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トップページ都道府県別索引へ城と星空のコラボを狙い始めた3年ぐらい前から、ここは絵になるんじゃないかと狙ってた、赤木城。しかしココの天候は気難しく、夏秋冬と3度挑戦して全て曇られた😅諦めて日の出後にサッと見て回った時の様子。→過去記事紀伊半島の内陸は、冬の寒気団が強すぎると日本海の雪雲が消えずに流れてきて雲が湧くが、暖かい年末年始になると聞いた2024年元旦、近江から紀伊半島の西を大回りして突入した。早速…見えてるヨ✨東郭の虎口と石垣の上に、夏の名残を惜しむように天の川が
トップページ都道府県別索引へ星ヶ崎城は竜王町内の国道8号にある「道の駅竜王かがみの里」の裏山にある。麓には西光寺遺跡も。近江守護佐々木定綱の子久綱に始まる鏡氏が居城としていた。それ以降の鏡氏やこの城の築城年代などは全く不明らしい。冬休みの遠征は伊勢〜紀伊方面をターゲットにしていたが、暖かい年末年始で琵琶湖沿いも雪は降らなそうだったので、チャンスと思って目標変更😅デカくて時間がかかりそうな観音寺城や小堤城山城は敬遠しつつ探していたら、道の駅チカにこの城を見つけたので立ち寄った。
隔月発売『歴史群像』のなかで毎回楽しみなコーナー「戦国の城」今回は豊後国佐伯城香川元太郎先生復元鳥瞰図がスバラシイ。だが、今回気になることがあった。ふたつ、あった。建築物は黒(下見板張)ではなかったか?西出丸の塁線は直線ではないという点。このことをTwitterで呟いたところ、香川先生ご本人からリプいただき、恐縮しているわけだが…どうやら昨年発刊された『佐伯城跡総合調査報告書総論編』(以下『報告書』)の情報が加味されていないようである。建築物については、享保の修
引き続き5月4日の信濃行きのメモ上田を午前中に切り上げて小諸へここはお城が町より下にある「城上町」とか「穴城」とかってことは知っていたのですが駅を降りて吃驚!お城と反対側がめっちゃ高い!上記知識を持ってなおかつ、というか想像以上で笑いがこみ上げてきました。で、取り敢えず城主要部と反対側の大手門へ櫓門の左手が城外なのだが、入母屋屋根の高さくらいに街道がある解説のおねえさんがいらっしゃってとても楽しくお話をお聞きすることができました。お城は『懐古園』という公園になり、動物園も
都道府県別索引へ大宇陀の町並みから春日門を通って登ってきた山道は、結局西側から登ってくるコンクリ林道終点に登り詰めていた。もちろん林道は後補で、大手道の途中に横付けするように付けられたのだろう。すぐ上には説明板が立っている。2018年に立てられたばかりらしい😮縄張図も描かれている。過去の夜間登城では、ここから虎口を通って本丸、天守台まで往復しただけだったが、実際にもこれらの周囲に多くの曲輪を配置した城らしい。ここから登ってゆくと、道は次第に竪堀状に掘られた中を通
越前府中城の縄張りに赤丸部分の所の建物を配置してみました。総石垣の城で赤丸ぐらいの建物ではやはり少ないので黄色の部分に建物を追加してみます。
トップページ都道府県別索引へ長野県の索引城があるんだか無いんだか分からないような登城口から、大善寺跡を経て急坂を登ること30分ぐらいか…キタッ🤩これでも上下2段のうちの下段リュウノヒゲみたいな草の間から、大きな石垣が顔を出していた。上下二段になっている石垣、上段はさらにすごくて、高さ3メートル近くあった😮信州に多い、平らな石を積み上げていったやつだな…左上の方なんか、迫り出してるような…奥の方は足元が急傾斜で入り込みづらいが、立木に摑まりながら入ってゆくと、高さ3メート
トップページ都道府県別索引へ長野県の索引鷲尾城はしなの鉄道屋代駅から西に4kmほどの山稜末端に構える山城。埴科古墳群のある中にあって、その一つの倉科将軍塚古墳を取り込んで利用していたらしいという。村上氏庶流倉科氏の城といわれるが、詳細不明とのこと。Wikipediaに記事あり。埴科古墳群は国指定史跡だが鷲尾城は史跡指定などされていないとのこと。夏もようやく終わったが、こんどは降りつ降らずみのような空模様の中、夏に目の当たりにした霞城に続く信州の石積み城〜と、意気込んで出撃💨登
