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誕生日の翌朝の早朝…なぜか下のムスメと山梨県甲府市にいた。たまに湧き上がる武田信玄公の足跡めぐり。初めてやってきた甲斐善光寺。いつも素通りしていてすみません。この甲斐善光寺は1558年に武田信玄によって創建されたお寺。長野の善光寺が焼け落ちてしまうのでは?ということでここにも善光寺を作ったとか。この甲斐善光寺で甲州征伐の際に武田主家を裏切った小山田信茂らが処刑されたと伝わっています。雨が強くなってきたので…ここらへんで退散!もうちょっと今度はゆっくりこの辺りも回りたい。
誕生日の翌日の早朝…なぜか下のムスメと山梨県甲府市にいた。たまに湧き上がる武田信玄公の足跡めぐり。武田信玄の居城だった躑躅ヶ崎館の目の前に穴山信君の屋敷跡がありました。ここからは武田家の家臣のプロフィールも記載しますが、没年を見ると長篠で散ったのか、甲州征伐で散ったのか、はたまた生き延びたのか?とかもわかると思います。穴山信君(1541~1582)天文10年(1541年)生まれ、穴山氏7代当主として甲斐武田家の御一門衆に列する。幼名は勝千代、後に梅雪斎不白と号し、武田二十
引き続き山梨県です☀今日も良き天気でした😆行ってみたかったパン屋さんがあります!丸十パン屋さん本店✨ここのレモンパンが美味しい💕とのことで行って参りました🙌💨山梨県で創業100年!パン酵母の元祖老舗ベーカリーです😉店員さんの雰囲気めっちゃ良くて😄癒されました💕クラッシックレモンパン🍋右下😆優しい味でほっこりします😊長年愛されているロングセラーも納得😁👍一度食べたらまたあの食感と味に会いたくなる!!さて…今日は武田勝頼さんが最期を迎えた天目山へと足を運びます😌長
連日、お伝えしております「綾姫物語」の漫画発売。この「綾姫物語」は武田信玄との戦いの物語であるが、この時に信州飯田は、ほぼ占領されていて武田軍の拠点は飯田城である。その飯田城は、後に織田信長の甲州征伐で占領されて、そして、ここで武田勝頼の首実検が行われるのである。そんな歴史の流れを「綾姫」は、どんな想いで見ていたのであろうか・・・・と思うと歴史ロマンを感じずにはいられない。そんな歴史がある信州飯田の小さな姫の奮闘物語です。【戦いあり】【恋あり】【裏切りあり】のハラハラドキ
(甲斐善光寺)甲斐善光寺のところで話が途中になってしまいました。甲斐善光寺は、武田氏滅亡の際には甲斐に侵攻した織田信忠の本陣となり、勝頼の異母弟葛山信貞や、勝頼を裏切った小山田信茂とその一門、さらに小山田信茂に同行した信玄の甥、武田信堯(のぶたか)も、この寺で処刑されました。とくに、小山田信茂は当初勝頼に大月にある自分の居城、岩殿城への避難を進言しておきながら、勝頼が鶴瀬まで来たときに郡内への入口を閉鎖して寝返り、ために一行は日川上流の天目山へと逃亡し、ここで追手の滝川一益勢に補足されて、
山梨県笛吹市にある山梨県立博物館では、3月15日から5月6日まで特別展「武田勝頼・日本に隠れなき弓取」が開催中です。前後期で展示品の一部入れ替えがあります。前期展示3月15日〜4月7日後期展示4月9日〜5月6日*国宝や県・市指定文化財などが展示武田勝頼武田氏第17代当主、甲斐武田氏第20代当主。武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘・諏訪御料人(湖衣姫)諏訪氏の名跡を継ぎ諏訪四郎勝頼を名乗り高遠城主になる。異母兄の武田義信が、信玄暗殺未遂の容疑で処刑。勝頼が家督を相続(信勝が元服
1582年(天正10年)3月11日の戦国最強騎馬軍団を率いた、甲斐源氏武田家が織田信長による甲州征伐で滅亡。武田勝頼が家臣の離反などで、織田・徳川・北条が一斉に甲斐・信濃・駿河・上野に侵攻され天目山で自刃。父信玄が築いた鉄の鎖で繋がれた最強家臣団。信玄亡き後、なぜ最強家臣団に亀裂が入ったのか…父信玄が落とせなかった高天神城を落とし、織田信長に一目置かれた勝頼。父信玄よりも領土拡大を保持。なぜ穴山、小山田、木曽は離反したのか…勝頼は愚将なのか…勝頼の側近は無能だったのか…重臣達と
今日は日本橋から三十四番目、甲州街道随一の難所である笹子峠を越えて国中地方(甲府盆地)側にくだってはじめての宿場、駒飼(こまかい)宿の中に入ってゆきます。つまり、江戸(東京)方向に向かう場合は、笹子峠を控えた最後の宿場ということになります。地名の由来は、この地に甲斐源氏の牧(放牧場)があったからとも、ここで旅人や馬子たちは、馬に飼い葉や水をやって峠越えに備えたからとも言われています。古代より甲斐の国は「甲斐の黒駒」というブランド馬が生産されていて、名馬の産地とされていました。平安時代は信
