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(*'▽')【今日のひとこと】小幡豊後守善光寺前にて土屋惣蔵を奏者に憑御目見仕、豊後、巳の年霜月より煩、積聚の脹満なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。
●春日惣次郎・春日昌信(虎綱)の家系図(大蔵道入の娘)香坂氏-Wikipedia武家家伝_高坂氏(harimaya.com)※根津氏-Wikipedia※香坂・香坂・春日家の人滋野直家禰津道直禰津貞直禰津宗直禰津宗道→禰津御料人(正室・武田信玄)春日貞親→春日貞広香坂貞行→香坂宗重娘春日虎綱春日貞親(小次郎)(長野県佐久市香坂、居住)数代春日貞広(大隈守お
3月初めの山梨旅行とお彼岸に行った旅行の事を早く書かないと、4月の旅行になってしまう〜と焦りつつも、もうね、年度末で会社が忙しくて家で家事を終えたらバタンキューの毎日なので一日一回しか更新出来ません山梨旅行では色んな所に行ったので、書き終えるのに4月までかかりそうですさて、私と夫が武田神社様を出ていよいよ昇仙峡へ向かおうと駐車場に歩いて行くと、昨年はコロナで長期閉館していて入れなかった信玄ミュージアムが開いていたのです❗夫と「…入る❔」「どうする❔
(大村博士像ビートたけしのお兄さんに似ていると思うのは私だけ?)2021年12月1日は山梨の生んだ英傑武田信玄公の生誕500周年の誕生日にあたる。県内の皆さんが楽しみにしていた「信玄公祭り」が今年も中止になってしまったのが残念だ。「人は石垣人は城情は味方仇は敵」で知られる武田信玄だが、その聖人君子的なイメージは江戸時代に武家社会で流行した武田流軍学の販促本である「甲陽軍鑑」に負う所が大きいらしい。実際の武田信玄はというと、オヤジ(信虎)を駿河に追放して家督を奪い、
武田信玄生誕500年記念映画『信虎』は、甲斐国の戦国大名・武田信玄の父信虎の晩年を、描いた時代劇息子信玄の「上洛作戦」から始まり、孫の勝頼の最期など武田家の興亡を描いた作品。監督は金子修介、音楽は池辺晋一郎、監修として平山優が参加。孫の勝頼との確執、その後の顛末を描いた物語。黒澤明作品を目指して一流のスタッフが総力を結集した野心作映画『信虎』武田信玄生誕500年記念(11月12日~東宝系全国公開)公式〈”新”戦国時代劇〉#映
昨年発表した悪ふざけ作品。ビューワーで確認したらとんでもないことになっていたので、デバッグしました。修正バージョンをアップロードしました。今月末に本作のキャンペーン予定です、お楽しみに。げんごろう:異聞甲陽軍鑑Amazon(アマゾン)200円
1573年5月13日(元亀4年4月12日)に戦国時代の甲斐の虎の武田信玄が亡くなりました。甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代武田信虎の嫡男として生まれました。先代の武田信虎の時に武田氏は守護大名から戦国大名になり、国内統一を達成します。しかし、武田信虎は武田信玄の弟の武田信繁を跡取りにしようとしたため、武田信玄は家臣達と結託して武田信虎を駿河国の今川義元のところに追放します。武田信玄は武田信虎の領土を継承して隣国の信濃国に侵攻します。その時に越後国の上杉謙信と五回にもわたる川中島
1582年4月3日(天正10年3月11日)に甲斐国の戦国大名の武田勝頼が亡くなりました。信濃への領国拡大を行った武田信玄の四男として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主になりました。その頃はまだ本人も周りも武田家の家督を継ぐとは考えていませんでした。しかし、武田信玄の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年には武田信玄の死により子の武田信勝が元服するまでの後見人として実質的に家督を相続します。強硬な領国拡大をし、一時は武田信玄の時よりも広い領土を治めます。しかし、1575年の長篠
こんにちは。ブログをご覧くださいましてありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。タイトルから、本日は年末に旅をしていた京都の三条夫人のお話がいよいよ登場します。が!先に、まずは御礼をお伝えさせてください老若男女、歴史ファンの多くの方が愛読されていらっしゃる天乃みそ汁さん運営のアメーバブログ「歴音fun」にて年始早々、「甲陽文寛〜甲斐武田2019−2023〜」をご紹介いただきましたその際の記事がこちらです。一番最後のところでたくさんのエールをいただく形
あけましておめでとうございます。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、2021年、生誕500周年を迎えた信玄さんのお人柄が表れている言葉につきまして武田とみさんとお話ししていきます。美慧:お正月3日間は、年始のご挨拶の後はゆっくりしようかな〜って感じましたが、記念の年になりましたし、とみさんとお話ししたくなっちゃってとみ:あら、楽しみたいのね美慧:そうですとも今回
