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土居城(松江市上大野町)ここ西光寺の裏山には中世の領主大野氏の居城跡があり、さらに東方にそびえる本宮山(出雲国風土記記載の女心高野)山頂には本城であった本宮山城跡があります。大野氏は平安時代末期に大野庄の荘官として赴任し、さらに鎌倉時代に移り、大野氏は尼子氏から毛利氏の配下となるなか、本宮山に山城を築き大野庄を守り続けましたが、毛利氏内の抗争に敗れ、大野庄拝領から四百年十八代をもって滅亡したとされています。(※現地説明看板より)居館跡だったとされる南麓の西光寺その裏手の説明看板南西畝
西田井地城(玉野市西田井地・山田)本城跡は、『備前記』・『備陽記』・『吉備温故秘録』記載の児島郡山田村に所在する三宅源左エ門(源左衛門尉信虎)や同掃部らが居城した「古城山」に比定される。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)水守神社南東尾根の竪堀群竪堀群竪堀群竪堀群出丸状の東六郭東五郭鞍部の東四郭北の竪堀群竪堀群竪堀群東二郭主郭北東三郭北東三郭の西土塁北西三郭帯曲輪状の北西四郭帯曲輪状の北西二郭南西三重竪堀(西)南西三重竪堀(中)南西三
朝宮城山城(甲賀市信楽町下朝宮)城主?築城主?別名赤松城遺構堀切竪堀畝状竪堀群虎口土塁↓の碑は廃業お茶屋さんの奥とありましたが現在は「信楽炭火鶏焼き鶏囲」となり営業されています一声かけて許可を頂こうと思い足を踏み入れると反対に声をかけられて快く許可が頂けましたありがとうございました↑の碑から↓の右手へ・・・NHKの無線中継施設の管理道があったこれを上がると↓↑の北側堀切ちと薮深め( ̄▽ ̄
篠脇城に行ってきました😊岐阜県郡上市にあります👏👏👏先日、郡上市のお城を二日に分けて攻城しました🔥🔥🔥その中で、二日目に行った篠脇城が素晴らしいお城でした😌ここは郡上エリアを治めていた東氏(とうし)のお城で、お城のある山の麓には館跡の遺構もありました🙌篠脇城は畝状竪堀群が有名なのは、知っていましたが、まさかこれほどとは…ではさっそくスタートします▶️古今伝授の里フィールドミュージアムさんの駐車場に停めましたお城は、駐車場の南側にある橋を渡った奥の山です上から見るとめっちゃ清流橋を渡
白石山城(大飯郡高浜町和田)城主粟屋氏遺構等堀切、竪堀、土塁、石垣、畝状竪堀群(薄)、枡形虎口連郭式山城南北約200m目標地点馬居寺馬居寺先の林道をゲートに車を停めて登城準備をしていると地元の方がゲートを開けているのでお話を伺うと終点まで進入OK終点に駐車スペースもある旨を教えていただく帰路に必ずゲートを閉める注意も↓G地点が林道終点城郭放浪記さまの縄張り図をお借りしています↓堀切7↓堀切6↓堀切4↑↓畝状竪堀群
勝山城(加賀郡吉備中央町下土井・富永)勝山城は「加茂崩れ」で敗走した毛利勢が福山城に代わる拠点とした城で、築城は天正8(1580)年5月3日とされる。毛利譜代の桂源右衛門尉元盛、赤川次郎左衛門大元之、岡宗左衛生門大元良が在番し、在地の竹井直定も加わった。天正9(1581)年4月に伊賀久隆は死去するが、これ以降嫡子家久は毛利方に与するようになり、小早川隆景は勝山普請を家久に依頼している。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)畝状竪堀群、北西から南へ三十三条畝状竪堀群上の西帯曲
トップページ都道府県別索引へ長い林道歩きの末に城柵と冠木門で出迎えてくれたと思ったら、🌿🌿深めで急な階段道…そんな末にやっと尾根に出て、少しのところでようやく出会った虎口🙌麓の説明板では堀切8とあって、虎口ではないようだ。で、この中に入ると…目を疑う光景🤯西側のトバ口に畝状竪堀群があるのは下調べで見ていたが、こんなにキレイに見えるとは思っていなかった。下の方へ向かって収束しているような様子も見える✨樹林で下草が育ちにくいのもあるのだろうけど、これはきっと手を入れて下さってい
