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先日は、立川談春独演会に行ってきました。演目は「子ほめ」「棒鱈」、仲入りを挟んで「白井権八」。白井権八の一席、引き込まれました。見事でした。
白井(平井)権八は鳥取藩の家臣白井正右衛門の次男で、家宝の名刀を携えて父を貶めた同僚の本庄助太夫を討ち、そのまま江戸を目指して出奔します。元服前の美少年だったため芝居用の竹光を持った役者に間違えられ、道中盗賊集団に襲われますが、前髪を垂らした若衆ながら剣の腕が立ち、一人でバッタバッタと盗賊連中を倒します。この様子を見ていた浅草の町奴の棟梁、幡随院長兵衛が権八に声を掛けます。有名な歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」の「御存鈴ヶ森」の段です。長兵衛「お若えの、お待ちなせえやし」権八「待てとおとどめ
廿日闇邪广(魔)な須(す)雲を打者(は)らふ丸耳(に)ゐ中の月能(の)下風梅屋一勇齋國芳画Wikipediaには「廿日間」となっていますが、「廿日闇」ではないでしょうか?陰暦二十日は更待月(ふけまちづき)、夜更けになるまで月明かりのない闇夜です。「丸にゐなかの」は読めませんでした。はじめ「九千羽中の」かと想いましたが、「九」ではなく「丸」ですヨネ。「ゐ中」は亥の刻の中頃の意味のようです。Wikipediaに「卜風」とあるのも「下風」ではないかと想います。「画題」として「白井権八」と
タイ料理のお店「ジュディポーン」ママの誕生日お祝いをして八丁畷から川﨑駅まで歩いて帰る事にしました!月夜の東海道を楽しみましょう( ̄▽ ̄)江戸時代から続く東海道d( ̄ ̄)川崎は道幅がほぼ変わっていないと聞きました!どのような人たちがどのような目的でそして着物で歩いた道考えながら歩いていると楽しいです♪おっ!所々にある看板ですがここには白井権八がありましたd( ̄ ̄)私が20歳で西川鯉蔵師匠に師事し初めて舞台を踏んだのが「雨の権八」懐かしい!こう言う事に気づ
旧東海道歩きは「大森貝塚」を訪ねたあと、旧東海道に戻ります。JR線をくぐり国道15号線を渡ると「鈴が森刑場跡」があります。この絵の中央が東海道で、大名行列が鈴ヶ森の脇を通過しています。右が江戸湾で、海苔粗朶が見えます。左奥に見えるのが「鈴ヶ森刑場」で、目を凝らしてみると、題目供養塔と思われるものも立っています。『江戸名所圖會…鈴の森』「鈴ヶ森刑場」は、慶安4年(1651)江戸の南口(東海道)に開設された江戸の処刑場で、鈴ヶ森の名の由来は、先に記事に
東京証券会館ホールに於いて春日豊吉久会が開催され、舞台に出演してきました。今回の出し物は「早助」に「阿波座烏」、間に幡随院長兵衛と白井権八の長台詞が入る面白い小唄です。完全にうちの師匠のオリジナル曲。ずいぶん前から稽古してきた甲斐もあって上手く唄えました。最近はこうして舞台に立つときに異常な緊張も無くなり腹が座ってきた感じです。人間慣れるものですね。楽屋での一コマ。師匠とお姉さま方とパシャリ。この日は気温が30℃近くまで上がり単衣で出演してきました。初めて参加させていた
講談の広沢兵右衛門師匠直伝の噺。若き白井権八と幡随院長兵衛出会い。白井権八鈴ヶ森の刑場で山賊相手の大立ち回りに駕籠で乗り付けた長兵衛、お若けえのお待ちなせえの場面です。白井権八談志の落語を読む講談の広沢兵右衛門師匠直伝の噺。若き白井権八と幡随院長兵衛出会い。白井権八鈴ヶ森の刑場で山賊相手の大立ち回りに駕籠で乗り付けた長兵衛、お若けえのお待ちなせえの場面です。youtu.be
芸大美術館(東京藝術大学大学美術館)の「大吉原展」を見たあと、吉原神社などゆかりの場所を散策。その中でも、浄閑寺は端的に当時をしのぶことができる場所でした。お寺の通称は”投げ込み寺”。安政の大地震などで犠牲になった遊女たちが粗雑に投げ入れられたといわれます。単に永井荷風の歌碑があると聞き、なんとなく行ったのですが、予想外に史跡があり↓焦りました。なにしろ16:45に到着し、「17時までには門を閉めますから」、という声。説明文はあとでゆっくり読むことにして、大急ぎで史跡らしきと
