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跡部氏(伊賀守系)の所領があった、千塚地区にある八幡神社です。西を流れるは荒川、大永元年(1521)10月16日に飯田河原、そして同年11月23日上条河原で武田信虎率いる軍勢と駿河勢が激突し、武田勢が勝利した場所です。現地石碑によると、この八幡神社は武田氏が代々保護し、また今川勢との戦いでは武田信虎が本陣を置いたと伝わります。なお、跡部伊賀守(攀桂斎祖慶とも)は菩提寺攀桂寺では信秋とも伝わりますが、一次史料などには見ることができず、信用はできないようです。住所:山梨県甲府市千塚写真撮
曹洞宗香陽山妙善寺。信虎時代などに甲府盆地東部に強大な勢力を持った栗原氏。その栗原氏館跡の大翁寺近くにあり、こちらの寺院周辺も方形の区割りが残されているなどするので、妙善寺も栗原氏の館跡ではなかったか?とも言われています。妙善寺開基は栗原氏の妙善寺殿光山存智大禅定門。本堂左手前に、妙善寺殿の供養塔があります。側面には栗原氏の御子孫が、享徳4年(1455)5月21日に死去した栗原出羽守信明の供養のため建立したと記されています。しかしながら、一蓮寺過去帳などによると栗原信明は明応2年(149
浄土宗石傳山養安寺は栗原氏の館跡とも伝わります。養安寺近くには同じく栗原氏館跡と伝わる大翁寺があります。大翁寺の館は一族の中心人物が住み、養安寺の館は栗原氏支流?が住んだのでは?といわれています。現地石碑によると、要安寺開基は栗原伊豆守信友。彼は天文21年(1552)4月21日に死去、養安寺に葬られたと伝わり、法名は養安寺殿寥山道廊大居士。しかし一蓮寺過去帳によると享禄2年(1529)11月5日死去となっており、寺に伝わる没年は誤りであろうと思われています。信友は信遠の跡を継いだと考えられて
山梨市東後屋敷地区にある光福寺。お寺の墓地裏(北側)は「武田金吾屋敷」と呼ばれる場所です。甲斐国志によると、60間(約109m)四方を堀・土塁で囲まれていたといい、光福寺本尊の大日如来は武田金吾のものであったといいます。現在墓地裏は桃畑となっており、遺構などは分からなくなっています。さて、武田金吾って?ということになりますが、現在正体は「栗原左衛門尉信宗」と考えられています。栗原氏は武田庶流で武田を名乗ることもありました。そして、金吾は衛門府(現在の官庁のような感じ)の唐名、さらに高
武田信成の子で、この地に館を構えたことから栗原氏を称した武田氏支族の重郎武続。栗原氏は甲府盆地東部に勢力を拡大し、また一族も多くなっていったようです。ここ大翁寺は栗原氏中心人物の館跡と伝わります。服部治則氏によると、栗原氏宗家は武続-信通-信続-信尊(孝とも)-信真-信盛-忠重と考えられています。この宗家は甲斐国内乱時、ほぼ甲斐守護側にいたようです。宗家は信続が死去した時、子信尊が幼少であったため、信続の弟である信明に実権を奪われたと考えられています。しかし分派した家は反体制側につくこ
国指定史跡勝沼氏館跡で、すぐに頭に浮かぶのが土塁と急峻な崖に囲まれたいわゆる内郭部(主郭)。内郭(主郭)は勝沼信友とその死後勝沼に入った今井信甫・信良の頃の館が復元されています。さらに発掘調査により内郭部の東側も様々なモノが見つかり、それらが整備・復元されています。東郭と家臣屋敷も勝沼信友、今井信甫・信良の時代のもの。上の写真は東側から外郭部を撮影した写真です。左奥は土塁でその奥は東郭。土塁手前(館外)からは家臣屋敷と推定される建物跡が見つかっています。現在は建物が復元されており、当時の
勝沼氏館跡は、15-16世紀武士の館の構造を知ることができる貴重な場所として、国指定史跡となっています。今回この場で案内するのは、内郭部(主郭部)。史跡内には多くの説明板が設置され、実際に見て歩くことができるので、とても身近に中世を感じることができる場所です。勝沼は武田信虎の弟信友が、甲府盆地東部の拠点としていたと考えられています。信友は天文4年(1535)に北条氏との戦で討死しますが、その後は重臣今井信甫が入るなどし、重要な拠点として機能していたようです。内郭部北東が大手。堀の上を
