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金剛輪寺に結集した赤報隊でしたが、盟主たる綾小路俊実・滋野井公寿の二卿の間があまり上手く行かなくなっていました。「それから滋野井侍従と綾小路侍従の間がとかく折り合わぬところがあって困った。それは綾小路侍従は養子であるゆえ、何か家門の紛擾があって屏居して出勤せずにおられたゆえ、御番に出られぬものだから自然交誼が浅いと見えて、一緒に寄ると議論が合わない。また滋野井侍従は夜分などは神経病を起こして寝ぬ夜があった」(『史談会速記録』山科元行)また、そもそも赤報隊は陸援隊の高野山挙兵に呼応する
油川錬三郎ら一行が京に入った時、すでに鳥羽伏見の戦いは官軍の勝利で終わっていました。『史談会速記録』の本人の証言に「この時すでに伏見の戦争が始まりまして、着京の時には官軍勝利の報知を聞きました」とあるので入京は慶応四年(1868)一月六日だった事がわかります。そしてその夜のうちに再び京を発ち、近江路を金剛輪寺目指して進む事になります。翌七日、近江坂本にて相楽総三ら薩邸浪士の一団、そして新井俊蔵、秦泰之進ら御陵衛士の一団と合流し、一同打ち揃って松尾山金剛輪寺に入ったのは翌八日の事
慶応三年(1867)十月十四日、征夷大将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上します。その一ヶ月ほど後(十一月十八日)、近藤勇との意見対立から新選組を分離し、新たに御陵衛士を結成した伊東甲子太郎は、近藤の手によって暗殺されてしまいます。伊東と親交のあった油川錬三郎は、この報を聞き、伊東の仇を討とうと伏見に向かいますが、水口藩執政の加藤精一に止められ、やむなく水口に帰ります。同年十二月九日、王政復古の大号令が下され、徳川幕府は事実上消滅しました。油川錬三郎は岩倉具視に召され、新政府が
慶応三年(1867)三月、近藤勇と意見対立した伊東甲子太郎は、同志を引き連れて新選組から分離し、新たに御陵衛士を結成します。伊東は弟の三木三郎を連れて、しばしば水口の油川錬三郎や中村鼎五の元を訪れていたといいます。一方、京に在住していた城多薫の元へも伊東はたびたび訪れていたようですが、この事に加え、大山挙兵未遂事件(※1)に関与して新選組に逮捕されてしまった城多の盟友藤井少進(希璞)釈放の為に幕府方と折衝した事で、城多は一部の同志たちから幕府への内通を疑われてしまう事になります。
慶応二年(1866)、油川錬三郎ら正義党の尽力によって、第二次長州征伐に水口藩が参戦する事態は避ける事が出来ました。しかし、この為に水口藩に対して幕府から嫌疑がかかってしまいます。その為、藩主加藤明実は油川錬三郎を江戸に帰そうとしますが、油川は妻の拏(「つか」か)だけを江戸に帰し、自らは同志の家に潜伏して時期を待つ事にしました。余談ながら、これまで引用してきた油川錬三郎の事蹟書は、『大正六年大演習贈位内申事蹟書』(国立公文書館)の第四巻に掲載されているのですが、家族に関しては父惇覚と
さて、前々回(※)ご紹介しました、大倉覚雄という悪僧が水口藩から追放された後、油川錬三郎らに報復する為に新選組に入ったとされる一件(実際は逆に油川が新選組に入ったのではないかと考えられる件)ですが、もう一人の関係者である中村確堂(鼎五)の『大正大礼贈位内申書』を読んでみました。すると興味深い事に、大倉覚雄が水口藩を追放された件について、具体的な日時は示さないまでも、安政の大獄(安政五年)から天誅組の乱(文久三年)までの間に水口藩内で起きた事件の一つとされているのです。江戸で生まれ育っ
明けて慶応二年、幕府は再び長州を討伐するべく軍を動かします。徳川譜代大名であった水口藩主加藤明実にも長州進撃の命が下されました。明実は江戸から水口に戻り軍備を整えますが、慌てたのは油川錬三郎ら正義党です。なんとか従軍を阻止しようと中村栗園は藩主明実に直々に進言し、油川錬三郎や中村鼎五(=確堂。栗園の養子)らは藩の執政に「水口藩は長州遠征に従軍せずに京都御所の守備に当たるべきだ」と申し入れますがいずれも聞き入れられませんでした。そこで油川は松尾相永・山科能登介の兄弟に面会し、彼らを通し