【問題】≪難問≫『甲陽軍鑑』の中で、“信玄公御代に一の無手際なる合戦”と書かれる戦いは、次のうちどれか?【選択肢】志賀城の戦い戸石崩れ三増峠の戦い二俣城の戦い【正解】戸石崩れ【解説】武田信玄は信濃戸石(砥石)城をめぐって村上義清と戦い、敗北を喫したが(戸石崩れ)、『甲陽軍鑑』ではこの戦いについて、“信玄公御代に一の無手際なる合戦”と記している。
先日、テレビをみていたら武田信玄のけとが書かれた甲陽軍鑑の話しが紹介されていたので、つい買っちゃいました。これから読むぞ❣️
1561年10月18日(永禄4年9月10日)に武田信玄の軍師とされる山本勘助が川中島の戦いで戦死しました。諱を晴幸、号を道鬼と言い、武田二十四将、武田五名臣の一人に数えられています。『テストをやまかんでやる』と言う事がありますが、やまかんとは山本勘助を略した山勘が語源です。山本勘助はそのくらい先を読む人物とされています。甲陽軍鑑では天才軍師として描かれていますが、実像はまだはっきりとしていません。山本勘助が立てた作戦が川中島の戦いで使われ、その戦いで戦死したとされています。川中島の戦
本書は、新出文書によって山本菅助=勘助が確定する以前に書かれた、『甲陽軍鑑』からうかがえる勘助の事績をまとめた一冊です。現在も初代菅助である道鬼の事績については『甲陽軍鑑』以外には「市川家文書」で武田信玄の使者として市川藤若を訪ね、口頭で信玄の口上を述べたことしかわからないため、現状では勘介の生涯は本書にまとめられていると考えてもいいかもしれません。※新出文書については以下に詳しいです。『『山本菅助の実像を探る』海老沼真治編』『甲陽軍鑑』に登場する武田信玄の軍師・山本勘助は他に
『甲陽軍鑑』に登場する武田信玄の軍師・山本勘助は他に存在を確認できる史料が存在せず、『甲陽軍鑑』そのものについても後世に編纂された偽書説が定着していたために長く架空の人物、あるいはせいぜい一兵卒と認識されていました。(『甲陽軍鑑』の評価の変遷は『「甲陽軍鑑」の史料論』に詳しく論述されています)『『甲陽軍鑑』の史料論-武田信玄の国家構想黒田日出夫著』『甲陽軍鑑』は武田信玄の重臣・高坂弾正昌信が記したとされるもので、小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた偽書として扱われてきました。その理
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」織田軍によって成敗された一族家臣たち面々の紹介です。各史料に記された武田の一族・家臣たちの最期勝頼とともに最後まで戦った臣以外の一族・家臣たちの最期は「甲乱記」や「甲陽軍鑑」に詳しく記されています。以下、要約抜粋します。「甲乱記」武田の一族家僕の面々生害の事先づ逍遙軒信綱は、甲州鮎川原にて討たれ、一条上野介信龍は同州市川(上野城)にて討たれ、
Fūrinkazan(風林火山)isaJapanesefamouswordwrittenintheflagofTakedaArmyintheKai(甲斐).OriginalphrasecomesfromSunTzu(孫子).信玄公の御作法は、御小旗の文字に書き給ふ。其古語者、一、其疾如風一、其徐(靜)如林一、侵掠如火一、不動如山一、天上天下唯我独尊(「甲陽軍鑑」より)風林火山、今こそ令和維新!令和維新の歌↓疾(はや)きこと
『甲陽軍鑑』は武田信玄の重臣・高坂弾正昌信が記したとされるもので、小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた偽書として扱われてきました。その理由は、明治時代に後に東京大学史料編纂所教授となる田中義成が「甲陽軍鑑考」という論文で「『甲陽軍鑑』は日付の間違いが多いから信用できる史書じゃない(超訳)」と書いたため、「東大の教授(ただし「甲陽軍鑑考」執筆時点では三十歳の研究者で、しかも以降武田氏や『甲陽軍鑑』に関する論文は発表していない)が信用できないと言ったんだから『甲陽軍鑑』は史書として失格
こんばんは。コミュニケーションデザイナーの吉田幸弘です。6月10日(水)に10冊目の新刊『どう伝えればわかってもらえるのか?部下に届く言葉がけの正解』がダイヤモンドより発売になります。1年ぶりの新刊になります。読みやすく、事例を豊富にを意識した一冊です。詳細はコチラです。↓↓↓今日のおススメの書籍です。==============================================■戦国武将の叡智人事・教養・リーダーシップ■小和田
こんにちは。ブログ管理人の高坂美慧です。ステイホームからいよいよ再スタート。昨年の武田氏研究会記念シンポジウムから山梨独自の注目するべき神仏のお話を再び武田とみさんとお話しします。とみ:美慧ちゃん、昨年の武田氏研究会の記念講演では府中(都)を移すにあたって、武田信虎公が、いくつか石和から移したり、新たに建立した神社仏閣の紹介があったわね。美慧:はい。確かに。武田の館の鬼門守護や、館の中の神様など進めつつ、甲斐守護のためのいくつかの神社
