ブログ記事25件
戦国時代の始まるきっかけになったとも言われる「応仁の乱」については、以前、この本が、話題になり、ベストセラーになったようですね。応仁の乱戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon(アマゾン)なぜ、この本が話題になり、ベストセラーになったのか、理由はよく分かりませんが、この本が話題になったことにより、他にも、いくつも「応仁の乱」に関する本が出版され、当時、本屋に並んでいました。僕も、この本を含め、いくつか読んでみたのですが、やはり、あまりにも複雑すぎて、概要ですら、よく分
乱都(文春文庫)Amazon(アマゾン)367〜2,475円「京は、人を滅びへと誘う魔性の地だ。京を制したいという欲求に、人は勝てん」権力に魅入られ、己の有利のために争い、騙し、裏切る。敵になったり味方になったり、まつりごとよりも権力の座をいかに掴むか。その結果生じる京の町や人々の苦難を顧みない。応仁の乱前後から信長、ちょっとだけ秀吉までの京の権力者の栄枯盛衰を描いています。畠山義就(はたけやまよしひろ):幕府から離れ河内に己の国を築きたいと望む細川政元(ほそかわまさもと)
1475年2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命されました。これも東軍の謀略が功を奏しました。西幕府の管領で甲斐敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶ちました。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫しました。翌年1476年9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、足利義政も足利義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速しました。足利義政にと
1471年5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、足利義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返りました。本来、越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となりました、まさに下剋上です。これは東軍の裏工作が功を奏しました。東軍は西軍の主だった武将に官職を与え、領土の安堵を保障するということを行い、東軍に寝返るように工作をしていたのです。この工作はいろいろな所でも功を奏しています。西軍の主力の移籍により、東
1466年12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取っりました。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになります。足利義政が調停すればよいことだったのですが、この将軍にそんな気はなく、片一方に肩入れするという露骨なヒイキをしたために、余計に話がややこしくなります。1467年2月6日、将軍足利義政は正月
名古屋のシンゾウです本日は「昭和の日」です。どうもシックリとは....「天皇誕生日」が頭から離れません。本日は、一日中、雨だそうです。購入したばかりのテレビをゆっくり観ることにします。昨日、「TSUTAYATV」と「Hulu」に加入しました。好きな番組が無限にあります。これで死ぬまで退屈することはなさそうです。―――――――――――――本日の問題(115)《漢字書取り》【06171】じゅうようむけいみんぞくぶんかざい【06172】からすでら【06173】いりし【
エンジェルズゲートと『エール』の結婚式のこといつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様に良い事がたくさんありますように!本日はホロスコープやいわゆる精神世界で言われるところの4つの門の1つである「エンジェルズゲート」の日でもあります。過去に書いたブログ(2020年11月7日の記事4つの門(ゲート)について明日はイーグルズゲート)を引用しますと、4つの門とは、固定宮の星座の中心にあるとされる門の事です。それぞれ15度の角度をとります。
名古屋のシンゾウですやはり、勉強のスタートは「公式テキスト」です。細かいところまで慎重に読み直すと、全く知らない(覚えていない)箇所が多くあります。例えば、騎女、これ「むなのりおんな」と読むんですが、第16回1級試験に出題されました。「こんな答えられない問題を出題しやーがって」と怒った覚えがありますが、しかし、これはテキストにしっかり記述されていました。飛ばし読みをしていたんですね。今回はその反省を活し、細部に渡ってしっかりと再再再読をしています。基本に戻ります。でも!!脳細胞が思うよう動
起きたのは7時ちょっち前。鼻詰まりやし、くしゃみ連発した。例年なら終わっとる花粉症の症状がなぜかまだ出とる。ウェザー・リポートのアルバム「ヘビー・ウェザー」をレコードで聴いた。朝食は山形産つや姫でご飯炊き、おかめ納豆と紀州産梅干で二膳。デザートは青森産りんご。久しく自粛続けとったら、外に出るのが億劫になってもうたと思いつつ出掛け、浅草散歩した。観光客数は幾らか戻ったな。昼食は久し振りに雷門「ラマニビーンズ」で。思いの外空いとったわ。パスタにチキンと野菜トマトソースを選び、セットにし
