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2021年{令和3年}4月1日(木)の東京都豊島区池袋エリアは、良き天気に恵まれております。新学年・新財政年度が始まる本日、就職・進学・引っ越し・新事業・新経営など新しい生活を始める方が多いかと思いますが、それ故か本日の豊島区西池袋エリアや東池袋エリア・南池袋エリアにおいては、いつもより歩行者や自動車・トラックなどの往来が多いように思われます。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、密になる場所でのマスク非着用で大声でしゃべっていたりすると、新型コロナウイルスに感染する可能性もございます。
三宝寺池の周囲を歩いています。水神社の前に来ました。祭神は水波能売(みずはのめ)命です。前回訪れた穴弁天と共に、厳島神社の境内社になっています。大木が倒れ込んでいて、参拝者に否応なしに頭を下げさせる参道。ちょっと威圧感がありますね。「おいそれと近付くな」と言われている感じ。祠に掛けられた鍵をよく見ると、龍の形をしています。龍は水の神ですから、この祠の中か、あるいは三宝寺池に龍が棲んでいるのかもしれません。「そんな馬鹿な」と思ってしまいがちですが、「神は人間の目には見
昨日紹介した殿塚の30メートル西側には姫塚があります。こちらはねりまの名木の一つのシラカシの横にあります。殿塚と違って、こんもりした塚のようになっています。木製の階段があり、塚の上に登れるようになっています。シラカシは高さ24メートルもあり、根が塚を覆うように張っています。シラカシの根の先には小さな祠もあります。祠の下の石積みは、少し前の年代の物という感じ。誰かが手入れをしているのか、綺麗に保たれていました。塚のふもとに姫塚の石碑があります。表面
石神井公園の三宝寺池の北側には2つの史跡があります。まずはこちら。殿塚です。木の根元に石碑が一基あり、柵で囲われています。殿塚の石碑です。石碑には「古墳殿塚石神井城主従五位上左衛門尉豊嶋太郎泰経之●文明九年十月六日落城討死」と刻まれています。●の部分の文字は下部が消えていて読み取れませんでしたが、くさかんむりが見えるので「墓」でしょうか。石碑の文字を信じれば、文明9年(1477年)に太田道灌によって石神井城が落城した際、
石神井公園の一画に東京都の指定文化財の石神井城址があります。先日紹介した三宝寺池のほとりにある三宝寺池沼沢植物群落の石碑のあるこの場所。ここから左斜め後方を振り返ると…。池越しに石碑が見えます。ここへは橋を渡って行くことができます。石神井城址の石碑と由緒書きの石碑、そして案内板があります。石神井城址の石碑です。石神井城は鎌倉時代中期から末期頃、三宝寺池と石神井川の間にある台地に築かれた連郭式平山城です。この地域を治めた豊島氏の本城でしたが、
今日はスマホを携帯するのを忘れて散歩に出ました。なので、写真はなしです。実家に泊まったので、近くの石神井公園を散歩…、のつもりが公園から登っていく小さな階段があったので登っていくと、三宝寺に行き着きました。正門の山門からではなく、脇の方から入っていった感じです。三宝寺は真言宗智山派のお寺。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E5%AF%BA_(%E7%B7%B4%E9%A6%AC%E5%8C%BA)三宝寺(練馬
石神井公園の厳島神社裏の四阿(あずまや)から三宝寺池を望む。あいかわらず雨が降っていました。東京23区内とは思えない静けさです。厳島神社すぐ近くの水神社。池の元になった湧水があるので、水神社があるのもわかります。それにしても、斜めになった木がすごいなぁ。三宝寺池の南側は、平安時代から戦国時代にかけて、石神井城という城館がありました。カステラくんたちの後ろのほう、「石神井城址」の石碑の向こう側に見える茂みは、内郭を囲む土塁の北側斜面が見えているようです。さて、こ
としまえんが今日で歴史に幕を閉じる。沿線に子供の頃住んでいたので、寂寞感💦しかし、よく良く考えたら中学卒業後、一度も行ってない…それで閉館寂しいは、身勝手な話だなと😅としまえんの由来となった豊島一族の本拠地石神井城。>落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29年(1896年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。私の知っている方が石神井公園で雨の夜に見た白い浴衣の女とおびただし
豊島兄弟の弟・平右衛門尉は合戦で討ち死にし、勝利した道灌は翌日、兄・勘解由衛門尉が逃げ帰った石神井城へ押し寄せ、城を囲みます。城方はいったん降伏しますが、それが偽装だと見抜いた道灌はふたたび攻撃へ転じ、勘解由衛門尉は夜陰にまぎれて逃走します。翌年、道灌が武蔵国をはなれた隙に乗じ、勘解由衛門尉は前述した平塚城(北区)を拵えて籠城しました。しかし、道灌がもどって来るとみるや、ふたたび城を捨て、ここに鎌倉時代以来の名門豊島氏は滅亡しました。一方の道灌は江古田原で勝利し
