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わが国最初の篤志解剖・美幾女(みきじょ)「執刀者は医学校生徒の田口和美で、メスを手にすると解剖台の左側に身を寄せた。かれは、武蔵国埼玉郡藤畠郷の医師の子として生まれ……略……早くから解剖に強い関心をいだき、西洋の医学書を読むとともに旧幕府時代に繰り返された解剖の記録にも入念に眼を通していた。医学校の生徒ではあったが豊かな知識をもっていることから執刀者に指名されたのである。」これは、吉村昭の短編小説集「島抜け」(新潮文庫2002年)所収の「梅の刺青」という短編のなかの一節
平成14年版のリーフレットにはこの写真の撮影日は明治20年となっていた。北里研究所提供なので、北里柴三郎がドイツに留学したのが明治20年であるから撮影日についてそれ以上の検証されなかったということだ。リーフレット発刊後、さらなる史料を集め、田口博士研究決定版の刊行を目指していた田口和美博士研究会であるが、その編集作業の過程で偶然、この写真の撮影日が判明した。三流亭もこの編集委員のひとりであったが、職場の同僚と雑談していて、談たまたま郷土の偉人・田口博士の話になり、鷗外や北里とも接
まずは写真を御覧いただきたい。社団法人北里研究所提供、明治21年6月3日、ベルリン・フリードリッヒ街にて撮影した写真である。前列、左から3番目、中央のテーブルに左腕を乗せているのが北川辺出身の田口博士だ。後列右から2番目が北里柴三郎、後列いちばん左、軍服姿は森林太郎(鷗外)である。田口博士は天保10年(1839)旧北川辺町小野袋藤畠の生まれ。天保といわれても今の人にはピンとこないと思われるが、渋澤栄一が天保11年、田中正造が天保12年生まれであるので、あの人たちと
〇明治天皇の御不礼発表と同時に博文館が談話を集め、一部を改変して発行したものと思われます。当時の新聞はある程度不正確なものでも平気で記事にしています。この中でいくつか談話を書いていくことにします。〇一部言葉を変えて表記しています。〇佐藤進1845-1921陸軍軍医総監男爵●私が初めて、先帝陛下に拝謁を賜ったのは明治十年西南の役であった。内乱とはいえ、あの通りの激戦であったから、負傷者もずいぶん多くて、これを収容治療するために、大阪に陸軍臨時病院が設けられた。経営の任は石黒男爵こ
〇村雨退二郎の著作の中から幕末明治の世相を伝えます。〇村雨退二郎1903-159歴史小説家「史談あれやこれや」中公文庫昭和52年刊●孝明天皇の死因について、最近一二見聞したことがあるので、紹介しておきたいと思う。一つは「日本医事新報」一七二五号に「江戸時代に於ける朝廷の医療制度」という表題で山崎佐氏が執筆している記事の中に、筆者が石黒忠悳から直接聞いた話として次のように書いている。〇孝明天皇1831-1867攘夷派の天皇であったが、慶応二年発病し短期で崩御された。天然痘と
〇明治神宮崇敬会編昭和37年刊明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。◎出席者園池公致侍従職出仕坊城俊良侍従職出仕平松時賢侍従職出仕岡崎泰光侍従職出仕久世章業侍従職出仕山川三千子女官甘露寺方房侍従職出仕受長の弟ここでは甘露寺と表記します。穂僕英子女官山口節子女官甘露寺受長侍従職出仕方房の兄ここでは明治神宮宮司在職中により、宮司と表記します。●坊城扇風機は電気がひいてないので蓄電池によった
西洋医学は室町幕府後期頃に初めて我が国に伝わり、安土桃山時代に至っては南蛮流外科と呼ばれた。南蛮はポルトガルを指して居る。弘治3年(1557)、豊後国主の大友宗麟が設立した救済院において、ポルトガル人ルイ・アルメイダ(LouisAlmeida)が外科治療を施した。これが我が国における西洋人による医術の嚆矢とされて居る。永禄12年(1569)には、織田信長が京都に南蛮寺を創建した際に、ルイス・フロイスが南蛮医術を施し、その医術はキリスト布教のための方便として用いられたと云う。その後秀吉
