ブログ記事22件
※2021年12月23日訪問※本堂の向かって左手の茂みの中には、とても趣の有る建造物が建てられていますこちらの建物は【三光殿】と呼ばれる建物で、▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼養雲寺の境内には三光堂と呼ばれる旧霊屋があり内部に厨子が納められています。第4代藩主伊達宗倫の正室の厨子と伝えられる。規模が小さく工法稍々簡略化されているが、覚乗寺高台院霊屋の厨子と同じ形式で精巧な工法、彩色の美といい桃山式の面影をもつ秀作である。三光堂は宝形造、銅板葺、桁行2間、梁間2間、正面
※2021年12月23日訪問※山門をくぐり、境内を進んでいくと表れるのが、【中門】と呼ばれる門です中門については、案内板などは特に見当たりませんでしたが、こちらも重厚で美しい門ですよね門扉には伊達家の門の一つである《九曜紋》の飾り金具があしらわれていますね✨寺池城の城門を移築したと伝わる【山門】と比べると、こちらの【中門】は、もう少し時代が下ってからの建造物に思われますが、屋根の緑青の輝きを見ると、時代の変遷を感じる事ができますね✨そして、中門をくぐった先に建てられているのが、養雲寺さ
※2021年12月23日訪問※養雲寺さんを訪れてまず目に飛び込んで来るのが、とても立派で武骨な【山門】ですこの山門は、かつての寺池城の城門を移築したと伝わり、《登米市指定文化財》にも指定されています門の脇には標柱が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼楼門形式の山門である。伊達初代藩主宗直公の手によって、養雲寺が岩手県水沢から移築される以前この地にあった寺(太白山永明寺といい現在は中田町大泉に移って長承寺の前身となったもの)の山門と伝えられ、正面の扁額もそ
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【太白山養雲寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼養雲寺の創建は長享2年(1488)に白石宗長が開基となり長禄寺(福島県須賀川市)三代目住職麟慶純和尚を招いて開山したのが始まりとされます。白石氏は当時白石城(宮城県白石市)を居城として白石周辺を支配していましたが、伊達家に随行するようになります。白石氏は、天正14年(1586)に二本松(福島県二本松市)、天正19年(1591)に水沢(岩手県奥州市水沢区)、慶
※2021年12月23日訪問※宮城県の登米市登米町は、古くから交通の要所であり、奥州の名門である葛西氏、そして江戸時代になると登米要害邑主・登米伊達氏2万1千石の城下町として繁栄して来ましたそして、交通の要所である事から、江戸時代には宿場町【登米宿】としての機能も持ち合わせた街でした▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼登米宿は、石巻と一関を結ぶ一関街道と、高城と津谷を結ぶ涌谷・登米道とが交差するとともに、高清水で奥州街道と連絡する佐沼・登米道が分かれており、交通の要となってい
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【鉤形小路】を訪れました武家屋敷通りの南側がクランク状になっていますが、これは城下町特有の鍵形の道路ですね道路脇のフェンスには【鉤形小路】の案内板が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼クランク状に構成された道路割りは、城を守る為、戦いに備え迎え撃つ防衛としての構造である。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲下の画像は武家屋敷通りの北側から鉤形小路を見た構図で、右側に道路折れ曲がっている事がお
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【四脚門】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼四脚門とは、日本の大柱(本柱)に扉を付け、四本の控柱を立て、貫(ぬき)で結び、切妻屋根(きりつまやね)をかけたもの。この門は、、三間一戸の四脚門で以前は茅葺であったが、現在はスレートに葺きかえられている。妻飾(つまかざり)に蕪懸魚(かぶらげきょ)を用い、中央両脚扉(ちゅうおうりょうきゃくとびら)、左一間は半分を一枚戸の潜りとし、軒はセガイ造りの門である。以前、左側