慶応元年(1865)の某月、大倉覚雄という悪僧が水口藩内で領民から金をだまし取ったあげく、村役人を殺して追放されるという事件が起きました。水口藩を追放された覚雄は何者かに襲われ負傷してしまいます。自分を襲ったのは油川錬三郎や岩谷立的(いわやりゅうてき)、日下寿平の仕業だと思い込んだ覚雄は、新選組に入り復讐を計ろうとした、と油川錬三郎の事蹟書には書かれています。しかし、この話はどうも納得出来ないところがあります。そこで大倉覚雄は本当に新選組に入ったのか調べてみました。慶応元
『従七位油川信近事蹟』(国立公文書館デジラルアーカイブ)には、前回お話した、新選組が近江水口まで来て城多薫の家を捜索した話のあとに、同じ慶応元年に起きた、月日不詳のちょっと不思議な出来事が書き残されています。本郡嵯峨村千光寺の僧大倉覚雄、奸譛衆を惑わし、財貨を騙取し、或いは村吏を殺す等の兇行あり。栗園、藩主に白し、これを退隠せしむ。本郡とはもちろん水口藩のある近江国甲賀郡の事です。その甲賀郡嵯峨村(現・滋賀県甲賀市水口町嶬峨)の千光寺に大倉覚雄という僧侶がいて、民衆を騙して金や財産を
慶応元年(1865)閏五月十三日、水口にいた油川錬三郎は楼閣に上がって城多薫、西村均、西本祐準、速水湊らと酒を飲んでいましたが、そこに男が駆け込んで来て、平野屋という宿屋に新選組が14,5人乗り込んで来た事を告げます。目的は城多及び彼と共に京を脱してきた倒幕派浪士桑屋元治郎、平田鬼之助、堀尾直人の逮捕でした。速水湊はただちに新選組の動静を探りに平野屋に向かいます。一方、店に残った者たちが外の様子を伺うと、店の周りに偵察らしき者が数名うろついていて、楼上の様子をしきりに探っていました。
元治二年(1865)春、幕府に長州再征に向けた動きが活発化します。それに呼応するかのように長州再征を阻止しようとする倒幕派浪士たちの動きもまた活発化していくのです。同年二月、桑屋元治郎(水戸脱藩)、平田鬼之助(姫路脱藩)、堀尾直人(大洲脱藩)ら急進派が秘かに入京し、水口出身の浪士城多薫の旅宿を拠点として畿内の動静を探っていました。また、長州に赴いていた川瀬太宰(膳所脱藩)も、長州藩において俗論党の勢力が盛んである事に失望して膳所に戻りましたが、膳所もまた同様であったため京に潜入します
文久三年(1863)八月十八日、公武合体派の会津・薩摩の両藩が長州藩および急進派の公卿を京から追放するという「八月十八日の政変」が起こります。油川錬三郎は水口藩の目付役として京に派遣され、以後しばらく京に滞在する事になります。ある日、京で活動中の水口出身の志士城多薫(きだただし)の宿舎において、油川は同じく水口出身の豊田美稲(とよだよしね)や肥後勤王党の松田重助らと面会します。この会合の場で松田重助は、油川ら水口藩志士に対してある計画を打ち明けます。松田が具体的に何を
文久三年(1863)、油川錬三郎は22歳にして初めて本国である近江国水口(現・滋賀県甲賀市)の土を踏みました。その頃、水口藩で藩儒(藩の儒学教授)を務めていたのが中村栗園(なかむらりつえん)です。栗園は、もともと豊前中津藩士でしたが、水口藩の藩儒中村介石の養子となってその後継となっていました。尊皇攘夷派の中でその声望は大きく、全国各地から志士たちが栗園の元を訪れていました。油川錬三郎も栗園の元で学び、その影響を受けます。当時、安政の大獄を逃れて来て以来、甲賀郡内
赤報隊というと、どうしても”相楽総三とその同志”たち一番隊や、元新選組(御陵衛士)の二番隊、そして命令どおり桑名城攻略に参加しようとして悲劇的な末路をたどる滋野井隊などに関心が向いてしまいます。そのせいか、赤報隊の中でも特に悲劇や悲運に遭遇する事もなく、維新後も順調な生涯を送った三番隊長・油川錬三郎に関しては、正直なところ、あまり興味がありませんでした。ところがこの油川錬三郎という人物、調べてみると色々と面白い事がわかりました。本当は川喜多真一郎の話を先に書こうと思っていたので