鷗外森林太郎がドイツ留学中に付けた「独逸日記」の、その明治20年12月12日の条にこう書かれている。「陸軍省に赴く。石君(石黒忠悳)の命を受け、シヤイベと器械購入の事を話するなり。早川(田村怡与造)の病を訪ふ。数日前、鼻痔を截除せしが(鼻茸を切除したが)、未だ痊えず(癒えず)。夜、福島(安正)を訪ふ。この日石君、田口(和美)大学教授とステツチン(シュテッチン/シュチェチン)Stettinに赴く。」翌13日の記載はなく、続いて14日と15日の条が以下の様に見られる。12月14日、石君田口と
学生時代の森林太郎は、西洋医術に東洋医術を活用しようと試み、我が国の医療において役立てるべきであると、はばかる事無く外科教師シュルツェに主張したことが在ったとの事だが、そうなれば同異に就いて指趣を究むることを肯んじなかったシュルツと衝突は必至で、従ってドイツ医学を世界に冠絶する医学であると自負していたシュルツェとの相性は、小池正直の言う通り最悪であったことは確実である。ところで石黒忠悳が師と仰ぐ佐久間象山がしばしば用いた言葉「東洋の道徳、西洋の芸術」は、東西の学問を余すところなく究め、
小池正直が書いた森林太郎の推薦状を読んだ石黒忠悳は、それに頗る感じて長らく手許に保管して居たと云うが、そこに石黒の人間臭さが漂って居るように感じられやしないだろうか。その推薦状を評して曰く、「なかなかの名文だったヨ」、と。また読者に「どうだい?」と問いかけて居るが、これに異議はなく私も名文だと感じたヨ。その主旨は、同級生から駿馬と呼ばれた森林太郎が、千里も走る名馬としての才能を発揮することなく、馬小屋の中で首を並べて飼い葉桶の間(槽櫪の間)に埋もれて居る。これを黙って居る事は出来ず、石黒を
上写真は左から佐藤佐(井上虎三)、森林太郎、小池正直、片山芳林で、明治14(1881)3月、東大医学部卒業試問を終えた時に撮られた。卒業試験は全149問あり、一学年を4名1組の七組に分け試問され、鷗外森林太郎は上写真の第2組に振り分けられた。小池正直は、この時の事を次のように述べて居る。「団結全備して、一日方時の遅滞なく、以て全問を完了したるは、七組中僅かに我が一組あるのみ。実に奇と謂わざるべけんや。是を以て我四人の影を一紙面に描写して永く以て宝となし、また以て人に昂揚す。嗚呼快哉。」、男
石黒忠悳曰く、「司馬凌海は漢文も達者で、漢文は簡潔で紙が経済だと云うので、教場の筆記は漢文でして居た。」と。事実、司馬が記した「内科学筆記」と云うものが残って居る。これは長崎伝習所で司馬がポンペの講義を聴き、それを漢文で筆記した書である。この語学の天才が云うには、翻訳において漢文は簡潔に記して置くことが出来るため、紙の節約になり経済的であると言う事らしい。石黒も漢文は達者であり、また柳見仙よりオランダ語を学んでは居るが、かと云って容易に真似する事など出来まい。そこで森林太郎なのだが、彼は医学
司馬凌海、天保10年(1839)~明治12年(1879)。彼は「菲才纔究五方学」(非才僅かにきわむ五方の学)と云う、非才であるが五世界の言語の学はあると云う意味の詩をつくっている。石黒忠悳も、その著書である懐旧九十年の「ミュルレル及びホフマン、司馬淩海」の中で、「治療の方はそれ程でないが、語学にかけては古今独歩の天才」と評して居り、語学に関しては自他ともに認める天才と言わざるを得ないだろう。また石黒はミュルレルの項で司馬についてページを割いて居るが、その他にも、しばしば司馬の名前がその
明治21年(1888)1月24日、森林太郎は石黒忠悳らと近衛野砲兵第二連隊の兵営、及びベルリン廃兵院を見学した。廃兵院長官陸軍大尉ヱルフエンvonWelfenが森らを一室に招いたところ、その室内の装飾は頗る美しくあったらしく、その部屋の片隅に同氏の大理石像があったと。そのヱルフエンが話のついでに、「この廃兵院はフリードリヒ大帝が創立した傷痍軍人のための病院で、「傷きたれども敗れざる兵の為に。」との銘が刻まれており、またこれは爽快な語であらせましょう。」と語っている時に、たまたま偶然、かつて日本
前回に続き、石黒忠悳はミュルレルとホフマンが来日した時の情景を以下のように続けている。「ミュルレル、ホフマンともに夫人同伴で来たので、上野の寺院の空き家を住居とし、下谷和泉橋通の学校へ通勤しました。いずれもドイツ軍医だけあって最も規則正しく熱心に教授せられ、学生も非常に喜びました。ミュルレル氏は年齢も40以上(47歳)であり、等級も上で(一等軍医正)人格も勝れて居たようです。学生は司馬淩海氏の通訳で、その講義を熱心に聴き、ホフマン氏(34歳)の方は英語を使うので、三宅秀(有實)氏の通