※河尻秀隆公の墓「河尻塚」案内板…前は草ぼうぼうで、信玄公火葬墓はきれいに整備されてるのにこの扱いは…ほんとに甲府市指定史跡なんですか?と聞きたくなる有様です河尻秀隆公の墓「河尻塚」戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)
2023.初秋長野県諏訪市にある法華寺を訪れたョ諏訪大社上社本宮に隣接しています…織田信長の甲州征伐の際に、宿舎にしたそうです…赤穂浪士の討ち入り事件の時の吉良上野介義央の孫である吉良左兵衛義周は、事件後に諏訪藩に預けられ、没後、この寺に埋葬されたみたいです…法華寺山門前周辺…如法院跡だったらしい…法華寺山門…吉良左兵衛義周の墓所の説明看板…時間の関係と、山の中がすでに暗くなっていた事もあり墓を見る事は叶いませんでした…墓はこの先にあるらしい…山門の内側から本堂の様子…
明智秀満(82)「信長公記」『仰も、此の天龍は、甲州・信州大河集まりて、流れ出でたる大河、滝下り滝鳴りて、川の面寒、渺々として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり、国中の人数を以て、大綱数百筋引きはへて、舟数を寄させられ、御馬を渡さるべきためなれば、生便敷丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居え置き、奉行人粉骨申すばかりなし。此の橋ばかりの造作なれども、幾何の事に侯。国々遠国まで道を作らせ、江川には舟橋を仰せ付けられ、路辺に御警護を申
明智秀満(81)御座所において信長、光秀、忠興、順慶の密談が続いている。「尾張方面から3万で岡崎を囲めば、徳川は後詰を送らざるを得ません。主力を西に誘導した上で信濃方面から遠江、甲斐方面から駿河に入れば防ぎようがないでしょう。」と忠興が言う。「大筋はそれでよいと存じますが、個々に見ると難しい面があります。武田家は何度も北から侵攻しておりますが、徳川家はいずれも凌いでいます。上様が短期間で決着をお望みなら、もう一工夫が必要でしょう。」と順慶は慎重な意見である。「岡
明智秀満(79)「当代記」『十一日、信長甲府を立、元巣に着給、此間山路の茂りを伐佛間々に、家康より、物主を被置、奥平九八郎信昌御迎に出けるに、信長殊外の御懇中々申も愚也、先年於長篠甲信随分之者依討果、此度早速相治之由曰、甚御快気也。十二日、駿州大宮へ着給、路次中富士山見物し玉ふ。於此所、家康へ吉光脇差、一文字刀、馬三疋被進、十三日江尻に着給、翌日駿河府中、今川の代々の舊跡心閑に有一見、藤枝田中城に御泊、さて、遠州掛川御泊、家康より天龍川舟橋かけ給。一日先立て上給、十七
明智秀満(78)「信長公記」『信州川中島表、森勝蔵働きの事四月五日、森勝蔵、川中島、海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣侯処、一揆蜂起せしめ、飯山を取り巻くの由注進侯。即ち、稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、是等を御加勢として飯山へさし遣わされ、三位中将信忠卿より、団平八、是又差し越さる。然るに、御敵山中へ引籠り、大蔵の古城拵え、いも川と云う者一揆致し、大将立て籠る。四月七日、御敵長沼ロヘ八千ばかりにて相働き侯。即ち、森勝蔵駆けつけ、見合せ、噇と斬り懸か
明智秀満(77)「信長公記」『恵林寺御成敗の事さる程に、今度、恵林寺において、佐々木次郎隠しおくにつきて、その過怠として、三位中将信忠卿より仰せつけられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、織田九郎次郎、長谷川與次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門、以上。右奉行衆罷り越し、寺中老若を残らず、山門へ呼び上せ、廊門より山門へ籠草を積ませ、火をつけられ候。初めは黒煙立て、見えわかず。次第次第に煙納まり、焼き上り、人の形見ゆるところに、快川長老は、ちとも騒がず、座に直りたる儘、動か
