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前回の皆既月蝕+惑星蝕の1580年に何が起きたのかいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!前回の皆既月蝕と惑星蝕は天正8(1580)年7月26日に起きました。この時は、皆既月蝕と土星蝕でした。4つ大きなことが起きたようです。1ポルトガルとスペインの併合ポルトガル王家(アヴィス王朝)のエンリケ1世が1月に亡くなり、ポルトガル王家
10月10日は晴れるという統計を聞いたことがある今日は☂️☁️昨日の拙ブログ「鳩の街」はブラタモリ関連のためハッシュタグ6位⁉️スカイツリーもだが、鳩の街について書けて良かった。「蟻の街」については、北原怜子について、何度か書いている。鳩の街と蟻の街、どちらも私には大切な街機会がありましたら、お訪ね下さいね。最近まで週末は近所のボーリング場🎳の早朝の投げ放題に通っていたマイボウルはないがマイシューズは持参現在は休止中❌毎日10キロ弱歩いていたが、それも❌なので、さっぱり運動
【田原総一朗の政財界「ここだけの話」】「麻生発言」は失言で済まされる問題ではない「麻生発言」は失言で済まされる問題ではない田原総一朗の政財界「ここだけの話」2013年08月03日麻生太郎副総理兼財務相が7月29日夜、都内のシンポジウムで憲法改正についてナチス政権を引き合いに出した「ナチス発言」が大きな波紋を呼んでいる。麻生さんは8月1日午前、「ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい」とコメントしたが、失言では済まされない問題だ。サービス精神が旺盛で、きわどい発言も
『歴史の中の邂逅(かいこう)』-司馬遼太郎●荒木村重について-④✪もっとも、このあと村重の挙動に焦げくさいにおいが立ちはじめたようで、この安土の一件から数ヶ月後に村重が信長の命令で播州の羽柴秀吉の応援にゆかされたとき、すでにそうであったらしい。羽柴秀吉は信長の代官として播州において毛利の同盟者たちと対戦している。このとし(天正6年)6月に播州上月城外の高倉山で合戦があったが、村重の軍勢はいっこうに動かなかった。動かなかったのは村重にすればべつの理由があったかもしれないが、世間の目はそうは
最近、戦国時代の小説や大阪城についての本などを立て続けに読んだので、石山本願寺のこともイメージしてみたくなった。この本には、どちらかというと、顕如上人のことよりも、織田信長のことがたくさん書かれている。それにしても読みづらい。織田信長の残虐さ以外、個々の武将たちのキャラクターがほとんど描かれていない。でもまあ、浄土真宗にしても比叡山延暦寺にしても、この戦国時代に、宗教勢力がものすごく蔓延していた様子がわかる。雑賀衆、根来衆といった鉄砲傭兵集団、織田信長の大砲装備の装甲艦を建造してしまう鳥羽の海
『黒牢城』米澤穂信角川書店2022年第7版主人公は荒木村重(1535~1586)と、荒木の謀反を翻意させるために(または謀反の事実を確かめに)有岡城へやって来た黒田“官兵衛”孝高(よしたか1546~1604)。村重ははじめ池田氏の家中として、後に三好氏に所属しましたが、1573年織田信長につきます。翌1574年伊丹城(有岡城)を落とし、摂津一円に一族を配して支配します。突然信長に反旗を翻し(1578年)、翌年城を捨て毛利へ逃れます。天正6年(1578)11月、有岡城を訪れた黒
またまた出ました大阪最古の地図その1以前のブログでは。。大阪の地図では、明暦2年1657年に作成されたのが最古だと思うと記していましたが、その後、これより古いものを国会図書館サイトで見つけました。何と康正2年1456年に作成されており、以前のブログで紹介した地図が明暦2年(1657年)なのでこれより、201年も前の大阪ということになりますね。この201年の時の流れは大きいですね。今から201年前だと1821年(文政4年)
*5月22日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、継子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。本日は、摂津木津川口海戦のおはなしです。あんみつ「先生、山陰で尼子再興軍を駆逐した毛利氏は、天正二年(1574)から備後で浦上宗景との決着戦に入りました。当主の毛利輝元はまだ22歳ですが、叔父の吉川元春は45歳、小早川隆景は42歳の壮年で、この“毛利両川”が補佐する三頭体制でいっそうの領国拡大を図
天下に覇権を確立しつつある織田信長が石山本願寺を落とすに手を焼いていた時代。現在の大阪城の場所にあった堅牢な守りの本願寺に対して兵糧攻めで臨むも、今の大阪湾よりも海岸線が近かった当時、本願寺に味方する勢力が隙をついて糧食を運び込んでいた…とは聞き及んでいたことですけれど、対本願寺戦の詳細には触れたことがありませんでしたので、「こんな戦いがあったのであるなあ」と思ったものでありますよ。予て気にはなっていた(といって幾星霜…ですが)和田竜の『村上海賊の娘』を文庫版全四巻で読んで、木津川合戦のことを知
