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お馬関連のブログを見るために久しぶりにログインいつ以来だろう。しかし、その間に本も沢山読んだ。図書館にリクエストして、購入もらって先程届いたと連絡があったのが噂の『射精責任』明日以降お迎えに行く。今読んでいるのは『白村江』荒山徹『花の命は、ノーフューチャー』ブレイディみかこ
ら定林寺、陵寺あの有名な金銅の大香炉が発掘された寺の跡はを見渡して・・・・・博物館に💨発掘された美しい百済の美術館工芸品や穏やかな笑みを浮かべる小さな仏像に会えたことは何よりのものでした。更に元興寺に💨なーんにも無い😱国が滅ぼされるとはこういう事なのだと、沢山の百済人が亡命難民として何千人も大挙倭に向かって海峡を渡って来のだと、実感しました。益山に💨弥勒寺は武王が建てた大寺です。百済滅亡二代前の王ですが、后に新羅の王妃を迎えているのに何故⁉️😢😢😢全州に💨念願のビビンバを‼
【日本国記】第二章続々・日本とは世界で最も特殊な国である―古くて新しい―土方水月つづき「日本」は8世紀初頭の701年にできた。それまでは倭しかなかった。7世紀以前にあった倭は、九州から朝鮮半島南部一帯にあり、今のような国境はなかった。7世紀初頭の遣隋使よりもかなり前の512年、倭のもとであった伽耶任那4県を百済に割譲した。さらにその後伽耶任那は新羅に奪われ、527年(継体天皇21年)、伽耶任那を奪還するために近江毛野が派遣された。しかし、新羅と組んだ筑
現代の近江と大津は滋賀県ですが、はるか昔の奴国があったときはどうだったのでしょうか?なんでそんなことを疑問に思うのかというと古代史に出てくる近江や近淡海を全て琵琶湖で読むとなんか変だなと思うことがよくあるからです。研究者はその理由をいろいろ考えてはいますが苦し紛れの逃げのようなものが多いのです。よって場所自体が違うという発想でその違和感をスッキリさせたいと思います。古代での近江というと天智天皇の近江朝が思い浮かびます。大和から遷都して比叡山の東に都を作りましたが、唐からの侵攻に
「芸備の道」「街道をゆく」シリーズの「芸備の道」で、司馬遼太郎が広島県三次市の地名について書いていることを知りました。なんと、10ページにわたって考察しています。私も常々興味を持っていたので楽しく読みました。先ずは、私の2年前の日記を再掲します2年前(2020/9/8)のブログ【三次と書いてミヨシと読むのは…(推測です^^)】「水(み)」と古い朝鮮語「村(すき)」が合わさって「水村(みすき)」と言う地名になった説を前提にします。このことは三つの川(江の川、馬洗川、西城川)が合
どうも、狸穴です!今回は荒山徹氏の歴史小説「白村江」の感想です。白村江(PHP文芸文庫)Amazon(アマゾン)880円668年、百済の再興を目指して百済・倭連合軍が新羅・唐と戦った「白村江の戦い」を題材とした歴史小説。百済王の弟・余豊璋の追放と倭への亡命朝鮮半島覇権をかけた、百済VS新羅の開戦唐と結びついた新羅の勝利豊璋を奉じた百済残党と新羅・唐の最終決戦(白村江の戦い)までの流れを、百済・新羅・高句麗・倭・唐という5か国それぞれにスポットを当てながら
前話へ_____________________________________________次話へ第5話「倭国滅亡」から学ぶ「プーチンの暴走」毎日「ウクライナ戦争ニュース」を見せつけられています。「良い独裁」は即断即決、高効率の強国を造りますが、独裁は必ず「悪い独裁」に行き着くものです、プーチンもそれですね。「歴史は繰り返す」の典型例です。「倭国王は独裁」だったのでしょうか?ここでいう「倭国」は「大和王権」でも「日本国」でもありません。680年頃滅亡した「九州
2階自室にNTT西日本の係員3名がやってきたとき(ネットが接続できない、Wi-Fiが使えない、光電話が通じないのを解決してもらうため、修理を依頼したとき)、その前に部屋を片付ける必要があった。そのときすこしだけ捨てるべき本を選別してブックオフに持ち込んだ。本の選別をしているときに読みかけの本がいくつか出てきたのであるが、その本の一つが、関裕二『古事記の禁忌天皇の正体』。古事記の記述と歴史を照らし合わせて推理するという内容の本だから、ま、読みにくい。それで読みかけたまま放置したのだ。
593年に女帝の推古天皇が即位します。推古天皇の諡は豊御食炊屋です。聖徳太子が執政をします。冠位十二階、十七条憲法を次々と施行します。放流寺を建立し戎めとします。607年の遣隋使の有名な奏上文「日出ずる国の天子、日没する国の天子、書附る。つつがなきや...」隋の幼帝は、この奏上文に激怒しました。短気な性格だったようです。これから何かおかしくなります。斬新な政策を次々と施行していた聖徳太子ですが、音沙汰無しになります。そして中国では618年に隋が簒奪・禅譲で滅びました。幼帝で短命
