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京都市中心部から舞鶴市へ。舞鶴市は律令国時代の区分では山城国ではなく丹後国になる。今回は丹後田辺城。田辺城という名の城は紀伊と伊勢にもあるので舞鶴城という別名で区別しようにも舞鶴城という雅称を持つ城もこれまた多いという呼び方に困る城である。復興された二層櫓(隅櫓)と大手門。本来の門があった位置とは異なる場所に復興されており、現在位置は往時の外堀跡だそうなんだけど、中堀跡じゃないのかね?と思う。中堀にせよ外堀にせよ周囲が宅地化してどうしようもなかったんでしょうな。隅櫓
九州の門司から山口⇒島根⇒岡山⇒兵庫と走り、京都府の日本海側の舞鶴へと宿泊しました。ツーリング2・3日目が雨だったので、今日こそは晴れてくれることを期待しつつ起床です。窓の外には青空が広がっていたので、シャワーを浴びて、さっそく出発しましょう。まずは舞鶴市街にある「舞鶴公園」へと移動します。ここは田辺城跡地で、田辺城は1582年の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として築かれました。以後、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的
今日は雨の中舞鶴市に有る田辺城に来たよ。関ヶ原の戦いの時に東軍に与した細川幽斎が僅か500の兵で籠城して、50日も西軍の15,000もの大軍を釘付けにして、東軍の勝利に寄与した。●城の入口には史実とは関係無い模擬の建物と石垣が造られていた。●公園の中に僅かに残る往時の石垣。名城の廃城令で破壊され埋められていたのを、竹下内閣のふるさと創生バラマキ一億円を活用して、発掘整備したとの事。●模擬城郭の中に有る資料館に入場。●内堀跡が池となって残る。●本
令和7年10月16日に長男の中学校の運動会があるということで、有休をとっていたのですが、雨天中止となったので1人暇を持て余していたので急遽京都北部に取材に行きました。前から行きたいなーと思っていたところです。京都縦貫道を通って2時間弱くらいでした。まずは舞鶴市にある田辺城に行きました。復元城門城門櫓部分が田辺城資料館になっています。北櫓櫓部分は彰古館と呼ばれ、こちらは「戦国武将細川幽斎の生きた道」という展示が催されていました。天守台跡現在は舞鶴公園と呼ばれてい
7月の暑い盛りに夏休みをとって京都まで行ってきました全行程マイカーで3泊4日のお寺の庭巡りですそれも枯山水の庭を中心にさらに言えば昭和の作庭家「重森三玲」氏の造った庭を目的に今はネットでいくらでも写真が見れますが実際にこの眼で見てみたかったのです限られた時間だったので何か所も廻れませんでしたし、写真的にも季節や時間や天候無視のただのメモ画像になりますが行程に沿ってご紹介させていただきます初日は新潟から京都の入口までたどり着くのが精一杯富山や石川は住んだことがあるので省略
田辺城(丹後国)別名舞鶴城城主細川氏、京極氏、牧野氏舞鶴市指定史跡ニッポン城めぐり登録城現在田辺城跡は舞鶴公園となっている明治7年に城跡の大半は取り壊された二層櫓の彰古館、城門には田辺城資料館、天守台石塁が現在復元されている資料館は生憎の休館日でしたが…城友さんおすすめの丹後宇谷城へ登城その後に訪れたが・・・整備された公園になっている良い意味で(^_-)-☆折角なのでとんかつ田辺城印を↓
史跡めぐりの記事です。今回は、三重県いなべ市北勢町田辺にある田辺城です。市内の紫陽花の名所、万葉の里公園に紫陽花を見に行った帰りに立ち寄りました。伊勢田辺城(いせたなべ)城は、北畠一族の木造長政によって天正14年(1586)に、築かれた城です。「小牧・長久手の戦い」で織田信雄と羽柴秀吉が和睦したのちに、信雄よりこの地を与えられて、築城しました。その4年後、秀吉による小田原出兵のため、長政は田辺城を出ましたが、信雄が所領没収となっためそのまま戻ることはなく、田辺城はそのまま廃城となりました
