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○2023年3月6日から8日に掛けて、『天草:大矢野島の旅』と題した旅をしてきた。そのことに着いて、2023年4月26日に、最初のブログ『天草:大矢野島の旅』を書いている。そして、ブログ『天草・大矢野島の旅」を振り返って』を書いたのが6月26日のことだった。○したがって、ちょうど丸二カ月、、『天草:大矢野島の旅』を書き綴って来たことになる。何とも充実した旅で、得たものは大きい。これまで、『天草:海の民の島の旅』、『天草縦断の旅』、『天草東海岸の旅』などで天草を訪れ、宿題となっていたものも、幾つ
○日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」を読むと、大和朝廷を打ち立てたのは神武天皇だと言うことになっている。それなら、天皇家の故郷は邪馬台国だと、誰もが思う。しかし、天皇家の故郷は邪馬台国では無くて、狗奴国であることに、驚く。そこに日本歴史の複雑さが垣間見える。○確認しておくと、中国の正史「三国志」が記録する倭国三十国は、次のように案内される。【渡海三国】・狗邪韓国・対馬国・壱岐国【北九州四国】・末廬国・伊都国・奴国・不弥国【中九州二十国】
○ブログ『海の民の肥国をさるく』を書いたのは、2022年11月26日のことである。そこで、今回の「五島列島福江島」の旅を整理した。その流れで、ブログ『肥国:建日向日豊久士比泥別の国』をまとめることができた。日本最古の史書とされる「古事記」が記す建日向日豊久士比泥別がどういう意味内容を保持しているかを理解することは、なかなか難しい。それができたように思う。○そうなると、どうしても、日向国から邪馬台国、薩摩国の流れを説明しないわけには行かない。それで書いたブログが『日向国と邪馬台国と薩摩国』になる
○2022年6月21日に、随分久し振りに熊本県天草に出掛けて来た。我が家から天草はそれ程遠いところでは無い。しかし、なかなか訪れる機会は無かった。たまたま今回のコロナ禍で、県民割の旅行があって、割安で泊まれる。それを利用した。○テーマ「天草:海の民の島」を設けて、ここまで、ブログ『くまもと地名』、『遣唐使船南島路』、『日本三津と白尾国柱』と書いて来た。つまり、当古代文化研究所が、何故、「天草:海の民の島」を目指したのか。そのことを説明する話を最初に書きたいと思ったからである。○天草が海の民の
○前回、ブログ『遣唐使船南島路』に、次のように書いた。・そういう意味では、『遣唐使船南島路』の意義は、極めて大きい。日本三津の筆頭が坊津であることくらいは、誰でも知っている。しかし、坊津が何故、日本三津の筆頭となり得たのか。そういうことを説明できる人は少ない。○こういうふうに書いたが、日本三津がどういうものであるかを正確に理解している人は、ほとんど居ないような気がしてならない。それで、改めて、『日本三津と白尾国柱』と題して、日本三津について、ここで触れておきたい。○ちなみに
○昨日、ブログ『嫁坂』を書いて、今日はその続きで、橋野について書こうとして、「三国名勝図会」を見ていたら、「麑藩名勝考」の記述に関する話が出ていて、それが頗る気になった。それで、急遽、話を変えて、末吉郷二之方村の話をしたい。○白尾國柱の「麑藩名勝考」が刊行されたのは、寛政七年(1785年)のことになる。それに対して、「三国名勝図会」が成立したのは、天保十四年(1843年)のことだとされる。両者の間には、五十八年の時間差がある。○ここで気になるのは、白尾國柱の「麑藩名勝考」が『末吉郷二之方村』
○イギリスに、ロバート・ルイス・スチーブンソン(1850年~1894年)と言う小説家が居る。彼が、1882年ころ書いた小説に「宝島」がある。この小説の舞台となっているのは、鹿児島県鹿児島郡十島村の宝島と言う小島である。○スチーブンソンの冒険小説「宝島」は、少年少女向けの小説として、人気を博し、現在でも広く世界中で読まれている。もちろん、私も読んだ記憶がある。ただ、彼の小説の舞台が鹿児島県鹿児島郡十島村の宝島であることは、あまり留意されていない。○スチーブンソンはイギリスのスコットランド生まれ
