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天海(177)家康はついに西上を決意した。8月27日、家康は諸将の岐阜城攻略を称え、近く家康・秀忠が出陣するので、それまで軍事行動を控え、待つように伝えた。8月29日、次に秀忠に対し、大久保忠益を派遣して、急ぎ東山道を西進し、9月9日までに美濃に入るように伝えたのである。つまりこの時まで、秀忠は西進する指示を受けていなかったことになる。しかも、この年は8月29日が月末(旧暦)であったので、かなり厳しい要求であった。一方、9月1日には、黒田長政、藤堂高虎らが布陣し
天海(167)「是ヨリ先、信濃上田ノ真田昌幸、長子信之・次子信繁(幸村)ト、徳川家康ニ従ヒテ下野ニ進ム、昌幸西軍ニ応ジ、信繁ト共ニ上田ニ帰ル、是日、家康、信之ヲ褒シ、又信濃松本ノ石川康長、松城(松代)ノ森忠政ヲシテ各其封ニ帰リ、昌幸ニ備シム。」(「史料綜覧」)徳川家の与力大名である信濃国上田の真田昌幸・信繁の父子は、嫡男・信幸の沼田城に集結すると、秀忠が率いる3万8千人の会津征伐軍の先陣に参加するため、宇都宮に向けて出陣した。秀忠軍は徳川家の主力を集めた精鋭軍である
2024年4月14日(日)沼田市▼沼田公園(沼田城址)早朝の清々しい空気の中、ソメイヨシノが満開見頃を迎えています🌸小松姫像と真田信之(信幸)像花壇も春御殿桜(奥)と御殿桜二世(手前)🌸ヒガンザクラという種類の桜で、ソメイヨシノよりも早く開花します🌸まだどちらも満開ですが、少し散り始めているかな~。といった感じです🌸御殿桜🌸慶長12年(1607年)、真田信之(信幸)がここに五層の天守閣を築造した頃に植えられたと言われ、推定樹齢は400年以上です🌸鉄柱で支えられています。
こんにちは、めいですお元気ですか沼田城。真田信之公と小松姫様のもとへ参上しためい。参上は「目上の人の所に行くこと」の謙譲語です。真田犬めいは単に行ったつもりが・・めい、そなたに北の城壁の守りを任すすぐに父上の元へ参れ・・と信之公に命じられ、イヤとは言えず昌幸公が守る、北の城壁へめい見参見参は「参上して目上の人と対面すること」、「目上の人が目下の人に会うこと」
名称:岩櫃城城郭:山城築城年:南北朝時代築城主:吾妻氏か改修者:真田氏主要城主:斉藤憲行、斉藤憲広、真田幸隆、真田昌幸、真田信之所在地:吾妻郡東吾妻町原町指定文化財:国史跡続日本100名城登城口中城二ノ丸へ二ノ丸土塁、横堀本丸
2024年4月20日こんばんは今夜は大学メンバーが信州を訪ねておりますのですみませんが予約投稿でお送りいたしますまた今回の様子は別にアップしたいと思いますさて、前回は信州屈指の桜の名所上田市にある上田城跡公園の千本桜まつりをお送りいたしましたが信州の桜シリーズはまだまだ続きます前回訪ねた上田城が弟、真田信繁のお城ならば次は兄、真田信之のお城を…というのとさらに次回訪ねた目的地との途中にあって巡りやすかったということもあり今回お送りしますのは長野市の松代城跡です元々は
池波正太郎著「獅子」を読み終えました。これは真田信之の隠居後のおはなし。「真田太平記」の後日談ともいえます。真田信之は大変長寿の人です。このお話は信之、隠居して一当斎と名乗っていますが、93歳の時の騒動です。真田家当主である息子の信政が病に倒れ急逝。信之は隠居がなかなか幕府に認められず、93歳でようやく隠居できて信政に家督を譲ったわずか半年後のこと。跡継ぎ候補はいるもののまだ僅か一歳。しかも庶子ゆえ幕府に未届け。真田本家、分家の家督争いの様相を呈してくる。御家騒動が幕府にしれ