荒山徹の「白村江」を読んだ~兄に処刑されるところだった幼い百済王子・余豊璋を倭国に亡命させた蘇我入鹿~その入鹿を殺し新羅に敗れた百済を再建するために大人になった余豊璋を利用する葛城皇子~(中大兄皇子…のちの天智天皇)<朝鮮半島の歴史もわかりおもしろかった~歴史小説はどこまで史実かわからないので読み終わった後「白村江」を検索~百済と新羅の位置が思っているのと逆だった…(笑)検索したものを読んでもおもしろい~百済の王子・余豊璋は倭国にいた実在の人物みたい…
皆さま、こんにちは。相変わらず、〈スマホの復旧作業〉に取り組む日々を送っています。3年半分、どうして“ああなっていたか(!?)”記憶にないことだらけで、また、パスワードも“外れまくり”で、本当に“至難の技”です。さて──。とても興味深いニュースが飛び込んで来ました!このブログではよく、「奈良公園の紅葉の風物詩と言えば、ナンキンハゼ」と書いてきましたが──。「奈良県は、奈良公園にある85本を伐採することを決めた」らしいです。ナンキンハゼは、“外来種”です。それが、世界遺産の春日山原始林
タイトル:白村江作者:荒川徹出版社:PHP研究所(PHP文芸文庫)時は7世紀。新羅と唐の連合軍の前に滅びた百済の再興のために日本からも援軍を出して、大敗北を喫したことで知られる白村江の戦い。その白村江の戦いに至るまでの、関係各国(新羅、百済、日本、高句麗)の虚々実々の陰謀を描いた小説。物語は百済の皇子、余豊璋が殺されかかったところを蘇我入鹿が救ったところから始まる。ただ、そんな裏話は当然ながら正史には載っていないので、いくつかの事実以外の大半はフィクション
白村江(はくそんこう)の戦を今の子供たちは歴史で教わらないのだろうか。わたしは大人になってから、しかも50代になってから知りましたけど(^^;唐・新羅連合軍に白村江の戦で負けてヤマト政権は外国勢力に対抗するため国防に力を入れました。大宰府防衛は重要な政策でした。白村江は朝鮮半島にある地名です。ネットで検索するとただちに詳しい様子を調べられほんと便利な世の中になりました。ところが情弱という言葉で象徴されるようにひとびとは自分で情報を取りに行かない。
三連休は自宅引きこもり。で、今日は日曜だから“日割りテーマ”では「文学(読書)」あるいは「保健体育(終活)」です。「文学(読書)」のほうは、すでに書いたので、「終活」についても少し考えます。まず、さすがに体力は落ちています.今日は一日自宅でしたが、それでもベランダの「農作業」があったり、録りためてある韓ドラの「まとめ見」(「最後まで愛」という、かなりベタなホームラブコメをいろいろな作業をしつつ7話ほど見ました:このあたりのドラマが65歳過ぎの韓国語学習には良いです。主人公のイ・ヨンアさ
だれか書いてるかなー倭国は九州王朝です。ヤマイチ国は倭国の一つで、倭国は連合王国であったと思われます。もしかしたら連合国の体は、なしてなかったかも。魏と親交があったのは倭国ね。倭国は海洋民族で、朝鮮半島にも領地があり、そこと新羅が戦争したのが白村江。古事記はヤマト朝廷(日本)の歴史書だから、倭国の事はあんま書いてない。九州の王子がくいっぱぐれて国宝を盗んで九州を出奔。当時は末子相続だったので、4男のイワレヒコさん(神武天皇)は兄を誘って、おじさんがいるという東
岩戸山古墳の石人(岩戸山歴史文化交流館)「磐井の乱」を鎮圧した物部麁鹿火の"その後"が気になるところですが、今回は筑紫王家と越王家についてです。まず筑紫王家ですが、磐井が物部麁鹿火に斬殺されたあとのこととして、『書紀』オホド王廿二年条は「十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」(十二月、筑紫君葛子、父の誅に坐ずを恐れ、糟屋屯倉を獻じて死罪を贖うことを求む)と記します。「叛乱」が失敗し、息子は連座するのを恐れて糟屋の屯倉を献上したというのです。糟屋は現在の福岡市東区の大半部
6世紀中葉の百済様式の五層石塔が見られます。修徳坊は宿坊、研修施設。その中庭に造立されています。■定林寺址五重石塔大韓民国忠清南道扶餘郡扶余邑東南里にある寺院跡地。国指定史跡、国宝、ユネスコ世界遺産。定林寺址では唯一の現存建造物。塔高8.33m。唐平百済塔とも呼ばれます。660年唐・新羅連合軍が攻め入った際、百済を滅ぼした証として、当地では唯一、破壊されず残されました。塔には「大唐平百済国碑」と文字が刻まれています。写真はWikipe
こんにちは*曇り空の土曜日です。あっという間に今月も半ばです。*……*……*……*……*……*……*……*……*久しぶりに読書記録を書いていきます。手帳の読書記録を見ると2月の初めあたりから読んでいた本のようです。この記事は一部は一ヶ月以上下書き保存していて、ようやく手を入れて投稿しました。先月は立春の後にいろんなことがありましたがその間も読書は継続して出来ていました。でも、読み方としては内容にじっくり入り込んで、という読み方ではなく"活字を追って気持ちを
