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■放生池功徳池。池中央には南北に貫く参道があり、中央には天界橋が架かります。勅使門とかつての三門とを繋いでいます。池の向こうには勅使門。■天界橋1551年(天文20年)相国寺の戦いにおいて三好長慶と細川晴元が交戦。石橋の戦(天文の乱)とも呼ばれ、双方が天界橋を挟んで激突しました。■都名所圖會天明年間(1781-89)刊。左下の勅使門から天界橋、三門、仏殿、右上に方丈。元来の「仏殿」は当時すでに存在しないため法堂と思われます。山門→三
民間発掘会社の文化財サービスは4月21日、京都市の相国寺が戦国時代に建てて間もなく焼かれた建物の痕跡を発掘したと発表した。完成から戦火と失火で4回焼けた京都五山の相国寺の建物の中でも、完成まもなく焼けたとみられる。現在の境内の北側約1800平方メートルが不動産開発のために調査され、東西12m、南北16m以上の大型建物跡が礎石付きで出土した。溝や堀、16世紀の瓦も出土している。当時の相国寺はこの辺りに所在していた。推定年代は16世紀中盤だが、このような建物の存在を記した相国寺側の文献や絵図は
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズです。前回の「応仁の乱」の続きです。東岩倉の戦いを経て、応仁の乱で最大の激戦と呼ばれた相国寺の戦いへと発展して戦闘が激化していく応仁の乱の戦ですが、将軍が東軍についた事で、西軍が不利となるかと思われた応仁の乱ですが、周防の守護・大内政弘が西軍に組したことで西軍の勢いが優勢になってきます。将軍