先日の旅行、中一日は本当は少し離れた所にある日帰り温泉に行くつもりでした。某映画でもロケ地になったと云う広い露天風呂が数カ所あるところで、湯浴み着を着て・・・と云う形式。ところが当日は雪予報。現地に行ってから考えようと思いましたら、10センチを軽く超える積雪。湯浴み着で露天風呂はギリギリOKでも、渡り歩くのは寒すぎるかもと断念。それならと、急遽作成したプランでの沼田見学になりました。戦国時代の真田信繁(幸村)の兄真田信之の居城沼田城。信之は本来、父の真田昌幸
時をかけ・る~LOSER~―歴史の真実を調査せよ―STORY近未来。一部の政府関係者が「タイムトラベル」が出来るようになった時代。とある大学で教授の助手をして歴史研究に励む5人の若者たち。彼らは国から特殊任務を帯びている。それはタイムトラベルを行い、国が選んだ歴史上の人物(対象者)を調べること。そしてまだ未発見の真実が見つかった場合には国に「報告」をすること。任務を受けた若者たちは、意気揚々タイムスリップし、それぞれの任務に当たろうとするが…。歴史の敗者の真実を知った時
先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。前回の「お城紀行」では、4城目として「武田信玄」が攻城したものの落とすことができず撤退した戦いで「砥石崩れ」と言われた「砥石(といし)城」へ向かい登城を始めたものの、思わぬ雪中行軍となり途中で断念しましたことを報告しました。そこで時間ができた分、麓に「真田氏」が築いた「上田城」(長野県上田市)へ向かい、特に前回ジックリと見なかった「尼ケ淵」を中心に見学しました。「上田城」の歴史と城主ですが、1583年
ハッピーハロウィン🎃昨夜は皆様楽しみましたか?姫路の駅前もたいへん賑わっていたようです日曜日に推し活さんからの依頼でハロウィン🎃グッズを!何枚か撮りましたがコレだけ貰えましたので投稿に使わせて頂きますいつも写真頂いてますので御要望にお応えしました無理な人もいるだろうけど、やってもいいかな?ということは請けてます何年も前から真田の陣羽織は手に入れており、使う機会を模索していました本多家とも縁のある真田信之公なら姫路城に足を運んだとしても無い事はないかもしれないとの解釈です(笑)創
2月22日、川中島古戦場の次は、バスで松代駅バス停へ。バス停の一番上には真田の六文銭。鉄道が通っている訳でもないのに松代駅と言う理由は、以前ここに長野電鉄屋代線の松代駅があったから。松代駅の駅舎今はバスの待合室中も見ておくといいでしょう駅舎の裏側へ抜けると、向こうに土塁が。松代城(別名、海津城)の土塁です。松代城は戦国時代に上杉謙信と対峙するために武田信玄が家臣の山本勘助に命じて1559年から築城。(山本勘助が実在したかどうか定かではないでど)1561年の
1974-1983「週刊朝日」に連載された「真田太平記」、文庫本にして十二巻の大作。本書はその読本なのだが、後年大河ドラマ「真田丸」の放映に合わせて発刊されたもののようです。二十作以上書かれた真田モノが池波歴史小説にとって如何に原点であり、「真田太平記」は正にその集大成であったのがよくわかる。内容は、池波氏自身のエッセイ数本、「真田太平記」の各巻あらすじ紹介・年表・人物事典・物語地図、担当編集者ら三名の寄稿文による三章で構成。大河ドラマを意識していたが、その頃の
2017年2月23日(7年前)☆☆☆毎朝、アクセス解析をしますが、多くの方が昨日、Blog初期の頃を遡ってご覧になってくれたぺーギをアップしてみました!☆☆☆皆さん、こんにちは、しばらく前に、Blogのアクセス解析をしたところ、何故か?4年ほど前の下記Blogを遡ってご覧くださった方が多かったので、再度アップしてみました。”Throwback3Years"では、4年前だと紹介する事がないですからね!振り返って見ると、当時(2013年)の頃は、まだ、NHK大河ドラマが決まってな