今回は石神井城主の豊島輝時が開基したと言われ、豊島氏の菩提寺とされる道場寺(どうじょうじ)です山号は豊島山で宗派は曹洞宗、開基は豊島輝時の開山は大覚禅師で御本尊は釈迦如来です道場寺の始まりは西暦1372年、冒頭の通り、練馬区の西にある石神井にあった石神井城の城主である豊島輝時が開基、そして大覚禅師を招いて開山しており、豊島氏代々の菩提寺として建立されました豊島氏はこの練馬区から豊島区や板橋区にかかる土地を治めていた一族で、豊島区という名称もこの豊島氏から来ているとされて
としまえんは残念ながら入場できませんでしたが、すぐ近くの向山庭園(こうやまていえん)へ行きました。としまえんから向山庭園へ向かうには石神井川を渡ります。この石神井川の北側がとしまえんの遊園地(写真では右手)で、写真左側の庭の湯やプールは練馬城の跡に作られています。園内には石碑や案内など一切ないのですが、この石神井川は護岸工事が行われたものの、当時と変わらないみたいなので、練馬城の北側の守りとなっていたのかな…なんて思います。としまえんの施設で
関東がまた乱れた。長尾景春は、主君上杉顕定に関東管領の家老職を奪われたことを深く恨み、また、太田道灌へのライバル心も加わって、1476(文明8)年に反乱を起こした。長尾景春の挙兵に相模、武蔵の豪族たちが呼応し、上杉氏を危機に陥れた。妻が長尾景春と兄妹である豊島泰経は、これに味方して、立ち上がった。豊島氏は桓武平氏の流れを汲む武蔵国の豪族だ。本拠は石神井城(東京都練馬区)。太田道灌が目と鼻の先の江戸城を築城しており、豊島泰経からすれば自分たちの権益を侵されたと考えていたのだ。こ
享徳の乱と呼ばれる戦禍が関東一円に及ぶなか、山内上杉顕定の執事の職を争い、長尾景春が敵(古河公方)陣営と手を結びます。景春の武将としての能力は高く、武蔵・上野・相模の堀越公方陣営の国人衆の多くがこぞって景春に加担したのです。こうして道灌が属する堀越公方方は窮地に陥りました。彼らが古河公方軍への備えとして築いた前線の五十子陣(埼玉県本庄市)が文明九年(1477)正月、長尾景春軍の前に崩壊し、堀越公方軍の首脳は、北関東の上野へ逃亡したのです。当時、武蔵国でも豊島一族
ウォーキングや寺社巡りをしていると城祉も最近気になってきました東京だとやはり「江戸城」ですがもうお城は都内のどこにもないのは寂しいですね。お城がある県は羨ましいですこちらはJR赤羽駅から徒歩五分ほどのところにある「稲付城跡」太田道灌が築城したもので、今はお寺になっています。早朝だったのでお寺には入らず(階段が大変そうというのもありますが)毎月26日には木像の太田道灌が公開されています。板橋区の由来の「板橋」がありました石神井公園にも初めて行きました。豊かな三宝池があります。たくさんの鴨
毎日、雨、雨、雨で憂鬱になります。気分は天気で左右されるので少しでも止む時間があれば自転車です。先週の日曜は久しぶりの晴れで石神井公園まで自転車散歩でした。石神井公園は私の父方の先祖、豊島泰経のお城、石神井城の跡地。広大な敷地の中には泰経のお墓(殿塚)もあります。また”てる姫祭り”で有名な泰経の娘、てる姫の姫塚もありますが、伝説が本当かどうかは定かではありません。ちなみに遊園地の”としまえん”も泰経のお城、練馬城の跡地です。この日は練馬区の資料館に立ち寄り、ご先祖様の壮大な歴史
川崎市中原区の一画、丸子城の跡地。丸子城という城は全国に複数ありますが、これは川崎市にある有名ではない城。文明10年(1478年)、太田道灌に攻め立てられた石神井城主の豊島泰経が石神井城を落とされた後、この地に陣を築いて拠点とする。しかしほどなくこの陣も攻め落とされ、豊島泰経は小机城に逃げる。このように、丸子城と呼ばれますが、城としての機能よりは、一時的に築かれた拠点ですね。④が丸子城⑤:武蔵小杉駅①:小杉御殿②:小杉陣屋③:旧名主の安藤家⑥
昨日の通院帰りに立ち寄った石神井公園ですが・・・この案内図に出ているのが石神井公園の奥にある三宝寺池でしてねぇ~わたくしはこの池の畔にあるコチラの豊島屋さんでランチをした訳です☀️🍴この豊島屋さんはほとんどオープンカフェ状態でしてねぇなんとも居心地の良いお店でした!😁そんな三宝寺池ですが池の周辺は東京とは思えないほど樹木がうっそうとしてまして池の周りはこんなウッドデッキ的な道が1周続いていました!もちろんわたくも池を1周りしましたよ😁池の散歩中にこ
こんばんはタイトルは松尾芭蕉の俳句でございます宣言通りテコ入れちゃんとしたような・・・コロナウイルの勢い全然止まりませんね同業である(先方のほうが大きいですが)清水建設で1名の方がお亡くなりになりました同業者の方ですと余計に思いが深くなりますこの方だけでなく今回のコロナ禍でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします東京の中野区にある江古田病院(えごた)で院内感染のようですねコロナウイルスは蔓延して言うと考えると持論ですがPCR検査って必
