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これは「新選組の新田革左衛門は被差別民だったのでは?」という仮説を調べているうちに見つけた話なのですが・・・岡っ引きは目明し・十手持ちなどともいい、江戸時代に町奉行所同心の手下として犯罪を取り締まる役目を負った者たちのことで、『銭形平次』や『伝七捕物帳』などのドラマ・小説で時に人情噺を絡めつつ、十手片手に悪人を捕らえる姿が有名です。が、そもそも「岡っ引き」とはどういう意味なのでしょう。コトバンク(『精選版日本語大辞典』より引用)には「おか」は傍(そば)の意で、そば
島田左近と島田魁との間に、実はかなり深い関係があった可能性がある・・・という考えを突き詰めていくと、もうひとつの可能性を考えてみたくなります。それは、二人が同一人物なのではないかということです。いうまでもなく、島田左近は文久二年(1862)に田中新兵衛らによって殺されているのですが、実は田中新兵衛は左近の顔を知らなかったばかりか、いざその時になって襲った相手に対して、「貴様が島田左近か」とわざわざ尋ねているのです。もちろん相手は「違う」と答えるのですが、すると新兵衛、「島田左近ならば九条家
島田左近や水野弥三郎と同様に、美濃出身で西本願寺と縁があり、幕府のために働いた人物がもう一人います。それは新選組の島田魁です。島田魁は美濃国方県郡雄総村(かたがたぐんおぶさむら。現・岐阜市長良雄総。旗本領)の郷士で木曽川奉行であった近藤伊右衛門の次男として文政十一年(1828)一月十五日に生まれました。のちに同国の石田村(中島郡。現・羽鳥市下中町石田。尾張藩領)の永縄半左衛門の養子となりますが、養父半左衛門死去ののち、厚見郡日野村(現・岐阜市日野。磐城平藩領)の川島嘉右衛門の養子となりま
猿の文吉一家の本当の親分は島田左近だったのではないか、という話を『猿の文吉と都の闇(7)』で書きましたが、島田左近がやくざの親分だとしたら、どうしても関係を疑いたくなってしまうのが、濃州岐阜の親分“岐阜の弥太郎”こと水野弥三郎です。水野弥三郎は文化二年(1805)に美濃国厚見郡矢島町(現・岐阜市矢島町)に生まれました。生家の水野家は代々大垣藩に仕える医者の家柄でした。一方、島田左近の出身地に関しては諸説ありますが、以前記事に書いたように、美濃の出身と考えてほぼ間違いないものと思われます
もう少し文吉と加納惣三郎との妄想話にお付き合い願います。加納惣三郎が元は文吉の子分だったのかも知れないという話を前回しましたが、その加納惣三郎は新選組に加盟したものの、島原輪違屋の錦木太夫にぞっこんに惚れ込んでしまい、彼女に会う金を欲しいがために辻斬りを繰り返し、最期は壬生の屯所に帰って来たところを待ち構えていた土方歳三らに斬られてしまいます(『明治英雄情史』)。文吉親分の仇を討つために新選組に入ったはずが、色香に負けて道を踏み外したというところでしょうが、果たして本当にそうだったの
さて、今回は少し妄想を膨らませた話をしたいと思います。文吉の家屋敷は高倉通押小路上ルにありましたが、実はそのすぐ近所で生まれ育ったとされる人物がいます。それは新選組の加納惣三郎です。加納惣三郎については、新選組の名簿に名前がないことから、実在の隊士であったかどうかに慎重に考えなければなりませんが、ここでは実在したと仮定して話を続けたいと思います。惣三郎は押小路通の裕福な商家の次男に生まれたといいます(『明治英雄情史』鹿島桜巷/大正3年)。押小路通は木屋町通から千本通
文吉はやくざの親分でありながら目明しとなって幕府に協力していたわけですが、その延長線上で考えると、これまでわかっていなかったその正体が推測出来る人物がいます。それは島田左近です。島田左近に関しては、むかしだいぶ書きましたが、出自が謎に包まれていること、京に来てから異常なほどの出世を成し遂げていること、殺害される直前まで無官であったにもかかわらず、義母千賀浦とともに九条家を牛耳っていたとされること、安政の大獄で文吉率いるやくざ者たちを手足のように使って志士の摘発に功を上げていたこと、そして左
押小路高倉上ル目明し文吉右の者、先年より島田左近に随従いたし、種々奸謀の手伝いたし、あまつさえ去る戌午年已来姦吏の徒と心を合し、諸忠士の面々苦痛をさせ、非分の賞金を貪り、その上島田所持いたし候金子を預り過分の利足を漁し、近来に至り候ても尚又様々奸謀を相企み、時勢一新の妨をなし候間、かくの如く誅戮を加え死骸引き捨てに致し候。文吉殺害の理由については、斬奸状に「(安政の大獄で)島田左近に従って勤王の志士を苦しめ、更に島田左近の所持していた金を利用して金貸しを営み暴利を貪っていた」と書か
文吉は、公儀の目明しとヤクザの親分という「二足の草鞋」を履いていました。現代でいえば暴力団の組長が刑事か何かに任命されて、政府の方針に逆らう人々を検挙したようなもので、世間に憎まれるのも無理はないといえるでしょう。ただ、裏を返せば、文吉が仮に本当はその筋でいう任侠の博徒、いってみれば小説やドラマで描かれる清水次郎長のような仁徳のある人物であったとしても、こと京の都においては幕府の手先というだけで憎まれる存在にならざるを得なかったことでしょう。無残な最期を遂げた人なので、どうしても同情
ちょっと間が空いてしまいましたが、実は二つばかり訂正したいことがあります。ひとつめはこれまで他の記事でも何度か書いてきた「三条大橋北側の晒し場」について。当時の史料にたびたび出て来て、文吉もこの場所で晒されたわけですが、この晒し場は処刑された罪人の遺体を晒す場所だと解釈していたのですが、どうやら違ったようです。というのも、『佐野正敬手記』に「晒屋棒杭にしばり有之」とあるのです。「晒屋」ということは、当然ながら商売のための晒し場だったことであり、処刑場ではなかったということになります。
惨殺された文吉は、洛北の御菩提池村(みどろがいけむら。現・京都市北区上賀茂狭間町。深泥池とも書く)の出身です。生年はわかりませんが、殺害された文久二年(1862)に四十代に見えたとする史料が複数あることから、文政年間の前半、西暦でいえば1820年前後の生まれなのではないかと思われます。農民の出だといわれていますが、所司代与力佐野正敬の手記に「下人」とあり、もとは武家や商家、名主などに仕えた下男であった可能性もあります。もっとも「最低の男」という意味とも解釈出来る文脈ではあるのですが。