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うっちーこと宇都宮芳綱ですえ~一昨日のことですが、1-8鯖の本城主で合成をポチポチしていたら、天上くじが引けるようになったので、帰省している息子に引かせてみたらグフッ!><段階移植で仙剣破斬が狙えますが、そこまで行ける自信がないさて、今度は影城主でも引けるようになったので、これは自分で引いてみたらう~ん!( ̄ー ̄;もう持ってるどうするかちょっと考えますね
"勝頼への進言が聞き入れられなかったと察した馬場信春は、同じく右翼隊にいた真田信綱と昌輝の兄弟、土屋昌次と申し合わせて馬防柵をこじ開ける為の突撃を敢行した。後続の部隊が侵入する為の道をこじ開ける。それがこの負け戦にあって、信春達ができるせめてもの貢献だった。"柵の正面にいた織田の騎馬隊を何なく撃ち破ると、真田兄弟に続き土屋昌次の隊も攻めかかった。それを見て羽柴秀吉が横から攻め入ろうとしたが、信春がそれを阻んだ。"だがそれは玉砕覚悟の特攻であり、正面から尽きることのない無数の銃弾を浴びせ
松代城三の丸跡。この辺り三ヶ月堀だった様でその先に丸馬出。写真左側の草むらに馬出跡が僅かに残っているそうです。位置的に曲輪の端か、そこへ到る道の遺構ではないでしょうかね。馬出中心部はおそらく手前の電柱あたり。城の近辺に駐車場は無いと思って宝物館から歩いてきたんですが写真右側のスペースが駐車場でした。あったのかよw歩いて戻りますw道中にあった信之400年のぼり。戻りました。今回はこちら、真田宝物館へ。この周辺も元は城の三の丸で、宝物館北側の道路が三の堀だった模
こんにちは、シニアの辰巳です。真田信綱、読み終えました。真田信綱は、真田幸綱の長男として生まれた。真田昌幸は三男である。昌幸の子が信繁(真田幸村)である。真田昌幸がもっとも尊敬した真田家随一の剛将。武田信玄家中で川中島、上野、小田原、三方原の戦に参戦。信玄亡き後武田勝頼と共に参戦した説楽原での織田・徳川連合軍との長篠の合戦で死去するまでを描いた歴史小説である。信綱なくして「戦国の真田家」は、なかった。謀将で名高い弟・昌幸が心より尊敬し、甥の勇将・幸村が「己の目標
上田市真田町の山間に信綱寺はあります。真田信綱(幸隆長男、昌幸の兄)がこの地に寺を移したそうです。その信綱は優秀な人物で吾妻郡攻略では中心的人物でしたが、長篠の戦に従軍し戦死しました。その時次男の昌輝も戦死しており、以後3男の昌幸が真田家の家督を相続します。真田昌幸が長兄信綱にゆかりの深いこの寺を信綱寺と改め墓を建てました。大棟に六文銭が入っています。信綱・昌輝の墓がどこにあるかわからないので、奥様に伺いました。この寺では墓所を確認してから「登った」方が良いでしょう。
攻城日:2018年5月26日↑信綱寺黒門(南側から)↑内小屋(打越)城は、長野県上田市にある城跡デス♪↑信綱禅寺解説板↑城跡は、JR/しなの鉄道/上田電鉄上田駅の北東およそ8.0kmにあり、現在は墓地などになっています。↑信綱寺山門↑おシロは、信綱寺の南東側すぐの比高20mほどの丘の上にあるので、訪問する際はお寺を目指すと良いdeath♪信綱寺は、元々は大柏寺と言い、室町時代にこの地を治めていた横尾氏の菩提寺として近隣の別の場所にありましたが、真田信綱がこの地に移し、更
友との旅は、長篠城址から長篠(設楽原)合戦の古戦場へ。「いやぁ、ありがと、強右衛門さんの墓参ができるなんて思いもしなかったよ」「そうか、じゃ次は、我ら信州の真田兄弟の墓参だな」「おぉ~、真田兄弟、そうか、長篠で死んだんだ!」「昔、亡きまぁちゃんと三人での『テニス部三強の旅』で、真田兄弟の菩提寺、上田の信綱寺へ行ったなぁ」「そう、そうだった…」左から信綱室、信綱、昌輝の墓塔。家臣が長篠から首級を持ち帰り埋葬したという。我ら三人は高校時代テニス部(当時は硬式庭球部)だった
