ブログ記事89件
新年明けましておめでとうございます昨年スタートしました当ブログをご訪問下さり誠にありがとうございます2020年も一本一本、武田信玄公、甲斐武田氏の関連を中心に楽しみながら、発信していきます新しい年2020年が、皆さまにとりましてステキな一年となりますように祈っております本年もどうぞよろしくお願い申し上げます武田とみ高坂美慧
こんばんは。ブログ管理人高坂美慧です。本日は、武田信虎公菩提寺萬年山大泉寺について武田とみさんとお話しします。美慧:とみさん、こうふ開府500周年記念の12月20日もいよいよ目前になりましたね!とみ:そうね。あっという間だわね。美慧:そうですね〜。早い!先日、信虎公の菩提寺に参拝してきました。12月は、信虎公の記事が多めですが、やはりこうふ開府500周年の立役者として信虎公PR月間というのもいいかな?と。
こんばんは。年末もあと3週間をきりました。年末年始、ご馳走シーズン到来となりますが、本日は、「甲陽軍鑑」より”食べ物をもらったならば…”の話を武田とみさんとしていきます。美慧:とみさん、先日はほうとう、ごちそうさまでした!大好きな南瓜や里芋がゴロッと入っていてとても美味しかったですとみ:いえいえ、あんなものでいいのならいつでも食べに来てね。美慧ちゃん、特に南瓜が好きなのね〜。美慧:はい。山梨に来てからいつの間にか好きになってましたね
こんにちは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、以前、お話が出ました一条小山にかつてありました一蓮寺について武田とみさんとお話します。美慧:とみさん、一条小山のお話は、始まったばかりのブログの中でも、よくご覧いただいている記事になりました。とみ:たくさんご覧いただいてありがたいわね。それにしても…そう?この記事が?時代と共にかなり変わった地だったから、皆さんの関心も高かったのかしら?美慧:そうかもしれませんね。私がこれを知っ
こんばんは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は甲府市内にある信玄堤について、武田とみさんとお話しします。美慧:とみさ〜ん、先日こちらのお話の時に出た、甲府市内の信玄堤、行ってまいりました!とみ:まぁ、ご苦労さま!どの辺だったかしら?釜無川の印象が強かったけれども。美慧:はい、それが、甲府市荒川二丁目付近の河原付近に当時のミニチュアの堤を見ることができます。史跡学習公園信玄堤公園の看板によりますとこう書かれていました。
こんにちは。12月に入りました。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は武田とみさんと共に「こうふ開府の日」についてお話しします。美慧:ああ〜2019年、こうふ開府500周年で盛り上がった一年がまもなく終わっちゃいますね〜。とみ:まだ寂しがることはないわ。こうふ開府500周年の正式な日程は、12月20日、クライマックスはこれからよ!美慧:そうでした。確か大きなイベントが行われるのでしたね。とみ:そうよ。12月20日〜22日の3日間、「こう
こんばんは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、甲府市が出版している記念誌について武田とみさんとお話しします。美慧:とみさん、甲府市と言えばです。開府500周年の今年、中核都市に移行しましたね。とみ:そうね。中核都市になると、市に権限が与えられ、甲府市の仕事ができる分野が広がるということになったのよね。記念の年に中核都市となったから、甲府市役所内はきっと例年より忙しいことでしょうね〜。美慧:そうでしょうね…、職員さんもお疲れ様で
こんばんは。ブログ管理人高坂美慧です。今回は、一条小山のお話を武田とみさんとしていきます。美慧:とみさん、この前の武田氏研究会のシンポジウムでは、一条小山の話が何度か先生方から出ていましたね。とみ:現在の甲府城跡、甲府駅、山梨県庁一体ね。美恵:はい。私からすると春の「信玄公祭り」のメイン会場という覚え方なのですが。とみ:好きね〜福山雅治さんよりも武田の武将が好きっていう…最初会った時は随分変わった子だわ〜!って感じたわよ〜。
こんばんは。ブログ管理人の高坂美慧です。濃厚な武田氏研究会の記念シンポジウムから一夜明けましたこの話はいつか一部をこちらに書いていけましたら、と感じております。今回は、武田とみさんと、「いい風呂」の日にちなんで、「信玄の隠し湯」についてお話しします。とみ:紅葉が綺麗になったと思ったら、ハラハラと葉も落ちて、朝夕はだいぶ冷えて来たわ。美慧:はい、温泉が恋しい季節になって来ましたね〜。そして、11月26日は「いい風呂の日」で。とみ:そう