初代弘前藩主(津軽藩)津軽氏の城で堀越城趾に建つ熊野神社(宮)⛩️此処の狛犬は(一応有り)・・・狛馬🐴です相馬地方は・・・たしか🤔相馬馬歌有ったような全国、変わった狛犬が有りますよね☺️江戸時代に成って、やはり石垣の城🏯が欲しくなった、2代目津軽氏👉新しく弘前城🏯築城します
都道府県別索引へ長野県の索引志賀城は、佐久市街から志賀川に沿って東に5kmほど入った右岸側の山上に構えている。信濃に侵攻した武田晴信が、山内上杉家の影響下にあった在地領主の笠原清繁が守るこの城を天文十六年(1547年)に攻撃した時には、北方の小田井原の戦いで討ち取った上杉方の首級三千を城下に並べて威嚇するなどし、陥落させた後は生け捕った者たちを悉く奴隷として売り払ったという、悲劇の舞台でもある。こんな残虐な話の伝わるこの城に土足で踏み込むのはなかなかに恐ろしいが、まだ6月だというの
都道府県別索引へ長野県の索引石門口や永福寺口から登ってくると、城の中心部には西側から入ってくることになる。南側から上信越道の雄大なカーブを眺めたあとは、東側へ降りてみることにする。これは二郭の南東側から眺める本郭。二郭は、本郭の東側にまで回り込んでいて、そちらも相当に広い😮本郭の石積みがはるか向こうになるまで続いている。二郭の北東の端からは、細い道が降りて行っている。ここから東の尾根を通って大室古墳群の方に降りられるようだ。細い道だが…ここの側壁も石垣??😮こりゃ後世
都道府県別索引へ長野県の索引霞城は長野市内から千曲川の対岸、上信越道の長野IC北東の山麓にある。このあたりに勢力のあった大室氏の居城であったが、築城年代などは明らかでないらしい。とにかく石垣がすごいらしいとの事だが南関東からはやや距離があるので、6月に3連休を取れた機会に行ってきた。高速道路横の細道のドンヅマリに、数台分の駐車場がある。登城道まで歩いて5分ほどのところにある。→現在位置登城道の入口には石門登山口と案内があるので、狭い路地へ入ってゆく。その奥、ここか
都道府県別索引へ南側の駐車場から大手道を通って、本丸まで登り詰めた🙌この先は、北側へ回って城を降りるぞぇ💨本丸の北西側にも、南側と同じような坂虎口があって、北の方に行くことができる。こっち側にもささやかな石垣があって、下の何かを守っていたようだ…本丸北側の虎口周辺は、建物などがないせいか、切岸加工して坂虎口を設けただけの簡素な感じだった😮それでも、寄せ手は一列縦隊で入ってくるしかないから、本丸から迎撃することは一応考えられているらしい…しばらく下ると帯曲輪。尾根の末端を少し削
都道府県別索引へ市場城は、豊田の町から国道419号を北に入った小原地区の山中にある。文亀二年(1502年)に三河鈴木氏の鱸(鈴木)紀伊守親信が足助から移ってきて築いた城との事。本丸の周囲に石垣、北側には畝状竪堀群があって、土と遺構の両方を楽しめる山城だが、このような形になったのは1583年に鱸重愛が改修してからという。そして9年後の文禄元年(1592年)には、権勢を誇って豊臣秀吉もしくは徳川家康に従わなかった咎を受けて城を追われたのだという。入口近くに駐車場もあり、説明板が立っ
都道府県別索引へ入城から4時間を費やしてあちこち駆け回って、ようやく本丸まで制覇出来た〜🙌が、まだ終わりでない💦吉野口方面にも踏み込まなければイカン…💦壺阪口の説明板では城の範囲は吉野口門までのように描かれていたが、登城中にtwitterで様子をupしたところ、フォロワーさんから吉野口門からできる限り下ってみる事を勧められたので調べてみたら、名前だけうろ覚えだった弥勒堀切が相当先の方にあるのだという😮知らんかったのかよ❗このアシストはホントに有難かった🤗この日は朝から食事も摂っ
