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京都の朝早い時間に亀屋陸奥に立ち寄る。目的は上生菓子と味噌松風だ。上生菓子は、きんとんと、蕨餅を買った。両方とも美味しい。蕨餅は築地の茂助団子のように中に漉餡が入っているタイプだった。そして、味噌松風を摘む。これはお徳用袋のようで小振りのひと口サイズ味噌松風が沢山入っていた。しみじみと美味しい。味噌松風は松屋常盤が元祖だと思っていたが、亀屋陸奥で初めて作られたと初めて知った。味噌松風が織田信長との戦い時の石山本願寺での非常食だったのだということを知り、今さらながら西山本願寺
信長が徹底的に石山本願寺を攻めた理由石山本願寺は武装集団背後には毛利がいた。安土桃山時代の様子が良くわかって興味深い。磯野風船子氏は華族出身でありながら社会活動に身を投じ家から縁を切られている経験もありなかなかの論客です。
今朝の通勤散歩。NHK大阪放送局の前の梅、咲いてる大阪府警👮大阪城大手門。紅梅、咲いてる期待石山本願寺と大阪(大坂)。これは、冬桜🌸大阪城梅林。まだ早かったですねぇ。。。満開の時、この位置から見たら綺麗なんです。天守閣。大阪城梅林。何本か、咲いてる木もちらほら。わぁ、綺麗水仙も咲いてます。ロウバイ。あんまり香らないなぁ。。。全体に満開になったら絶対また来よう天守閣と白梅。紅梅と。梅林の様子。可愛いですねえ。咲き誇る満開時にここを歩きたいです。極楽
重要文化財伝顔輝《寒山拾得図》元時代14世紀今日の一枚のアート(←勝手に名付けた)横尾忠則さんの寒山拾得図にちなんだ展覧会が、同じ東京国立博物館の表慶館で開かれていましたね。その関連で、トーハクでは、「東京国立博物館の寒山拾得図」という特集を11月5日(日)まで開催されていました。寒山と拾得とは、中国の仏教の聖地、天台山に住みついていた、伝説の人物。いわゆる世捨て人ですね。詩集とかが残っています、文人として理想的な生き方をしているらしく
石山本願寺と信長の戦で、亀屋陸奥三代目が本願寺のために小麦粉や麦芽糖、白味噌を使った兵糧を考案
こんにちは。星煌学院有松校の花谷です。1583年8月27日、豊臣秀吉による大坂城築城が始まりました。ところで、この“おおさか”という地名“大阪”と“大坂”表記が2つあるのなんでだろうって思ったことありませんか?今日は“おおさか”の変遷を追います!もともと大阪城周辺地域は“小坂(おざか)”と呼ばれていました。ところが蓮如が石山本願寺建立の際“小坂”より“大坂”のほうが凄くね?(意訳)と考え、まずは“大坂”が誕
※こちらの記事は、令和2年8月28日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第26弾として、「石山合戦(いしやまがっせん)」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。第1回今山の合戦第2回耳川の合戦第3回沖田畷の合戦第4回小豆坂の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第7回稲葉山城の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第9回姉川の合戦第10回
今回取り上げるのは、岸和田市内にある。岡山御坊跡な話。溜め池として行基により造られた。大阪府最大面積誇る久米田池東側は丘見たいな。丘陵地。辺り一帯は、岡山町。何度も書くけど岡山県ちゃうよ岸和田の岡山、丘見たいな場所だから岡山町なのか。この岡山へ岡山御坊が造られた。御坊とは浄土真宗における、門首が住職務める。お寺の事、勿論門首は浄土真宗の本寺にあたる本願寺に居る。だから御坊には不在。実際は従来の住職が御坊のお留守居として…住職務めてたそうな。これを、御坊お留守居と呼称。
20023年7月2日(日)に、SpotTour「大阪城周遊ルート」に参加しました。自宅から香里園駅まで歩いて行き、そこから京阪本線快速急行で天満橋駅まで乗り、そこで、大阪メトロ谷町線に乗り換えて、谷町四丁目駅まで乗り、そこで、オープニング動画を撮影しました。その後、歩いて大阪城公園の大手門に行きました。大手門です。重要文化財大手門の説明板です。大手門で、僕の浴衣姿の自撮りをしました。スマホでも、僕の浴衣姿の自撮りをしました。多聞櫓です。重要文化財多聞櫓の説明板です。大手口枡形
下間頼廉(しもつま・らいれん)が映像になっているのを初めて観た。絵だけど。雑賀孫市と岡吉正も斎藤龍興が雇った援軍として登場。合戦ごとに敵将や参謀などをどんどん追加していけるのは漫画やアニメの良いところ。絵に描けばいいからな。下間頼廉は本に名前が出てきても読めない漢字のかなり上位にくるはず。信長に石山本願寺の明け渡し要求を突き付けられ、朝廷に支持されている信長と敵対するつもりはないが唯々諾々とは従えないと思案しているところを斎藤龍興に引っ張られるようにズルズル関係が悪化していく場面。個人的に