連日、暑いですね特に今日の最高気温ランキングで東海地方がこのごく最近、上位の大半を😓占めている?🔥☀☀😵💦😱☀でも、今日は他の地域の方が暑くなりそう?熱中症対策をまだ6月なのに気にしないといけなくなりました😢今年のアジサイはいつもと違う所に見に行きました天気は非常に😓異常に😢良かったです良すぎて梅雨が明けて??急に連日暑くなってきたので暑さに慣れていないなか大変水分は気にして取りましたが、普段はトイレが近いのにトイレに殆ど行かないのに途中で気付き急いで水分補給を
前ログの続きです2024年冬に行きました舞鶴市に移動してきましたここでは、本が戦利品これを参照田辺城は別名舞鶴城細川藤孝が1580年に織田信長より丹波国をあてがわれ、子供の忠興と共に完成させた1600年7月に石田三成15000の大軍に攻められ、500人で籠城、50余日を戦い、関ヶ原の功により豊前中津に加封され、代わりに京極高知が入国、高知の遺命により丹波国を三分し、庶子の高三が城主となり田辺藩3万5千石となる1668年に京極が移封となり牧野親成が入り以降は牧野氏が
つづきです。西舞鶴で泊まって、2日目になりました。天気は怪しいようなまあまあ。ビュッフェな朝飯です。この日は2月2日だったので、豆があった。少し早めにチェックアウト舞鶴市のマンホール。予定より早く出て、マンホールにもある田辺城に向かいます。着きました。城門です。かなり立派な城門。変なのがいる。ゆうさいくんがいました。田辺城は細川幽斎が築いた城です。関ケ原の戦いの一環である田辺城の戦いはこの城をめぐっての戦いです。二重櫓他は何
NHK-Eテレの番組、知恵泉で、戦国サバイバー、細川幽斎(藤孝)のピンチの切り抜け方の続きです。1600年、7月。幽斎の田辺城は石田三成勢1万5000の兵に囲まれた。幽斎の兵はわずか500。しかし、落城しない。朝廷が両軍に和睦を勧告。幽斎は古今伝授を受けていたのです。もし幽斎がこのまま戦死するようなことがあれば日本の由緒・来歴の正しさまでも永遠に失われてしまう。手遅れにならにように和睦するよう動いたのは、当
京都府舞鶴湾に面した舞鶴市の田辺城へ。あの豊臣有力家臣の細川幽斎・忠興が築いた城。築城当時は舞鶴湾に面した城郭だったという。田辺城資料館として再建された堂々たる櫓門、左手白壁の城壁とつながっているのが二重櫓。正面の石垣はまだ真新しい。しかし二重櫓を支える石垣はかなり古く、水堀跡に沿って残されている。いい景色だ。舞鶴公園内から見る櫓門。本来ここにあったものではなく、資料館も兼ねて建造されたという。櫓門の前は国道、対面の明倫小学校の白壁と城下町の雰囲気を醸し出す。舞鶴公
※この記事は旧ブログからの転載です朝、羽田空港で腹ごしらえ最近、第一ターミナルでのお気に入りはこの蕎麦屋味がどうのこうのというより、悪く言えばボサボサな食感が音威子府っぽくてちょっとお気に入り^^;そしてランプバスの不足(車両なのか運転手なのかは不明)のために搭乗開始が遅れてしまうそして離陸までの待ち時間も長かったのだが、離陸してしまえば1時間ほどでリゾート風の目的地近くへ到達こうしてみると伊豆諸島っぽい雰囲気もあるそして「熊野白浜リゾート空港」
田辺城は、本能寺の変の後、隠居した細川幽斎の居城として築かれた。御城印1枚300円御城印の販売場所は、田辺城資料館資料館の入口城跡は、舞鶴公園になっている立派な門の2階が資料館隅櫓を模した彰古館から西の景色東の景色南の景色近くの宮津には、細川幽斎ゆかりの宮津城跡がある
