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熊野神社広島県安芸郡海田町天明七年(1787)丁未九月吉日神輿?大きな切り株に被せられている。手水石段下の文政構え型文政八年(1825)海田町慰霊塔軍艦の砲身が乗せられています。拝殿文政八年(1825)の再建手水拝殿前の狛犬大きな亀神馬と狛犬拝殿脇砲弾碑明治三十七八年戦役紀念境内社天満宮稲荷神社出雲神社竃神社猿田彦神社本殿本殿
江波神社広島市南区創建年月日は不明確ですが、広島市内随一の由緒正しい古社。安芸の国の国司所祭の官社を収録した古代の神名帳「官社一百八十社」の中に三位衣羽明神と記載されています。従って前記神名帳が作成された、正和二年(1313)以前の創建とされています。明治四年(1871)官の指揮により旧名に復し、衣羽神社と改める。祭神多紀理毘賣命・多岐都比賣命・市寸嶋比賣命入口鳥居住宅が
福井八幡神社福山市瀬戸町創建は承和元年(834)京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請し、長和庄福井に鎮座したとされる古社です。社殿は山名氏が再興し毛利時代には足利義昭が再建し、現在の社殿は昭和六年に改築されました。忠魂碑参道石段上の玉乗り吽形燈籠は明治二十九年正露凱旋紀念吽阿明治三十?阿形はやや下方から撮ると笑っているように見えます。拝殿砲弾碑日露戦争参加記念船形手水拝殿本殿境内社拝殿境内社五社神社出雲大
齋島(いむしま)神社因島大浜町神武天皇が東国に行かれる際、風波のため航海ができず斎島の大浜に船を留め寒崎山にて数日嵐の静まることを天神に祈られました。即ち斎島は、後に隠の島(因島)と呼ばれるようになった。その由来により神亀4年(727)社殿を造り厚く祀りました。忠魂碑戦役凱旋紀念碑東郷平八郎の書海軍大将伯爵東郷平八郎神社入口石段途中鳥居鳥居脇に文化の浪速型よく型を残しています。文化十三年(1816)2百年もの間、瀬戸内海
下御領八幡神社福山市神辺境内社本殿前には子持ち玉乗り吽形江戸風味の良い彫りです。丸々とした子の造作正面を向いています。尾道石工中谷清兵衛明治三十六年(1903)阿形砲弾碑280x900日露役凱旋紀念明治三十九年五月本殿
大瀧神社参道入口~招魂社大竹市石工今治武兵衛文化甲戌十一年(1814)大竹招魂社由緒大瀧神社の麓砲弾碑昭和七年奉納長980mm幅210mm奉納用に造られた模擬弾だそうです。海軍のマーク慰霊碑誠忠碑寺内正毅(てらうちまさたけ)ビリケン宰相と呼ばれ、大正5年には総理大臣にまでなる。拝殿扁額本殿後姿しか写せない玉乗り本殿
福永八幡宮広島市安佐北区三田
三宮神社島根県鹿足(かのあし)郡吉賀(よしか)町紀元二千六百年昭和十五年立派な砲弾碑明治四十一年神楽殿拝殿梁上には躍動する麒麟扁額本殿石垣が良い感じ
福岡神社東広島市高屋町高屋東天文年間1500年代中頃に鎌倉の鶴岡八幡宮から勧進したと云われます。高屋13か村の産土神でした。社殿などの普請は、平賀弘保が中心となって行い、永禄元年(1557)以降に完成したといわれます。手水化粧直しされています宝暦十二年(1762)大きな尾の構え型構え型と後は玉乗り大正五年十月吉日石工天野勝助玉乗り型猫顔の対砲弾の無くなった砲弾碑至奉公碑軍艦ヲ損傷シ或イハ沈没セシム・
賀茂神社三豊市仁尾大注連石応徳元年(1084)白河天皇の勅使を得て京都の賀茂社の神職が京都で神事に関与していた5人とその家族を引き連れ、鴨之越(同市詫間町)に寄港。翌日には蔦島に到着し、島に分霊を奉祭した。仁尾の人々は観応の擾乱(じょうらん)(1349~52年)で管領の細川顕氏の水軍に加わり活躍しその戦功によって神社は蔦島から現在の場所に遷宮された。鳥居由来一の鳥居宝永三年(1706)社号標社号標脇に文化文政頃の浪速阿吽とも顔が切れています。かろうじて頭が乗っ
齋島(いむしま)神社因島大浜町神武天皇が東国に行かれる際、風波のため航海ができず斎島の大浜に船を留め寒崎山にて数日嵐の静まることを天神に祈られました。即ち斎島は、後に隠の島(因島)と呼ばれるようになった。その由来により神亀4年(727)社殿を造り厚く祀りました。三代実録にある従五位下の隠の島一の宮はこの社であるとの言い伝えがあります。ツインの砲
