ブログ記事9件
【問題】滝川一益は本能寺の変後、伊勢への帰還中に木曽義昌に通行を拒まれた際、どのような交渉を行ったか?【選択肢】信濃守への叙任を朝廷に奏請することを約束した自身の嫡子を義昌の養子に入れることを提案した信濃国人から徴収した人質の譲渡を持ちかけた甲斐国内で5万石を与える嘘の起請文を書いた【正解】信濃国人から徴収した人質の譲渡を持ちかけた【解説】滝川一益は本国伊勢への帰還の途次、木曽谷の通行を義昌に拒否された。一益は信濃国人から預かっていた人質を引き渡す代わりに通行許可を求
【問題】蒲池鎮竝は次のうちどのような最期を遂げたか?【選択肢】耳川の戦いで島津軍に討ち取られた肥後国内の関所で関守に斬り殺された南蛮船内に抑留された後に獄死した龍造寺隆信に歓待された後謀殺された【正解】龍造寺隆信に歓待された後謀殺された【解説】蒲池鎮竝(鎮漣、しげなみ)は筑後柳川城主で、肥前の龍造寺隆信から宴席に誘われたところを襲撃され、近習の者ともども無念の死を遂げた。
【問題】小田原征伐の翌年、豊臣秀吉に赦免された北条氏直が所領を与えられたのは次のうちどこか?【選択肢】但馬国河内国土佐国能登国【正解】河内国【解説】北条氏直は小田原征伐で降伏し、死罪を免れ高野山へ追放された。しかし早くもその翌年には秀吉から赦免され、河内国内で9000石(他に下野国内で1000石)を与えられて大名に返り咲いた。
【問題】≪難問≫響野原の戦いで相良義陽を討ったのは次のうち誰か?【選択肢】鍋島直茂島津歳久甲斐宗運川崎祐長犬童頼安立花宗茂【正解】甲斐宗運【解説】相良義陽と阿蘇氏家臣の甲斐宗運(親直)はもともと非常に良好な関係であったが、義陽が島津に降ると阿蘇氏攻撃を命じられ、逆に宗運に討ち取られた。一説には覚悟の死であったという。
【問題】10月21日〜23日に開催され、22日には「発見!ニッポン城めぐり」もブースを出展する、岐阜県可児市のイベントとは次のうちどれか?【選択肢】平城に行こう!平山城に行こう!山城に行こう!水城に行こう!【正解】山城に行こう!【解説】10月21日(土)〜10月23日(月)、岐阜県可児市で「山城に行こう!」という一大城郭イベントが開催される。22日(日)には「発見!ニッポン城めぐり」ブースを出すため、目下不眠不休の準備が続けられているという。
【問題】織田信長による北伊勢侵攻を受けた際、同地の有力な大名神戸具盛はどのような行動を取ったか?【選択肢】徹底抗戦の上、居城で自害した信長の子を養子に迎え和睦した熊野へ逃げ、行方不明となった下野して伊勢神宮宮司となった【正解】信長の子を養子に迎え和睦した【解説】神戸具盛(友盛)は織田信長の北伊勢侵攻が始まると当初これに抵抗したが、後に信長三男の信孝を養嗣子にするという条件で講和した。
【問題】次のうち、美濃岩村城の別名として正しいものはどれか?【選択肢】不言城黒烏城霧ヶ城出世城【正解】霧ヶ城【解説】美濃岩村城は霧がよく発生する立地にあり、城内の「霧ヶ井戸」に蛇骨を投入すると霧が発生して城を包み、敵の攻撃から守ったという伝説が残る。そのことから別名「霧ヶ城」とも呼ばれる。
【問題】川村重吉という武将は、次のうちどの家からどの家へ主君を変えたか?【選択肢】上杉家から島津家武田家から朝倉家最上家から三好家毛利家から伊達家【正解】毛利家から伊達家【解説】川村重吉ははじめ毛利輝元の家臣であったが、関ヶ原の戦い後に毛利家が減封されると浪人した。その後、浪人中に伊達政宗に見出されその家臣となった。
【問題】関ヶ原の戦いで、主君を逃すために島津軍が採った戦法とは次のうちどれか?【選択肢】捨て奸離間計啄木鳥馬揃え【正解】捨て奸【解説】関ヶ原で敵中に孤立した島津軍は主である義弘を逃がすため、少人数が決死隊として殿(しんがり)に留まり繰り退きする「捨て奸(がまり)」という戦法を採った。