三宝寺池のほとり沿いに歩いて行きます(^_^)冬の公園の景色も良いものです(^o^)神社がありましたが門が閉まっていて中には入れませんでした。石神井城跡がありました(^_^)鎌倉時代に豊島氏が治めていましたが、太田道灌によって攻め落とされたそうです。今では城の跡形はありませんが、土塁やお堀の跡を見ることが出来ました(^_^)行きに通った道を戻っていきます(^_^)カモ!入り口に戻って来ました\(^-^)/ぐるっと一周!この日もたくさん歩きました(^_^)石神井公園は大きな池の
こんばんは三重県の起業件数が全国平均に達していないというニュースをやっていましたチャンスやないかいこういったときは補助金とかがでるケースが高いですよね三重県内の愛知県に近いところで開業して実際の運営は自宅で・・・そこで補助金ゲットまぁ捕まるなそういえば昨日、YAHOOニュースを見ていたら東京の練馬区にある年増間違えた豊島園が閉園しそのあとにハリーポッターのテーマパークができるとか豊島園といえばインスタ映えする
石神井公園は周辺の寺社にお参りしたついでに何度か訪れています(リンク)公園には西側に三宝寺池、東側に石神井池があります。三宝寺池のほうには行ったことが無かったのですが、こないだ訪れた際に池周りにいくつか小さな神社があったので記事にしました。三宝寺池は武蔵野台地の地下水が湧き出て石神井川の水源となっています。一部は貴重な水生植物の群落(三宝寺池沼沢植物群落)があり国の天然記念物に指定されています。近くの石神井城も当地の豪族の豊島氏が水源を支配するために築かれたとされています。池に
昨日池袋祈り散歩でした。71年前の12月23日この地で処刑された、東条英機さんら7名の方々。ここでお亡くなりになった方々のお話をしてここにいらっしゃった方々のお話をしてここで働く方々のお話をしてここに訪れる方々のお話をしてすべてのすべての永久平和を願って池袋駅パルコのすぐ隣にある四面塔(しめんとう)江戸時代徳川吉宗の時代、一晩で17人が斬り殺されるという哀しい事件が
道路を渡って、再び石神井公園へ。アスレチックがあって、公園内でも遊具で色々、遊べるようになっています。ちょっと、お店で休憩。石神井公園には過去、何度か遊びに行ったことがあって、春のお花見の時期にはお店も様変わりしていていいですよ。ご飯も食べられます。この日はラーメンをいただきました。歩き疲れてきたので、エネルギー補給といったところです。見事なもみじ。真っ赤で空に映えて見えます。三宝寺池へと散策は続く。メタセコイア。ねりまの木だそうな。樹木の物語石神井公園の木々の声【電子書
<iPhone8にて撮影>石神井公園さんぽ2〜石神井池から三宝寺池へ〜からの続き。石神井池とは少し雰囲気が違う三宝寺池。静寂という言葉が浮かんでくる。国の天然記念物に指定されている三宝寺池沼沢(しょうたく)植物群落。浮島のことでしょうか。こちらから時計回りに三宝寺池の遊歩道を歩きました。ひっそりと静かな水辺を歩く。何か不思議な感じがする場所でした。
今回は練馬区の西の端、石神井にある石神井総鎮守氷川神社です初見ではなかなか分かりませんが、石神井(しゃくじい)です!ここは石神井公園など自然が多く、かつ池袋や新宿などにも行きやすいため住みやすい場所ですこの石神井公園の先の三宝寺池は昔この地を支配していた豊島氏の本拠地、石神井城があり、今はその遺構が残されています豊島氏は太田道灌によって攻め滅ぼされてしまいましたが、石神井城内にあったこの氷川神社は残り、総鎮守として今も崇敬されています⚫︎参道入口⚫︎参道参道は住宅街になっています
厳島神社から200mほど南の所に、石神井台氷川神社が鎮座されます。参道の始まりまで廻りました。参道は桜並木です。右に手水舎。---氷川神社氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~1428)この地を領していた豊島氏が武蔵一の宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したといわれています。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみ
○掲載2019年4月19日○最終更新2019年8月6日今回は、都心に残る緑、石神井公園について紹介致します。【目次】①石神井城趾史蹟碑②現在の石神井公園③照姫伝説④照姫まつり⑤納涼灯篭流しの夕べ①石神井城趾史蹟碑石神井城趾史跡碑(石神井城趾史蹟碑)は練馬区にある石碑です。>>>━━━━【基本情報】━━━━<<<住所…東京都練馬区石神井台1丁目東京都立石神井公園内設置年…昭和12年6月設置者…社團法人石神井風致協會>>>━━━━━━【碑文】━━━━━<<<(
平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の1つ。築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)4月28日に太田道灌に攻められて落城し、廃城。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた。その後の泰経の足取りは不明。現在は、都立石神井公園となっている。東京都指定