甲府駅北口のよっちゃばれ広場、藤村記念館近くに建つ武田信虎公像。2018年12月20日に甲府開府500年を記念し、建立されました。表情などは信虎の子である武田信簾により描かれた武田信虎画像を参考にしています。明応3年(1494)武田信虎誕生。明応7年(1498)1月6日誕生説(高白斎記)もあります。永正4年(1507)2月14日武田信縄死去により嫡子信虎家督相続。永正16年(1519)8月15日信虎、躑躅ヶ崎館の鍬立式を行う。同年12月20日信虎夫人、躑躅ヶ崎館に移る。大永元
勝沼氏館跡から甲州街道を東(東京方面)に進み、ララ果汁工業(株)を目指し左折、するとすぐに階段が右手に見えます。それを昇ると決して大きくはありませんが、ここが尾崎神社。尾崎神社は勝沼氏館の鬼門(北東)に位置し、勝沼氏館の鬼門鎮守だったといわれています。ちなみに、尾崎明神も「国指定勝沼氏館跡」の一部。飛び地になっています。住所:山梨県甲州市勝沼町勝沼写真撮影日:2019年3月16日参考資料など:史跡勝沼氏館跡外郭部発掘調査報告書2009/甲州市教育委員会生涯学習課など
社記によると大同2年(807)に紀伊熊野より勧請され、熊野郷の鎮守とされた熊野神社。地名は横井村、御座郷とも呼ばれます。武田氏からも保護を受けており、信玄そして勝頼奉納という絵画が残され県指定文化財となっています。上の写真は室町時代後期の建立と考えられている拝殿、国指定重要文化財です。本殿が6社並びます。うちの向かって右2棟(下の写真)は鎌倉時代の建立と考えられており、こちらも国指定重要文化財。また、天文18年(1549)6月29日の宝殿上葺棟札に「地頭今井相模守入道道秀」と残されています
臨済宗向嶽寺派総本山、塩山向嶽寺。康暦2年(1380)創建の名刹です。観光客があまりいないので、しっかりじっくりと向嶽寺を堪能できるはずです。名刹だけあり、武田氏からも手厚い保護を受けました。また歴代住職が書き継いだという「塩山向嶽庵小年代記」は永和2年(1376)から明和6年(1769)の甲斐国内のできごとが知ることができる貴重な史料となっています。また武田氏滅亡時、信玄五女の松姫等を約1ヶ月受け入れます。その後彼女は八王子に逃れ、信松尼となり武田旧臣を支えていきます。個人的に特に気にな
平成31年(2019)3月23日、甲府市教育委員会により「開府500年甲府歴史講座『国指定史跡武田氏館跡発掘調査現地見学会』」が開催されました。武田氏館(躑躅ヶ崎館)は武田信虎により永正16年(1519)築造され、信玄そして勝頼が新府に移る天正9年(1581)まで甲斐武田氏の本拠地となった場所。現在は武田神社となり武田信玄が祀られ、また日本百名城のひとつにも数えられています。今回は義信のために造られた西曲輪の北、味噌曲輪の現地説明会。味噌曲輪という名などから、倉庫的な場所ではなかったかと考
勝沼氏館跡北から北方に伸びる小佐手小路の先にある、曹洞宗祐徳山泉勝院。こちらのお寺は勝沼氏菩提寺と伝わり、開基は勝沼信友夫人、弘治3年(1557)2月10日に亡くなっています。武田晴信が信濃に侵攻し、越後長尾氏との第三次川中島合戦が始まろうとしている時期です。泉勝院には勝月院誓庵理鳳大姉・福正院殿光山輝公大禅定門・長遠寺殿快翁道俊大禅定門・崇正院殿華岳妙栄大姉の牌子が伝わり、それぞれ勝沼信友夫人・勝沼信友・武田信正(昌か?)・武田信縄夫人(信虎母)と考えられています。なお、勝沼信友
真義真言宗勝尾山海蔵院は武田信虎の弟、信友が称した勝沼氏の祈願所です。現在は史跡勝沼氏館跡北東の勝沼地区との境にある葡萄畑がその場所となっています。付近を歩きましたが、特に何かあるということはないようです。海蔵院が開かれたのは延文年間(1356-1360)。武田信春を開基とし、中興開基は理慶尼とされています。理慶尼は今井信甫夫人の母で、勝沼今井氏が信玄により処断された後、大善寺にて落髪。その後しばらく海蔵院で過ごしたと寺記は伝えています。また引導院日牌帳には、海蔵院取次で天文9年(1540)
勝沼氏館跡駐車場にあるお地蔵様。説明板によると、かつて勝沼氏館跡には理慶尼により建立されたという地蔵がありましたが、いつの頃か失われてしまいます。しかしながら平成11年(1999)再建されました。それがこちらの勝沼氏供養地蔵。理慶尼というと、武田勝頼らの最後を記した理慶尼記が知られています。彼女は勝沼信友の娘で、勝沼武田氏が処分されたことにより大善寺で尼となった人物と伝えられてきましたが、最近の研究で勝沼今井信甫正室の母ということがわかりました(「府中今井氏の消長」など)。それによると、武