森林太郎の独逸日記中、レオポルド・ミュルレルの名が二つめに記載されたところは、明治21年の1月9日に見られ、高橋茂の送別会で石黒が述べた祝辞の中にその名がある。その日、森林太郎は高橋茂(繁)の帰国に際して、ベルリンで送別の宴を催した。その宴には、留学中の医学関係者がほぼ集まったとのことである。それから2週間後の1月23日に、高橋が発軔(帰国)する際、森に著述書の上梓を托している。高橋茂は熊本出身で、ストラスブール大学で医学を学んだらしく、明治20年10月18日に始めてベルリンで森と相見
レオポルト・ミュルレル(1824年6月24日~1893年9月13日)、BenjaminCarlLeopoldMüller森林太郎の独逸日記にレオポルト・ミュルレルの記載が見られるのは、①明治19年2月20日、②明治21年の1月9日、③同年1月24日の3箇所である。明治19年(1886)2月19日に、森は軍医監ロオトに従ってドイツ軍医ヰルケとロシア軍医ワアルベルヒと共にドレスデンからベルリンへと発ち、その翌20日の午後5時に、ウンター・デン・リンデンの帝国客館で開催されるプロ
森林太郎は、第13代亀井家当主の亀井茲明子爵を明治20年4月21日に訪れた際に、人をして寒心せしむほどに健康を崩して居た亀井の体調を心配していたが、その後も亀井に会うたびに健康状態についてドイツ日記に記録している。明治20年11月3日。井上勝之助の天長節の宴を公使館に開く。亀井子爵また在り。頗る健全。明治21年1月4日。亀井子爵の宴に赴く。子爵頃日大学に入る。また健康なり。また森は、来独した亀井茲明や石黒忠悳にドイツ語の師としてミュルレルを紹介した後も、たびたびベルリンのミユルレル宅を
明治20年5月28日、陸軍省医務局次長で軍医監の石黒忠悳は日本政府代表として、萬国赤十字総会と萬国衛生会へ出席するため横浜を出発し、7月17日にベルリンに到着した。一方、森林太郎のドイツ日記7月17日には、石黒がベルリンに到着するとの電報が、その到着直前に来たため、慌てて駅まで石黒を迎えに出た事が次の様に記されている。「中濱東一郞の電報がミュンヘン府より届いた。石黒氏がミュンヘンを発したと報ずる内容であったため、急いで停車場(駅)まで出迎えた。そのため石黒氏が来る事を谷口謙にだけ知らせ駅
明治20年4月29日、石黒忠悳は「御用有之欧州へ差遣」を拝命した。その目的は、カールスルーエで開かれる第4回萬国赤十字総会と、ウイーンで開催される萬国衛生会へ出席するためである。その洋行期間は約1年間であった。この時期は、軍医総監の橋本綱常が洋行を終えたばかりであり、医務局ナンバー2の緒方惟準が明治20年2月1日に陸軍を電撃退職しており、石黒以外にこの大役を果たせる人物が軍医部内に居なかった為、順当に欧州差遣を仰せ付かったのであろうと私は思う。石黒本人が云うには、総会に出席する目的の他に、長
博愛社が日本赤十字社となった際に、ドイツのクルップ会社に属する東京派出員の砲兵大佐イルクネルが、赤十字社事業のために我が国初となる活人画を催して、それで得た資金を赤十字社に寄付してくれたと云う。その興行収入金は1651円44銭2厘(入場料一人2円)であった。その時、昭憲皇太后陛下、皇太子殿下の御臨場もあり、多額の寄附をされたと石黒忠悳の懐旧九十年の「赤一字章と赤十字社創立時代」に記してある。それ以降現在まで、日本赤十字社は皇室の庇護のもと発展して来たのである。名誉総裁は代々の皇后陛下が受け継
森鷗外のwikipediaをみたところ、ドイツ留学に関する文中の注釈15に、以下のように記されて居た。9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙と共に乃木希典、川上操六の両少将を訪問し
鷗外全集35巻の独逸日記の明治20年(1887)9月27日に、「日本にてジユネフ盟約に注釋を加へ士卒に頒ちたる報告をなし、其印本数部を会に示す。(中略)石君の起草、余の翻訳にて印刷し、全員に頒ちたる書あり。日本赤十字前紀これなり。(後略)」とあり、この「日本赤十字前紀」は、上述の如くカールスルーエで開催された第4回国際赤十字会議の席上、私家版の冊子として会議参加者に頒布された。それと上記文中の「其の印本」は、「陸軍省訓令乙第六號」の事で、紛らわしいが日本赤十字前紀の事ではない。また独逸