応仁の乱・西軍畠山義就斯波義廉山名持豊足利義尚(開戦時1467年)→足利義視(1468年~)西軍に就くなら、清廉で、山持ち豊かで、なお、ムヤみに視力がよくないとダメですわ~就=畠山義就廉=斯波義廉山持ち豊=山名持豊なお=足利義尚ムヤ=1468年視=足利義視前世がフランスの高貴な家のお嬢様だった蚊のフランソワーズさん、虫に生まれ変わってしまった苦悩です。
前回まではこちら⬇️目次我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文明17年(1485年)12月、ついに山城国の国人衆が立ち上がった。そして南山城に陣取っていた畠山政長(はたけやままさなが)軍と畠山義就(はたけやまよしなり)軍に要求を突き付けたのだ。・自今以後、両畠山方は国中に入るべからず・本所領供、各元に如くたるべし・新関、一切立つべからず「両畠山は南山城から出て今後入るな!」「領地の支配権は寺社や荘園領主に認めよ!」「新たな関所を一切立てるな!」って
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。河内国で争っていた畠山政長(はたけやままさなが)と畠山義就(はたけやまよしなり)は犬田城の戦いで義就が勝利し河内国はほぼ義就方が制圧したのだ。畠山義就しかし、諦めぬ政長は、政長「まだまだ、戦はこれからだ!義就の代官を我が方に寝返らせてやる!」政長は言葉通り義就方で南山城を守る斎藤彦次郎(さいとうひこじろう)を自軍に寝返らせたのだ。両軍は山城国の南山城(みなみやましろ)に舞台を移
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。細川政元(ほそかわまさもと)が我が母、日野富子(ひのとみこ)に呼ばれ小川御所に来たのは我が髷を切った後だった。政元「御台様、お呼びにごさいますか?」富子「政元殿…義尚のことは聞きましたか?」政元「…はい。徳大寺公有(とくだいじきんあり)の娘に執着し、果ては髷を切ったと…」義尚さん、徳大寺公有さんの娘が自らの父・義政(よしまさ)さんの側室なのを知っても執着したんだよね富子「まった
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)です。「和睦⁈」畠山義就(はたけやまよしなり)は自らの耳を疑った。義就さんは政元さんと会って話をしてるんだよ細川政元(ほそかわまさもと)はニヤリと笑みを浮かべ、政元「左様、義就殿と争う気はありませぬ。」義就「…何が望みか?」政元「さすが、お分かりが早い。摂津国はわしが守護を務める我が領地。義就殿が占領した摂津の領地はお返し頂きたい。」義就「ほぉ、摂津欠郡のことですな…」摂津欠郡っ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文明14年(1482年)6月、摂津国の国人一揆及び河内国の畠山義就(はたけやまよしなり)追討のため、幕府の命を受けた細川政元(ほそかわまさもと)と畠山政長(はたけやままさなが)の軍が出陣した。政長さんが追討したいって幕府に願い出たんだよね追討軍は摂津に入った。政元は摂津国の守護代、薬師寺元長(やくしじもとなが)にきつく厳命した。政元「極力、民には手を出すな。」元長「民の中にも歯
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「今度こそ、義就(よしなり)を討つ!」文明14年(1482年)、管領・畠山政長(はたけやままさなが)は我の前でいきり立っていた。義尚「政長、何をいきり立っておる?」政長「御所様、畠山義就(はたけやまよしなり)は河内国の守護であるそれがしを差し置いて、勝手に河内を牛耳り、さらには摂津国まで侵しております。もはや、このまま見過ごすわけには参りませぬ!幕府の威信にかけても、義就を討たねば
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文明10年(1478年)7月、旅に出た細川政元(ほそかわまさもと)は家臣の上原賢家(うえはらかたいえ)と紗奈(さな)を連れ、四国へ向かった。ちなみに政元さん、この時、12歳なんだ。四国へは河内国から和泉国を通り四国へ渡る予定であるが、河内国で見たのは荒れ果てた田畑だった。政元「これは…」紗奈「河内国は畠山政長(はたけやままさなが)殿と畠山義就(はたけやまよしなり)殿が争っておりま
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文明9年(1477年)9月、西軍の主戦派である畠山義就(はたけやまよしなり)は東軍である河内国の畠山政長(はたけやままさなが)軍を追討すべく、下向していった。畠山義就じゃ、河内国はわしのもんじゃ!政長など追い出してくれるわ!この2人の争いも応仁の乱の発端なんだよね細川政元(ほそかわまさもと)は不思議に思った。政元『軍を動かすには金がかかる。よく義就にそんな金があったものだ…』乱
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズを書いていきたいと思います。細川政元のクーデターによって、室町幕府第10代将軍・義材が幽閉さらに越中国へ逃亡。そして、相続争いの当事者だった畠山政長の自刃により畠山家の争いは終結したかに見えた。だが、まだ争いの火種は残っていたのである。時代は畠山政長が自刃してより四年後の明応6年に新たな戦いが起きるので
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズです。応仁の乱のその後の続きを書いていきます。長い対陣の末、南山城の国衆の国一揆によって畠山両陣営は京都と河内へ、それぞれ引き上げた。その後、畠山義就が死去してしまいます。畠山義就の後を畠山義豊が跡を継ぎます。そして新たな戦いが始まるのです。【高屋城の戦い】・畠山義豊が義就の跡を継ぎ畠山政長は畠
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。さあ、お待たせしました。昨日の続きです。河内国、山城国の南を制圧した畠山義就。まだまだ、義就の攻撃の勢いが止まりません。次なる動きは・・・【十七箇所の戦い】文明15年8月22日、畠山義就は畠山政長を追い詰めるべく更なる攻勢に出るのである。実質的な支配となった河内国を更に固めるべく河内十七箇所を攻めたのである。十七箇所とは、幕府の御料所だったとこ
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。昨日、戦国時代の始まりについて、明応の政変を紹介いたしました。そこで、この政変が起きるまでの出来事を戦で見ながら書いていきたいと思います。「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズでお送りいたします。応仁元年からおよそ11年続いた応仁の乱。京都を焼け野原にし室町幕府の力も落ち歴史上もっとも無意味な争いが終結を見せた頃、応仁の乱のキッカケともなった畠山
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。「応仁の乱」の続きです。戦局は西軍有利に進む中、細川勝元は、それまで西軍の斯波義廉が就いていた幕府管領職を剥奪し自分が管領職に就く。そうすることにより政治的に有利にたったのである。さらに細川勝元は、西軍の本陣を背後から襲うべく嵯峨や仁和寺に軍を向けます。西軍は迎え撃つべく
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズです。応仁の乱の続きを書いていきたいと思います。前回、畠山家の跡継ぎ問題から上御霊社の戦いが起き応仁の乱のキッカケとなるところまで書きましたが、本日は一色義直(いっしきよしなお)邸の戦いに舞台が移ります。上御霊社の戦いの後、不穏な情勢は続き細川勝元と山名宗全の対立が激化していくなか、様々な事
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日から謀反・反逆・裏切るから見る戦国史シリーズをお送りします。前回、「長尾景春の乱」を書きましたが、今回は、そもそも戦国時代を作ってしまった「応仁の乱」について書いてみたいと思います。この「応仁の乱」については、なかなかに複雑なので、私なりの私見を踏まえ、戦を通しながら「応仁の乱」を見ていきたいと思いますので、良かったら、お付き合いの程を。「応
宗全が将軍を罵っていると吹聴していたのは、細川一族でした。いったん勝元が将軍義政を宥めて宗全の追討を中止させましたが、その後、赤松家の再興が認められると、もはや勝元も反対しませんでした。宗全との関係より、細川一族の利益と一族の結束を優先したのです。ここに両者の間で越えられない溝が生じます。さらに継嗣に恵まれなかった勝元に宗全は子を養子に入れていたのですが、文正元年(1466)、勝元に嫡男の政元が生まれると、勝元は、家督争いを避けるために宗全の子を出家させます。こ
今回はお城ネタに戻ります。2009年12月登城、大阪シリーズが続きます。写真少ないのでまとめて2つご紹介。◯三箇城大阪府大東市三箇に所在。石碑と案内板しか写真がありません。つまり、城の遺構は何もない、という事になります・・・しかしながら、文献には登場していますし、所在不明系のお城ではありません。こちら案内板。日本城郭大系にも記事ないんですが。その他欄128番にはありまして、「飯盛山城の西方、河内平野の正面に対する支城。のち白井氏の城となる。白井氏はキリシタンで
産婆フジヤン産婆(さんばば)フジヤン~明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記~Amazon大正13年に和歌山県にうまれ、72年間助産師をしている坂本フジエさんの一代記<食べ物も医療も十分じゃなかった時代に赤ちゃんが生き延びるのは大変だった>というけれど、人の営みは自然の一部だったと感じます小学校を卒業した後に縁があって大阪の歯医者さんの受付で働くようになり歯医者さんの奥さんお勧めで看護師学校に行くようになり、それから助産師、保健師の学校を出て免許を取りますたく
歴史秘話ヒストリアそうだったのか!応仁の乱わかりやすかったですね〜。応仁の乱にかかわるたくさんの人物の中から、畠山義就にスポットライトを当て、彼の立場で時系列を追うと、こんなにわかりやすくなるのね…と目からウロコの感じ。足利義視が一度も出てこなかったけれども、幼い義尚に安定した幕府を残すために、母である日野富子が自分の武器としてお金を使うというわかりやすい説明。最後に残った大内政弘にも彼の欲しがる瀬戸内の利権と幕府の地位を与え引き揚げさせる手腕。応仁の乱勃発から550年の今年、色々と
鎌倉にある湖とその歴史消えた玄さん石碑が残る鎌倉市の旅vol.17「健康食」ことはじめアメリカで迎え...タウンニュース鎌倉のとっておき〈第31回〉鎌倉にある湖とその歴史.自然豊かな散在ガ池.鎌倉には豊かな自然が数多く残っている。しかし湖がある事はあまり知られていない。鶴岡八幡宮北方の山より北にある今泉。ここに「散在ガ池(別名鎌倉湖)」と呼ばれる人工の湖がある。面積9495平方メートル、湖岸線延長772m、最大水深7・6m、...<笛方芸談・銀河のかなたに>藤田六