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※本日は家族の運転手やらなんやらでコメントはお休みさせていただきますど〜も〜どもども〜本日ご紹介させていただきますのは岩手県盛岡市にある「櫻山神社(さくらやまじんじゃ)」さんとなりまして久しぶりの岩手をポチッとなでございます!櫻山神社(御祭神)〜四柱の神々〜八百年を越える南部家を興し北東北の平安に努めた「永続神・南部家初代(南部光行公)」戦国の世を英智、勇気、決断をもって駆け抜け盛岡に藩を拓いた「開拓神・盛岡藩初代・南部家二十六代(南部信直公)」城を築き街を整え農産業
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
トップページ都道府県別索引へ盛岡城は盛岡駅から北上川を挟んで対岸1kmほどのところにある。いまは川からだいぶ離れたところだが、往時は城のすぐ西側を北上川が流れていたらしく、東側の中津川との合流点付近にあったらしい。盛岡は旧名を不来方といい、もともとここには家臣の福士氏が持っていた慶善館という城があった。伝説では前九年の役ののち清原氏の一族が城を築いたのが始まりといわれ、南北朝の頃までに福士氏の城となっていた。もともと北のほうに本拠を構えていた南部氏が九戸政実の乱に豊臣秀吉の力を借りて勝
「でんでんむし」に乗って盛岡市街地の散策。「上の橋」は1609(慶14)年、第2代藩主南部利直公が盛岡城築城時に中津川に架けました。「擬宝珠」は慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。製作年代も古く、残存個数が多いという点で盛岡市の青銅擬宝珠は国内でも希な存在です。
2023.7.2①②③時鐘盛岡城下に時を知らせるために、久昌寺前の十三日町と三戸町の2か所に設置されました。この鐘は三戸町の日陰門外の外堀(現:森岡中央郵便局裏)の土塁の上にあり、1679年(延宝7年)に鋳造された鐘が設置されています。1875年(明治8年)に内丸の県庁前、1909年(明治42年)に現在地に移築されました。④神門1899年(明治32年)の建立⑤⑥社殿1899年(明治32年)の建立=山櫻神社=創建1749年(寛延2年)祭神南部光行南部信直南部利直
昨日のZOOMオンラインお城会「諸説あり」のテーマは橋お城で橋といえば、曲輪同士を隔てる堀に架けて連絡するためのもので重要なパーツだが、そのなかでも僕は「廊下橋」というものに注目した。ひねくれている。普通橋には欄干があったりなかったりするのだが廊下橋といわれるものは橋の両側に塀を設けて城内の移動を隔したり、更に屋根を付けたものを云う様であり、中世城郭では例がないと思われる。塀だけで屋根のないものは名古屋城大小天守間があり、ほか思いつくだけで大洲、尼崎、岸和田、桑名、大垣などの絵図
久しぶりに時代劇専門チャンネルのオリジナル番組「歴史を訪ねて日本の城」を見ました。16時30分から「北海道東北編」を見ました。映像と字幕の解説だけで、BGMが流れるだけです。一つの城が3分くらいで、以下の8つの城が放映されました。①五稜郭日本百名城02武田斐三郎の設計による星形の西洋式城郭が名前の由来です。遺構は、土塁、石垣、堀、兵糧庫です。箱館開港に伴う幕府の拠点として、築城されました。戊辰戦争の最後の戦いの舞台の一つです。榎本武揚が降伏して開城。再建造物は箱館奉
諸君、ご壮健かな。さて、激戦の夜を超えて。やってきたのはもりおか文化館。ここにきたのは、盛岡の歴史を学ぶため…。んなわけねぇだろう、あれだろう、と言った同志。正解だよ!(ひいい!)このアカデミックな入り口…。感じるだろう、あの波動を。ギュギュッとズームしてみると…。ほら見たことか。この安心する座標フラグ。南極点を目指すアムンゼンもスコットもこれさえあれば…白瀬矗もか。シャア!「少しいいかな」女性兵士「はい?は!大佐!」シャア!「例の機密文書は用意できているか」女性兵
台風が東北地方を横断していますが大きな被害がなければいいですね。連休の前に出張で盛岡、八戸へ行って来ました。その日の仕事が終わり盛岡から八戸へ移動する前に日本100名城の盛岡城を見て来ました。天守閣はなく立派な石垣が印象的でした。見学した後ぶらぶら歩いて駅まで。まっすぐなんですが暑かった~。2日目。仕事が終わって新幹線の切符を買おうと思ったら全席指定のため、2時間半後の切符をなんとかゲット。時間があったので駅ビルの三社大祭のハーフカットサイズ
城コレ盛岡城・岩手県日本100名城006盛岡城のB5サイズぐらいの小さいジオラマはかなり昔に作ったいたのですが、城コレ統一サイズにしようとリメイクしたら、紙粘土で作ってた部分がかなり破損したので、天守のみをリメイクし、その他は追加で製作してみました。#盛岡城#お城#日本100名城
根城から盛岡を目指す本州で一番面積の大きい県は?で有名な岩手県相当時間かかるだろうなと思うも内陸部の高速に乗ればさほど、時間はかからず。スタンプ設置場所もりおか歴史文化館4月~10月:9:00~19:002階展示室への入場受付は18:30まで11月~3月:9:00~18:00盛岡城跡公園地下駐車場