戦国大名論を専門とする研究者でNHK大河ドラマ『真田丸』の考証担当の1人によるタイトル通り真田氏4代(幸綱・信綱・昌幸・信之)と信繁に焦点を当てた新書です。戦国時代の真田氏を知るにはこの一冊で一通りのことは知ることができます。この一冊で物足りない場合は、他の交渉担当の方々(平山優、黒田基樹両先生)の著作を読むと良いでしょう。幸綱の諱が「幸隆」と伝わった、それも孫の信之が誤認したわけですが、幸綱は信之生誕前に出家しており、しかも普段他人を諱で呼ぶことが無いので父・昌幸が家伝文
初代.幸綱公長谷寺:(中央墓)縁起:永正10年頼昌の嫡男として生まれる。天正2年没する。法名は「月峰良心庵主」二代.信綱公信綱寺:縁起:天文6年幸綱の長男として生まれる。天正3年長篠の戦いにて戦死。法名は「信綱寺殿大室道也大居士」三代.昌幸公長谷寺:縁起:天文16年幸綱の三男として生まれる。慶長16年没する。法名は「長国寺殿一翁干雪居士」昌輝公信綱寺:天文12年幸綱の二男として生まれる。天正3年長篠の戦いにて戦死。法名は「風山良薫大禅定門」追贈「嶺
横目に富士山を見ながら…天気は良かったものの、少々霞んでいて何となくぼんやりした感じでした。途中でふと思い立って寄り道を😅愛知県新城市にある長篠古戦場です。一般的には武田騎馬隊を三段構えの信長鉄砲隊が打ちのめした…となっています。古戦場には馬房柵が巡らせてありました。ここで武田軍15000と信長軍38000が激突…そんなスペースあるのかな?と思いましたが、15000人は横150人縦100人と考えれば収まらなくはないかというところです。いろいろな説はあるみたいですが😅結果はご存知
本堂:寺号標:黒門:寺門:所在地:長野県上田市長8100開基:真田信綱公宗派:曹洞宗創建:室町期縁起:信綱寺は、幸隆の長男であり三男・昌幸の兄・信綱の菩提寺です。幸隆の死後、真田家を継ぎ武田ニ十四将の一人となる。家督相続後、わずか1年で長篠の戦いで討ち死にする、ニ男・昌輝も討ち死にし、「長篠合戦図屏風」には、六文銭の旗差し物を伏せ、馬防柵に突進する信綱・昌輝兄弟が描かれている。信綱公墓(中央)・お北殿墓(左)・昌輝公墓(右):信綱・昌輝公墓標:雑感:長篠
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて上洛するために甲府を進発しました。そのときの軍の編成にいては、『甲陽軍艦』に詳細が書かれてあります。それによれば、≪先衆七手≫山県昌景(870騎)、内藤昌豊(375騎)、小山田信茂、小幡信貞(500騎)、真田信綱、高坂虎綱(800騎)、馬場信春(美濃)(「甲陽軍艦」に記載はないが、ここに北条氏政からの援軍2000兵も加わっていた)≪二の手≫武田勝頼、武田信豊(武田信繁の次男だが嫡子)、
これから#武田24将の内藤昌豊、土屋昌次、真田信綱の3隊を作ります。10体ずつの30体となります。
天正二年(1574)真田幸隆が死去すると嫡子の信綱が真田家を継いだ。翌年長篠合戦で武田勝頼軍は織田・徳川軍に敗れたが、この戦いで信綱は弟の昌輝とともに討死した。真田家の当主となってからわずか一年、三十九歳の生涯を閉じた。戦死した信綱の首級は、家臣の白川兄弟が陣羽織に包み、主君着用の鎧胴と愛刀の「青江の太刀」(重要文化財・真田宝物館所蔵)とともに信綱寺へ運び、首級と鎧胴を桜の樹下に埋葬して手厚く弔った。この場所は「墓前の桜」と呼ばれている。享保二年(1717)寺の移築に伴い、墓所は墓前の桜の位置か
