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新政府の裏切りにより捨てられた相楽総三と赤報隊の悲劇下諏訪の町中。ここには魁塚があります。幕末の動乱に翻弄された相楽総三と赤報隊の悲劇が伝えられています。・赤報隊は戊辰戦争で新政府軍の先駆けとして年貢半減を掲げ、東進し江戸を目指した。民衆から熱狂的に指示された年貢半減令であったが新政府にそのような財源は無かった。年貢半減令を取り消す他ない新政府にとって赤報隊は邪魔な存在となった。新政府軍は赤報隊を呼び戻すことにし、二番隊、三番隊は引き返すが、一番隊は命令を無視し「
全く関係ない話である人のブログを読んだら、たまたま元子宮委員長はるさん=旧八木さやさん=現吉野さやかさんに影響されて壱岐島に移住した人の話についての記事がありました。記事の内容は、さやかさんの子宮ビジネスの影響を受けて離婚して子連れで壱岐島に移住したら、住むところも仕事も用意する!と言っていたのを、彼女の機嫌を損ねてしまって前言撤回されてしまって、丸裸で放置されてしまったとのこと。まあ、その後、その女性は行政の支援等を受けて何とかやっていっているようなのですが。正直な話、さやかさんが本だと
過日の新聞に「赤報隊」の記事が出た。30年以上前に世間を騒がせた警察庁指定116号事件。グリコ・森永事件と並ぶ記憶に残る出来事である。この「赤報隊」、新選組の他に我が近江との関わりが深く、30歳当時新選組に没頭していた頃に、この赤報隊の事も調べ歩いた記憶が蘇ってきた。(また例のごとく、それがどうしたという長いブログですが、勝手に足跡を残す意味で記します)「赤報隊」とは、簡単に言うと、鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍が江戸に向けて進軍する東征本隊(天皇の軍)の先遣隊として組織さ
みひろのmyPickAmazon(アマゾン)和光堂シッカロールデオ(パフ付)507〜1,063円Amazon(アマゾン)【指定第2類医薬品】フルコートf10g1,356〜2,507円楽天市場アリエールバイオサイエンスジェル部屋干し用詰め替え超特大洗濯洗剤抗菌(1000g*6袋セット)【ros12】【アリエール】3,583円楽天市場フレアフレグランスIROKA柔軟剤シアーブロッサムの香り詰め替え大サイズ(710ml*5袋セット)【フレアフレグラ
あまり知られていない話しですね幕末の悲劇…討幕に貢献するも新政府に切り捨てられた相楽総三と赤報隊の末路:Japaaan幕末は、倒幕のため志士たちがそれぞれの志をもって行動していた時代です。「相楽総三(さがらそうぞう)」も討幕に立ち上がった志士の一人。尊王攘夷を掲げて戦果をあげた、相楽総三率いる赤報隊はなぜ新政府に切り捨てられたのでしょうか?今回は相楽総三の…mag.japaaan.com今でも体制は安易に敵を仕立てて民意逸らしますから歴史反復の事例かと
娘の試験が終わりました。日本史の先生が配布したマニアック問題プリント、全て覚えたら90点取れると豪語されたそうだが、全て覚えたら100点じゃないの?と思うのだが(笑)。試験問題、どんな難問かと覚悟していたら拍子抜けするくらい普通だったそう。日本史の先生二人おられるので、もう一人の先生が問題作成した可能性あり。試験勉強中、娘が暗記中にぶつぶつつぶやいていて相、相楽…、相楽総ニ?相楽総三な。と、つい言ってしまった。あ、ホンマや。2じゃなくて、3か。相楽総三なん
赤報隊の一部が偽官軍とされ、相楽総三らが刑死したのは歴史的事実です。創作された、作り話ではありません。しかし、彼らが薩長の陰謀で陥れられ云々……というのは作り話です。実をいうと、赤報隊を偽官軍と認定すべき、決定的な情報をもたらしたのは大山弥介でした。のちに大山巌と名を改めた、私の曾祖父です。大山巌が明治12年頃に書きかけのままほったらかしていた半生記があつて、原本は国立国会図書館の憲政資料室に保管されていて、申し込めば閲覧できます。↑の画像はイメージ画像で、原本の複写ではありま