2024.6.4.天正6年、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主一色義通を滅ぼして丹後を平定した。その功により細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。天正7年、藤孝は宮津城を本城として築き、同時に加佐郡の押さえとして田辺城を築城した。天正10年に本能寺の変の際、藤孝は隠居して田辺城を居城とした。デザインマンホール撮りたかったやつ~『豊臣秀吉の死後、石田
天海(182)「慶長五年九月十二日、是ヨリ先、近江・伊勢ノ西軍、美濃ニ入ルニ依リ、石田三成、東軍ト戦ワントス、長束正家・安国寺恵瓊、従ハズ、三成、諸将ノ反覆測リ難キヲ憂へ、、是日、大坂ニ在る増田長盛ニ軍状ヲ報ジ、叛将ノ質ヲ誅センコトヲ求ム、其使者、東軍ニ捕ヘラル。」(「史料綜覧」)三成は伊勢方面軍が到着したことにより、家康到着前に赤坂の福島・池田軍を攻撃しようとした。ところが、正家、恵瓊の反対により実行できなかったのである。三成はこのころ疑心暗鬼に陥っていたようで、
田辺城は紀州徳川家の附家老であった安藤氏が代々居住したお城です。紀州がまだ浅野家の支配下にあった頃、浅野家の重臣であった浅野氏重が築いたのが最初だそうで、浅野氏が広島に去った後、紀州徳川家が誕生するに際して附家老となった安藤直次が田辺城に入り、以後代々安藤家の城になったという次第です。徳川御三家の附家老はもともと徳川家の直臣だったものを御三家に振り替えられ(陪臣化され)たものなので、どこの家も本音は大名になりたかったみたいです。特に有力だった附家老五家(紀州の安藤家と水野家、尾張の成瀬家と竹腰家
天海(165)近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
はい感謝してまーーーす西舞鶴のオオハシハイクリーナーようさんです。昨日は、いつも雨の舞鶴が晴れていて最高でした。桜もかなり咲いていてちょうど見頃でした。まずは田辺城へ写生大会に子供といっしょに。写生大会は、お寺さんが主催みたいで40数年ぶりに行きましたがまさか田辺城の絵を書くのがメインではなかったことに初めて知りました。お寺さんの主催なので白象を描くのがメイン。なんで白象かと調べてみると昔、釈迦のお母さんが白象がお腹の中に入る夢を見て朝起きたらシャカを身籠った
とうとう天橋立・舞鶴旅行も最終日となりました。最終日は、西舞鶴散策へ。午前中は駅の観光案内所でレンタルサイクルを借りて周辺を散策しました。「田辺城」田辺城は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に築かれました。以後、細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でしたが明治時代に廃城され現在は舞鶴公園となっています。舞鶴の地名は、田辺城の別名「舞鶴(ぶかく)城」に由来しています。こちらには田
5年前のブログ再UPしました。『スイセンの丘(大阪千早赤坂村)1』今年も2019年1月21日に大阪千早赤坂村にあるスイセンの丘に行きました。天候は曇りですが時々晴れていました。晴れた時に撮影したスイセンの花です。現地にあ…ameblo.jp前回の続きです。今回は内堀跡から駐車場まで歩きました。下図⑭付近から⑮方向です。下図から右側が内堀跡と考えられます。内堀跡を示すためか舗装がこの道だけタイルになっています。Google地図(上が北)⑭から⑮の方に歩くと
過去の更新を再UP『若草山山焼き紹介9若草山焼き後編最終回』昨日の続きです。今回は若草山焼きの後編で、奈良春日野国際フォーラムの辺りまで離れての撮影です。案内所の辺りから見たところです。⑨から来たところを逆に戻り…ameblo.jp前回の続きです。今回は水門跡から城代安藤家菩提寺西方寺までです。下図⑧付近水門跡から南方向です。塀の左側が錦水公園で本丸でした。右側は廃城後に出来た道路です。Google地図です。⑧から会津橋方向は⑧の水門跡から会