先々週は大阪での公式記録会に行ってたわけですが、いつもの東京ではなく大阪にしたのは、行きたい場所が2か所ほどあったので、その1か所は生玉神社なぜ生玉神社?それはこの書物ライフワーク?っていうほど大げさではないが金城霊澤(金沢の地名の由来)の研究の一環金沢の地名の由来は芋掘り藤五郎の話が出てくる。昔、貧乏ではあるが誠実な青年、藤五郎が芋を掘って、その芋を沢で洗ったところ、金が出てきた。この沢を、金洗いの沢、そして金沢と呼ばれるようになった。この話の原本が藤五
本日、YouTubeで、2023年7月2日(日)に行った、SpotTour「大阪城周遊ルート」の動画をUPしました。以下の順で、スタンプゲットしました。①大手門②石山本願寺推定地③豊国神社④桜の門⑤旧陸軍第四師団司令部庁舎⑥残念石⑦お城のドン⑧大阪城天守閣⑨豊臣秀頼淀殿ら自刃の地見に来てね。↓チャンネル登録よろしくね。チャンネル登録者数は現在、261人です。お盆休み期間中に、チャンネル登録者数500人を目指します。
「九鬼嘉隆」鉄鋼船みなさん、おはようございます6月の最終週です今月を振り返りましょうそして、上半期を振り返りましょうまだまだできることはありそうですさあ、今日「6月26日」の國史を学びましょう「九鬼嘉隆、鉄甲船で出撃」天正6年(1578年)石山本願寺を支援する毛利家・村上水軍を鉄甲船で破ります石山本願寺の一向宗は信者が人々に対して救済を行うため「南無阿弥陀仏」を唱える信者の団結力は強く「一向一揆」という反乱は時の権力者に恐れられていました
ほんとうに夢のように楽しかったキム・ナムギルさんの来日ファンミーティングから一夜明けて、せっかく大阪に来ていることだし、帰りの飛行機までのあいだ、昨夜の余韻をかみしめながら大阪城へ行ってみることにしました。大阪城は豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた豪壮華麗な城で、大天守を目にしたキリシタン大名の大友宗麟(おおともそうりん)が「三国無双の城」と讃えたことでも有名ですが、大阪城公園の中に入ってすぐに見えてくる“南外堀(みなみそとぼり)”の大きさから推し量っても、その広大さがわかります。
前に書いた「親鸞と大谷本廟(西大谷)」の続きです。西本願寺の歴史です。《弘長2年(1262)11月28日、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の入寂(僧侶が死ぬこと)が西本願寺の歴史の始まりである。京都東山、鳥辺野の北の大谷に墓所が造営される。10年後の文永9年(1272)末娘の覚信尼が大谷から吉水の北(現在の知恩院付近)に改葬。六角の廟堂を建てて大谷廟堂と称し、親鸞聖人の影像を安置した。これが本願寺の起源である。永仁3年(1295)に親鸞の木像を安置。大谷影堂と称されるようになった。弘安6
☆戦国時代に現在の大阪で一大勢力を誇っておった石山本願寺、それはもはや寺とか申す代物ではござらずほとんど城じゃった!天下布武を目指した織田信長公でも成し得なかった石山本願寺攻略は、その後豊臣秀吉公により遂に達成されたのじゃ(^o^)/まぁ昔から宗教と申すものはその勢力が大きゅうなるに連れ、天下国家まで支配したいと言う野望を抱いてしまうものなのじゃ。しかし石山本願寺攻めの絵図を見て、この地形に覚えはござりませぬかのう?左様、秀吉公は攻め落とした石山本願寺跡に、あの巨大な大阪城を築いたのじ
三宅弥平次㉘「石山本願寺顕如書状」『信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。九月六日顕如門徒中へ』二条御所の大広間で光秀は平伏していた。義昭は、し
こんにちは。太閤殿下の夢のあとを追って大坂城界隈を散策しましたが、かなり広いので長丁場になりそうです。どうか暫くのお付き合いよろしくお願いします。鉄砲狭間ですが欲望に逆らわずに覗いてみます。堀を渡ってくる敵が丸見えですな。大手口桝形の巨石。徳川期に熊本藩、加藤忠広が築いたもので、瀬戸内海の小豆島から運んできたそうな。西国大名に豊臣期よりも大きな石組を造らせるなんぞは、秀忠さんや幕閣連中の考えそうなことです。表面には化粧斫りもみられます。この石は上
こんにちは。桜も散り、新緑が目に眩しい時期となりましたが、日中は既に暑いですネ。梅の実を早めに収穫しないとまた黒くなってしまうので今年は梅干しを作ろうかと。さてさて太閤殿下の夢のあと、大坂城界隈は大手門周辺からの散策となります。現存の乾櫓を横目に京橋方面へ歩きます。こちらは陸軍時代の標石でしょうか。ありました。現存移築ですが豊臣期の大坂城三の丸北端の石垣です。女性総合センターの建設に伴う発掘調査で姿を現したそうです。野面積がいいですネ~。こ
これまでに一番はまった本は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう・1574年(天正2年)4月2日、石山本願寺の顕如が織田信長に再挙兵する。→織田信長に立ち退きを要求された石山本願寺の顕如は、1570年9月に兵を挙げます。さらに4年後のこの日、再び挙兵しました(第2次石山合戦)