中山道・信濃路歩きは、茶屋本陣今井家を過ぎ、「下諏訪宿」に向かいます。「東堀一里塚跡」です。江戸から56里とあります。国道を斜めに横切り立派な民家が続く道を進むと、広い道路に出合います。寛政3年(1791)に建立された道標には、「右中仙道左いなミち」とあります。開設当初の中山道は、この伊那道を行き、「小野宿」をへて牛首峠~木曽路の入り口桜沢に通じていました。開設後15年ほどで、塩尻峠経由に付け替えられました。交差
今月はWOWOWをとっているのでたまたま三谷幸喜のミュージカルを観たらあまりの面白さにリビート5回め〜こんなに魅力いっぱいの舞台、あるだろか?歴史好きの三谷さんだけあって、目の付け所がマニアック!それでいて解りやすく、歴史の事実とその大局的な「意味」を同時に感じ取れる。そう、一人の人生も、一国の歴史も、宇宙の仕組みや自然界の営みの中にある。全てはフラクタル。同じ模様の繰り返し。何がオモシロイって、まず構成!邪馬台国からの近代までの日本の歴史がアメリカ西部開拓の一家族の
こんにちは僕の学校では、夏休みが終わり、また学校生活が始まるのですが、クラスターが発生しないか心配です。さて今回は、去年の夏に行った長野旅行でお参りした、魁塚(相楽塚)を紹介します↑魁塚の全景です。下諏訪駅の近くにあります。住宅街の中にあるというわけでもないので、すぐに見つけることができると思います。でも、車だとちょっと難しいかもしれません。↑魁塚は、赤報隊隊長の相楽総三とその同志をまつっています。相楽総三らは、戊辰戦争で官軍先鋒隊の赤報隊を率いて東山道を進軍して
*最後に差込記事あります!なとりさんちのたまごや工房八ヶ岳店さんオープン!高校生の時?以来の訪問です!超懐かしい~と言うかほぼ覚えていません!高校の時の友達と来たことだけは覚えています!ラーメンも何となく・・・道中ーbe!下諏訪町にある史跡に参りました!維新の魁!志士たち迫ります!道中ーbe!ぜひご覧下さい!よろしくお願いします!<(__)>ペコッラーメンメニューですごはんものお肉類お肉続きとサラダデザート喫茶メニューです限定メ
出土埴輪県文化財に市原の山倉1号墳人物、円筒、朝顔形など多数千葉日報市原市の「山倉1号墳出土埴輪(はにわ)」が、県指定有形文化財(考古資料)に指定された。同市は、市原歴史博物館(仮称)の建設を・・・【残り557文字、写真1...(234)クルミ製(せい)垂飾品(すいしょくひん)県埋蔵文化財センターwebun.jp写真(しゃしん)は富山市(とやまし)の小竹貝塚(おだけかいづか)から出土(しゅつど)したクルミの垂飾品(すいしょくひん)で、表面(ひょうめん)がつるつるして
倒幕で大きな功績をあげながら、明治政府に偽官軍の汚名を着せられて処刑された赤報隊隊長・相楽総三には河次郎という息子がいました。河次郎は、父が処刑された後、総三の姉とその夫、木村敬弘の養子となります。相楽総三の義兄・木村敬弘については詳しい経歴は分かりませんが、下総国相島郡豊田村出身で、英語が堪能だったようで、安政6年から横浜開港により設立された神奈川奉行所に務めていたようです。その後、慶應義塾で教師を務め、明治4年に米沢藩が設立した外国語学校「洋学舎」に招かれますが、同年に亡く
東山道軍本隊に大幅に遅れて伊地知正治率いる薩摩藩兵が進軍している間、東山道では大きな問題が発生していました。本来、東海道鎮撫総督に属していた赤報隊のうち、綾小路俊実を盟主に頂いた部隊が東山道筋にあたる美濃方面に進出。更にこれに対して出された京都への帰還命令を相楽総三率いる一番隊が無視して信州路へ侵入、独断で関東への入り口である碓氷峠を占拠したのです。この速やかな進軍と占拠は軍事的にみれば優れた功績といえるのですが、いかんせん命令無視の繰り返しによる“勝手な行為”であっ
相楽総三が眠る木村家の墓所相楽総三夫妻の墓相楽総三の戒名幕末期の尊攘派志士で赤報隊隊長として活躍。戊辰戦争で官軍先鋒隊を務めながら偽官軍の汚名を着せられて処刑された相楽総三は、天保10年(1839)下総国相馬郡椚木新田(茨城県藤代町)の郷士小島兵馬の4男として江戸赤坂に生まれます。名は将満,字は信臣,通称四郎左衛門,四郎。変名は相楽総三の他に村上四郎,内田四郎,二荒次郎。兵学と国学を学び、私塾を開いて多くの門人を抱えていた総三は、文久元年(1861)に上野,信濃,越後,秋