明智秀満(76)「信長公記」『四月三日、大ヶ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是ぞと見えし富士の山、かうかうと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。勝頼居城の甲州新府灰跡を御覧じ、是より古府に至りて御参陣。武田信玄館に、三位中将信忠卿御普請大夫に仰せ付けられ、仮の御殿美々しく相構え、信長公御居陣侯ひき。爰にて、惟住五郎左衛門、堀久太郎、多賀新左衛門、御暇下され、草津へ湯治仕り侯なり。』織田家の諸将は諏訪を出立し、大
明智秀満(75)「信長公記」『御国割りの事三月廿九日、御知行割り、仰せ出ださるる次第。覚甲斐国、河尻與兵衛へ下さる。但し、穴山本知分これを除く。駿河国、家康卿へ、上野国、滝川左近へ下さる。信濃国、タカイ、ミノチ、サラシナ、ハジナ四郡、林勝蔵へ下さる。川中島表在城、今度、励先陣粉骨につきて、御褒美として仰せ付けられ、面目の至りなり。同、キソ谷二郡木曾本知。同、アツミ、ツカマ二郡木曾新知に下され、同、伊奈一郡毛利河内へ下さる。同
明智秀満(74)「信長公記」『三位中将信忠卿、今度、高遠の名城攻め落し、御手柄御褒美として、梨地蒔御腰物参られ侯。天下の儀も御与奪なさるべき旨、仰せらる。東国御隙入る儀も御座無きに付きて、右の御礼として、三月廿八日、三位中将信忠卿、甲府より諏訪まで御馬を納めらる。今日、以外に時雨、風ありて、寒じたる事、大形ならず。人余多寒死侯ひき。信長公は、諏訪より富土の根かたを御見物なされ、駿河、遠江へ御回り候て、御帰洛なすべきの間、諸卒是れより帰し申し、頭々ばかり御伴仕り侯へ、と
明智秀満(73)「信長公記」『滝川左近、上野国拝領の事三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、上野国、幷びに、信州の内二郡下され侯。年罷り寄り、遠国へ遣わされ侯事、痛くおぼし召され侯と雖も、関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、東国の儀御取次、彼れ是れ申しつくべきの間、上意、忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下さる。この御馬に乗り侯て、入国仕り侯へと御諚。都鄙の面目、この節なり。』3月20日、木曽義昌は信長のもとに馬二頭を進上して出仕した。申次は菅屋
明智秀満(72)「信長公記」『信州さくの郡小諸に、下曾根覚雲軒楯籠り侯。武田典厩、下そねを憑み、纔廿騎ばかりにて罷り越され候。肯申二の丸まで呼び入れ、無情心を替え、とり巻き、既に家に火を懸け侯。典厩が若衆に朝比奈彌四郎とて候ひき。今度、討死を究め、上原在陣の時、諏訪の要明寺の長老を道師に、み戒をたもち道号を付け侯て、頸に懸け、最後に斬って廻り、典厩を介錯し、追腹仕り、名誉、是非なき題目なり。典厩の憑し姪女聟百井と申す仁、これも一所に腹を仕り、侍分十一人生害させ、典
明智秀満(71)信長が上諏訪に陣を布くと、そこに稲葉一鉄が訪れた。甲州征伐で一鉄は織田一門衆と共に信忠先陣の後備として出陣している。この老将は既に68歳にして、今でも棟梁として一門を率いているのだ。事前の申し合わせのうえ、光秀は一鉄の宿舎に訪れた。断られるかとも思ったが、意外にも素直に応じてくれたのである。部屋に入ると、一鉄は庭を見たまま、そっぽを向いている。さすがにむっとして光秀も、何も言わず胡坐をかいた。このへそ曲がりには何度も煮え湯を飲まされている。「
明智秀満(69)「信長公記」『御返書の趣、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、武田典厩、小山田、長坂釣竿始めとして、家老の者悉く討ち果たし、駿・甲・信滞りなく一篇に仰せ付けられ侯間、機遣いあるべからず侯。飛脚見及び候間、申し達すべく侯。其の表の事、是又、存分になすべき事、勿論なり。三月十三日柴田修理亮殿、佐々内蔵介殿、前田又左衛門殿、不破彦三殿三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣移さる。十四日、平谷を打ち越え、越なみあひに御陣取り、爰にて、武田四郎父子の頸、関
明智秀満(62)光秀が控間に下がると、やがて奉行を務める堀秀政が訪れた。「奉行衆が話し合った結果、和泉守は当家でお預かりいたすこととなりました。内蔵助は坂本城で蟄居とします。今後は取り調べの者を派遣しますので、真摯に対応願います。何より示談が大切なので、稲葉家とよく話し合い、三位法印にご納得いただけるよう、お働き掛けをお願い申し上げます。」と伝えた。光秀は色々配慮いただいたことに改めて礼を言うと、「何卒よろしくお願い申し上げます。」と頭を下げた。「信長公記」