都道府県別索引へ十五間多門の上の曲輪から、天守台石垣の裾の帯曲輪みたいなところを通ると、さらに本丸前の馬出みたいな曲輪に辿り着く。ここまで歩いてきた、帯曲輪っぽい下の石垣も見事✨ってか、何かデジャヴだぞ😨…って過去の写真を探ったら、山梨県は小菅村の国道411号に並走する明治時代の街道『黒川通り』で、こんなトコを撮ってたよ…😅場所はこのあたり。危険な場所もあるがオススメの廃道😆特に石垣好きには是非ともオススメしたい✨(2015年11月3日撮影)城だろうが道だろうが、技
都道府県別索引へ大手門から800メートル以上の道のりを下って何とか二の門まで到達したので、大手門まで取って返してきた💨ここまでで早くも入城2時間以上💦時間経つの早い〜💦大手門は北向きに開口しているので、真昼の今は強烈な後光が差している✨ここまでの大手道にあったよりもずっと立派で、両側の石垣も高くそそり立っている。近世城郭の顔が覗いてきた…中に入ると一旦右に折れてから、再び左に折れるクランクだった。食い違い虎口と桝形を組み合わせたようなやつか?😮大手門の先は東西に長い曲輪にな
都道府県別索引へ二の丸の裾に伸びていた帯曲輪を無事制覇して、大手門の方に進んだ。大手門に突っ込む前に、大手道を下ったところにある二の門までを先に攻めるのだ💪→現在位置三の丸と二の丸の間の通路を通って、大手門の前の広場に出た。壺阪口、二の門、吉野口からの道が集まって、大手門に入ってゆくところで、説明板や案内などが並んでいる。大手道登城案内図には、麓からの長い道のりがあと少しで終着にたどり着くとある。二の門を通る大手道の、えらい長いこと…😨では、すぐ隣の三の丸から順番に行ってみ
都道府県別索引へこのブログに日本百名城が出てくるの、七尾城、小田原城に続いて3つ目か…しかも、2回目の登城で部分的にしか見ていなかったり、総構の○態的なところばかり見て回ったりとヘンな楽しみ方ばかりしていて、本丸を中心にまともにぶつかって行ったのは、初めてだろう😅今回は紀伊半島遠征の総決算のような意気込みで、時間も十分に取って出来るだけ広い範囲をくまなく見て歩こうと決めて、本丸までの距離が一番近い壺阪口から登ることにした。→現在位置壺阪口に駐車場は無いらしい。このあたりの
都道府県別索引へ堀切3の上の帯曲輪から、西に向けて切岸を斜めに登って行くと、いよいよ城の心臓部にある曲輪2に出る。相当高い土塁に囲まれて、箱庭のようにも見える曲輪だ😮曲輪に降りてみると目につくのが、落ちている石…これは、自然に転がっているものではなく、明らかに人為的に四角く割り取られたものだろう。早くも、タダ者でない雰囲気が漂っている🧐西側の土塁には虎口が開口している。すっかり大人しくなっているが、その場で見るとこの写真の印象よりもハッキリ分かる😅そして、その隣の土塁が、既に
都道府県別索引へ安宅勝山城は、日置川河口近くの左岸にそびえる山陵のピークに眠っている。享禄三年(1530年)に北の安宅八幡山城で発生した安宅安定づきの家老を殺害した事件に端を発するお家騒動『安宅一乱』が勃発したとき、家老を殺害された安定が立て籠ったのが、この安宅勝山城だったという。比高200メートルほどと、やや手強い山城だろう。→現在位置麓は小さな集落だが、張り巡らされている道の狭いこと車長が少し長めの乗用車が入るのはもう無理だった。それに集落内に駐車場は無いので、仕方なく
都道府県別索引へ城と星空のコラボを狙って、はるばる紀伊半島までやって来た。熊野の町中から国道311号を山の中へとひた走り、県道40号に入って細いワインディングロードを進み、丸山千枚田を通過して夕刻に赤木城に到着した。が、空は☁️…夜中になっても全く星が見えなかったので、そのまま寝てしまったら…ちょっとぉ😭明け方になったら快晴だなんて、ヒドイよ〜😭と泣きわめいてもしょうがないので、東天が明るくなってきた東郭の門跡まで行って、1枚だけ撮ってきた雰囲気だけ味わって頂ければ…😅明るく