お立ち寄りありがとうございます今日、ポストに「いちげき」と「ダンジョン飯」が届きました~♪まずは「いちげき」の感想をば^^これまた凄い表紙ですね。市造かな?表紙の通り5巻は死闘でした。内容紹介(アマゾンより)最終作戦始動!!当初の目的だった「御用盗壊滅」は成し遂げたものの「一撃必殺隊」は度重なる戦闘で人数を大きく減らす。心身共にギリギリの状態となった隊士に下された最終作戦、それは「御用盗」の首魁であり江戸における薩摩の破壊工作責任者〝相楽総三〟の暗殺であっ
昨日の「上七軒と五番町」の記事に登場した五番町の千本日活なのですが、コメントの返信ついでにその歴史を調べてみたら、ちょっと面白い話を見つけました。もともと、この千本日活は五番町東宝という東宝の映画を上映する映画館だったのですが、「千本日活」という名称は、この映画館の近くにあった日活直営の千本日活館が、昭和38年に日活の経営縮小にともない閉館となったのち、日活映画の上映権ととも引き継いだものだそうです。その千本日活館ですが、もともとは「日本映画の父」牧野省三が、母牧野彌奈(娘義
去年見に行ったミュージカルの舞台三谷幸喜監督の日本の歴史が先日の土曜日にWOWOWで放送された舞台は見に行ったけれど本当は舞台も何度も見たいくらい素晴らしい舞台だったチケットがなかなか取れなくて友人が当日券を買ってくれたおかげで見に行けた監督は三谷幸喜音楽は荻野清子脚本も音楽もオリジナルであるキャストは7人香取慎吾中井貴一川平慈英シルビアグラブ宮沢エマ秋元才加新納慎也7人で1人なん役もの役をこなすアメリカのテキサスの家族の話と日本の歴史が並行して進んでいく天
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2018/03/07/110815今夜の「パワスプ」にて、フルで聴かせてもらえたので。今頃ですが。調べ始めた“知ってる人だけ知ってる”「相楽総三」(悲劇の斬首で享年30才なの哀し過ぎる)まだ・・・1か月ほど先にWOWOWでの放映を控えてるからか。歌曲やプロットの詳細な解説が出ないんだもの。。。観劇できてない者にとっては。今だ“霧の中”な内容なの自分は「ネタバレ」知った方が理
『維新史蹟図説』(維新史蹟会編/大正13年/東山書房)の中で個人的にひときわ興味深かったのが赤報隊に関する記事です。戊辰正月五日、官軍は連戦連勝に乗じ、東海道を平定することになり、橋本実梁卿を東海道鎮撫総督に、柳原前光を副総督に任じ、これが参謀には木梨精一郎が命ぜられ、まず桑名征伐に向かうに決し、正副総督、参謀は三井寺に赴き陣貝を吹き鳴らして軍兵を募集し、声に応じて来会する者約三千名、橋本総督は直ぐに全員を整列せしめて左の軍令三章を定め、嚮導は亀山の兵、先鋒には大村、備前、佐土原、彦根、水
平成30年(2018年)10月7日(日)、諏訪大社下社秋宮の前の「そば処みやさか」で蕎麦を食べ終えた私達は、ロードバイクで旧中山道を通って、塩尻宿へと向かいました。◇下諏訪宿→塩尻宿諏訪大社下社秋宮から旧中山道は、一旦中山道(国道20号)と合流し、少し走った後、左に分岐するのですが、「魁塚」と書かれた標柱があるところを通り過ぎたので、K井さんに「“かいづか”とかいうのがありましたね。」と言ったら、K井さんが、「それ、相楽の塚じゃないか?それは見なきゃ!」と言って、すぐに引き返しました
滋野井公寿と並ぶ、もう一人の赤報隊総長・綾小路俊実の屋敷跡も同じように探してみました。綾小路俊実は天保四(1833)年九月十二日に従二位大原重徳卿の長男として生まれました。ただし正室の子ではなかった事もあり、安政元年に綾小路俊賢の死に伴い、その養子となって綾小路家を継ぎます。ただし、俊賢には有良(ありかず)という遺児があり、有良が成長するまでの「つなぎ役」のようなものだったようです。その為か「綾小路侍従は養子であるゆえ、何か家門の紛擾があって屏居して出勤せずにおられたゆえ、御番に出ら