※「国史跡松代城跡」復元北不明門桝形と案内板…北不明門は本丸北側を守る表門と櫓門によって桝形を形成しています北不明門桝形も、平成16年(2014)当時の絵図に基づき、忠実に木造復元されています松代城2️⃣100名城No.26松代城には、今回初めて行きました。松代城は、平城に属しますが、「甲州流築城術」が随所に見られる「名城」です。明治期の廃城令により、建物は壊されてしまいましたが、櫓門などが木造復元され、在りし日の松代城の姿を取り戻しつつあ
今年の初ブログは既に書いたつもりでしたが、見返してみると前回はナント12月31日の更新だったんですねってわけで今年初ブログです!今年こそブログ更新のギア上げてくぞヽ(゚∀゚)ノ☆ホントカ…松平さんと一緒に決意表明!(娘ちゃん撮影)のりりんがネカマでない事をここに証明いたしますえーと、今回はネカマブログではなくて松代城のブログですよ〜パンフレットより松代城の説明です前回からの続き…龍岡城から北へ向かい、真田宝物館前に車をとめます。私…館内に入ったんだろうか?全く覚えていませ
期間:2024/02/04〜02/06天井:100倍率:2倍初回:半額覇)井伊直虎:紅粉の領主覇)徳川家光:泰平の礎覇)真田信之:天下の飾り覇)秋山信友:籠城の堅持星3覇)田村宗顕:機特効・参©コーエーテクモゲームス
昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めました。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>「小牧・長久手の戦い」で「織田信雄」が「秀吉」と和睦に応じてしまったことで、梯子を外された「家康」は、一旦和睦を受け入れて「家康」の次男「於義丸」
去年4月、群馬県東吾妻町の岩櫃城、潜龍院、郷原城、群馬県高山村の中山城を訪れたあと、群馬県沼田市を訪れました今回の城は続100名城・沼田城です当初は倉内城とも呼ばれた沼田城は、沼田氏による天文元年(1532)頃の築城とされ、北関東の要衝の地であることから、上杉氏や後北条氏、武田氏など錚々たる戦国大名による激しい争奪が繰りひろげられました天正8年(1580)、真田昌幸が沼田城を攻略し、翌9年には城の奪還を狙った沼田平八郎景義を謀殺して、沼田氏を滅亡させました天正18年(1590)には昌幸
前回、長々と戦国時代における沼田城の歴史を紹介しましたがかつての沼田城はこうでした現在は沼田城址公園となっており遺構はわずか。そのわずかながらの遺構を見てきました~。西櫓台の石垣・石段ビューポイントから見る景色ここから名胡桃城方面も見えます。北条が名胡桃城を攻めたことで小田原征伐が始まります。北条滅亡のきっかけとなった景色と思うと感慨深い天守・本丸周囲の土塁・空堀数少ない遺構だったので、あっちこっちと上り下り。城らしい城めぐりを楽しみました。
※こちらの記事は、平成29年9月5日に書かれたものです。皆さんこんばんは。惰性で続いている平成28年の大人気NHK大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』の感想シリーズですが、ついに49回です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。あらすじとしてはどうしても真田幸村(堺雅人)に死んでほしくない兄の信之(大泉洋)ですが、名を隠して本人に会いに行くも、幸村の決意は固く説得はできず。幸村は妻子を伊達(だて)家に託し、ついに大坂(おおさか)夏の陣が開戦となり、後藤又兵衛(哀川翔)を