厳島神社福山市沼隈町内海大橋のたもとから神社参道内海大橋拝殿奥の境内社奥から見た拝殿本殿拝殿内拝殿正面の石段社号標
吉浦八幡神社呉市吉浦この石段を大きな神輿が石段を上がる八幡神社秋季例大祭「カニ祭り」もコロナの為、中止となっています。石段途中の迫力の構え型明治四十四年目玉を塗っているのが残念吉浦の石工ではないかと思います。新しくなった手水舎由緒手入れが行き届き美しい境内砲弾碑一基のみ以前は錆さびでした。綺麗に磨いたので銘がハッキリ見えるようになっています。
荒神社尾道市向島三基の小さな砲弾碑集会所風の建物前から石段があります。緩やかだが何か疲れる90度曲がる小山の頂上が境内尾道座型吽形吽形は鼻でか蔓延元(1860)阿形境内社拝殿拝殿本殿砲弾碑1明治三十七八年日露役戦?紀念砲弾碑2征露紀念砲弾碑3本殿一間社流造り
艮神社尾道市向島高東町山城屋宗八の玉乗り神社入口平成狛拝殿拝殿扁額本殿裏の境内社本殿石垣前に江戸玉乗り型山根屋系の江戸玉乗り玉に牡丹をあしらっています山城屋宗八です。山城屋は宗八・惣八・總八と3種の名があります。多作の石工で遠くは青森、新潟。四国。中国各県にも狛犬の作があります。以外にも尾道市内にはここと因島の2作しかありません。嘉永四年尾道石工宗八作吽形は少し見上げるような姿阿形顔の割
向島厳島神社尾道石工の傑作太兵衛の手水乗り渡船で向島へバイクなら80円向島町富浜に鎮座いたします「嚴島神社」は江戸時代初期、安芸広島藩浅野家のお抱え豪商「天満屋浄友」によって尾道水道に面して開拓された富浜古新田(塩田)の守護神として、延寶8年(1680年)向島明神島の現在地に建立されました。天満屋は浅野藩主に伴われて紀州和歌山から広島に来り魚問屋及び酒造業に従事し産を成し、藩に乞うて尾道水道一帯に天満屋新開地を築調しこの新開地
四年前に訪れた東広島安芸津町の亀山神社です。
四年前に訪れた片山八幡神社です。この頃は砲弾碑にはまってました。
八幡八幡宮田布施町大波野鈴玉乗り綱咥え尾道石工の作でしょう。恐らく大正のもの大村喜兵衛かな?見事な造形銘、奉納者の刻は無いです。阿形は子踏み岩永石工岩永延一は台座を造った石工でしょう。参道は踏切を渡る入口鳥居石段下の古そうな対文化四年(1807)浪速かな?阿形が♂ありシンプルな良い姿石段上の鳥居宝永七年(1710)建立石段上の鳥居で直角に曲がり境内境内拝殿拝殿前の砲弾碑は珍しいです。大正四年(1915)の奉納800X250くら
二所神社周南市八代寛政の浪速型500m先がツルの飛来地です。修復された鳥居宝暦七年(1757)の刻が残されています。鳥居脇の対弘化四年(1847年)吽は小玉踏み阿は動かない口中玉尾は凝った形大きなかんざし燈籠鳥居にローマ字が彫られています。亀趺安政四年建立珍しい子贔屓石段上に古い浪速型締まった顔つき寛政十一年(1799)己未九月吉日捻った身体
厳神社大竹市拝殿砲弾碑明治四拾五年石製両部鳥居拝殿扁額たくさんの奉納額神輿の裏で見えずらいですが亀居城の想像図在りし日の亀居城本殿立派な石垣矢跡の残る石鑿幅からみて亀居城と同年位か?本殿うしろから亀居城に行ける道があります。亀居城築城犠牲者慰霊碑旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないの
疫神社広島県大竹市弘化構え型と大正玉乗り砲弾碑大竹市は大竹海兵団があったからか、砲弾碑が多数あります。対の砲弾碑30糎短榴弾砲?由緒大正の玉乗り型大正九年(1920)良い姿の対です。もう百年物です。ソフトクリームのような尾お多福鳥居後に構え型対大顔の巻き毛付きタイプ。私見ですが吉浦石工吽阿の配置ひねってます。90度頭を振る。阿形吽形弘化三年(1846)豪快です。阿形
小烏(こがらす)神社鞆の浦鍛冶町沼名前神社の境外末社で小烏大神•天目一箇神を祀る南側参道鳥居は享和元年(1801)江戸末の落ち着いた玉乗り型。安政三年(1856)境内拝殿拝殿扁額玉垣の構え型丸く仕上げた可愛い型慶應二年(1866)天目一箇神社刀鍛冶の神様です。小烏神社本殿天目一箇神社小烏神社本殿東側の通り東側の入口山根屋源四郎傳篤の狛犬が護ります。流石は源四郎傳篤の作風格が違い
片山八幡神社東広島市黒瀬三十糎被帽弾参道新しい燈籠が並ぶ拝殿と真っ白な狛犬神社縁起