トップページ都道府県別索引へ波多野城は九頭竜川が永平寺口から福井平野に出ようかという南側の山塊の先端近くにある。麓からの距離が山城としては遠めだが残る遺構は一級品、とくに畝状竪堀群が綺麗に見える。近年は地元による整備が進み、遺構や雰囲気を楽しめるようになっている。承久の乱で功を挙げた相模国の御家人波多野義重がこの地にやってきて築いた城で、えちぜん鉄道下志比駅の南にあったという居館の詰城といわれる。波多野氏は戦国時代までこの地に勢力を張って末期には越前朝倉家の下に入るも滅亡後も生き延び
春日城(松江市東出雲町春日)春日城に関する史料としては、応仁二年(1468)七月二十八日に、「岩坂外波両所」(松江市八雲町)において戦いがあり、その同日春日城にて下河原宗左衛門尉らが立て籠り、尼子清貞の家臣神保与三左衛門尉、西木彦左衛門尉が討死している記録がある「京極生観感状」(『尼子史料』十八)。翌文明元年(1469)七月二十九日に野田原、さらに八月四日の中城進山での戦いで、久野次郎左衛門尉、下河原宗左衛門尉を始めとした伯耆・出雲の敵数十人を尼子清貞方が討ち取っている「京極持清感状」(『尼子
大仙山城(赤磐市周匝・草生)『備前記』・『吉備温故秘録』などの近世地誌類では、城主として星賀(保鹿)藤内にあてている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)道標現地説明看板南多重堀切が六条!そして多重堀切からの竪堀が東向きと西向き合わせて十条!堀切に架かる土橋南四郭を分断する土橋南四郭南四郭の東土塁南四郭からの南西竪堀南横堀南四郭からの西竪堀南西横堀南西横堀からの南西竪堀南西横堀からの第三郭西帯曲輪西畝状竪堀群が十七条第三郭(曲輪Ⅲ)北部第三郭
トップページ都道府県別索引へ本宮楯は酒田の町から東へ15kmほど入った相沢川左岸に降りてきた尾根の末端にある。麓には本宮の集落があって、裏山から見守るような位置どりになる。大きな主郭と二つの虎口まわりが中心で、周囲の斜面に刻まれた畝状竪堀群と北への尾根続きを切る堀切が特徴、というところか。歴史などはまったく不明とのこと。この日は横山城、山楯城そして田沢楯と回って、ここに来た時には日も傾き始めていたが、日の長さを利して突入💨→現在位置(Googleマップで)麓の『本宮公会堂』から
トップページ都道府県別索引へ新潟県の索引へ西からアプローチして最初の曲輪を越え、ここも曲輪かという鞍部を通過すると、向こうに主郭の盛り上がりが見えてくる。いよいよ登りにかかる💨右側下の方に、門構えのようにも見える大きな岩😮主郭までは、2段ほど段郭が見える。1段目には、平べったい岩が横たわる。その上は、六畳一間ぐらいのノッペリとした平場。否。もう一段ある😅ここも六畳一間ぐらいの空間で、道以外のところにはミツバツツジやタブノキなどが生えている。南北
沢津城(笠岡市真鍋島小字峰)阿弥陀山及びそこから西へ延びる尾根上に城が所在したと伝わる。頂上の祠や、尾根筋の畑地造成等によって改変を受ける。なお、「城田」という城館関連地名が伝わる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)東畝状竪堀群(最北)東畝状竪堀群(北)東畝状竪堀群(中)東畝状竪堀群(南)東畝状竪堀群(最南)主郭上段主郭下段北西二郭沢津城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図笠岡市の城
高屋城寄せ城(井原市高屋町石谷)別名:吉谷城『井原市史』はこの土塁について、単なるシシ垣のような防獣柵ではなく、一時的な陣の遺構とし、高屋城に対する寄城の可能性を指摘する。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北西畝状竪堀群(最西)北西畝状竪堀群(西)北西畝状竪堀群(中)北西畝状竪堀群(東)北西畝状竪堀群(最東)北東主郭北二郭北二郭の東竪堀北堀切北三郭西帯曲輪南西主郭の北横堀南西主郭の西土塁南西主郭高屋城寄せ城遠望軌跡ログ井原市の城