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【春蘭亭(旧鈴木邸)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鈴木家住宅(春蘭亭)は宮城県登米市登米町寺池桜小路(武家屋敷通り)に位置している。鈴木家は、紀伊の国(今の和歌山県)熊野の鈴木氏から分かれた一族であり、鈴木将監重信公の代に、登米伊達初代藩主相模宗直公が、水沢城より登米に移るに伴い慶長9年に移住し班列一族、知行高6211丈を賜り外道川原に戦功をたてた。元禄時代頃、鈴木家の屋敷は後小路東角地に見出せるが、天保
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【登米懐古館】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼昭和36年、寺池城址に旧登米町名誉町民の渡辺政人氏の寄贈によって建てられましたが、令和元年9月、伝統芸能伝承館「森舞台」を手掛けた建築家隈研吾氏の設計により移転新築しました。館内には、登米伊達家ゆかりの甲冑「鉄黒漆塗五枚胴具足」、刀剣「太刀備州長船恒弘」、絵画「古歌咲く時は」伊達政宗、狩野探幽、大徳寺江月和尚合作など、城下町であった当時を偲ばせる貴重な品々を展示して
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【熊谷邸表門(伝・寺池城搦手門)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼熊谷家の表門は案内板によると「中世の豪族、葛西氏居館の裏門を移したもので、江戸時代初期以前のものと伝えられる。四脚門の変形か薬医門に似ており、もとは茅葺、素朴で安定した古風な門ながら堅実な建築で、昔日の威容を偲ぶことができる。」とあります。熊谷家表門は切妻、銅板葺き、三間一戸、潜戸付、外壁部は真壁造白漆喰仕上げ、案内板には四脚門の変形、又は薬医門
※2021年12月23日訪問※登米伊達氏第四代当主・伊達宗倫の廟所【覚乗寺高台院霊屋】です【覚乗寺高台院霊屋】の標柱【宮城県指定有形文化財覚乗寺高台院について】と書かれた案内板も建てられていますね霊屋の建物は、方三間、桁行・梁間ともに23尺5寸(約7メートル)、向拝1間、前面縁付で素木造、床板張、屋根は宝形造、木羽葺内部には漆塗、胡粉塗、金具で装飾された須弥壇があり、その上に方三尺、入母屋造、柿葺の家形厨子が置かれている桃山様式の建物ですね✨霊屋の床下には石畳の墳墓が設置されており
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【覚乗寺高台院霊屋】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼覚乗寺高台院霊屋は、登米伊達第4代の藩主伊達宗倫(天山公)の霊屋で、寛文12年(1672)に建立されたものである。大きさは、方三間桁行梁間ともに23.5尺、向拝一間、前面縁付素木造、床板張、屋根は宝形造木羽葺、内部には漆塗、胡粉塗、金具で装飾された須弥壇があり、その上に方三尺入母屋造こけら葺の家形厨子が置かれ、その床下には石畳の墳墓が設けられている。霊屋建築
※2021年12月23日訪問※本丸跡を見学し、登城路を降りて、寺池城址公園を迂回して、城跡の西側にやって来ましたこちらにも【切岸】と見られる高低差を確認する事が出来ます現在通っている道路はかつての堀の跡と推測されますが、城の有る高台部分との高低差がすごいですね登米要害(寺池城)散策は、ここで終わりにし、このまま【覚乗寺高台院霊屋(登米伊達第4代・伊達宗倫霊屋)】に向かいます