「大吉原展」で「中村竹三郎・三浦屋小紫図」菱川師胤を見て、白井権八・小紫の悲恋を思い出しました。白井権八は、本名を平井権八郎直定(通称・平井権八)といい、実在の人物です。(白井・・というのは歌舞伎で使われた名前らしい)江戸時代初期、生活に困窮し、辻斬りなどの悪事に染まり、ついに処刑。それを知った恋人の小紫(三浦屋の遊女)は後を追って自害します。この辺までは、目黒不動尊の比翼塚の説明その他で知り、ブログにも記したことがあります。でも、この悲恋がさらなる悲劇を生んでいたこと
大阪10ヶ月連続公演の2回目。小春志さんを連れて。またしても、開演はじめって5分ほど遅れる。せっかち故、待つ時間がもったいなくて、ギリギリを攻めてしまうが諸刃の剣である。切られる回数の方が多いが・・・。立川小春志「一目あがり」「軸」のほめ方を習って、町内のいろんな人の家にあがっては「軸」をほめて、じぶんの賢さを披露しようとするアホ咄である。ここにきて、落語の起承転結のパターンがみえてきた笑。粋な人の言動・振る舞いに憧れて、学のない男が、見よう見まねで同じことをす
「どうしても会いたい」。その一心で罪を犯した辻斬り白井権八と、遊女小紫の比翼塚[目黒不動]【週末民話研究】(さんたつby散歩の達人)-グノシー目黒区にある、目黒不動瀧泉寺の門前の比翼塚(ひよくづか)には、130人の命を奪った辻斬り・白井権八と、江戸一の花魁(おいらん)と言われた遊女・小紫の悲しい恋の話が残ります。ただ愛する人に会いたいという普遍的な気持ちが、置かれた身分や職業のせいで当たり前ではなくなる。今回は、そんな二人の男女の話をご紹介します。白井権八と遊女小紫白井権八(本名・平井権
山賊は棲めるかな?ᗷlueᏚkyこんにちは日増しに寒くなって参りましたお元気ですかあるデータによりますと日本の歴史上の人物で好きな男性のランキングは…1.織田信長2.徳川家康3.坂本龍馬4.豊臣秀吉5.伊能忠敬となっております私は.伊能忠敬が一番好きです…が今回はこの件には触れません広島城女性では1.卑弥呼2.紫式部3.北条政子4.ねね(北政所)5.小野小町となっております竹原にてで…タイトルの告白ですが例えばこの5人の誰を
旧東海道沿いにある鈴ヶ森刑場跡歌舞伎「御存鈴ヶ森」の舞台です左側から白土権八や幡随院長兵衛がやってきます処刑者を弔うための大経寺白土権八は磔、八百屋お七は火刑だったそうです2人のお墓と海難遭難者の供養塔にお参りしました
比翼塚(ひよくづか)白井権八と遊女小紫来世での幸せを願い建立目黒不動尊仁王門前にある比翼塚です処刑された愛人・白井権八と、彼の墓前で自害した遊女・小紫。その悲話は「後追い心中」として歌舞伎などで有名だそうです。この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈り建てられたといわれています。「傾城の恋に眞こと無いとは誰が云うたまことありやこそが今が世に目黒に残る比翼塚」隣には、伏見稲荷の小さな祠がありましたに
大正時代から昭和初期にかけて作られていた磁器製の大衆人形には射的人形や市販品が見られます。歌舞伎や浄瑠璃の人物が大勢作られていますので、今回はその中から【白井権八】をご紹介します。モデルとなっているのは、手紙を持った様子から《其小唄夢郭=そのこうたゆめもよしわら》の一場面のようです。恋人だった遊女【小紫】からの手紙だと思います。作者は【福森久助】です。良く知られているのは【白井権八】が【幡随院長兵衛】と鈴ヶ森で出会ったシーンだと思います。「お若けえの、お待ちなせえやし」「待てと