こんばんは。ブログ管理人高坂美慧です。伊勢神宮で天皇、皇后両陛下による「親謁の儀」が行われた本日11月23日、甲府市ではお伝えしておりました、武田氏研究会創立30周年記念「甲府と戦国大名武田氏」が開催されました。武田信虎公が何故今の躑躅ヶ崎の地を選んだのか?考古学の出土で躑躅ヶ崎の屋敷はどのような体裁だったのか?新しい都市甲斐府中は、どのように人口を増やしていったのか?武田信玄公は、何故本拠地を変えずに躑躅ヶ崎のままで政務を行った
こんにちは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は今週末、甲府市で開催される戦国期武田氏の記念シンポジウムをお知らせします武田氏研究会創立三〇周年記念シンポジウム「甲府と戦国大名武田氏」ーここから甲府の歴史がはじまったー2019年11月23日(土・祝)9時50分〜16時30分まで(受付は9時30分から)山梨県立図書館2階多目的ホール(甲府市北口二丁目8−1)武田氏研究会は、戦国大名武田氏を中心とした”学術団体”で、このように現在も組織を持って研究が進
こんにちは。ブログ管理人高坂美慧です。前回の続きで甲斐の武田発祥の地、韮崎市神山町武田について武田とみさんとお話しします。とみ:前回話したように、武田八幡宮、わに塚のサクラは日本武尊の子武田王(たけだのきみ)がこの地を治めたことに関係して今も残されている場所なの。美慧:わに塚のサクラは、つまり「塚」とつくくらいなので、武田王の塚ということでしょうか?とみ:その可能性もあり「王仁塚(わにづか)」とも地元では呼ばれているそうよ。
こんにちは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、山梨の武田という地名について、武田とみさんとお話しします。とみ:美慧ちゃん、前回のブログでは、山梨にある有名な二つの”武田”と名のつく神社についてご紹介したわね。その近くの地名も”武田”という名がいずれもあるのよ。美慧:はい。甲府市は分かります。甲府駅北口から武田神社方向へ進むと”武田”という町名があり、通り沿いには「武田郵便局」もありますから。とみ:ちょうど山梨大学のあたりもそうね。以前はこ
こんばんは。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、山梨の二つの”武田”の名がつく有名な神社について武田とみさんとともにご紹介します。とみ:美慧ちゃん、前のブログで、武田神社の出版物をご紹介したのだけれど、山梨には有名な”武田”と言う名の神社が二つあるわね。美慧:そうでした。山梨県に住んでいれば、この神社の違いは自ずとわかることが多いですが、御祭神も違いますものね。とみ:そうなの。まずは、前回のブログに登場の武田神社につ
こんにちは。「甲陽文寛〜甲斐武田2019-2023~」ブログ管理人高坂美慧です。武田とみさんと本日は、信玄さんの残した歌についてお話ししていきます〜。とみ:美慧ちゃん、11月3日、生誕日の記事、読んだわよ。確かに、「文化の日」が信玄さんの誕生日って、納得だわ〜。美慧:信玄さんは若い頃、歌が好きすぎて、国事が疎かになっては、と家臣から諌められたという話は聞いたことがあります。とみ:そう。家臣とは板垣信方のことね。歌が好き
https://twitter.com/MrKabajiru/status/1178956728953520129?s=09
長野信玄塚【しんげんづか】国道153号線を走ると、その途中で“信玄塚”と書かれた巨大な看板が立ち、道路の壁面にも武田家の旗印である風林火山のデザインが施されている場所がある。この地が武田信玄終焉の地の1つとされる。元亀4年(1573年)、信玄は約3万の大軍を率いて破竹の勢いで西へ攻め上っている最中であったが、野田城攻略後その動きを止める。そして春になるとそのまま本国へ引き揚げてしまう。この不可解な行動の裏には、重篤だった信玄の死が秘されていた。しかし信玄の遺言により、彼の死は隠された
上野晴朗・萩原三雄編「山本勘助のすべて」を読みました。私はDVDレンタルで、大河ドラマ「風林火山」を観ています。主役は、武田信玄の軍師を務めた山本勘助です。本書は、たまたま古本屋さんで見つけて手に入れました。様々な作家や歴史家が山本勘助について書かれた文章で構成されています。ラッキーなことに、著者のおひとりである安宅夏夫さんのサイン入りでした。山本勘助は、大河ドラマの題材にされるほど人気のある武将ですが、その人生は「架空人物説」もあるほど、謎に包まれています。多くの人々は、山