保木城砦(岡山市東区瀬戸町万富)保木城跡の南西側丘陵頂部に位置。頂部はなだらかな地形で山道が通る。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)主郭北西に畝状竪堀群が六条保木城砦遠望軌跡ログ旧赤磐郡瀬戸町の城
皆様、こんにチーズケーキ☁️☁️☁️☁️☁️本日は早稲田と千束遠回りになるけど!都営1日パス使います。(600円はお得🉐)😉😉😉😉さてさて5月の代行情報がアップされたんで!!コチラでも発表しマスク5月1日木曜日10時45分〜11時20分シンプリーエアロ⭐⭐小牧由梨恵➡️金澤一晃K津田沼になります。(少し時間、空けてオリジナル・ケアあります。)(通常レッスンは13時00分〜)5月2日金曜日10時30分〜11時15分健康体操➡️骨盤調整⭐有馬裕子➡
岩山城(倉敷市児島上の町)『備陽記』は「上村之内村北二岩山古城跡アリ城主不知」と伝える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東二重堀切(東)南東三郭東下段南東三郭西上段南東二重堀切(西)南東二郭土塁のある南東二郭東腰曲輪主郭西二重堀切(東)北西畝状竪堀群が六条西二重堀切(西)北二郭北堀切北堀切外の土塁状の北三郭東三重竪堀東三重竪堀の上の主郭東帯曲輪岩山城遠望軌跡ログ倉敷市の城
鉄人と行く豊田シリーズもいよいよ大詰め今回は一色城のご紹介です😊場所は、愛知県豊田市一色町にあります👏👏👏ここは旧小原村地区でも一番北の方にあたり、岐阜県との県境も近い山の中にあります。いわゆる境目のお城になるかと思います👌有名な明知城とか、結構近いです🙌場所は辺鄙なところ(失礼🙇♂️)ですが、城域の横を林道が走っており、路肩に停めれば歩いて数分で城域に達します。比高もほぼなく、見やすいお城でした🔥🔥登城口に向かう鉄人と巨匠(途中参加)登城口はここです😊案内表示などは何もありませんの
片島城(倉敷市片島町)『中国兵乱記』では永正6(1509)年に将軍足利義稙の命を受けて、二階堂大蔵少輔政行が入城したとする。さらに元亀2(1571)年にも毛利氏旗下にあった細川下野守(道薫)が、尼子氏の備中国進入に際して片島へ進軍し、要害を背後に防戦に努めたが敗北を喫した。その後、敗残兵は窪屋郡の幸山城に籠ったとする。この要害は片島城のことを指すか。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)西二郭主郭西下段主郭東上段帯曲輪状の南東二郭南部南東二郭北部北の畝状竪堀群が六条
上月城を後にして仁位山城に向かいます。佐用川を渡り仁位の集落に向かいます佐用川より上月城跡仁位公民館より舗装路を登る。現在工事中だが上まで登れます。頂上付近、右側に畝状竪堀群天正5年(1577).羽柴秀吉が赤松政範が籠る上月城を攻めた際に付城として築いたとされ、『赤松家播備作城記』では天正5年(1577年)の上月合戦で安藤信濃守が拠ったと記載があるが詳しい事は不明。縄張り図南東部を中心に竪堀だらけですねしかし多数存在する畝状竪堀群から毛利軍が、天正6年(1578年)に尼子勝久が籠も
加那女岐城(真庭市惣・草加部・日名)別名:金砕山城『作陽誌』は「加那女岐山」とし、真島郡惣村の西境にあり、かつて神林寺(真庭市神)の僧徒が篠向城の城主との戦いに陣したと記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)北西八郭南帯曲輪下段北西八郭南帯曲輪上段自然地形の北西八郭北西畝状竪堀群(最西)北西畝状竪堀群(西2)北西畝状竪堀群(西3)北西畝状竪堀群(中)北西畝状竪堀群(東3)北西畝状竪堀群(東2)北西畝状竪堀群(最東)北西七郭北西七郭と北西六郭間の南竪
2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
麓からよく見える特徴的な城山恒屋に着いたのが15時半くらいだったので城山にも急いで登る事にしました。民家の間の細い道を入ると登山口です。狭いながら駐車場もあります。昔はもっと狭かったけど整備されていました。この辺りに城主の居館があったらしい室町時代頃に国人領主だった恒屋光氏により築城されたと言われますが詳細は不明。恒屋氏は播磨守護の赤松氏の被官。嘉吉の乱(1441)〜長禄の変(1451)頃の築城との説あり。嘉吉の乱の際に赤松満祐に呼応して書写坂本城(書写山の麓にあった赤松氏の城)に参上したと