※2021年12月23日訪問※登米要害(寺池城)の【本丸跡】へと向かいます二ノ丸跡に建つ登米簡易裁判所の脇に、林道のような道が続いているので、先に進んで行きます道の東側は、かなり旧な崖地になっており、城が有った当時、本丸東側から侵入するのは、かなり難しそうですね林道を進んで行くと少し開けた場所に出ました【秋葉山】と彫られた石碑が建てられており、周囲は本丸へと入口(虎口)のようにも見えるような地形が残されています【本丸跡】まで登って来ましたが、現在では畑や林になっており、恐らく私有地か
※2021年12月23日訪問※坂道を登り、登米要害(寺池城)の【二ノ丸跡】まで登って来ました二ノ丸跡には現在《登米簡易裁判所》の施設が置かれており、城跡らしさを感じる事は難しくなっていますね登米簡易裁判所の駐車場から、城跡の西側を臨むと、この場所が高台に有る事を実感出来ますこちらは、登城路から二ノ丸跡に入る箇所の【土塁】と【切岸】のようにも見えましたが、詳細は不明登米要害(寺池城)跡は、案内板などが模擬石垣の前の標柱や石碑だけなので、もう少し城跡の各所に設置されていると、お城ファンとし
※2021年12月23日訪問※かつての三ノ丸に位置する寺池城址公園から、今度は二の丸跡へと向かいます模擬石垣沿いに登る車道が整備されていますが、この道がかつての登城路なのかは不明です坂道の途中に、何やら封鎖された入口部分のような箇所が有りましたが、これはかつてこの登米要害(寺池城)跡に建てられていた《登米懐古館》という博物館への入口のようです※現在、登米懐古館は、現在武家屋敷通りに移転※旧登米懐古館入口部分には、麓から長々と続いている模擬石垣とは積み方が少し違う石垣も有りましたが、これ
※2021年12月23日訪問※三ノ丸跡の南西部分では【切岸】の遺構と思われる巨大な土手を見る事が出来ます寺池城址公園の南西部分の出入口から、公園の外に出て行くと…公園出入口の道の両側に土塁を確認する事が出来ます✨切岸沿の現在道路に場所は、かつての【水堀】の跡と推測されています◆陸奥国・登米要害(寺池城・臥牛城)登城路◆に続く
※2021年12月23日訪問※登米要害(寺池城)の三ノ丸跡は【寺池城址公園】となっています【寺池館跡】の標柱・石碑から西側に進み、二つの模擬門を越えた先には、公園の広場が広がっています公園の中を進んで行くと、広場の中心に何やら四角く区切られたスペースを発見周囲に説明版などは有りませんでしたが、こちらはかつての【井戸】の跡井戸跡の有る広場から、北側を臨むと、高台の上に《旧・登米懐古館》の建物を確認する事が出来ますねちなみに、旧・登米懐古館に至る階段は封鎖されていました公園の南西部分の
※2021年12月23日訪問※寺池館跡の標柱や石碑から左手に曲がると【冠木門】が見えて来ますこの門は、城の遺構では無く、公園整備によって建てられた物冠木門付近では、模擬石垣の切目の部分を見る事が出来ます下の写真、右側は模擬石垣ですが、左側の石積は登米要害(寺池城)本来の遺構なのか、近世に整備された物なのかはわかりませんでした冠木門を進むと、もう一つの【模擬門】が見えて来ますこちらも公園整備の際に建てられた物で、遺構ではないようですしかし、《城址公園》という特性上、こういった城郭建造
※2021年12月23日訪問※では早速【登米要害(寺池城・臥牛城)跡】へと向かいます城跡を訪れて、まず目に飛び込んで来るのがこの【寺池館跡】の標柱です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼寺池城は、寺池館別名『臥牛城』と称し葛西氏、伊達氏居住跡で本丸と二の丸と区別される。本丸は北方の一段高い処にある。当時の建物は、明治維新後とりこわされ今は、二の丸跡に登米簡易裁判所がある。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲そして、標柱の隣には【史跡寺池城址】と彫られた
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の登米要害(寺池城・臥牛城)跡を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼築城年代は不明ですが、一説によると、奥州藤原氏討伐の際、軍功のあった葛西三郎清重が次男朝清に所領を分与し、奥州に下向した葛西氏が寺池の地に築城し居住したと言われていますその後葛西氏は清貞の代に国府・多賀城に近い石巻に移り、鎌倉幕府滅亡により関東の所領を失った葛西氏嫡流の高清に登米の所領を分与し、高清が登米に居住。南北朝の乱の際には、清貞・高清ともに南