どうも、すこっちです。(^^♪今アタシは岩手県の盛岡市でこのブログを書いています。放送大学の面接授業で今度は岩手学習センターの授業を受講しに来ました。「よくもまあ物好きな」と思われるかもしれませんが、訪れたことのない街を訪れる良いきっかけなんですね。でもって、今回は授業の1日前乗りして、盛岡城をガイドさんに案内してもらうことにしました。このガイド団体が「盛岡ふるさとガイド」っていうんですが、7日前までの予約しか受け付けてくれなくて、1名以上10名までがなんと3,500円と
※2024年3月29日訪問※三ノ丸の西側部分まで歩いて来ました三ノ丸跡では現在石垣の修復工事が行われており、解体された石材が並べられていました✨工事箇所のフェンスには石垣修復工事についての説明と、南部家の家紋である《向かい鶴》が染め抜かれた幟が立てられていましたという事で盛岡城散策は以上となります✨今回は滞在時間30分という限られた時間内での散策となってしまったので、改めて別の機会にゆっくりと散策出来ればと思っています
※2024年3月29日訪問※榊山稲荷曲輪跡から北に進み【二ノ丸西側の石垣】を見て行きますまさに『壁』のような高石垣に圧倒されますね✨しっかりと横矢を掛けれるように、屈折して積まれた石垣天端部分の数段は垂直に積まれており、敵兵がよじ登るのは難しいですね◆陸奥国・盛岡城(不来方城)三ノ丸西側石垣/国指定史跡◆に続く
秋田の山奥まで行く1日目。埼玉はいいお天気で出発したけど、中継地点とした盛岡はどんより2日目、まずは大好物のお城巡り盛岡城へ。山に上って行くまではお天気良くて、埼玉ではとっくに終わっていた桜もきれいに咲いていましたよ。でも、だんだん雲が増えてきて、小岩井農場の一本桜を見たくて行ってみたけど、後ろにあるはずの岩手山がない仕方ないですね、こればっかりは・・桜も終わっていて残念な写真だけど、行ってきた証拠に載せておこう本日のお宿、「ふけの湯」さん。雪に閉ざされて道が通ってなかった
※2024年3月29日訪問※二ノ丸の西側には【榊山稲荷曲輪】という曲輪が設けられていました✨三角形に飛び出したような形のこの曲輪には「榊山正一位稲荷社」の本殿・拝殿が建てられ、御神体(南部家家祖、源義光伝来の観音仏)が祀られていたそうです✨表向きは、上記のように神社の敷地として平和利用されていたと考えられる榊山曲輪実際には五稜郭のような横矢を掛けやすい三角形の形状で、腰曲輪の西南隅にある櫓台と相横矢を形成していおり、二ノ丸高石垣の横矢枡形状の張り出しとも相横矢を形成するなど、軍事的にもし
※2024年3月29日訪問※吹上門跡から【吹上坂】を下って行きます盛岡駅方面から盛岡城跡に向かって歩いて来ると、まずこの吹上坂の石垣が目に飛び込んで来ますね非常に立派な石垣を間近で堪能出来ます坂を降りた先の道路は、かつては北上川が流れていたようで、天然の外堀の役目を果たしていたんですね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)榊山稲荷曲輪/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※【吹上門】の跡を見て行きましょう虎口になっている様子がはっきりとわかりますね✨門跡の側の木の下に、四角い石が2個置いてあったので確認してみると…おそらく門の【礎石】と思われる石材ですよね✨門跡から腰曲輪の外へと歩いて行きます◆陸奥国・盛岡城(不来方城)吹上坂/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※腰曲輪の南西角地には【吹上三社】というお社が建てられていました築城当初は【吹上門西櫓】という櫓が建てられていたようですが、幕末に破却され、吹上三社が勧請されたそうです✨現在では櫓台の石垣と、東屋が整備されていますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)吹上門跡/国指定史跡◆に続く
この旅三日目も、前日に引き続き秋田ローカル線の鉄道旅です。秋田駅から始発で羽後本荘駅に向かい…本荘公園を散策してから…由利高原鉄道に乗り換えて…終点の矢島駅に行きました。途中、車窓からは鳥海山を楽しむことが出来ます。駅に着いたら、駅員さんに鳥海山が見えるポイントを教えて頂き、ちょっと散策しました。そして、矢島駅ではテレビでも紹介された売店のまつ子さん直筆の鉄印を頂きました。折り返しの電車を待って…来た道を秋田まで戻ってから…秋田新幹線で盛岡駅に向かい、最後は、余った時間で盛岡
※2024年3月29日訪問※腰曲輪の南側には【二重隅櫓(南東大櫓)】が建てられていました現在では櫓台の石垣を見る事が出来ます✨櫓は二層でL字型となっており、発掘調査の結果、櫓の規模が拡張されており、建替があったことがわかっているそうです◆陸奥国・盛岡城(不来方城)吹上三社(吹上門西櫓)跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※本丸の南側には【腰曲輪】が広がっていました【腰曲輪】の石碑が建てられていますね✨【腰曲輪の建物】と書かれた案内板が設置されていたので確認していきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっています。曲輪の東辺には二ヶ所の折邪があり、それぞれ櫓が備えられていました。そのうち、北側の櫓は単層で、南側の櫓は二層となってお