【問題】葛西大崎一揆では一揆軍に占拠され、その後伊達政宗の城代が入った寺池城とは宮城県の城郭である。○か×か?【選択肢】○×【正解】○【解説】寺池城は宮城県登米市にあった城郭で、葛西大崎一揆では一時一揆軍に占拠されている。伊達政宗の治世下では白石氏が城代に入り、登米要害と称された。
【問題】文久3年(1863)8月、天誅組の変において城を襲撃されるも寡兵でよく戦い、天誅組を撃退した藩は次のうちどこか?【選択肢】櫛羅藩柳生藩久居藩高取藩【正解】高取藩【解説】大和国にあった高取藩(奈良県高取町)は天誅組の挙兵に際し、当初は恭順を約していたがその後態度を翻したため、天誅組によって高取城を攻撃された。だが天誅組の5分の1程度の兵数であった高取藩は地の利を活かして戦い、天誅組を撃退した。
【問題】永禄11年(1568)に兄の信長の命によって織田信包が養子に入ったのは次のうちどの家か?【選択肢】長野家関家大矢知家草薙家【正解】長野家【解説】長野(長野工藤)氏は伊勢国の有力な国人であったが、永禄11年(1568)に北伊勢に触手を伸ばした信長によってその弟・信包が養子として送り込まれ織田家中に組み込まれた。
【問題】第二次国府台合戦で、太田康資は北条・里見のどちらに属して戦ったか?【選択肢】里見方北条方【正解】里見方【解説】太田康資ははじめ北条氏に属していたが、次第に不満を抱いて離脱。その後、北条氏が侵攻してきたため後詰めの里見勢とともに国府台で戦ったが敗北した。
【問題】小田氏治は出家後に次のうち何と号したか?【選択肢】帰斎天庵無海復慶【正解】天庵【解説】小田氏治は常陸の戦国大名で、周辺国人をはじめ佐竹氏・上杉氏などの強敵とも鎬を削ったことで知られる。晩年には出家して「天庵」と号した。
【問題】城郭における実城(みじょう)とは、次のうちどのような意味か?【選択肢】未完成の状態の城郭遠くから見えない隠れ城本丸に相当する部分兵糧の備えが十分な状態【正解】本丸に相当する部分【解説】実城(みじょう)とは、城郭の中で本丸(主郭)に相当する部分のことを指す。春日山城の本丸に居した上杉謙信が「御実城様(おみじょうさま)」と呼ばれたなどの例がある。
【問題】≪難問≫伊予大除城は次のうちどの一族の居城か?【選択肢】重見氏法華津氏越智氏大野氏【正解】大野氏【解説】大野氏は伊予国浮穴郡を本拠とする河野氏に仕えた国人である。河野氏は土佐との国境山間部に大除城(おおよけじょう)を築き、大野氏が三代にわたってこれを守備した。
【問題】葛西晴信は次のうち誰から家督を継承したか?【選択肢】兄曽祖父姉甥【正解】兄【解説】陸奥の戦国大名葛西晴信は晴胤の子として生まれた。晴信には兄親信(義重ともいわれる)がいたが、親信の死を受けて葛西家の家督を相続した。
【問題】豊前国の戦国大名城井正房は、時の将軍足利義稙に次のうち何を披露したといわれるか?【選択肢】鉄砲の連射白刃取り南蛮酒の飲み方弓の射法【正解】弓の射法【解説】城井(宇都宮)家には一子相伝の秘法とされる「艾蓬(よもぎ)の射法」という弓の技法があり、正房はこれを時の将軍足利義稙の御前で披露したという。
【問題】次のうち、浅井長政の幼名として正しいものはどれか?【選択肢】猿夜叉丸鬼千代餓鬼七郎雷神丸【正解】猿夜叉丸【解説】近江の戦国大名浅井久政の子として生まれた長政は幼名を猿夜叉丸と名付けられた。その後、新九郎、備前守、賢政などと名乗った後、長政と改名した。
【問題】福井県福井市にある福井城は、次のうちどの城の跡地に築かれたものか?【選択肢】北ノ庄城疋壇城竜門寺城藤島城【正解】北ノ庄城【解説】結城秀康は越前に入封すると、柴田勝家の築いた北ノ庄城のあった地に新たに城郭を構えた。後に「北ノ庄」の地名は「福井」に改称され、福井城となった。
【問題】真田信之は大坂冬・夏の陣に出陣し、自ら陣頭指揮を執った。○か×か?【選択肢】○×【正解】×【解説】信之は大坂の陣で幕府軍に従い兵を出したが、自身は病で出陣ができず、代わりに長男の信吉と次男の信政が陣代として真田勢を率いている。