こんばんはひきわけや!!石川の勝ちが。。。でも負けなかったのは助かった貴重な引き分けにしてほしいね明日は休みでは
2022-03-30モッサモサ〜(勝手に)ゴール後、お散歩し始めますぅ大阪城公園は、桜の木が多いのよね〜秀吉クンこの方、花見が好きだったみたいね〜大阪城を見つめる秀吉クン背中の柄は日の丸かしら?こちらの狛犬さんたちは、何だか見つめ合ってるようでしたなんだろ?赤いね可愛い〜グーグルレンズの登場ですどうやら、『ハナカイドウ』というらしい大阪城の前は石山本願寺だったとさ石碑の上にめっちゃ咲いてる少し遠目の大阪城〜船は満員でしたまだまだコロナ前には戻らないけど、少し活気
ブログ更新をし終えた午前2時25分。書棚から引っ張り出してきたのは「村上海賊の娘」。和田竜の時代小説だ。「今日はバイキングの日」というブログスタンプをもらえるテーマをもらった時は、この時代小説のことに触れて書いている。今日はバイキングの日|三好和気と申します(ameblo.jp)2020年6月8日午前9時35分更新大坂に石山本願寺があって隆盛を極めていたら、太閤さんからの迫害を受けて大坂では内戦状態にあった16世紀の後半が舞台。瀬戸内から大
【漫画】「信長の忍び」4コマなのに勉強になる。ひじかたすいげつ主人公は「忍び」である「千鳥」で、「くノ一」である。とても強い。数々の戦いのなかで、裏で活躍する。戦いの裏側を描いているこの漫画は必見である。今回は、浄土真宗本願寺派と大谷派はどうしてあるのかにつながる。二つに分かれた遠因は信長。一説には、信長は石山本願寺との戦い時に、雑賀衆の銃弾で深手を負った後、実は死んでいて、影武者を秀吉や家康が支えていたという説もあるくらい、一向宗は強かった。
【問題】永禄11年、織田信長が石山本願寺に要求した矢銭の額は、次のうちどれほどであったといわれるか?【選択肢】100貫5,000貫75,000貫100,000貫【正解】5,000貫【解説】永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、摂津国の石山本願寺に対して矢銭(臨時の軍資金)として、5,000貫を要求したといわれる。
読者のみなさまお疲れ様です。今回は読み終えた本の話題です。信長が宿敵本願寺顕如(鈴木輝一郎著)戦国をぶっこわす、覇王・信長と民の安寧を求める本願寺顕如。改革する者と、される者と戦国の最終覇者を決する十年におよぶ、手段を選ばぬ要塞戦、情報戦、外戦を壮大なスケールで描く歴史大作!!(作品紹介文より)というわけで、久しぶりに戦国ものを読んでみました。ねこみみの実家は浄土真宗のお寺の檀家なので、本願寺については少なからず興味あるんですよね。それにコーエ
英雄たちの選択「石山合戦」を見ました。織田信長視点でした。大坂石山本願寺がいかに鉄壁か理解しました。浄土真宗で現世も来世も念仏唱えれば保証される。それで一般の女子供も武器を取る恐ろしいのが一向宗。1570年に石山本願寺と敵対してから、長島一向一揆や越前の一向一揆で信長は女子供も含めて殲滅して、残虐性を示してしまったが、実は女子供も武器を取って自分たちを襲ってくる。そして石山本願寺の自然の要害。上町台地のへりに本拠地を構え、周りは無数の川によって守られてる。南の上町台地のつ
【食育クイズ:Vol.804】「京都府」の名物「和菓子」おさらいクイズ!「織田信長」による石山本願寺攻めが起源とされる本願寺御用達の和菓子とは?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.803】(「京都府」の名物「和菓子」おさらいクイズ!「京都上賀茂神社」の門前にある神馬堂や葵家が提供する名物門前菓子とは何?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「京都、最古」とされる「上賀茂
1578年(天正6年)は荒木村重や別所長治による謀反があるなど第三次の信長包囲網が築かれるなかで、時代の大きな転換期に向かいます。図中01578年2月別所長治羽柴秀吉に反旗三木城に立て籠り毛利輝元に通じる。東播磨も追随した。丹波の八上城の波多野秀治(長治の舅)も立て籠った。(光秀が応戦)図中1〜3同年10月石山城の本願寺を囲んでいた荒木村重が有岡城に籠って信長に反旗を翻した。これに茨木城の中川清秀(村重の従弟)、高槻城の高山右近も呼応した。村重は毛利、本願寺に人質と誓紙を差し
