今回模造している紀州筒はというと丸い意匠だ、角を落として、手に木の温もりを感じることが出来る。これは後世に津田流以外の流派に於いても握りやすいように改良が加えられたと考えられると私は考えている。この
U-NEXTで「Bellator」次いで「UFC」が配信開始!ということで、U-NEXTで独占配信中の作品をメインに紹介してみました!他にもいろいろな掘り出し物の作品がたくさんあるので、紹介していきたいですね~『セガvs.任天堂/CONSOLEWARS』アメリカ合衆国2020年U-NEXTで日本独占配信中のドキュメンタリー映画です。「コンソールウォーズ」とは日本でいう「ハード戦争」のことで、この作品は1990年代にアメリカ合衆国で起こった任天堂とセガの激しいシェア争いを
昨日,令和五年の鉄砲の撃ち初めにあたり,鉄砲の安全祈願祭が執り行われた。射場に祭壇を設けて会員の鉄砲をお祓いしてもらい,今年一年の砲術修行の安全を祈りました。私が所属する火縄銃の会は,関流砲術を継承しています。関流は大筒を得意とした流派です。今日は関流などの中筒の外,350匁1丁,100匁1丁,50匁筒2丁,30匁1丁を持ち込み,お祓いを受けました。お祓いを待つ鉄砲祝詞奏上!
怒涛の10月のイベントラストは町田時代祭鎌倉街道にちなんだ装束での時代行列があり砲術、古武術演武、居合い抜刀そして流鏑馬今年初めて街のボランティアで参加担当は時代行列参加者の着替えや衣装の輸送出発地点そばで着替えた衣装をゴールの祭り会場まで輸送し、終わった後に着替えた装束を積み込むこれは市長さん用の衣装セットこれに着替えてもらって、それまで着てたものをトラックで運びます参加者に現役のお大臣様がいるもんだから、物凄いSPの数着替えの段階でピリピリしてる(誰が大臣だか知らんて
朝鮮の蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が,威力を発揮し明・朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,蔚山城に押し寄せた明・朝鮮連合軍五万七千の軍勢に包囲されたが,14日間に渡りこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じ,大勝利をおさめた。この籠城戦には,豊臣秀吉の妻の親族である浅野幸長も加わっていた。幸長は,副将格でありながらこの籠城戦で自ら鉄砲を撃って防戦に当たった。幸長は,砲術を稲富一夢に学んだ鉄砲の名手だったのである。稲富一夢と稲富流の鉄砲稲富流の全長160セン
長崎市街もいろいろ歩きましたがまだまだ知らない場所があるもので、GW某日に「高島秋帆旧宅」に足を運んでみました。長崎の路面電車終着駅の崇福寺駅から徒歩10分ほどなので賑わう繁華街からは少し外側の場所に宅跡があります。階段を上がった先、玄関。石壁がちょっと独特ですね。邸宅は原爆により大破したので、門をくぐらなくても玄関横からスルッと入ることもできます。高島秋帆(たかしましゅうはん)は代々町年寄を務めていた高島家の11代当主。寛政10(179
朝鮮征伐における蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が,威力を発揮し明朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,慶長二年12月22日,蔚山城に押し寄せた明鮮連合軍五万七千の軍勢に包囲されたが,頑強にこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じ,大勝利をおさめたのである。朝鮮征伐における蔚山籠城戦出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』この籠城戦では,副将格の浅野幸長も自ら鉄砲を撃って防戦に当たった。そして加藤清正,大田一吉らと共に味方が来援するまでの14
口径18.7ミリの十匁玉火縄銃は,士筒とも呼ばれている。士筒は,37.5グラムの弾丸を撃ちだせるから威力絶大だが,重さが6キロ前後あり持ち運びには従者を必要とした。しかも発射時に大きな反動があったため取り扱いが難しく,十分な鍛錬を積んだ侍しか用いることができない鉄砲だった。様々な十匁筒上から,尾張藩の鉄砲。仙台藩の鉄砲,土佐藩の鉄砲,武衛流の鉄砲。その下二挺は不明。そして一番下が津藩の鉄砲。昨年の今頃,コメ太郎さんから頂いたもの。コメ太郎さんあ