【問題】『信長公記』の中で、石山本願寺があった大坂の地は、次のうち何と表現されているか?【選択肢】日本一の結界日本一の沼沢日本一の舟溜日本一の境地【正解】日本一の境地【解説】大坂の地は、本願寺が御坊を置くまでは“虎狼のすみか〜”と言われるほどの地であったが、『信長公記』が書かれた頃には、“日本一の境地(土地)”と表現されるほど繁栄していた。
…【83】本願寺である。元亀元年、信長の石山退去命令に本願寺を率いる顕如が従わなかった為、合戦となった。10年もの長期戦となったが、顕如の石山退去を条件に勅命により休戦となった後、信長の覇権を継承した秀吉が顕如に新たに京都・本願寺の寺地を与えた。
この2月上旬のお話もいい加減にアップしておかないと、もうすでに梅はかなり咲いているはずで、品種によって咲く時期は違いますが梅林としてはそろそろ見頃になるのではと思われます。梅林に一番近い駐車場は大阪城の城南駐車場ですが、ここは本来はバス用の駐車場なのですが今の時期はなぜか普通車も停められます。桜の時期になるとさすがにバス専用に戻るそうですが。南側からだと玉造口から入ることになります。「玉造口
『信長公記』巻9天正四(1576)年も長いので、前半はこの年の戦いで大きなウェートを占めている石山本願寺との戦いについて大坂の石山本願寺をめぐる戦い毛利水軍も登場原田直政、大坂で戦死4.14、信長公は荒木摂津守村重・長岡兵部大輔藤孝・惟任日向守光秀、原田備中守直政に命じ、上方の軍勢を加えて大坂(石山本願寺)へ兵を進められた。荒木摂津守村重には尼崎から海上を、大坂の北野田に三つ砦を構築させ、河川の通路を押さえられた。惟任日向守光秀・長岡兵部大輔藤孝の二人には、大坂から東南にある守口・
今の大阪城の下には豊臣大阪城があり、さらにその下に石山本願寺がありました。層をなす歴史を感じると、眼前の梅花も意味深に見えます。
あなたは必ず救われます。絶対に。そう蓮如は、いう。それはどういうことだろう。はじめて庶民が、「世界観」というものを知ったおどろきと衝撃、それが、戦国期におけるこの宗旨の爆発的な隆盛になった、といっていい。浄土真宗は、ふつうの仏教とはちがい、その本質においてキリスト教に似ている。阿弥陀如来を絶対神(ゴッド)とすれば、いわば一神教であり、その教えは、「救われる」という考えがモトになっている。いわゆる仏教というものは、自分で自分の力によってサトリひらいてはじめてホトケになれるので
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正8年(1580年)1月…播磨の三木城(みきじょう)を羽柴秀吉(はしばひでよし)は眺めていた。秀吉「正月なのに煙がたたないの…飯がないのだな…」秀吉三木城包囲網秀吉は三木城を完全に包囲し城に兵糧を運ぶ路も全て遮断されていた。城内では餓死者が出ていたのだ。城主、別所長治(べっしょながはる)は、長治「もはやこれまでだ。わしは自害する。」長治の叔父の吉親(よしちか)は、吉
さてさて…………国宝満載の【西本願寺】を出発したココロは、【東本願寺】へと向かう…………京都らしい風情のある通りを東へ進む………おっなんだこの建物は【本願寺伝道院】重要文化財おっこれは…………京都検定3級過去問問)京都の町家の小屋根に飾られている人形を()という。(ア)布袋(イ)大黒(ウ)鍾馗(エ)お不動正解は…………………【鍾馗(しょうき)さん】その昔、玄宗皇帝が病に伏した時、鍾馗が鬼を退治する夢を見て、病気がたちまち治ったことから、魔除けとなると信じられた
大阪のメインストリート御堂筋(みどうすじ)御堂筋は正式には国道25号と176号の一部だそう。御堂筋は道路愛称名とはじめて知りましたさて、御堂筋の名前の由来は現在も御堂筋に北御堂と南御堂の2つの大きなお寺があります。16世紀末からこの地にあるそうですが、この2つの御堂を結ぶ道から御堂筋と呼ばれるようになったとか。昭和12年に現在の御堂筋ができる以前は、道幅6m、長さ約1.3kmの狭く短い道でしたちなみに「御堂」とは、寺院や仏像を安置したお堂を意味します。
元大阪城天守閣館長松尾信裕先生の案内による大阪城ツアーに参加しました先生は40年も大阪城の発掘に携わって来られました大阪城天守閣大阪城天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目のもので、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました。現在まで90年以上の歴史を刻み、国の登録文化財にも指定されています。www.osakacastle.net石山本願寺浄土真宗の中興の祖、蓮如が坊舎を1498年に建立したことが大阪城の始まり。蓮如とは-コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