*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。武田勝頼と言えば、戦国武将の中でも名高い武田信玄の後継者となったものの、結局非業の最期を遂げて武田家最後の当主となった武将として知られる。「猪突猛進」、「父信玄を乗り越えようと躍起になった」といった評価が与えられてきたが、そのような見方に異を唱えた恐らく最初の書が、上野春朗『定本・武田勝頼』、新人物往来社、1978(昭和53)年である。書き出しは、高野山に保管されている勝頼と北条家から嫁いで来た夫人、そして勝
どうも。「甲陽軍鑑」という書物が、日本史の中にあります。戦国時代の甲斐・武田信玄の一代記と思ってくださればいいかと思いますし、講談や詩吟の舞台である川中島の戦いのベーシックとなった本です。元を作ったのは、武田信玄の家臣であった高坂弾正昌信(または、春日虎綱)。彼の口述を、甥たちに筆記させたものが原本でした。高坂は、信玄亡き後の武田家の行く末を案じ、甲陽軍鑑を著すことで主君・勝頼への諫言にしようとした、らしいです。言葉を濁したのは、「甲陽軍鑑」が世情に広まった江戸時代の頃、
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武士道:日本人の精神を支える倫理的な礎4/15(月)15:02配信笠谷和比古侍の気構えと行動を規定した武士道。戦闘なき徳川時代になって精神的な徳義へと変容し、やがて庶民の生活経済倫理にまで影響を与えていく。武士道を論じた書物として新渡戸稲造の『武士道』が有名である。1899年にニューヨークで英文のBushido:TheSoulofJapanが出版され、1908年に桜井彦一郎による日本語訳が出された。38年に矢内原忠雄訳で岩波文庫に収められ、版を重ねつつ武士道論のスタンダードをな
白銀の太陽さん☀️波動は更に高く向上し続ける皆様のお陰と感謝しております有難う御座います(*--)(*__)ペコリ❄️✋✨でっかくなったねぇ神と天から与えられた今に感謝し続ける光の矢は三本に私は三人から成り立っているそして、ヒメちゃまとは、私の事ではない物事の始まりを0を、思い出していただから、太陽は丸い☀️天照始まりも終わりもないまん丸☀️繋がり続けるリングそれはエンドレス…輪廻転生全ては神に委ねてある❄️雪姫にっき❄️
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり武田信玄/甲陽軍鑑
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」古戦場めぐりの旅、血洗沢の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。古戦場名ゆかりの武将住所血洗沢土屋惣蔵、跡部大炊助、安西平左衛門、武田勝頼山梨県甲州市大和町鶴瀬誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」古戦場めぐりの旅、鞍懸の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。古戦場名ゆかりの武将住所鞍懸土屋惣蔵、長坂釣閑斎、安西平左衛門、武田勝頼山梨県甲州市大和町初鹿野誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、武田勝頼の動向その2を紹介します。その1はこちら。天正10年(1582年)3月2日、仁科盛信(信盛)の籠る高遠城が落城しました。高遠城の壮絶な攻防戦の模様はこちら。それ以降、武田家滅亡へのカウントダウンは急速に加速します。3月3日高遠落城の報を受け、新府城の武田家一門、家老衆は慌てふためきもはや戦どころではなくなってしまいました。武田信玄の甥
甲斐国守護武田信昌によってもたらされた国の平和は信昌自身によって破られた。明応元年(1492)信昌は長子信縄を廃嫡し次男の油川信恵に家督を譲ることを宣言、親子の対立は関東管領上杉氏、北条氏、今川氏の介入も招いて国内を二分する大抗争に発展したのである。幼くして傅役に預けられる嫡男よりも身近で育つ次男の方がかわいくなるのは、織田信長、伊達政宗、徳川家光など枚挙に暇がないから、これも人情というものなのだろう。信昌、信縄、そして信恵の死後もこの抗争は続き、守護職を継いだ武田信虎(信
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、小幡豊後守の屋敷跡の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。城名(別名)住所関連する人物小幡豊後守(昌盛)屋敷跡山梨県甲府市大手小幡豊後守(昌盛)、武田勝頼、小幡虎盛、武田信虎、武田信玄、土屋惣蔵、小幡景憲誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたし