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東北のあの雨の量ってなんでしょう??!さらに台風まで北上してきて……東北の皆さん、頑張ってください!畠山尚順生年月日1476年1月25日(木)日干支甲辰同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・阿部正喬1672年5月25日・黒田長礼1889年11月24日
足利義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、足利義材を廃する蜂起(明応の政変)を起こしました。細川政元の蜂起の最大の原因は、足利義材が将軍就任時は政務は当時管領だった細川政元に任せると言いながら、成長すると自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとみられています。京都では足利義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。明応7年(1498年)9月、足利義尹(あしかがよしただ)は越前国の朝倉貞景(あさくらさだかげ)の一乗谷に入った。足利義材(あしかがよしき)さんから義尹さんに名を変えたんだね一乗谷・朝倉館跡貞景「義尹様、遠路お疲れ様です。」義尹「なんの、これしき。京を奪回するまでは疲れなどと言うてる場合ではない。」貞景「ここから京奪回の号令をいたしますか?」義尹「うむ、紀伊の畠山尚順(はたけや
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りしていきたいと思います。前回の続きです。加賀を制した本願寺は越前に侵攻するが朝倉宋滴によって防がれる。それどころか越前の本願寺派は一掃される。加賀へ追われた本願寺派たちは、今度は越中に目を向け侵攻。そして、新たな裏切りと戦いが起こるのである。【般若野の戦い】本願寺が目を向けた越中は、守
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズを書いていきたいと思います。細川政元のクーデターによって、室町幕府第10代将軍・義材が幽閉さらに越中国へ逃亡。そして、相続争いの当事者だった畠山政長の自刃により畠山家の争いは終結したかに見えた。だが、まだ争いの火種は残っていたのである。時代は畠山政長が自刃してより四年後の明応6年に新たな戦いが起きるので