※2024年3月29日訪問※吹上馬場の西側には【宝蔵】が建てられていたようです現在、宝蔵跡と思われる石列を見る事が出来ますが、これが当時からの遺構なのか、公園整備の際の平面表示としての整備なのかはわかりませんでした◆陸奥国・盛岡城(不来方城)腰曲輪跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※本丸跡から南側に石段を降りて来ました藩政時代にはこの石段は無かったようで、明治期の公園整備の際に、本丸へ登り易くする為に整備されたものだと思われます本丸の南側、一段低くなった場所には【吹上馬場】【御馬場】と呼ばれる馬場が有ったようです✨近くには【史跡盛岡城跡】と書かれた縄張り図が設置されているので、こちらも散策の際の参考にさせて頂きました✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)宝蔵跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※盛岡城の中心部であった【本丸跡】です【本丸跡】の石碑が建てられていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸は城の南側に位置し、東西70m、南北55m。北側には【中奥】、南側には【大奥】が建てられていました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲本丸跡を散策してみて思った事は、『意外と狭い本丸だな』という事かつては本丸をぐるりと囲むように、三層櫓や二層櫓、多聞櫓などが建てられていたはずなので、さらにその中に御殿が建てられていたとすると、かなり手狭
※2024年3月29日訪問※盛岡城のシンボルでもあった本丸【三層櫓(三階櫓)】の跡ですこの三層櫓(三階櫓)については、明治初期に撮影された古写真が1枚だけ残されており、手前の二層櫓と共に盛岡城の様子を伝える貴重な資料となっています✨【盛岡城古写真】※清養院所蔵※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1633年(寛永10年)に築かれたとされる最初の天守(1842年までは「御三階櫓」と呼称)は1636年(寛永13年)に落雷を受けて炎上した。その後しばらく天守は再建されなかったが、1676
※2024年3月29日訪問※本丸南西隅には、本丸二層櫓(南西隅櫓)が建てられていました二層櫓跡の手前側で発掘調査が行われており、立ち入り禁止のロープが貼って有ったので、櫓台には近付けませんでしたぐるりと回り込んで、腰曲環から見上げた二層櫓跡ですこの二層櫓に関しては明治初期に撮影された古写真が1枚残されており、盛岡市としても将来的に復元整備を検討しているとの事でした※画像は盛岡市のHPより引用※本丸の南西部分にも立派な石垣を見る事が出来ます✨【本丸南西部の石垣】という案内板が設置され
※2024年3月29日訪問※本丸北西隅には、本丸納戸櫓(北西隅櫓)が建てられていましたこちらも建物は残っておらず、櫓台の石垣を見る事が出来ます近くには【本丸北西部の発掘調査】という案内板が設置されていましたので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北西部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末~16世紀末)から、南部氏の盛岡城Ⅰ期(16世紀末)、盛岡城Ⅱ期(17世紀前葉)の4期にわたる構造の変遷が確認されています。本丸北半部の石垣
※2024年3月29日訪問※本丸北東隅には、本丸隅櫓(北東隅櫓)が建てられていました建物は残っておらず、現在では櫓台の石垣を見る事が出来ます✨近くには【本丸北東部の発掘調査】という案内板が設置されていましたので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北東部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末~16世紀末)から、南部氏の盛岡城Ⅰ期(16世紀末)、盛岡城Ⅱ期(17世紀前葉)の4期にわたる構造の変遷が確認されています。本丸北東部の石垣
※2024年3月29日訪問※本丸に入る北東部の門が【御末門】です現在スロープとなっている道を進み、曲がった所に門が建てられていたようです本丸へと至る門だけあって、しっかりと石垣が積まれていますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)本丸隅櫓(北東隅櫓)跡/国指定史跡◆に続く