鈴ヶ森刑場2022年1月4日、東海七福神巡り品川神社から旧東海道を下ってきて、第一京浜(国道15号)に合流する所に、鈴ヶ森刑場遺跡向かって左が第一京浜(国道15号)右手が旧東海道です。鈴ヶ森刑場は、慶安四年(1651年)~明治四年(1871年)使用されました。処刑数は10万とも20万とも中には無実の人もいたのでしょうか鈴ヶ森で処刑された著名人?丸橋忠弥由井正雪と幕府転覆計画平井権八同僚殺し・辻斬り(白井権八)天一坊吉宗の御落胤との詐欺八百屋お七
2020年9月中旬に、仕事で、五反田方面に出かける用事があったので、仕事の合間に、歴史散策をして来ました。JR五反田駅から仕事先に向かい、一仕事終えてから、散策開始。TOCビルを越えて中原街道を進み、首都高2号線の高架をくぐった所で、一本北側の路地に入ります。こちらの路地が、「旧中原街道」。緩やかな坂道を上り、旧中原街道は、平坦な道路になって…すると、お地蔵様がいらっしゃいました。こちらは、「子別れ地蔵」。享保12年(1727)
落語であなたの人生をナビゲート!おとうふメンタル〇ら落語コンシェルジュ®相山・美奈:子:です。毎月第一土日は、お茶の水太陽で本牧亭講談会!宝井小琴三方ヶ原の合戦~内藤三左衛門の物見初々しい。声もいいし、舞台度胸がある。先が楽しみ。田辺凌天お富与三郎馴れ初め4月に二つ目になり、他の先生にお稽古をつけてもらえる。声が出なくて..と言っていたがそんなことはなく、本人の意識の高さを感じた。田辺一乃白井権八好きな噺です。権八は、顔が良くて腕があって
小紫の部屋に、白井権八が匿われて四日目。激しい雨が降りました。権八「小紫、此の雨が逃げる宜い機会のように思う。今夜、夜陰と雨に紛れて奉行所へ自訴する由え、今宵で別れとなる。」小紫は、イヤイヤと首を横に振り、見て居た番頭新造の竹川が涙を流す姿を見て、権八は続ける。権八「恐らく、三浦屋の主人は薄々、拙者がこの部屋に潜伏していると知りながら、公儀には知らせず、拙者が自訴して出るのを待っておるに違いない。主人に迷惑を掛けては忍び無い。夜九ツのお引けに紛れて、奉行所へ向かう事に致す。長居に成れば
『白井権八!因幡國鳥取藩、池田相模守光仲様の元家臣であろう!白井権八!』そう叫ぶ声に、「誰だ!貴様は?」と、大きな声で叫んで、白井権八が背後を振り返ると、其処には乞食が二人立って御座いました。権八「誰だ!貴様ら。。。俺を呼んだのか?!」其処には、ボロボロの着物に、ヨレヨレの袴を履いて、月代も伸び放題の二人の乞食が立っていた。そして、二人の着物を目を凝らしてよーく見ておりますと、元は白抜きだったと思われる家紋は汚れ切って、判読が難しい状態ではあるが、其の家紋はどうやら『九目結紋』。そう
時計の針を少し昔に戻しますと、彦兵衛夫婦の元に、嵐の中、吉原三浦屋から徳松と言う若衆がやって参ります。徳松「御免下さい!御免下さい!」新七「ヘイ、今日の商いは六ツ半迄で御座いますし、この雨で御座いますから、早仕舞いにしております。」徳松「いいえ、商売のご相談では御座いません。吉原の三浦屋から参りました。」新七「左様でしたか。。。旦那様、女将さん!吉原の三浦屋さんから、お使いの方がお見えです。」応対に出た新七が、直ぐに徳松を中へ招き入れまして、土間で雨具を取り体を拭く様にと、乾いた手拭
明日、神田三河町、伊勢屋と言う口入屋へと奉公先を相談に行くと決まった前の晩の事でした。久しぶりに、身綺麗にしたくなり、白井権八は『奴湯』へ行って山ノ宿にある髪結い床『猪狩床』へと出向き月代を綺麗にした白井権八。彦兵衛の店に戻ると、彦兵衛夫婦に、噺が有ると奥の間へと呼ばれた。権八「何んで御座るかなぁ?新七殿が、奥にてお二人が呼んでいると伺った。」彦兵衛「ヘイ、明日、伊勢屋さんに行けば、奉公先はその日にも決まると、元締の小平さんは仰っておいででした。そうなると、足軽ですから、江戸藩邸の仲間
今、白井権八に助けられた江戸は浅草の山ノ宿に住む呉服商、彦兵衛は、『セリ呉服』で田舎を巡り、着物・仕立て呉服を田舎へ卸し、反物や生糸を仕入れて江戸へ戻る途中でした。権八「彦兵衛殿、お主は、代々の呉服屋なのか?!」彦兵衛「いいえ、私は江州は犬上郡彦根の城主、伊井掃部頭様に支える足軽で御座いました。しかし、血筋も無く、参勤交代が無い年は、馬の世話以外仕事は無く、二十俵二人扶持の身分ですから、城務め以外にも、副業をせねば、家族を養えず。それで、生まれ付き、読み書き算盤が得意で、商いの交渉事も