今日,令和四年の鉄砲の打ち始めにあたり,鉄砲の安全祈願祭が執り行われた。射場に祭壇を設け,会員の鉄砲を並べ,今年一年の砲術修行の安全を祈願した。お祓いを待つ鉄砲十丁近く集まった関流仕様の鉄砲。いつもの神禰宜さんに御祈祷していただく予定だったが,突然に禰宜さんの都合が悪くなり,今回は欠席。下の写真は,さく年の安全祈願祭だが,今年もこんな風に執り行いたかった。祝詞奏上!神禰宜さんが祈願祭に欠席になっても,めげること
日本人は,火縄銃を得たことにより補給の重要性を強く認識したかもしれない。火縄銃は,黒色火薬,弾丸,火縄などが無ければ,鉄砲としての機能を発揮できず,単なる鉄パイプとなんら変わりはない。左から,火縄,黒色火薬,十匁玉筒用の弾丸上の三つが揃わないと火縄銃は,鉄パイプ同然特に人類三大発明のひとつと言われている黒色火薬は、硝酸,硫黄,木炭の混合物だが,正しい混合率を知らないと火薬としての性能がガタ落ちになる。そのうえ,材料を混ぜただけでは嵩比重が低く、爆発力が出ない。黒色火薬の
下の写真の二挺の鉄砲は,ほとんど同じように見えるかもしれないが,上は土浦藩の関流砲術の鉄砲で,下は米沢藩の霞流砲術の鉄砲なのである。上杉家中の関之信が,同家の砲術指南役だった丸田九左衛門に師事し霞流砲術の皆伝を受け、さらに他国に出て炮術研鑽を重ね、自ら一流を創始したのが関流砲術である。つまり関流の鉄砲は,霞流の鉄砲を土台にして,発展改良された鉄砲といえる。だからこそ,霞流と関流の鉄砲の形状は相似しているのである。関流の鉄砲が,霞流のそれを改良した点は少なくないが,特筆すべ
田付流の馬上筒を二丁持っている。一丁はいつもこのブログで,大きさ比較に用いている6匁筒だ。これは,口径の大きさは違うものの須川薫雄氏の「日本の火縄銃」P32で紹介された鉄散弾銃と同型のものである。多量の鉄の弾丸を発射できるように設計されたらしい。鉄製の弾丸は,鉛よりもずうっと硬いため銃身内を荒らすので、砲術家からは好まれない。それにもかかわらず、鉄の弾丸をわざわざ使用したのは、近距離戦闘では,硬い鉄の弾丸の方が効果的と判断されたからではなかろうか。鉄散弾銃式の六匁馬上筒
最近撮ったお気に入りの写真、見せて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう日本の火縄銃は,弾丸の命中に強いこだわりを持つ多くの砲術流派を誕生させた。砲術流派は,照準器や機関部,銃身などに強いこだわりを持つから,流派によって鉄砲の姿かたちが異なることが多い。幕末には,砲術流派の数は600を越した。しかし,時の流れは恐ろしいもので,多くの砲術流派の伝書や鉄砲は失われてしまった。そのため,現在,鉄砲を見ただけで,その砲術流派を特定することができるのは,私の場合は,二十
お天気も良く散歩日和の昨日、東京大仏に行ってみました。板橋区の浄蓮寺です。高さ13メートルだそうです。東京大仏乗蓮寺|板橋区赤塚にあります東京大仏乗蓮寺の公式サイト東京都板橋区赤塚にあります東京大仏乗蓮寺の公式ホームページ。開門(OPEN)は8時~15時45分、完全閉門(CLOSE)は16時となります。時節柄、また行事等により変更となる可能性があります。併せて「お知らせ」もご覧下さい。「初詣」分散参拝のお願い。www.tokyo-daibutsu.com近くにある松
和本江戸嘉永6年(1853)鉄砲大砲秘伝書「稲富正心流火業砲術」2冊/関山内蔵太則意/古書古文書/手書き/武術/武士です。18、24丁。大本程度。手書き。『データ』【書名】稲富正心流火業砲術【巻冊】初授免許11と12の2冊です【著者】関山内蔵太則意【成立】嘉永6年(1853)
山形県米沢市の上杉神社を根拠地とする上杉砲術隊は,明日9月25日,神社の秋の例大祭において,古式砲術演武を奉納するという。上杉砲術隊は,米沢藩に伝わる10匁から30匁の火縄銃を用いての実戦射法を得意とする。なかでも口径28ミリの30匁大筒を使い腹ばいの体勢での這い射ちを行うのは,米沢の鉄砲隊だけであろう。しかも噂によれば火薬を60グラムも詰め込んでの演武だということだ。これは何としても見なければならぬ。10匁筒による膝射ち30匁大筒を使い腹ばいの体勢での這い射ち発射炎
公式ハッシュタグ令和五年10月1日骨董品ランキング3位山形県米沢市には,米沢藩上杉砲術を伝承する二つの火縄銃演武団体がある。一つは,宮坂考古館に事務局がある米沢藩古式砲術保存会,もう一つは,上杉神社社務所に事務局を置く上杉砲術隊である。いずれの団体も,米沢藩に伝わる10匁から30匁の火縄銃の大筒を用いて立ち射ちと膝射ち、腹ばいの体勢での這い射ちなどの米沢藩の実戦射法を継承練武している。9月19日の上杉砲術隊の猛練習,おそらく10匁筒上杉砲術隊の猛練習,おそらく20匁筒