大坪城の後に大坪古城へお邪魔したのですがこの日のメインは「大坪城」なので締めに紹介しています先ずは赤色立体図↓この付近には畝状竪堀群らしき遺構が市場城・小渡城とこの大坪城で見られました↓市場城の畝竪群↓小渡城の畝竪群では大坪城を・・・締めのミソで時間の残りが・・・少なかったもう少しゆっくり見たかった↓真っすぐが曲輪への虎口のようですが・・・↑左の犬走風の通路へ
今回のお城巡りの旅は、1泊2日での東美濃にあるお城訪問です。【1城目続続100名城No.78明知城】明知城は岐阜県恵那市明知にある標高530mの山に築かれた山城で別名白鷹城とも呼ばれています。明知遠山氏代々の居城でした。この地は、信州飯田と名古屋を結ぶ中馬街道や中山道大井宿と東海道岡崎宿を結ぶ南北街道が交わる交通の要衝であったため、織田軍と武田軍の攻防の舞台となりました。元亀3年(1572年)織田信長公は、武田信玄公に従属する遠山家の家督相続に介入し、一族を織田方に寝返らせることに成功、
トップページ都道府県別索引へ出城か?というような小さなピークから少し下った尾根を西に向かって快適に歩いてきて、頂上まで150mの案内を越えてひと登りしたところ。なんか、道が急に下って、向こう側で登ってるんですけど…😮で…でか堀切っ🤯そこに説明板立てたか😂下調べで、西側の堀切が大きいことは聞いていたが、これはデカい。深さ5メートル、幅10メートルは優にあるだろう。そして、この南側に落ちる竪堀断面の曲線🤗薬研崩れで丸くなったか?これには魅了された。尾根をスッ
猿掛城(小田郡矢掛町横谷・平林)『太平記』にその名が登場しているが、戦国期に代々備中守護代であった庄氏の本城として使われる。1492(永徳4)年と1494(明応3)年、元資の時、備中守護である細川勝久と対立し、一時失脚するも再び細川管領家の力を背景に返り咲く。「寺丸」には、この時庄氏方として戦い死去した香西氏の供養位牌堂があったとされる。庄氏は為資の頃尼子氏に与していたため、天文21(1552)年に毛利氏の力を借りた備中有力国人の三村氏に攻撃される。一度は退けたものの、永禄2(1559)年再度
飯野山城(佐用郡佐用町久崎・円光寺字平谷)別名:飯の山城この城の築城は古く、嘉応年間(1169~1171)、吉屋八郎宗達が初めてここに城を構えた。寿永三年(1184)源平合戦に破れた城主宗達は作州へ逃げる途中で討死した。その後建長年間(1249~1256)、得平三郎頼景の孫間島彦太郎景能がこの城跡に新たに築城して城主となった。景能の長男は間島家を継いだが、三男光能は地名の太田を名乗って太田次郎光能と称して二代目飯野山城主となった。以後代々太田と間島を名乗る城主が交代しつつ二百余年続いた。嘉吉
仁位山城(佐用郡佐用町西庄字仁位)別名:仁位の陣山この城は天正五年(1577)、羽柴秀吉が上月城を攻略するに当たり、この陣山に付城をつくり安藤信濃守が800騎を率いてここに陣を張ったと云われている。北峰の遺構は付城に相応しい簡単な縄張りであるが、南峰の縄張りはかなり複雑で、多くの郭跡や畝堀があり、秀吉の本拠高倉山に比べて規模は小さいが、その多様性は目を見張るばかりである。秀吉が付城とする以前に既に創築されていた可能性が強いが、これに関する伝承・記録は何も残っていない。(※兵庫県中世城館・荘
徳久城(佐用郡佐用町東徳久)別名:柏原城築城者は柏原弥三郎為永である。為永は宇野氏の出であるが、父頼宗が宍粟郡柏原城主であった事から柏原姓を名乗った。その子永利の時、嘉吉の変(1441)が起こり、山名氏に攻められて亡んだと云われている。その後赤松氏の再興に伴い、この城は間島景綱が居城したが、天正五年(1577)羽柴秀吉の播磨進攻によって落城した。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)西二重堀切(西)西二重堀切(東)帯曲輪状の西九郭西九郭北腰曲輪西八郭西八郭北東腰曲輪帯曲輪状の西七