都道府県別索引へこのブログに日本百名城が出てくるの、初めてだったりして…😅何しろここ1ヶ月以上、信州のマニアックな土の城ばっかり追いかけてて、石垣の城の存在を忘れかけてたわ🤣夜のうちに能越道を県境PAまで進んでおき、朝イチで攻城…って思ったんだが、結局駐車場まで行ってから眠くてグダグダ…💦車を出たのは8時過ぎだった😅思えば前回ココに来たのは3年前、位置ゲー『ニッポン城めぐり』での合戦イベントのすぐ後だった。やっぱり真夏、夜行バスに新幹線、高速バスを乗り継いで七尾駅、そこからバスで登
琉球の始祖アマミキヨは異界から、久高島に降りたって斎場御嶽や玉城城を築いたといわれています。天孫降臨みたいな琉球バージョン。4月は割と霧が濃い日が多いとの事で、もやもやしています♡車が無くても那覇からはバスが出ていて、バス停からは20分くらいで着きますが、ほぼ登り坂で、めちゃめちゃ蚊が飛んでます。そして曇っているのに暑い(;´Д`A↑坂を登りきると、城壁が見えてきます。右側に入り口の穴。↑石灰岩の石垣の城壁があったそうですが、戦時戦後と米兵により石垣は崩され運び出されたそうです。琉球の
織田信長公が初めて自ら築いた石垣の城小牧山城の姿がまた新たに!発掘調査現地説明会は、今週末2月22日(土)開催されます!
日本三大庭園のひとつ金沢兼六園兼六園冬の風物詩、雪吊りがあちこちに紅葉がほんのり残る小さな木や町の街路樹にもしっかり雪吊り3度目の金沢で初めて金沢城。真弓門から加賀百万石前田利家さんのお城として有名ですね。何度も焼失し当時の天守ではありませんが。この角度から多くの方が写真撮ってましたよ。そうそう。とにかく金沢城や兼六園に限らず金沢の町は外国人観光客の方がとっても多かった。金沢城は『石垣の城』ともいわれ、時代ごとの石垣がいろいろ
さて、静原城南(尾根)城北城にある説明版には『二の丸』と書かれていましたが、これは適切ではないでしょう。俗に、明智氏が、北城を攻撃した際の陣城であるとか、北城を陥としたあとにこの静原の街道を抑えるための城だといわれています。当然比高は北の城程はありませんがそれでも最下部のⅦ郭まで90mの急斜面となります。北城から降りてきた尾根が、しばらく平坦になったあと尾根を分断する大きな堀切h1が顕れます。その南、大土塁d1とh1が尾根続きを遮断しています。
如月は仕事も忙しく楽しみにしていた映画やライヴがあって、さらに播磨と違い雪や凍結が心配な場所も多く低調なお城巡りとなりました(以上言い訳)が、今月はイキナリ丹波国からスタートです。先月訪れた埴生城の南、京街道(播磨からみた呼称?今の国道372号)と能勢街道の分岐点を見下ろす要衝です。図解近畿Ⅱで、尊敬する研究者の一人、Sさんが執筆されていました。築城主体は森美作守と伝わっていますが、虎口や石垣などの遺構を考えると、織田配下の惟任日向守を想定しています。・・・と、明確に書
二日は、訪城予定地が東若の三か所と西若の一か所で、東若三城に時間をかけ過ぎ、最後の予定地である白石山城の麓、若狭和田駅近くに着いたのが3:30pmでした。これは無理かなぁ~と弱気になるも、国吉城歴史資料館の先生が言われた「あれは織豊期の石垣でない可能性もあるかも」というお言葉を確かめるため折れる心を奮い立てて登りました。そもそもここは、10月にとある場所で、石垣のある城ということをお聞きして興味を持ったのですが、先の国吉城の講演会で中井均先生が、ここの城の石垣づくりの喰い違い虎
さて、先々週の土曜日或るところで二十分ほど時間を頂き、特定のイチ城のことをおはなしする機会を頂きました。本来なれば、その場にいらっしゃった方々のよく知った、或いは興味を持って頂いて気軽に訪問できる城をチョイスすべきかと思ったのですが選んだのは、豊後・鞍懸城でした。ここの石垣について有識の方々からご意見賜りたかったのです。ここは四年前にはじめて行き、一昨年末帰省の際二日掛けて縄張図を摂ったのです。(実家から遠いのであまり時間が取れなかった)清書もせずにほったらかしていたものを仕上げ