本日は西国三十三所満願まであと少し舞鶴市の天気予報が朝のうち「雨」だったので雪規制はかからないとふんで西国三十三所29番札所「松尾寺」をメインに舞鶴市を巡ってきました思うところあっていつもと違う道を使い第二駐車場に車を停めました駐車場は真っ白ですが、途中の道にはほとんど雪は無く普通に到着本堂は修理中西国四十九薬師霊場第30番札所「多禰寺」こちらのお寺の方も今年は雪が少ないと話されていました舞鶴市赤レンガパーク海軍カレー改め護衛艦ふゆづきカレースプ
⑤年前のUPを再UPしました。『若草山山焼き紹介7花火大会後編』昨日の続きです。花火大会後編からです。もらったパンフレットからです。今回はここまでで、明日から若草山…ameblo.jp前回の続きです。今回は本丸水門跡付近です。下図⑦付近の錦水公園です。⑧付近にある水門跡入口に行くと、水門の右側にある錦水神社です。廃藩置県により田辺城が破却された、明治4年以降に城主安藤家を祀るために、創建された神社な
5年前のUPを再UPしました。『若草山山焼き紹介5花火大会前編』昨日の続きです。山焼きの前に花火大会がありました。花火が始まる直前の大かがり火です。もらったパンフレットからの引用です。午後6時15分から花火大会が始ま…ameblo.jp前回の続きです。今回は台場跡から本丸前(錦水公園前)までです。下図④付近から⑤方向です。Googleマップです。(上が北)この重ね図は古絵図を少し右に回転した方が、堀跡が現代地図とうまく重なりますね。④から北側を見ると
5年前の更新を再UPしました。『若草山山焼き紹介3水谷神社から野上神社まで』昨日の続きです。今回は水谷神社での松明点火からです。水谷神社の横にある水谷茶屋です。わらぶき屋根のお店です。午後5時15分に松明点火です。右端が水谷茶屋…ameblo.jp前回の続きです。今回は駐車場から台場までです。下図①から南方向の駐車場と海です。海の対岸は南紀白浜温泉です。Google地図です。(上が北)海岸線と水門跡と⑤の石垣をもとに合成してます。①から東方向の田辺市役所
5年前UPしたブログを再UPしました。『若草山山焼き紹介1歴史奈良公園』今回から奈良若草山の山焼きの紹介です。2019年1月26日に見物に行きました。この若草山の山焼きは典型的な神仏混交の行事です。若草山(わかくさやま)は、奈良県…ameblo.jp写真と文章を追加してます。今回からは紀伊田辺城の紹介です。田辺城といえば丹後にある田辺城の方が、歴史上は有名ですが紀伊にもあります。第1回目はその歴史です。Google地図で田辺城の位置です。この日宿泊予定の南紀白浜
※こちらの記事は、令和3年8月19日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第48弾として、「田辺(たなべ)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】江古田原沼袋合戦権現山の戦い第一次国府台の合戦川越城の合戦志賀城の合戦郡山城の合戦厳島の合戦四万十川の合戦今山の合戦耳川の合戦金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦叡山焼き討
速報で投稿しましたが、1/6(土)に5回目の「青春18きっぷ」を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけました。5回目のスタンプを押した「青春18きっぷ」↓朝5時半、真っ暗闇の中、家を出て6時24分に大阪駅から環状線に乗車して、天王寺、日根野、和歌山、御坊で電車に乗換え、「紀伊田辺駅」では目的駅「紀伊日置(ひき)」まで乗る電車の乗り継ぎに待ち時間50分もあるので、「田辺城」(和歌山県田辺市上屋敷)の「水門」を見学する計画を立てていました。「快速日根野行」(「天王寺駅」にて)↓