【問題】「三州錯乱」「遠州そう劇」とは、それぞれ三河・遠江での内乱を言うが、これは誰の統治下に起こった出来事か?【選択肢】武田勝頼山内一豊今川氏真池田輝政【正解】今川氏真【解説】桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏真の治める三河・遠江では国人衆らの離反が相次いだ。これら一連の今川方・反今川方による内乱をそれぞれ、「三州錯乱」・「遠州そう劇」と言う。(「そう」は「公」の下に「心」)
【問題】白河結城氏の家臣、河東田清重は主家改易後、次のうちどの家に仕えたか?【選択肢】上杉家秋田家里見家伊達家【正解】伊達家【解説】河東田清重は白河結城氏の家臣で対佐竹戦などでの活躍が知られる。主家が小田原征伐後に改易となると伊達政宗に仕えた。
【問題】本證寺とは、次のうちどの一揆の拠点となった寺院か?【選択肢】葛西大崎一揆天草一揆浦戸一揆三河一向一揆【正解】三河一向一揆【解説】本證寺(ほんしょうじ)とは愛知県安城市にある浄土真宗(真宗大谷派)の寺院で、戦国時代には三河一向一揆の拠点となったことでも知られる。
【問題】甲斐武田氏の家臣である馬場信春は、次のうちどの国人衆の出身か?【選択肢】春近衆武川衆九一色衆津金衆【正解】武川衆【解説】信春はもとは武川衆という甲斐国人衆の出身で、教来石(きょうらいし)という姓を名乗っていた。後に、主君である信玄の許しによって名跡の途絶えていた甲斐の名族馬場氏を名乗るようになった。
【問題】≪難問≫佐竹家臣であった小貫頼久は、主君佐竹義宣が秋田へ転封となった際、自らはどのような行動を取ったか?【選択肢】主君に従って秋田へ移った居城で挙兵して鎮圧された主と別れて徳川氏に仕えた秋田行きを拒んで自害した【正解】主君に従って秋田へ移った【解説】小貫頼久は佐竹義重・義宣の2代に渡って仕えた宿老で、慶長7年(1602)に義宣が秋田転封を命じられた際にはこれに従って自らも秋田へと移った。
【問題】南部氏の家臣、柏山明助は和賀忠親の反乱(岩崎一揆)の際、どのような行動を取ったか?【選択肢】一揆に加担し南部氏の諸城を攻めた中立を堅持し乱後は伊達氏に仕えた和賀勢と戦って一揆鎮圧に奔走した和賀忠親の説得に失敗して殺された【正解】和賀勢と戦って一揆鎮圧に奔走した【解説】和賀忠親の反乱(和賀一揆、岩崎一揆)が起こった際、柏山明助は一揆鎮圧に奔走した。乱の後その功績を認められ、南部利直から一揆方の拠点であった岩崎城の城代に任命された。
【問題】木曽義康が武田信玄に臣従した際、義康の子義昌に武田家から輿入れしたのは次のうち誰か?【選択肢】真理姫奈阿姫満天姫麻阿姫【正解】真理姫【解説】木曽義康は初め信玄に対抗したが、後に帰順。武田家から信玄の娘と言われる真理姫(真竜院)が義康の子義昌に輿入れし、木曽氏は武田の御親類衆として遇されるようになった。
【問題】今川義元は桶狭間で毛利良勝(新介)に討ち取られた際、どのような抵抗を見せたといわれるか?【選択肢】毛利良勝の右手をへし折った毛利良勝の耳を斬り落とした毛利良勝の前歯を打ち砕いた毛利良勝の指を食いちぎった【正解】毛利良勝の指を食いちぎった【解説】義元は桶狭間の戦いで本陣を急襲され、最期は信長の馬廻りであった毛利良勝(新介)に討ち取られたが、その際に良勝の指を食いちぎって抵抗したという。
【問題】海野平の戦いの説明として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】上杉謙信・北条氏康らが海野氏を破った戦い今川義元・北条氏綱らが海野氏に敗れた戦い武田信虎・村上義清らが海野氏を破った戦い佐竹義重・上杉憲政らが海野氏に敗れた戦い【正解】武田信虎・村上義清らが海野氏を破った戦い【解説】海野棟綱ら滋野一族は信濃国海野平を領していたが、武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの侵攻を受けて敗北、上野国へ逃れた。その中には後に武田家臣となる真田幸綱も含まれている。