阿部勝宝は、敵陣に切り込み戦死した。武田勝頼の最後の戦いとなった、田野の四郎作・鳥居畑では、織田信長の大軍を僅かな手勢で、奮闘して、撃退した。しかし、衆寡敵せず、3月11日、武田勝頼・信勝の父子、桂林院殿は、自害した。武田信廉の子息とされ、勝頼の従兄弟、甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳は、共に死去している。武田勝頼の家臣では、長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎、秋山紀伊守、小宮山友晴及び、小原下野守・継忠兄弟、木部範虎、大熊朝秀等が、戦死している。その結果、清和源氏の新羅三郎義光
仁科信盛等の首級は、織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は、京で晒し首となった。首を取られ残された、仁科信盛の遺体は、信盛を崇める、地元の領民により、埋葬された。裏切り者の相次ぐ中、仁科信盛は、最期まで、武田勝頼を裏切らず、戦死したのである。高遠城の戦いは、甲州征伐における、数少ない、激戦であった。同時期、越中国において、甲州征伐によって、苦境に立っている、武田勝頼に呼応して、魚津城を攻囲中の織田軍の背後を突いて、小島職鎮が、唐人親広と共に富山城を急襲し、神保長職の息子、神保長住
1582年(天正十年)2月3日、森長可及び、団忠正の織田軍先鋒隊が、岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして、河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は、森長可、団忠正は、木曽口から、河尻秀隆は、伊那街道から、信濃国と兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は、織田軍の先鋒隊が、信濃国に入った同日、岩村への関門、滝沢の領主下条信氏の家老、下条氏長が、主君の信氏を追放した。下条氏長は、織田軍に寝返り、河尻秀隆の軍勢を戦わずして、信濃国へと招き入れると、2月14日には、松尾城主、小
7月23日の大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」について家康領国の家臣にいつどのように伝わったのかを『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。わりとすぐに伝わった本能寺の変の情報(NHK大河ドラマ『どうする家康』の運命の1582年6月2日(C)NHK)『#332第28回「本能寺の変」感想~大河ドラマ『どうする家康』』唯一の友、家康に討たれたかったかのような信長と討てなかった家康の別れが描かれた2023年7月23日の大河ドラマ『どうする
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。そして、八年後の1581年(天正九年)、徳川家康が、高天神城を陥落させた時には、武田勝頼が、救援を送れなかった。そのため、八年前とは、逆に、武田勝頼の威信を致命的に失墜させたのである。武田勝頼は、岡部元信の救援要請に応じることができずに、結果として、多くの将兵を見殺しにする形となった。高天神城には、駿河国・遠江国・甲斐国・飛騨国・上野国及び、信濃国等
大河ドラマ『どうする家康』第26回「ぶらり富士遊覧」での徳川家臣の対応について『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。普請・普請の大わらわ(NHK大河ドラマ『どうする家康』の徳川家の信長のおもてなし(C)NHK)1582(天正10)年3月に、甲州征伐で武田家を滅亡させた織田信長は駿府・遠江・三河といった徳川家康領を通って、富士山を見ながら安土城に帰る遊覧を行います。それに対して徳川家康、そして家臣らはどのように対応していったのでしょうか
1582(天正10)年、準備万端の織田・徳川軍による甲州征伐を『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。一気に崩壊した武田家(NHK大河ドラマ『どうする家康』の武田勝頼の首と対面する家康(C)NHK)1581(天正9)年、高天神城を取り返し、遠江をほぼ手中にした家康、信長は甲州征伐を決め、その準備は家康にも進めさせていきます。そしてその甲州征伐の年の1582(天正10)年を迎えます。1582(天正10)年の甲州征伐正月、家忠は牧之原