○これまで、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島がどんな島であるかについて、いろいろと書いて来た。前回のブログでは、次のように案内している。・そういう三島神や出雲神の故郷が硫黄島であることに、誰も注目しない。と言うか、そういうふうに日向国を認識できないのである。意外と、一宮の多くは日向国出身の神様なのである。その日向国の中心が薩摩半島であり、信仰の中心が硫黄島だった。○ただ、忘れてならないのは、硫黄島のもう一つの顔である。実は、このブログでは先にその話を済ませている。なかなかそこまで
〇ブログ『1795年の甑島:前半』からブログ『1795年の甑島:後半』、ブログ『寛陽公(島津光久)甑島詩二首』と、三回に渡って「麑藩名勝考」が記録する甑島を案内してきた。続けて、天保十四年(1843年)に、橋口兼柄等によって撰じられた「三国名勝図会」が記録する甑島を見てみたい。〇「三国名勝図会」では、巻一から巻三十までを薩摩國、巻三十一から巻五十一までを大隅國、巻五十二から巻六十までが日向國となっている。その薩摩國最後の巻三十に甑島郡を載せている。巻三十は甑島郡のみを掲載しているので、結構詳し
○寛政七年(1795年)に白尾國柱によって書かれた「麑藩名勝考」にも、甑島郡甑島に関する記述がある。それは「麑藩名勝考」巻之四薩摩國の最後の部分になる。長くなるので前後二回で案内したい。今回は、その前半になる。〇取り敢えず、原文から案内したい。甑島郡甑島(和名鈔、甑島古之岐之萬)甑島(續紀〇吉續紀作子敷。〇海東諸國記、甑島。〇武備志作天堂。〇歌人称沖津島。)上甑・中甑・下甑あり。南北に長く、北を上とし南を下とす。(又中甑といふは上甑の中にて涸潮の時は徒渉す。)按
○前回、「魏志倭人伝」の主題である倭国三十国の案内は、次のようだと紹介した。【渡海三国】・狗邪韓国・対馬国・壱岐国【北九州四国】・末廬国・伊都国・奴国・不弥国【中九州二十国】・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)【南九州三国】・投馬国・邪馬台国・狗奴国○このうち、日向国に該
○当古代文化研究所では、長年、神代三山陵の探求し続けて来た。結果、真実の神代三山陵は、次のように案内されることが判った。初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝付町内之浦甫与志岳(叶岳)二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵○これが真実の神代三山陵である。二十一世紀の現代に、そういうことを主張したところで、誰も認めてはくれない。当然、当古代文化研究所でも、そのように考
○今年最初に考えるテーマとして、神代三山陵を取り上げた。2021年正月8日に薩摩川内市の可愛山陵と霧島市の高屋山陵へ参詣し、正月16日には吾平町の吾平山陵へ参詣して来た。これが現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているところになる。初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵○しかし、どう考えても、このように神
○前に、神代三山陵の話をした際に、次のように書いている。・このように見て来て、初めて、天皇家の故郷が見えて来る。現在、宮内庁が神代三山陵として管轄するところからは、一切、そういうものが見えて来ない。「徳は孤ならず」と言うけれども、文化もまた孤ではあり得ないのである。○神代三山陵の所在地が天皇家の故郷であると言うことの意義は大きい。つまり、此処が神武天皇の居たところであることになる。したがって、神武天皇が東征に向かったお船出の地も、当然、近くに存在するはずである。○日向國には
○ここまで、可愛山陵について、ブログ『神代三山陵・可愛山陵』から始めて、『高千穂峰:天孫降臨の世界山』、『笠沙の御前』、『木花開耶姫が椿姫であること』、『三島神、大山祇神が卑弥呼であること』、『硫黄島の英雄、俊寛僧都』、『弁才天信仰と平家物語』、『邪馬台国を眺める二人とその場所』、『日向神話の舞台』、『甫与志岳が可愛山陵であること』と書いて来た。○同じように、高屋山陵についてもこれまで、ブログ『霧島市溝辺町麓の高屋山陵へ参詣』から始めて、『彦火火出見尊の登場』、『白尾國柱「麑藩名勝考」』、『麑
