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サントリー美術館で開催中の「幕末土佐の天才絵師絵金」展へ行って来ました。土佐の絵師・金蔵は、幕末から明治初期にかけて数多くの芝居絵屏風や絵馬提灯、五月の節句の幟などを手掛け、「絵金さん」の愛称で、地元高知で長年親しまれてきました。夏祭りの数日間、絵金の屏風を飾る風習は今でも変わらず、真夏の夜の闇の中、高知各所の神社の境内や商店街の軒下に提灯屋蝋燭の灯りで浮かび上がるおどろおどろしい芝居の場面は、見る者に鮮烈な印象を残しています。しかし、約200点現存する芝居絵屏風のほとんどは、神社、
初期の記事は、まだ知らなかったことや、間違っていることが多いので、読むのはお勧めしません。(時間がもったいないですよ)かといって、「モナリザ」「最後の晩餐」とか、興味のあるその作品の記事だけを読まれても、難しいかもしれません。レオナルドの作品は、その1作品を見ただけでは、表面的(一般的によくある通説)なものしかみえない。彼がその作品を描くまでに、どんな作品を描いてきたのか?誰からの影響を受けてきたのか?異時同図法の変化に関すること等を、順にみていくこと
不遇なローマ時代1513年9月に、レオナルドはジュリアーノ・デ・メディチの庇護を求め、彼に従ってローマ教皇庁へ移転。ジュリアーノの兄のジョヴァンニ・デ・メディチは、その頃ローマ教皇レオ10世に選任されていました。彼は前教皇ユリウス2世に続いて、ラファエロ、ミケランジェロら芸術家のパトロンとなり、聖堂や礼拝堂の天井画・壁画を制作させていました。レオナルドもローマでの仕事を得ることを期待していたと思われます。ヴァザーリの記述によれば、ローマで小型の絵を手がけていたそうです。
レオナルドが、ラファエロの署名の間の壁画を見たように、ラファエロもまた、レオナルドがミラノからローマに持ってきていた作品を見せてもらったはずです。素描も膨大にあったと思いますが、レオナルドが大切にしていたのはこの3枚。柱と背景に仕掛けのある女性の肖像この作品は、以前より塗り重ねられているものの、ラファエロがフィレンツェに居た時に見せてもらった、柱のない方のものでした。参考記事『第63回モナリザはヨハネ黙示録第12章の男の子を産む女』肖像画の背景ルネサンス時代
ミラノからローマへレオナルドがフランスで没するまで保持していた3枚の作品は、「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」と「聖アンナと聖母子」でした。描き始めから完成までの年代は諸説ありますが、「洗礼者ヨハネ」と「聖アンナと聖母子」は第二ミラノ時代中に描き始めていたと思います。ミラノからローマへ移転する時には、この3枚はそろっていました。1511年に、ミラノ総督ダンボワーズが死去。ミラノでの恵まれた生活も陰りがみえはじめます。1513年にフランス軍は、ミラノを撤退。フランス王国
「洗礼者ヨハネ」と「12弟子のヨハネ」は名前が同じヨハネですから、まれに勘違いされる方がおられるのですが、彼らは全くの別人です。聖書の福音書によっては洗礼者ヨハネのことをバプテスマのヨハネといいます。洗礼者ヨハネの生涯イエスの母マリアと洗礼者ヨハネの母エリサベツは親戚関係でした。洗礼者ヨハネの方がイエスより先に生まれます。成長した洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒野でらくだの衣を着、野蜜をたべ、教えを宣べます。「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっ
「アンギアリの戦い」を中断しミラノに行った理由レオナルドがフィレンツェ政府の依頼である「アンギアリの戦い」を中断し、ミラノへ移ったのには複数の理由がありました。一つは、「最後の晩餐」もそうでしたが「アンギアリの戦い」も壁画に適したフレスコ画にはしませんでした。時間をかけて塗り重ねられるように油彩の新技法を試したようで、早い段階で絵の具が溶けて混ざり修復が困難になったと伝えられています。二つ目は、1504年7月に父が亡くなってから2年後の1506年4月に、弟たちが父の遺言
自分に向けられた、サンドロの想いは、何なのか?ヨハネの黙示録12章に絡むものを無断で描いたことへの憤りなのか?直接に尋ねたとしても、レオナルドが聞きたい答えは無かったと思います。サンドロは怒っているのか、悲しんでいるのか、自分に対しどう思っているのか、気になっていって、何日も何十日たっても、あの絵が心に残り、そして、レオナルドは気づいた。想い・願いを込めたもの・・・自分はこれまで描いていたか?過去作を振り返る147