山梨県の県庁所在地である甲府は近場にもかかわらず今までなぜか縁がなく、これが初めての訪問になりました。甲府は盆地の底にあり、周りはグルっと山に囲われています。街並みはごく普通の中堅都市で特筆すべきものはないのですが、どこを向いても広い空と遠くに山々が広がり、甲府盆地全体が一つの空間としてとても気持ちがいいのです。殺伐としやすい都市風景としては一つの理想ではないかと感じました。気候は盆地地形の例にもれず寒暖の差が激しく、特に夏の酷暑はすさまじく2013年8月10日には40.7℃
かつて出版した電子書籍が売れている…!!?手取川合戦198円Amazonある意味続編?もしくは外伝?げんごろう:異聞甲陽軍鑑200円Amazonまぁ、悪ふざけでノリノリ書いた記憶があります。ご購入、心から感謝します。2020年4月現在、外出自粛で自宅に引きこもりがちで鬱憤が溜まっているかと思います。是非ともボクの怪文章でお慰みとして笑っていただければ幸甚にございますm(__)m一番売れてほしいのは、最近出版した最新のものなんですけどね(笑)平ノ貞盛:坂東動乱編
こんばんは。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。本日は、武田信玄の桜の歌について、武田とみさんとお話ししていきます。とみ:美慧ちゃん、ご無沙汰!桜、たくさん見てきたようね〜。美慧:はい。武田神社の桜並木は思いがけないほどテンション上がりまして自分でもちょっと驚いたのですがとみ:それでこそ、このブログの管理人。いいじゃない美慧:とみさんは、どちらかお出かけになり
ある地域を気に入り足しげく通うと、いろいろ調べたくなります。山梨県といえば武田信玄。不世出の英雄ともいえる著作はいわずもがな新田次郎のものです。新田次郎は登山家でもあるので憧れです。山岳小説も執筆されているので興味深い。新装版武田信玄風の巻(文春文庫)935円Amazonさて今回のテーマは甲陽軍鑑。何から手を付けていったかというと白状します。筑摩書房の文庫版がエッセンスを感じ取れます。これオススメ。甲陽軍鑑(ちくま学芸文庫)1,540円Amazon批
ご無沙汰しております。柿本源命です。世間的に厄介なウィルスが蔓延しています。せっかくの行楽シーズンに突入したというのに、外出もままならない。そんなもどかしい日々を送っております。各位におかれましては如何お過ごしでしょうか。ハードディスク内を整理していました。興味深いデータを見つけまして。およそ2年近く前に放置プレイし続けた原稿。当時、南アルプスの自然に魅せられて休みを作っては山梨県へ歩きに出かけていました。北岳鳳凰山仙丈ヶ岳甲斐駒ケ岳金峰山瑞牆山……
ご来訪ありがとうございます。戦国時代の前兆期ですね。関東管領・上杉憲政はなぜ北条氏康に負けたのか?3/25(水)6:01Yahoo!ニュース13東明寺にある川越夜戦跡(埼玉県川越市)(乃至政彦:歴史家)山内上杉家15代当主で関東管領職の上杉憲政。のちに上杉謙信を養子にとり家督と管領職を譲ることになるが、圧倒的優位に立ちながら北条氏康に敗北した河越合戦により、無能なイメージがつきまとう。いまだ謎多き河越合戦を軸に、氏康との対峙、そして今川義元や武田晴信との駆け引きを絡め
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、3月11日の武田勝頼の動向その1を紹介します。武田勝頼、ついに織田の軍勢に遭遇す田野の地から天目山へ向け出立した武田勝頼一行でしたが、行く手の先で農民の一揆、天目山の山伏と小山田の兵の来襲があり、先へは進めず、ついに進路を絶たれてしまいます。勝頼一行は田野の地へと再び引き返し、陣を固め、臨戦態勢に入ります。3月11日、ついに田野の地に織田の軍勢が
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将な寺社街道史跡めぐり、進退窮まった武田勝頼が腰掛けしばし思案したという大蔵原思案石の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。史跡名ゆかりの武将住所大蔵原思案石武田勝頼山梨県甲州市大和町田野誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホ
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅、3月10日の朝の武田勝頼の動向を紹介します。3月10日、武田勝頼、天目山へ向け出立。田野へ陣す。3月4日から鶴瀬宿または駒飼宿に滞在し小山田信茂の迎えを待っていた武田勝頼でしたが、小山田信茂の裏切りにあい兵は討ち死および逃亡してしまいます。それにより、500〜700人いた家臣はわずか41人あるいは43人に減ってしまいました。岩殿城