○前回案内した、ブログ『麑藩名勝考:吾平山上陵』に引き続き、今回は『麑藩名勝考:鵜戸六所権現』を案内したい。吾平山上陵に鎮座ましますのがだと言うことになる。もっとも現在は鹿屋市吾平町麓宮ノ前の、吾平町の中心部に遷座していて、鹿屋市支所と吾平小学校の間に位置する。○白尾國柱の「麑藩名勝考」が載せる鵜戸六所権現は、次の通り。鵜戸六所権現(陵窟の北の方三十六間許に在り。戌亥に向ふ。其間に一つの小川流る。)奉祀即彦波瀲武鸕鶿艸葺不合尊、配享(玉依姫・彦五瀬命
○神代三山陵について、長々と述べて来ている。ブログ『吾平山上陵』に引き続き、『麑藩名勝考:吾平山上陵』が、吾平山陵に関して第2回になる。今回は、白尾國柱の「麑藩名勝考」巻七、『大隅國部第三』の高屋山上陵に続けて載せている『吾平山陵』について、述べてみたい。○吾平山陵項目が存在するのは、「麑藩名勝考」巻七、『大隅國部第三』の、『肝屬郡姤良郷姤良町村』項目の中になる。この肝屬とか姤良・吾平地名そのもがたいへんな問題を孕んでいる。もちろん、賢明な白尾國柱がそのことに言及しないでは居ない。しかし、こ
○神代三山陵について、長々と述べて来ている。吾平山陵の話をする前に、ここで整理しておきたい。○まず最初に書いているのが可愛山陵についてである。ブログ『神代三山陵・可愛山陵』から始めて、『高千穂峰:天孫降臨の世界山』、『笠沙の御前』、『木花開耶姫が椿姫であること』、『三島神、大山祇神が卑弥呼であること』、『硫黄島の英雄、俊寛僧都』、『弁才天信仰と平家物語』、『邪馬台国を眺める二人とその場所』、『日向神話の舞台』、『甫与志岳が可愛山陵であること』と、都合、10個のブログを書いている。○続けて、高
○今年2021年正月8日に、久し振りに薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。結果的に、これが今年の初詣となった。新田神社のすぐ裏手が可愛山陵であって、新田神社へ参拝すること自体が、そのまま可愛山陵へお参りすることになっている。○もともと新田神社は八幡宮だったとされる。それがいつの間にか主祭神を天津日高彦火瓊瓊杵尊としている。それは大隅国一宮鹿児島神宮についても、同様のことが言えよう。鹿児島神宮はもともと大隅正八幡宮と称していた。それがいつの間にか彦火火出見尊を主祭神とするようになっている。○
○これまで、ブログ『霧島市溝辺町麓の高屋山陵へ参詣』から始めて、『彦火火出見尊の登場』、『白尾國柱「麑藩名勝考」』、『麑藩名勝考:高屋山上陵』、『麑藩名勝考:正一位高屋大明神』、『麑藩名勝考:内浦三嶽』、『麑藩名勝考:救仁湊』と続けて来ている。○現在、内之浦で最も斎き祀られているのは、何と言っても彦火火出見尊ではないか。その伝承は国見岳の高屋山上陵を始め、黒園岳や甫与志岳まで及んでいる。つまり、内之浦は彦火火出見尊一色と言って過言ではない。まるで、彦火瓊々杵尊の気配が感じられない。これは極めて
○寛政七年(1785年)に刊行された白尾國柱の「麑藩名勝考」で、もう一つ、気になるのが救仁湊である。直接、高屋山上陵に関係するわけではないが、記録しておく必要があるので、ここに記しておく。○原文は、次の通り。救仁湊(現存六帖○即内浦の湊にて、此処及大崎・志布志等の地を救仁院、亦救仁郷と云ふ。)現存六帖誰しかも物そ悲しき小夜千鳥くにの湊を鳴て過なり續後紀曰、承和七年四月癸丑(中略)、大宰府上奏、遣唐知乗船事菅原梶成等所駕
○ブログ『麑藩名勝考:高屋山上陵』、『麑藩名勝考:正一位高屋大明神』と続けて来て、江戸時代の国学者、白尾國柱には、真実の神代三山陵、初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝付町内之浦甫与志岳(叶岳)二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵が見えていたのではないかと言う話を続けている。○それ程、白尾國柱の「麑藩名勝考」は、恐ろしい書物である。「麑藩名勝考」に学ぶことは多
○前回、ブログ『麑藩名勝考:高屋山上陵』を案内した。寛政七年(1785年)に刊行された白尾國柱の「麑藩名勝考」が載せる高屋山上陵の話であった。白尾國柱は引き続き、正一位高屋大明神の話を載せている。今回は、その話となる。まずは原文から案内したい。正一位高屋大明神(在山陵之麓三里許、此地隷同郷南方村。)奉祀即彦火々出見尊(神位坐像、高一尺三寸。)祔祀瓊々杵尊・葺不合尊。此神廟は景行天皇の御艸創也。鳥居に正一位高屋大明神の扁額を掲ぐ。(卜部兼