最近、フェルメールの記事へのアクセスが増えてきたのですが、別ブログで「フェルメールの小部屋」にまとめていますのでフェルメールは、こちらをお勧めします。フェルメールの小部屋TheArtofPaintingフェルメールの小部屋(みのる)さんのブログです。最近の記事は「レオナルド・ダ・ヴィンチに興味がある方へ(画像あり)」です。ameblo.jp
同一人物を複数描く異時同図法通常の異時同図法とは、1枚の絵に同一人物を何体も描き、その人物の異なる時間を表現するものです。異時同図法の代表的なものとして、いつも自分が例に挙げている作品が、ブランカッチ礼拝堂のマザッチオの「貢ぎの銭」です。この作品では、ペテロの異なる時間が三つ描かれています。①中央は、収税人がイエスに税金を要求し、イエスはペテロに魚を釣って口の中にある銀貨を渡すように指示するところ。②左側は、ペテロが魚の口の中から銀貨をとるところ。③右側は、ペテロが銀貨
資料を読んで答えよ【資料】538(一説では522)年頃、百済の聖明王から日本へ仏教と経典が贈られ、日本の仏教文化が始まります。大化の改新の頃までには、仏教は豪族たちい急速に普及し、飛鳥寺や法隆寺などが建立されました。白鳳時代に入ると、再興した法隆寺金堂には仏教を主題にした初唐風の壁画、朝鮮半島の影響が見られる高松塚古墳の壁画などが出現します。これら遺物や遺構から、当時の思潮や制作技法がわかります。Q.185下図の須弥座に描かれた絵はなんと呼ばれる?①施身聞偈図(せしんもんげ
彼とは違う方法で、彼を超えるものが描きたいダヴィンチは、フィリッポ・リッピの「聖ステファノの生涯」の異時同図をヒントに、幼子イエスを異時同図にさせました。詳しくは第21回の過去記事で↓『第21回「マギの礼拝」フィリッポ・リッピの「聖ステファノ」からの着想部分』「キリストの洗礼」は、三羽の鳥にイエスを象徴させることで、イエスの生涯の異時同図にさせて、①キリストの洗礼→②エルサレム入城→③十字架→②復活「受胎告…ameblo.jp①イエスが生まれた場面
ヴェロッキオの「キリストの洗礼」に描かれたナツメヤシ!ナツメヤシは、旧約聖書のエデンの園の「生命の樹」のモデルとされているそうです。「生命の樹」のモデルと伝えられている通り、フラ・アンジェリコの受胎告知の1枚に、エデンの園を追放されるアダムとエバの背後にナツメヤシが描かれていました。またナツメヤシの学名はPhoenix(フェニックス/不死鳥)がつきます。フェニックスといえば、ハリーポッターでも登場していましたね。ウィキ○○ィアからの情報ですが、フェニックスは死期を迎
先回は異時同図法について説明しました。通常、異時同図法かどうかは、その絵の中に同一人物が複数描かれているかどうかで判ります。こちらは、左の天使部分をダヴィンチが描いたというヴェロッキオの『キリストの洗礼』です。この『キリストの洗礼』はどちらだと思いますか?中央はイエス。右側の十字の杖を持つ者は洗礼者ヨハネ。左側に天使が二人。4人とも、別人です。よって、これは異時同図法ではない。と普通はこうなるはずです。自分も最近まで、この作品は「キリストの
こんにちは!ひのははです。相棒のまりをさんは、昨日の夜に地上の楽園・ハワイから帰国しました。私は南の島へ行ったことがないので、今度会ったら土産話を聞いてみようと思っているところです。さて、楽園といえば旧約聖書『創世記』に記されたアダムとイブの楽園追放をすぐに思い出しますね。蛇にそそのかされてイブが禁断の果実(大抵りんごが描かれているけれど、聖書では果物の種類を特定していない)を食べ、通りかかったアダムにもおすそわけします。ドイツナンバーワンの画家デューラーはこの様子を《アダムとイブ
前回のエントリに続き、法隆寺の大宝蔵院の紹介です。法隆寺には、「大宝蔵院」と「大宝蔵殿」という似た名前の施設があります。「大宝蔵院」は通年有名どころの国宝が見れる施設。対して「大宝蔵殿」は春と秋の「秘宝展」で寺宝を公開する施設です。今回は、いつでも国宝がたっぷり見られる「大宝蔵院」をご紹介します。こちらが、大宝蔵院です。常時拝観可能で、百済観音を中心に国宝がラインナップされています。http://www.horyuji.or.jp/garan/daihozoin/内部はロの字型の回