〖新生活応援キャンペーン実施中!〗⚫天気悪いなー⚫この週末、どこか城へ行きたかったけど遅くまで呑んでいたので寝坊しちゃいまして、諦めモード突入でも一日中インドアも嫌なので出掛けてこよ~っと(*^^*)↓♪こちらからどうぞ♪↓☆紋次郎SHOP☆入口↑こちらをクリック↑入口★3月のおすすめ商品★《新生活応援キャンペーン》【ダイニングベンチチェア】『ライトブラウン』ダイニングベンチチェア【背もたれあり/幅102cm】張地…¥7,800(税込)【商品名の色やサイズに
【問題】真田信綱の墓所となっている信綱寺には、信綱の血染めの遺品が残っているが、それは次のうち何か?【選択肢】鎖帷子長槍陣羽織床几【正解】陣羽織【解説】信綱寺(しんこうじ、長野県上田市)は長篠の戦いで戦死した信綱の墓所となっている。同寺の宝物館には信綱の「血染めの陣羽織」が残されている。
昨日の続きですこんな山道をひたすら登ります。こちらへいらっしゃる方は、「よしっ」っとはじめから覚悟を決めてきてくださいね見えてきました真田家墓所左から、信綱公夫人・信綱公・昌輝公(二男)信綱公と昌輝公の遺体は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が持ち帰りここに埋葬したそうです。(一説によれば、首級を持ち帰り、信綱寺の桜の下に葬られた後、現在の場所に移された、とも)その時の血染めの陣羽織や昌幸公から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められている
信州への旅の続きです真田神社からで移動。古城緑地目的は信綱寺なのですが、目の前のこのモニュメントを見る為に古城緑地広場へ。奥が「歴史の丘」というらしいのですが、ここまで。六文銭の旗と真田丸(手前の半円のもの?)を、現しているようです3姉妹(←ウソっ)大柏山信綱禅寺本尊は釈迦牟尼佛曹洞宗創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれていたそうです。上田原合戦で横尾氏滅亡後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を
大好きな戦国決戦シリーズ第8弾も購入しました!「決戦!設楽原」あの有名な長篠の戦いです!武田勝頼vs織田信長&徳川家康連合軍の戦いです。結果は織田信長&徳川家康連合軍の圧勝ですが、両軍の戦国武将7人のそれぞれの立場から長篠の戦いを描いており、とても面白いです!本当は正月休みの時に読もうと思っておりましたが我慢できずに読み始めてしまいました。真っ先に読み始めたのは「真田昌輝」!大学時代の同級生・越智君(ペンネーム赤神諒)が「表裏比興の者たち」という題名で描いてくれてます。大好きな
やっぽ~(^O^)/きょうな☆です今日もさっさとお出かけネタの続きを!参道そ進み・・・底なし沼にてきゃー引き込まれそう(^o^;)(笑)古城庵木々もだいぶ色づいてきてます。次は六地蔵そしてこれが信綱寺の楼門です。立派ですよね♪彫刻も良い仕事をしてます(^◇^)参道を進み・・・階段を登り・・・いよいよ信綱寺の中枢部へ!これが信綱寺の本堂です。信綱寺の創建は室町時代で、その後に真田信綱の菩提寺となり、信綱を供養するための墓
8月23日。真田氏歴史館、ゆきむら夢工房、山家神社へ行った後、もう一か所巡っていたので、その様子を書きたいと思います。行って来たのは『信綱寺』。真田信綱、昌輝公の御墓所として知られています。『山門』山門から少し歩いた所に信綱寺へ通じる階段があります。運動不足の私にとっては結構きつかったです・・・。階段を上り切ると、舗装されていない小道が。緩やかな坂道がまた私にはきつかった・・・。この小道、時期になると紫陽花が咲くそうです。『信綱寺黒門』信綱寺の総門