甲斐と信濃県境に近い場所に位置し、諏訪往還(甲州街道)を見下ろせる場所にあった笹尾塁(笹尾砦・笹尾要害)。大永8年(1528)8月22日武田信虎、信濃国境を越えて蔦木に着陣。同年8月26日信虎の動きを知った諏訪頼満らが出陣。同年8月30日武田軍と諏訪軍が衝突。享禄4年(1531)1月21日飯富氏・栗原氏が武田信虎に反抗し府中を退去、さらに逸見今井氏もそれに同調。同年1月22日夜諏訪の監視のため、笹尾要害を守備していた浪人衆が諏訪氏と逸見今井氏からの攻撃を恐れ、城を捨て逃げ
甲府市街地北部の愛宕山、現在子供の国や県立科学館があり、休日になると親子連れなどで賑わいます。その科学館から5分ほどで旧社跡に着くはずです。かつて愛宕山は甲斐奈山と呼ばれ、古くは甲斐の総社であったと伝わる甲斐奈神社が鎮座していたのだとか。しかし永正年間(1504-1521)武田信虎の命により、甲斐奈神社はこの山の麓、金手地区に移されたといいます。大永2年(「1523)、武田信虎は躑躅ヶ崎館西方の湯村山に支城の普請を命じます。信虎は、湯村山、現甲府城として史跡が残されている一条小山、さらにここ
曹洞宗蔵冨山正因寺。甲斐国志で穴山友勝菩提寺と伝えます。現身延町などの河内地方が本拠であった穴山氏ですが、この地にも所領があり、大永3年(1523)頃は穴山信永が治めていたと考えられています。同年3月23日、南部某に攻められ、信永は隣の二之宮地区にある常楽寺で自害します。その信永の子が友勝。甲斐国志によると永正8年(1511)4月16日、18歳で死去したと伝わります。死因は不明、父より早く亡くなっています。これらにより、小山穴山家は断絶したと考えられています。ちなみに境内に友勝墓所などはあ
現在は廃寺となっていますが、穴山信懸の菩提寺であり墓所のある臨済宗大福山建忠寺。穴山信君の曽祖父、信懸は信虎の時代に活躍しています。穴山信介の子ですが、兄乙若丸が早くに亡くなったため、家督相続したようです。「穴山武田氏/平山優」によりますと、延徳4年(1492)武田信昌とその子信縄が現市川大門付近で戦いましたが、信懸もこれに参加しています。信昌派として行動していたと考えられています。しかし信懸は信縄と和睦し良好な関係であったとされます。文武両道であったとされた信懸でしたが、永正10年(15
昇仙峡に向かう道から北方に見える、低く横たわる山が片山。肩のようだから、また古くは堅くよい石が採掘されたからこの名がついたとも言われています。上条河原付近からの片山。大永元年(1521)武田信虎は駿河勢の侵攻を受け、10月16日飯田河原で勝利し、武田滅亡の危機を免れます。その戦いで活躍したのが、幼少の信虎に弓矢を教えたという荻原常陸介。彼は片山に一軍を進軍させ、駿河勢が気をとられているスキに主力の信虎軍を攻めさせたといいます。また、近隣の農民などに旗やのぼりを片山に立たせ、武田は大軍
天正元年(1573)に創立したという、曹洞宗安楽山広禅院。「穴山家西島先祖之墓」の石碑が目印となります。広禅院に穴山信君の「宗九郎殿の墓を広禅院に移します、棟別諸役は免除します」というような天正8年(1580)10月28日の文書が残されています。この穴山宗九郎は、現在穴山伊予守信永と同一人物という説が有力視されています。穴山伊予守信永は現笛吹市の小山城主。大永3年(1523)3月13日に南部某に敗れ、近くの常楽寺で自刃したと伝わっています。また、穴山宗九郎は文書に登場する唯一の穴山
周囲を桃畑に囲まれている臨済宗光明山常楽寺。4月上旬は辺りが桃色に染まります。常楽寺には穴山信永と一族郎党の墓があります。写真中央が信永の墓と伝わります。穴山氏(穴山武田氏)は信懸-甲斐守-信友-信君と続く河内地方に勢力を持っていた家系ですが、こちらはその分家と考えられています(小山穴山氏)。信永は信懸の子であり、小山穴山氏を継いだと考えられています。小山城主穴山伊予守信永は、大永3年(1523)3月13日鳥坂峠を越えてきた南部氏に花鳥山で敗北、小山城に逃れようとしますがそれもかなわず、こ
躑躅ヶ崎館(現武田神社)前を左に行き、道なりにしばらく進むとY字路で西小路組集会所がありますが、ちょうどそこが「お聖導さま」。「お聖導さま(おしょうどうさま)」とは、武田信玄次男、武田竜芳のこと。天文10年(1541)に生まれ、天正10年(1582)3月織田勢の甲斐侵攻に際し入明寺で自刃しています。弘治2年(1556)疱瘡により失明しており、僧籍に。そこで「聖導様」と称されたそうです。信濃の海野幸義娘を娶り、海野信親を名乗ってもいます。現在この地は竜芳の屋敷跡といわれています。特に遺構