さて、幡髄院長兵衛の講釈ですが、1894年の速記本では、三代目伯山の『幡髄院長兵衛』は、前回の第二十四話「水野邸討入り!」が大団円なんですが、第二版の1915年の速記本では、この後にスピンオフ的な感じで、『白井権八傳』が五話追加されております。そして正に、今回お送りする「白井権八の山賊退治」は、立川談志が落語でもやっているお話で、現役では談春師匠が、師匠談志のまんまやって呉れています。あの!「お若けぇ〜の、お待ちなせぇ〜」の科白で有名な、芝居でも散々二枚目が演じる『白井権八傳』を、三代目神
鈴ヶ森を観て…「家の芸ということ」を思う。例えば落語は、出来不出来は噺家一人の責任で済むわけですが、芝居は〈せりふ〉のほかに、〈相手役者との間合い〉、〈身体の運び〉の三つが同時に附いて廻るわけだから「大変な芸だなぁ」といつも感心しております。今回の「鈴ヶ森」などは、役者は、更に〈家の芸の重み〉を背負うのです。筋は、人を殺めた因州の若者•白井権八が江戸の大親分幡髄院長兵衛と鈴ヶ森で出会い、江戸に向かうという、これだけのことです。白井権八は平井権八という実在の人物がモデルになっています
20200107春談春2日目昼の部たらちねこはる鰻の幇間談春中入り壺算兼好白井権八談春兼好は友達ではないが、最高の幇間だそうだ。鰻の幇間をやるので、呼んだらしい。相変わらず兼好の高座は爆笑だったが、お客さんがこの時期なので、笑いたい雰囲気に満ちていた。白井権八は良かった。善くも悪くも師匠談志の影が色濃く出ていた。昨日に引き続き釈ネタ風の白井権八は、昨日の子猿七之助より談春師にあっているように思える。もしくは
2013年11月16日(土)射なか座夜の部劇団錦錦はやと第三部唄と踊りのゴールデンショーはやと座長中心に・・・・白井権八&小紫やはり観に出掛けてよかったわぃこの劇団のラストショーはいつも素晴らしいばぃただ踊るだけじゃないからのぅ見応えたっぷり楽しかったべーでも一言夜の部は三部構成とは言うものの舞踊数はいつもと同じで単なる前後に分けただけやがいね↑「こんなんならわざわざ分けて無理に三部構成にせんでもいいがに」と思ったばぃ別荘へ
BeejieAdair/7I'veGotaCrushOnYou盛岡市の南方面で、パスタを食べつつ打合せの予定。ところが、その店が臨時休業だった。そこで近いし、ゆったりとした席の並ぶ「瑠奈」へ変更。「珍しいですね?じっくりメニューを見るなんて」と言われ、「実は、先日、来たばかりなんです」一緒の人は、笑いながら「すいません」「ここは美味しいから、続けて来ても全く問題ないです」と答えると、「へぇ~オムハンバーグがある」と向かいからメニュ
東海道五十三次。川崎宿。この川崎宿。案内によると、「慶長六年(1601)から、幕府による東海道の整備が始まり、五十三か所の宿駅が順次設置されていきます。川崎宿は、品川宿と神奈川宿までの往復十里(約三十九km)にもおよぶ距離を移動する伝馬の負担を軽減するため、元和九(1623)、五十三番目に追加された宿駅です。」(東海道かわさき宿交流館のパンフレット)で、旅人は、品川の宿から、六郷川を渡り。この六郷川。多摩川という名称の方が、知られているかもしれません。福生市のサイトを見ると、「
昨日も書いたとおり現在百段階段(ホテル雅叙園東京内)は、企画展をキャンセルして展示物なしで公開中。そのおかげで瓢箪から駒というか、怪我の功名というべきか、建物内部そのもののすばらしさを実感できます。各部屋は名だたる画家・絵師によって装飾され、なかには担当した画家の名前が冠されているものもあります。たとえばこれ。私の好きな鏑木清方が担当した「清方の間」です。こちらは2部屋が繋がっていて、控えの間の欄間には目黒ゆかりの絵「目黒名所風景図」が描かれ、次の間には美人画が描かれて