真田四代と信繁(平凡社新書)864円Amazon【内容】信濃国小県郡真田郷を本拠とする真田氏は、武田、上杉、北条、織田、徳川など並みいる大大名らに囲まれつつも、幾多の難局を乗り切り、ついには近世大名として家を守りとおした。したたかに、実直に生きのびた武家一〇〇年の歩みは、お家生き残りの物語であった。「表裏比興者」昌幸、「日本一の兵」信繁(幸村)をはじめ、16~17世紀、戦国期に活躍した真田氏歴代の歩み。【感想】今回も真田一族の醍醐味を知ることができました。幸綱、信綱、昌
連休中、真田氏発祥の地「真田郷」を巡り、真田幸綱、信綱、昌輝、昌幸と真田氏の祖先の地を巡礼しました。まずは真田幸綱夫妻と昌幸の眠る長谷寺。(昌幸は、遺髪と爪が埋葬されています。)続いて真田信綱と昌輝夫妻の眠る信綱寺。最後に真田氏の祖先の墓所「日向畑遺跡」本でしか知らなかった地を巡り、真田の聖地を満喫しました。めでたしっ、めでたし
平成29年5月29日参拝真田郷に春が来てた(๑・̑◡・̑๑)昨年から何度か来てるけど上田は標高が高いからなかなか花咲く風景を見れてませんでした。大柏山信綱寺(しんこうじ)は曹洞宗の禅寺で本尊は釈迦牟尼仏、開祖は真田信綱です。室町期に横尾采女正の菩提寺として真田郷梅ノ木に創建された寺院が荒廃していたのを、真田幸隆の長男信綱が現在地に移し打越寺と改称しました。長篠の合戦で信綱が戦死すると、家督を継いだ弟(三男)の昌幸が長男の廟所として伽藍を整え大柏山信綱寺と再度改称しました。本堂
《くまさんぽ》田中博文、通称{くま}が毎週いろんな場所に訪れるコーナーです。2017年も引き続き真田家の人達が関係した場所にattention!本日の散歩はこちら↓信綱寺
《くまさんぽ》田中博文、通称{くま}が毎週いろんな場所に訪れるコーナーです。2017年も引き続き真田家の人達が関係した場所にGO!本日の散歩はこちら↓廣山寺
皆様こんにちわ(´▽`)ノ今日は、武田家最後の居城・新府城をご紹介致します。新府城は信玄亡き後、長篠の合戦で武田家が大敗した後に築かれたお城です。普請を行ったのは、超有名な真田幸村の父・真田昌幸です。(アクセスは、新府駅から徒歩で15分ぐらいでした。新府城から富士山も見えるんですよ)ここから登ると一気に主郭部に行く事ができますが、私は左手に進みました。上記、二枚の写真は三日月掘と言います。名前通り三日月の形状をしています。真田築城術を甲斐まみえた気がします。そして城の南側から登って行
2017年2月11日㈯17時~[attention!]担当は田中博文、通称{くま}です。この番組では毎週《くまさんぽ》と称し、僕がいろんな場所に訪れるコーナーがあります。2016年は真田yearという事で、2017年も引き続き真田家に関係する場所にattention!本日の散歩はこちら→《戸沢神社》先週は初めてのゲストという事でくまさんぽ拡大版という事でお送りしました。またこちらの模様についてはフェイスブックに写真とともにアップしますね。大河ドラマ《真田丸》で信之妻のおこう役を演じ
次は、立札の後ろにあるお地蔵様に、願い事をすると叶うみたいな事が書いてあったので、(//∇//)ちょっとだけ、願い事しました。(//∇//)⬆︎この池で討ち取った首を洗ったらしい…なので首洗池と呼ばれたみたい…もう少しで終わる…_| ̄|○ので、⬇︎は、真田信綱、昌輝兄弟のお墓設楽が原からは、少し離れた山中にあった‼️真田信綱信綱の最期天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[4]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い