桜と桃の花が満開、山梨の春を一望できる人気スポットです。4月上中旬には多くの観光客が訪れます。大永3年(1523)3月13日、この地を領していた穴山信永が花鳥山に布陣、鳥坂峠を越えてきた南部某と戦い、敗れた古戦場と伝わります。穴山信永は小山城に逃れようとしますが、それはかなわず常楽寺で自刃したといいます。戦死者の鼻を削いでここに埋めたので「鼻取山」と呼ばれるようになったともいいます。穴山信永は河内地方(身延方面)に勢力を持っていた穴山氏の分家と考えられています。南部某は東北に移った
南アルプスの玄関口、芦安にある曹洞宗鳳凰山大宝寺(だいほうじ)。普段は無住だそうです。武田信虎の家臣に名取将監という有力家臣がいました。彼は信虎に忠言をしますが、逆に遠ざけられこの地に住んだといいます。大宝寺北西に「殿屋敷」と呼ばれる場所があり、そこが名取の屋敷跡だと伝わっています。名取将監墓所。墓碑には「名取将監長信天正8年(1580)死去」、法名は「大雄院殿現空長機大居士」と記されています。・・・隣に記される、「武田民部少輔信安の娘天正10年」がとても気になります・・・
永禄5年(1562)、第4次川中島合戦の翌年に開かれたという曹洞宗巌松山信盛院。開基は岩手信盛と伝わります。本堂裏に岩手氏の墓所があります。向かって右は岩手縄美、左は信盛墓所。岩手縄美の読みは「つなよし」。「つなみつ」の可能性もあるようです。彼は武田信昌の子で、兄に武田信縄・油川信恵がいます。信縄の子である武田信虎と油川信恵が後継争いをした際には、兄の信恵につきます。結果、永正5年(1508)10月4日坊ヶ峯で兄らとともに討死します。こちらの墓石に刻まれている法名は「大岩院殿信月光公」。
武田信虎には「西殿」と称した側室がいました。彼女は今井信仲の娘なので、歴史関係の書籍などでは「側室今井氏」などと表記されていることもあります。ちなみに、今井信仲は武田信虎に最後まで反抗した今井信元の逸見今井氏の嫡流と考えられている人物で、秋山虎繁のあと上伊那郡司(拠点は高遠城)をつとめています。彼は天正10年(1582)3月、織田氏により殺害されています。「西殿」は天正3年(1575)死去しますが、武田勝頼はその菩提を弔うため、この地に金光山西昌院を建立しました。その際京都山科より地蔵6体を
大永2年(1522)武田信虎により建立されたと伝わる日蓮宗広教山信立寺。躑躅ヶ崎館建設が永正16年(1519)で、この時期は多くの寺社が館周辺につくられました。信立寺は躑躅ヶ崎館南方の穴山小路にありましたが、文禄年間に甲府城築城のため現在地に移されたそうです。新立寺・真立寺などとも記されていたのですが、徳川家康が武田信虎建立の寺ということを聞き、「信立寺」に改めさせたのだとか。また、代々禅宗であった信虎ですが、ある時家臣の遠藤掃部介茂氏が日蓮宗を説きました。信虎は怒り、遠藤茂氏に切腹を命じ
甲府盆地南部、曽根丘陵東端にある坊ヶ峯。テレビ塔など通信施設が多く建っています。ここでの出来事といえば、武田信虎と油川信恵の戦い。永正4年(1507)2月14日武田信縄死去、嫡子信虎(当時信直)が跡を継ぎます。しかし、信縄の弟油川信恵は信虎に対し反旗を翻し、甲斐は内乱状態になります。永正5年(1508)10月4日坊ヶ峰で合戦、信恵や子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸、さらには信恵弟の岩手縄美などが討死し信虎方が勝利します。その後、国衆の反乱など駿河・信濃などを巻き込みつつ続き、甲斐が
峯の城(みねのじょう)と読みます。山梨県南部の南部町と身延町の境に近い本郷地区には、この地で波木井氏(南部波木井氏)が武田信虎により滅ぼされたという言い伝えが残ります。甲斐国志では現身延町波木井地区にある波木井城(峯ノ城)を波木井氏の居城としており、長年それが鵜呑みにされていましたが、最近では地理的条件などから疑問視され、この峯の城が有力視されるようになっています。この地に勢力を持っていた南部氏は、鎌倉時代奥州での功により東北地方を与えられ移動しますが、南部氏庶流などこの地域に残った者もい