第4回カールスルーエ萬国赤十字総会最終日に、森林太郎が独逸日記に書き留めた議案がもう一つある。それは、「ジュネーヴに記念碑を建てるかどうか」の議案で、その可否に至ってクネゼベック(vondemKnesebeckCabinetsrath)が、「記念碑建立の議は、往日を顧みて一時の熱中より出たものである、且つジュネーヴ赤十字社諸君の意中を推測すれば、人の心の中にある記念碑(einMonumentimHerzen)を重んじて、石碑に刻まれた金石文の記念碑を軽んじて居るだろう。」と演説し、
議題第11条の討議において、欧州外の大国アメリカの思わぬ沈黙により、日本一国で欧州の20余か国を相手にすることになったが、慷慨した石黒忠悳の抗議と、冷静な森林太郎の策と大義により、この議題を葬り去ったのである。しかし議題第8条に就いては最終日の前日夜に石黒は橋本綱常宛てに「満堂喝采の驚を博することは必定で、相楽しみにして居る。」と、その対応は万全で余裕をみせた書簡をしたためて居る。その議題第8条とは、「ジュネーヴ条約を各国軍隊に周知する方策」の事である。ジュネーヴ条約とは、1863年にアンリ
約21年前にポンぺ医学七科書44冊を全て写本し、寸暇を惜しんで精読した石黒忠悳は、1887年に開催された第4回カールスルーエ萬国赤十字総会で、その著者のポンペと邂逅した。その時のことを懐旧九十年で、次のように述べて居る。但しポンペは石黒を全く知らない。<ポンペの肖像>「明治20年9月、私はバーデンの国都カールスルーエに開かれた第4回赤十字国際会議に代表委員として参列し、バーデン大公の厚遇を受けました。この時各国から来集した代表の中に、オランダからは往年我が国に来て医術を伝えたポンペ氏が
議題第11条に対する石黒忠悳の抗議が森林太郎によって伝訳され、その結果、議論百出、会場は騒然となったため翌日に討議が持ち越された。森は咽頭カタルにより体調が万全ではなく、昨夜のオペラを欠席して総会最終日に臨んだのである。一方石黒は、昨夜橋本綱常宛てに「第11条に就いて、明日は如何に相なりましょうか。」と心情を吐露した書簡を送って居る。第四回カールスルーエ萬国赤十字総会最終日、果たして色々どうなったか。明治20年9月27日午前10時、総会に臨み、前日の議題を引き継ぎ討議となったので、森林
明治20年(1887)9月26日、第4回萬国赤十字総会5日目。森林太郎は前日に喉に炎症を来し、そのため声の変調も来して居たかも知れないが、この日も石黒らと共に午前10時より総会に臨んでいる。明治20年頃の石黒忠悳その日の石黒日記抄には、「〇午後二時より開会。第11条に及ぶ。森一同に代って曰く「この条項に於いては我々日本委員はその数中に加わさる可し。」、議場騒然、魯国委員また日本に賛成す。遂に次回送りとなる。〇会散帰寓して事を議す。〇慷慨壮快極まる。〇森、咽頭カタルの為にオペラ
第4回萬国赤十字総会第4日目のバーデンバーデンでのエクスカーションの帰路、森ら日本代表団は汽車の中で再びポンぺと雑談に興じて居る。余等に向ひて曰く。「諸君の中、森氏の面、大に林紀君に似たり。林紀君のオランダに在るや、殊に婦人と葛藤を生じ、余をして機外神Deusexmachinaの役を勤めしめたり。森氏の性、また之に類することなき乎」と。また曰く、「余が日本に在りて行ひたる所は、今やただ歴史上価値を存ずるのみ。而れども常時は隨分至難なる境に逢ひしことあり。」と。ポンペとの会話がこ
第4回萬国赤十字総会が開催されたカールスルーエ市から南へ約30kmの位置にバーデン・バーデンという古街がある。人口約5万人。ローマ時代から続くヨーロッパ屈指の温泉保養地として、王侯貴族や多くの著名人が滞在した地である。萬国赤十字総会会議は第4日目のなか日をエクスカーションとし、森ら日本代表団はバーデンバーデンへ案内され遊覧している。森林太郎の独逸日記から、バーデン・バーデンの観光名所や、盛大な歓待を受けたかが良くわかる故、以下改訂した。明治20年(1887)9月25日。巴丁巴丁