荒山徹さん「白村江」白村江(PHP文芸文庫)1,034円Amazon六六〇年、唐・新羅連合軍によって百済は滅亡、王とその一族は長安に送られた。遺された王族は倭国へ亡命していた豊璋ただ一人―。新羅の金春秋、高句麗の泉蓋蘇文、倭の蘇我入鹿、葛城皇子(のちの天智天皇)…各国の思惑は入り乱れ、東アジアは激動の時代を迎える。大化の改新、朝鮮半島の動乱、そして白村江の戦いへと連なる歴史の裏でうごめいていた陰謀とは。圧倒的スケールで感動必至の長編小説。(裏表紙より)はゆる。自称・飛鳥時代から奈
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日本が対外戦争において、敗北したのは2度。第二次世界大戦と白村江の戦いだけです。当時、朝鮮半島は百済、新羅、高句麗が互いに相争い、それに対して唐がこの三国の争いの行方に目を光らせている時代。倭国では聖徳太子亡き後、皇極天皇の元で蘇我一族が権勢を誇っていた。百済では王の代替わりがあり、兄である余義慈により処刑されそうになっていた余豊璋が……。新羅では王位継承者でありながらも、女帝に仕えている金春秋が……。倭国では皇極天皇の元で野心に燃える蘇我入鹿が……。そして、皇
痛みはかなり治まりましたが、食事がまだちゃんととれないです(;^_^A実は歯茎を切開しました麻酔を打ってからやってもらったんですが、全く効かなくて、家に帰り、そのまま氷まくらを抱えてベッドへダイブ。ずっとぐったりしてました。ですが、夜に呑んだ痛み止めは効いてくれてました。まだ頬は腫れてますけどね。全快とはいきませんが、明日からはなんとか動けそうです。よかった……。それでもお医者さんに行く前に本屋さんに本を取りに行くのが私なんですけどね。具合悪くなる前に
引き取ってきてよかった!今日、なんとのーバックに入れて、読み始めたら、めっちゃくちゃ面白いこの話は朝鮮半島が中心になってるんだぁと(倭国しか視点になかった)で、どうしても私の中では井上靖先生の『額田王』とかで描かれている白村江の戦いのイメージが強いので、これは選んでよかったとしみじみ。くくく、葛城皇子もカッコよいのだ他にも積みあがっているものもあるので、じっくり楽しもうと思ってます
昨日、買い物帰りにTポイントカードをコンビニに忘れた私。(クレジット機能付きじゃなかったからよかったよ)電話して引き取りjに行きますとお願いをしてました。本日か明日といっていたんですよ。ですが、あまり長い時間、お店に保管してもらうのも悪いので、みぞれの中、取りに行ってきました……。夕餉の買い物はしてあったし、買い物するものもなし、で、今日は桜庭一樹さんの『ファミリーポートレイト』の発売日!ということでいそいそ本屋さんへ。あちこちを見て廻り、やっちまいました。『白村江
昨日は操觚の会のメンバーである川越先生の直木賞受賞に、もう胸いっぱいの状況で、そのまま、誉田先生と秋山先生の本へ突入させていただきました。(ともに楽しい♪まだ完読までには至りませんが読み終わったら感想はいつものようにUPします)書店さんは芥川賞・直木賞候補の作品のどれを搬入すればいいのか、迷うという呟きも見ましたが、わかりませんものね。だれが受賞するかなんて。大手の書店ですら閉店に至る現状としては売れる本はどうしても仕入れたいという気持ちはわかりますけど。電子書籍だ
平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている。ですからでしょうか、その論文のし
白村江の戦とは我が国の古代史を紐解くことは、まるで謎解きのようなワクワク感があるのだが、反面で容易には事実が見えて来ない、と云うもどかしさもある。大国「唐」に刃を向けた、663年の「白村江の戦い」は、まさにその最たるものだ。戦の経緯やその結果は、「日本書紀」に詳しく記されており、そこだけを見れば矛盾はない。しかし、前後の経緯を含め、この戦を理解しようとすればする程、次から次へと疑問が湧き上がって来る。この戦いへのトーンが、「書紀」と隣国の「国史」とでは、余りにも違い過ぎるのである。
八月二七日と二八日の両日、錦江の河口、すなわち白村江で日本軍と唐本国からの遠征軍との海戦がおこなわれました。ここで日本軍が唐の水軍を打ち破り、錦江を遡って周留城を包囲する唐・新羅連合軍へ攻めかかっていたら、百済復興計画は成功したかもしれません。しかし、日本軍は天下分け目ともいえる海戦に大敗してしまいます。唐の水軍は一七〇艘。かたや、日本は唐の記録に四〇〇艘と記されています。二倍の戦力を持つ日本軍がなぜ負けたのでしょうか。唐の水軍は一七〇艘とはいえ、いわ