こんにちは今回は、東京の青山霊園立山墓地にある赤報隊隊長の相楽総三の墓を紹介します。↑相楽総三と木村敬弘の墓所です。↑相楽総三の墓所は調べてこなかったので、見つけるのに結構時間がかかりました相楽総三の墓所は普通で分かりにくいですが、この白い石柱が結構目立っていたので分かりました。↑右奥の石碑のような墓は、木村敬弘の墓で、木村敬弘は、相楽総三の子を養っていた人物で、中央近くにある小さい墓石が、相楽総三の墓です。↑相楽総三の墓です。相楽総三は、戊辰戦争で官軍
今日は坂本(滋賀県大津市)に行って来ました。坂本は比叡山の入り口で、その名の通り坂の町です。町中に水路が巡らされており、歩いていると水のせせらぎが常に聞こえてきます。慶応四年一月六日の夜、山鼻の平八茶屋に集まった綾小路俊実、山科能登介、荒木尚一、鈴木三樹三郎、新井俊蔵、秦泰之進、阿部十郎、佐原太郎、江田小太郎、吉仲直吉、西本祐準、速水湊らは、比叡山を越えて翌朝にはこの坂本の地に到着しました。『秦林親日記』によると、一同は樹下石見守の屋敷に投じたといいま
さてこれまで相楽総三~鞘のないサーベルに思うこと赤報隊、脱走すると、言わば「赤報隊妄想シリーズ」的なものを書いてきましたが、その妄想をもう少し突き詰めてみましょう。西郷隆盛についてです。相楽総三はじめ赤報隊の隊士たちは、洋装に身を包んだ薩長土の兵士たちを見てあるいは激怒し、あるいは大いに不信感をつのらせたのではないかと考えましたが、当の本人の西郷は、そんな洋装の自分に果たして満足していたでしょうか。たしかに、倒幕の立役者であるし、内戦を引き起こした張本人でもあ
官軍にバレないようにひそかに京を脱出したと言いながら、実はその官軍の中心人物であった西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視らにはその事を告げていたという赤報隊。では一体彼らは誰に対して「ひそかに」事を起こさなければならなかったのでしょう。「薩摩には告げていた」という事を考えれば、やはり考えられるのは長州に黙って京を脱出したという事ではないでしょうか。では、なぜ長州に黙って脱出しなければならなかったのかと言われれば、それはおそらく、薩摩の得になるからという事しか考えられません。赤報隊は草
赤報隊が正式に結成された地は近江国松尾山の金剛輪寺ですが、その金剛輪寺へと向かう一団が最初に集まったのが、洛北修学院村(現・左京区山端川岸町)の平八茶屋でした。それから山鼻の平八という茶店に集合の約束で、その処へ来た人数は二十四、五人か三十人足らずであった。~山科元行『史談会速記録』この平八茶屋は、なんと天正四年(1576)開業という京都でも指折りの老舗で、現在も現地にて営業を続けています。若狭街道(通称鯖街道)を往来する旅人の休息場として繁盛したそうで、当時から
官軍に協力するための挙兵だったにもかかわらず、なぜかその官軍に見つからないように秘かに京を脱出したと思われる赤報隊。その赤報隊結成の経緯については、正直なところ、これまでそこまで深く考えた事がなかったので「この機会に我々も一丁兵を挙げて手柄を立てようではないか」と、鳥羽伏見の戦いの薩長土の勝利に感化されて、半ば思いつきに近い形での挙兵だったのではなかったかと安直に考えていました。しかし、油川錬三郎は山科能登介が「綾小路卿を首領に戴いて東の方、江州地方に義兵を挙げて遥かに高野山と相
るろうに剣心の原作に度々相楽左之助の口から出てくる相楽隊長のお墓にお参りしてきました。それがこちら。↓正面左奥が相楽隊長のお墓でつ興味ある方はどぞ
赤報隊に関して、以前から引っかかっていた事があります。赤報隊は高野山での陸援隊の挙兵に呼応する形で、近江に兵を挙げる目的で結成されました。結成の中心人物である山科能登介(元行)は後年の史談会において以下のように証言しています。五条為栄朝臣、鷲尾隆聚朝臣が勤王の有志輩を率いて、紀州高野山に義兵を挙げられた頃ゆえ、東方にも備えがなければ帝都の護衛が手薄い。加えて今海内擾々として、人民は王化の何たるを知らずして、只方向に迷うて人心洶々たる形勢ゆえ、これは志士が傍観座視しておる時ではないと思うて、