※典厩寺山門…左手には閻魔堂が見えます典厩寺山門は、3代松代藩主幸道公の長國寺霊屋の門を万延元年(1860)に移築したものと伝わります武田信繁公の墓典厩寺1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土
・駅前の小さな書店で購入する。・平山優氏の『真田信繁』の隣にあった本である。・残念ながら真田昌幸の伝記はなかった(伊勢宗瑞(北条早雲)と北条氏直、今川氏親の本はあった)。・本書は永禄九(西暦一五六六)年から元和二(西暦一六一六)年までの信之の半生について書いている。・巻末に主要参考文献と真田氏発給文書一覧(慶長六年~元和二年)有り。・上田領と沼田領の復興政策を読み、信之が仁政を行っていた事を知る。・政治家真田信之について多くの事を教えてくれる本である。・大河ドラマ『どうする家康
※真田信之公の墓と案内板…高さ3.3mある巨大な「宝篋印塔で、正面に「大鋒寺殿」と信之の法名が刻まれています信之公はここで、荼毘に付され、遺灰の一部を真田家菩提寺松代長國寺に、残りを埋め宝篋印塔を建てましたお寺は、その後一時荒廃し、野ざらしとなっていた信之公の墓所の荒廃ぶりを嘆いた8代藩主幸貫公により寄進された鳥居、灯篭、土塀が現在も残っています真田信之公の墓大鋒寺3️⃣戦国武将、大名の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言う
松代(まつしろ)温泉国民宿舎松代荘(長野県)です。最近は、長野市営黄金の湯松代荘ということが多いようです。ナトリウム・カルシウム-塩化物泉です。松代は真田信之の松代藩の城下町です。大本営地下壕跡や、近くには川中島合戦地跡があります。ここは、泉質が素晴らしい。見事に茶褐色に濁っています。浸かった瞬間に、泉質の濃厚さを感じます。比重の重さを感じます。溶存物質が16130mg/kgです。メタケイ酸の含有量も多い。しかし、肌触りはさらさらしています。鉄錆と金属の匂いがします
※大鋒寺真田信之公霊屋標柱(長野市指定文化財)真田信之公の墓大鋒寺2️⃣戦国武将、大名の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀吉関白宣下天正13年〜
※真田信之公銅像と案内板…信之公松代藩主就任400周年記念事業で造られました上田城に信之公像がないので嬉しいのは、嬉しいですが…!?「おっちゃん」やん!、もうちょっと幸村公のように「イケメン」銅像にしてあげればいいのに…と思いました実際、信之公は、小柄だった父昌幸に似ず180cmを超える「大男」のイケメンだったようです本多忠勝の娘、稲(小松)姫は、信之を駿府で見たとき「目が♥️マーク」になっていたそうです信之公は、松代発展に尽力し、「名君」として、民衆の尊崇の対象となりまし
※上田城復元東虎口櫓門脇にある鏡石の巨石通称「真田石」…信之が松代へ転封されるとき、残った建物や石垣を持っていこうとしたところ、ビクともしなかった「伝説」が残っています上田城に行きました!5️⃣100名城No.27上田城には、今回初めて行きました。上田城は、パット見平山城に見えましたが平城に属します。上田城は、「赤の真田六文銭」を戦国の世に知らしめ、「表裏比興の者」として、一介の武田家家臣から「大名」にのし上がり、真田信之、信繁(幸村)を育てた
※上田城内真田神社にある真田幸村公「戦国無双」横断幕…イケメン「幸村」公!若い頃はこんな感じのイケメンだったと思いますが…大坂の陣での本当の幸村は「小っちゃい50前のおっちゃん」でしたイメージをぶち壊してスミマセン上田城に行きました!3️⃣100名城No.27上田城には、今回初めて行きました。上田城は、パット見平山城に見えましたが平城に属します。上田城は、「赤の真田六文銭」を戦国の世に知らしめ、「表裏比興の者」として、一介の武田家家臣から「大名