○昨日、ブログの最後に、こう書いた。・最後に残ったのが、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵であった。ところが、何故か、白尾國柱はそれを鹿児島県薩摩川内市の新田神社とする。幾ら何でも、それはない。ただ、それは現代の私たちが判断することであって、江戸時代の白尾國柱には、見えない時代の壁が存在した。・そうとしか、考えられない。おそらく、白尾國柱には真実の可愛山陵が見えていた。そういう節がある。次回はそのことを話したい。○寛政七年(1785年)に刊行され
○今日、2021年2月2日に、MicrosoftBrngで、白尾國柱を検索したところ、「白尾國柱とは‐コトバンク」の次に、『白尾國柱:麑藩名勝考|古代文化研究所』、『白尾國柱墓碑銘:原文|古代文化研究所』、『白尾國柱のお墓|古代文化研究所』、『白尾國柱墓碑銘を読んで|古代文化研究所』と続けて出て来て、驚いた。インターネットで検索しても、なかなか白尾國柱に関して、詳しいものは出て来ない。○自画自賛したところで、仕方が無いが、出て来たものを案内すると、次のようになる。・テー
○天孫降臨なさった彦火瓊々杵尊が、地上で最初に発した詔は、次の言葉であった。此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。○誰もこの言葉に関心を示さない。と言うのも、この言葉を理解することは、本当に難しい。したがって、関心を示さないと言うよりも、この言葉を理解することができないのである。結果、日本人最初の、大事な言葉であるにも拘わらず、等閑にされたままになっている。○日向国、霧島山高千穂峰山頂に立つと、二十一世紀の現在でも、彦火
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。そのことについては、正月19日に、次のブログに書いている。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『神代三山陵:可愛山陵』神代三山陵:可愛山陵|古代文化研究所(ameblo.jp)○その一週間後の正月16日に、今年の初登山として、肝属山地最高峰の甫与志岳(967m)に登って来た。それは当古代文化研究所が甫与志岳を可愛山陵だと判断するからである。その時の様子については、次のブログに詳しく書いている。・
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。新田神社のすぐ裏側に可愛山陵が存在する。それで、可愛山陵について、あれこれ、考えている。○現在、此処は宮内庁に拠って、可愛山陵として管理管轄されている。ウイキペディアフリー百科事典の可愛山陵項目を見ると、それがよく判る。可愛山陵可愛山陵(えのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内
○2021年元旦のNHKの特別番組『邪馬台国サミット2021』を見て、驚いた。いまどき、邪馬台国が畿内だとか北九州だと言うことを真面目に議論している。そんな人々は、考古学者先生以外に、誰も居ない。何とも時代遅れな話である。NHKの教養番組がこの程度のものであることに驚き、呆れた。○反論するだけで、根拠の無い話をするわけにもいかないので、『邪馬台国サミット2021:前半』、『邪馬台国サミット2021:後半』に続けて、『邪馬台国サミット2021:邪馬台国の風景』、『邪馬台国サミット2021:古事記
○2020年9月25日、金峰町から野間池、秋目浦、坊津と野間半島を周回した。南さつま市歴史交流館金峰を皮切りに、鑑真記念館、坊津歴史資料センター輝津館と見学した。笠沙恵比寿は休館中で見ることはできなかったが、まさに博物館廻りの一日だった。○歴史交流館金峰で頂戴した「南さつま市ミュージアムマップ」には、坊津歴史資料センター輝津館について、次のように案内する。坊津歴史資料センター輝津館国の重要文化財「絹本著色八相涅槃図」をはじめ、坊津が日本三津の一つとして、海外貿易で繁