東京ヤクルトスワローズの皆様おめでとうございました🎉《関連記事》◇SMBC日本シリーズ2021・第6戦◇オリックス1ー2東京ヤクルト=延長12回=(11月27日・ほっともっと神戸)東京ヤクルトがオリックスに今シリーズ初の延長戦を制し、球団では2001年以来20年ぶり、6度目の日本一に輝いた。優勝回数は通算でセ36回、パ36回とタイになった。気温5度の中で高津臣吾監督が胴上げで宙を舞った。オリックスの沢村賞右腕・山本由伸を前に得点圏に走者を進めながらも、あと一本が
先日、歴史を学んできました。大阪観光案内ボランティアさんから話をきく。西の丸庭園も紅葉してまいりました。石山本願寺跡。大事な歴史であります。地方の城案内コーナーが催されていました。石山本願寺の台所の井戸だったといわれる。本願寺8代蓮如、袈裟がけの松。の説明5階常設パネルに流れる本願寺の歴史。太閤秀吉ファンも本願寺ファンも知るほどに大事な歴史1ページであります。ミライザ内の展示にも。。。本願寺からみた石山合戦の様子が説明されています。大阪市の寺院はイベントを開催して
石山本願寺『別名』石山本願寺城、大坂城、大坂御坊、石山御坊、大坂本願寺『所在地』大阪府大阪市中央区大阪城2-2(大阪城公園)『城主』証如、顕如『遺構』なし『城郭形態』寺院城郭(平山城)『駐車場』あり(大阪城公園)『歴史』石山本願寺は天文元(1532)に細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)の間で起きた山科本願寺の戦いで山科本願寺が焼失した後、天文2(1533)に証如によって創建されたと言われています。石山本願寺は本願
只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。東日本の「櫓門」の総集編はこちらからご覧ください↓『<東日本のお城>の”櫓門”前半総集編』5月9日から始めた「櫓門」シリーズは、「東日本(※)」のお城42城の「櫓門」をお届けしてきました。(※)東日本、西日本は、「中部地方」で東西を分けました。こ…ameblo.jp『<東日本のお城>の”櫓門”後半総集編』5月9日から始めた「櫓
織田信長は、何故石山本願寺を攻め立て豊臣秀吉は、石山本願寺の跡に何故大坂城を建てたのか?石山本願寺は、全国に散らばる宗教的門徒を政治的に束ねる組織なのであり宗教的理由で政治的に結びつく組織は反抗すると、徹底的に、死を怖れず戦うそういうものであるそういう存在を織田信長、豊臣秀吉、徳川家康天下統一を目指す人物が怖れるのも当然だしそう言う自らに従わない存在がいることは日本全体の統治者になるには邪魔な存在になるはずであるそういう組織は、政治的に解体したいと望むのも当然だと思
幕末期の大坂城である。意外に思われるかも知れないが、江戸時代にはその大半の時期において天守閣が存在していなかった。元々は、この様な徳川大坂城が存在した。大坂夏の陣後、二代将軍秀忠によって豊臣時代の名残を払拭させるべく、四十七大名家を動員して同地域の再開発を実施した。足掛け九年、三期に亘る工事によって現代我々が見る事が出来る、堂々たる大阪城のレイアウトが完成したのだ。その時代には、この様な徳川大坂城大天守が聳え立っていた。だが、その存在期間は非常に短い物であった。寛永
おはようございます昨日は村上くんのホームランあって、おっ!と思った方多いと思います。そのあとなかなか点が入らなく、あれ?って思った方多いと思います。やはり追いつかれてしまった。奥川くんもふんばってたのに、残念1勝2分今年は引き分けかなり多くなりそうねでは
今日は何の日最澄と空海遣唐使として入唐(804)石山合戦(1575)石山本願寺顕如再挙兵二条城会見(1611)徳川家康・豊臣秀頼三国干渉(1895)日本が遼東半島を清に返還皇太子嘉仁親王と九条節子結婚(1900)(後の大正天皇)(後の貞明皇后)日本気象協会創立記念日(1950)財団法人日本気象協会業務開始
津田宗及大河ドラマ『黄金の日日』では津川雅彦(故人)が演じていました。千利休や今井宗久とともに、「茶の湯の天下三宗匠」の一人です。成り上がり者の今井宗久と違い、堺の豪商天王寺屋の三代目にあたります。初代津田宗伯が摂津国天王寺から堺に移り住んだため、天王寺屋を屋号にしたといいます。天王寺屋は琉球・九州との交易で稼ぎ、その財力は、応仁の乱で被災した京の大徳寺(北区)に多額の援助を行ったほどです。もともと石山本願寺の御用商人であり、宗及も本願寺の坊官下間(し
浄土真宗西本願寺の別院にあたる鷺森別院。寺伝によるおと1476年(文明8年)に紀伊国冷水浦(しみずうら:現・和歌山県海南市冷水)に建てられた冷水道場を前身とします。冷水浦の喜六大夫は、熊野参詣の途上で冷水浦を訪れた蓮如に帰依し、蓮如から了賢という法名と、親鸞・蓮如連座の画像(二尊像)を得、冷水道場を建立したといわれます。ただ、この説は伝承という域を脱していません。★鷺森別院の歴史★1476年:全身冷水道場設立1507年:名草郡黒江(海南市黒江)に移転1550年:和歌浦弥勒寺山(
こんばんはすわほー勝ったよ!!カープ戦を2勝1分はでかい!!山崎さいこー元山も!!石山は神ですわでは